古写真・長野市内(?)の通りの防空壕

長野市 防空壕002
前所有者が長野市内と説明のあった戦時中の古写真ですが、通りの場所等含め詳細は不明です。
右手側の商店にある看板の文字等を拡大したりもしてみましたが読み取れませんでした。
ただし、写真の撮影された時期は写真に写されている白割烹着や和服の女性の姿から日中戦争開始から太平洋戦争前の時期かと思われます。
写真を見ると比較的大きな通りの真ん中に四角い穴があけられています。
これは空襲時に身を隠す防空壕・・・というより退避壕ですが、戦時中には多くの都市で盛んに作られました。
戦争末期の大空襲による結果を知る我々にとってはあまりに貧弱な壕ですが、焼夷弾の認識はあったものの当時の空襲による爆弾は爆発による建物の破壊を目的としたものが主で、爆風や破片から身を守れればよいという認識が主流だったためです。
時局防空必携001
所有している昭和18年版の時局防空必携の中にも当時の家庭用の退避壕について書かれています。
時局防空必携002
※サムネイルのクリックで拡大します。
書かれた退避壕のイラストによると深さは1m程度。古写真と同じく露天掘りで上には畳をかぶせるとあります。
当然直撃すればひとたまりもなく、文章中にも地面下に掘って作ったものの方がより安全であると書かれていますが、爆風や破片からとりあえず身を守る程度ならこの塹壕のような退避壕で十分と考えられていたのでしょう。
実際、太平洋戦争中盤の日本本土初空襲となるドーリットル隊の爆撃は通常爆弾を使用したピンポイント爆撃であり、また日本の木造家屋に対して従来の爆弾はオーバーキルとなり都市の破壊に対して大きな成果を得られなかったため、日本の都市のほとんどを占める木造家屋を効率よく破壊し都市全体を焼失させる焼夷弾を用いた大規模無差別爆撃が行われるようになったのは戦争末期の昭和19年から20年にかけてのことでした。
その頃には当然写真のような露天掘りの退避壕は役に立たず、それどころか地下式の防空壕すら危険な有様となってました。
スポンサーサイト

古絵葉書・新舞鶴警察署

新舞鶴警察署001
明治34年に開庁した舞鶴鎮守府により漁村だった東舞鶴一帯は海軍の軍港として発展、それに伴い街並みも整備されていきました。当時東舞鶴は江戸時代以来の城下町で旧来の舞鶴だった西舞鶴地区に対して「新舞鶴」と呼ばれました。
この警察署は東舞鶴地区にあった新舞鶴警察署です。
与保呂川沿いに建てられた木造の洋館は中々洒落ています。
現在、東舞鶴地区の警察署は市役所の近くにあり、かつての新舞鶴警察署の跡地は駐車場等になっています。

古絵葉書・鈴鹿海軍航空隊

鈴鹿海軍航空隊001
鈴鹿海軍航空隊は昭和13年に設立されたパイロット養成(予科練)の訓練飛行場で終戦まで多くの海軍のパイロットを育成しました。戦争末期になると実戦部隊の航空隊としても使用せざるを得なくなり特攻隊の基地としての役割も担うことになりました。
終戦後に部隊は解散。鈴鹿海軍航空隊の跡地は鈴鹿科学医療大学やNTTの敷地となり近年まで格納庫が残されていましたが現在は解体。当時の物は正門と門衛所のみが残されています。

番外編・冊子「代用食 芋と南瓜の上手な食べ方」昭和20年10月刊

去年の公開以来話題となり異例の大ヒットとなったアニメーション映画「この世界の片隅に」。
※公式サイト
広島市に生まれ呉市に嫁いだ主人公のすずの昭和8年から終戦後すぐまでを描いた作品で、私も拝見しましたが、よくある思想的・イデオロギー的な要素が強くなりがちな戦時中を描いた作品ではなく、戦時中であっても楽しいことや笑いがある日常、そしてその中で起こる悲しみなど戦時中の人々であっても現代と変わらない感情があったということを表現し、その中で平和の有り難さを伝えており、私自身素晴らしい作品だと感じることが出来ました。
ストーリーも見入るような内容で、最初は長いと思えた130分があっという間に感じました。
その作中の中で重要なテーマの一つだったのが食糧問題。呉市に嫁ぎ主婦として日々のメニューを限られた食料からいかにして考え家族に食わせるか苦心したシーンがたびたび登場しますが、見ているうちに戦争末期から終戦直後の昭和20年の食糧事情がどんなものだったのか興味が湧いてきました。
代用食
そして入手したのが昭和20年10月に出版された「代用食 芋と南瓜の上手な食べ方」。
私自身、祖父や祖母から戦時中の話はかなり多く聞いてきましたが、元々農家なため食料に関しては飢えるほどではなかったと聞いてました。(街から着物を持ってきて食料と交換して欲しいという人がたびたび来たくらいらしい。)
なので、祖父の軍隊時代の話は多く聞いていても食糧問題に関してはよく聞くような苦労話はあまり聞かなかったため、都会や街ではどうだったのかと知りたくなり、その一端としてこの資料を入手してみたわけです。
以下に中のページの一部を紹介してますので「続きを読む」より、ご覧ください。
続きを読む

古絵葉書・郡是製糸株式会社萩原工場

郡是製糸株式会社萩原工場001
福知山市上六人部萩原にかつて製糸工場がありました。明治30年、共進製糸合資会社が設立。萩原に製糸工場が造られました。しかし、前年に綾部市で設立した郡是製糸株式会社が業績を拡大する一方、共進製糸合資会社は業績が伸び悩み明治42年に郡是製糸株式会社に売却を決定。萩原工場は郡是製糸株式会社萩原工場となりました。
以後、戦前を通じて製糸工場として稼働を続けましたが昭和38年に工場は閉鎖。工場施設は全て取り壊され跡地は現在物流センターの敷地となり、現在は郡是製糸萩原工場跡の説明版と石碑が近くに残されているのみです。
この絵葉書は昭和10年代頃と思われる郡是製糸株式会社萩原工場を空撮したものです。

※関連記事
古絵葉書・郡是製糸株式会社福知山工場
古絵葉書・鐘ヶ淵紡績福知山製糸工場
古絵葉書・郡是製糸株式会社園部工場
古絵葉書・郡是製糸株式会社宮津工場
古絵葉書・郡是製糸本社新築記念

古絵葉書・郡是製糸株式会社福知山工場

郡是製糸株式会社福知山工場001
京都府綾部市で創立した郡是製糸株式会社(現・グンゼ)は次第に業績を拡大し京都府下を中心に製糸工場を新設及び既存の別会社の工場を買収していきました。
大正7年、福知山製糸株式会社が福知山市中ノに工場を設立。しかし、わずか2年後の大正9年に郡是製糸に吸収・合併され郡是製糸株式会社福知山工場となりました。
郡是製糸株式会社は合併した旧福知山製糸の工場に新たに事務所等を建設。施設の充実を図っていきました。
この絵葉書には昭和4年完成の事務所の建物が写っており、撮影はそれ以降のものであることが分かります。
fgunze1.jpg
郡是製糸株式会社福知山工場は現在、グンゼ福知山配送センターとなり製糸工場としての稼働はされていませんが、絵葉書にも写る昭和4年築の事務所棟・木造建物・繭倉庫・女子寮などが現存し、福知山市内及び北近畿での近代化遺産として貴重な存在となっています。

※関連記事
古絵葉書・郡是製糸株式会社萩原工場
古絵葉書・鐘ヶ淵紡績福知山製糸工場
古絵葉書・郡是製糸株式会社園部工場
古絵葉書・郡是製糸株式会社宮津工場
古絵葉書・郡是製糸本社新築記念

古絵葉書・京都府立須知農林学校 女子部新設養蚕室落成記念

京都府立須知農林学校001
京都府立須知農林学校は明治6年設立の京都府農牧学校を始まりとする農業学校で、現在の京都府立須知高校の前身でもあります。この絵葉書は新設された女子部と養蚕室の落成を記念して製作された絵葉書セットです。
京都府立須知農林学校002
須知農林学校の正門と校舎。左手前に奉安殿が見えます。大正7年、京都府立種畜場廃止により敷地建物を無償で譲り受け船井郡立実業学校が設立。大正12年に須知農学校と改称しさらには昭和7年に併設された林業科に伴い須知農林学校へと改称されました。
京都府立須知農林学校003
キャプションがなく不明ですが、この建物が女子部及び養蚕室の建物と思われます。
女子部は昭和16年に設立されましたので、この絵葉書もその頃に発行されたものでしょう。
現在外袋に入ってるのは2枚のみですが、もしかしたら本来は内部の絵葉書が2~3枚と建築概要を記したものが入っていたのかもしれません。

※関連記事
古絵葉書・京都府種畜場

古絵葉書・宇治川電気株式会社大阪事務所

宇治川電気株式会社001
宇治川電気株式会社は戦前の関西地区において存在した電力会社で、戦前の大手五大電力会社の1つでした。
宇治川電気は明治39年に京都にて設立。現在の宇治市に宇治水力発電所(現存・関西電力所有)を完成させるとそこで発電された電力をもとに京阪地区への電力供給を開始しました。
太平洋戦争開戦以前の京都府内には、琵琶湖疏水を利用した発電所(蹴上・夷川・墨染)を所有する京都市、京都府内一円の発電所を所有する京都電燈株式会社、そして宇治川電気株式会社の3社が競合し、結局潰し合いを防ぐため供給地域の分担が行われました。
昭和17年、国家総動員法により解散。発電所や社屋等の施設は新たに設立した関西配電の所有となり、戦後現在の関西電力となりました。
絵葉書は大正元年に竣工した大阪事務所です。

※関連記事
古絵葉書・宇治発電所

古絵葉書・戦艦霧島進水記念絵葉書

戦艦霧島進水記念絵葉書001
戦艦霧島は金剛型巡洋戦艦の4番艦として長崎三菱造船所にて大正2年に進水しました。
この絵葉書は霧島の進水を記念して発行されたもので、本来は2~3枚のセットだったと思われます。
霧島は昭和5年に近代化改装を行い昭和11年にさらに近代化改装されことにより艦橋が巨大化し艦影が大きく変化するとともに機関部の強化により30ノットの速力を有する高速戦艦として生まれ変わりました。
霧島は姉妹艦の金剛・比叡・榛名とともに太平洋戦争の緒海戦に参加。第三次ソロモン海戦では2度の夜戦による激戦の末、いわゆる「アイアンボトムサウンド(鉄底海峡)」にて米戦艦・ワシントンのレーダー射撃により16インチ主砲の砲弾9発の命中弾を受け沈没しました。
戦艦霧島進水記念絵葉書002
絵葉書の宛名面には霧島の進水式を見学し貰った絵葉書を記念に送りますと書かれてます。
霧島の進水式を見学した人が身内か知り合いに当てたもののようですが、進水式はさぞかし感動したことでしょう。

古絵葉書・戦艦霧島の年賀状

戦艦霧島の年賀状002
新年あけましておめでとうございます。ブログ開設11年目を迎える2017年も当ブログをよろしくお願いいたします。
今回は年始の挨拶用に調達しましたが、微妙に間に合わなかったもの。戦艦霧島の年賀状です。
裏面には戦艦霧島と「謹賀新年 一月元旦」の文字と富士山・登り龍の絵があります。
戦艦霧島の年賀状001
宛名面を見ると、差出人の住所は「軍艦霧島」とあり、霧島から出されたものであると分かります。
艦内の酒保では家族に出すためのハガキや便箋などが売られていましたが、年賀はがきも売られていたようですね。
霧島の年賀はがきとして専用に発注されていたものが酒保で売られていたことなど中々興味深い資料です。
消印が消えてしまったのか出された年が判別できませんが、貼られている記念切手が大正6年に発行された皇太子(後の昭和天皇)の立太子記念切手であることから、大正7年の元旦の年賀状ではと思います。

※関連記事
古絵葉書・戦艦霧島進水記念絵葉書

古写真・神戸外国人居留地

神戸居留地001
神戸居留地は幕末の開港による安政五カ国条約により、慶応3年(1868)から明治32年(1899)まで存在した外国人居留地です。
計画的な都市設計により造られた街並みは当時としては珍しい西洋館が建ち並び、下水道完備・街灯や街路樹の設置など、これまでの日本には見られない近代的な街並みでした。
当初は日本人の立ち入りが禁止されていましたが、徐々に解禁され神戸や関西での近代化・文明開化に大きく影響を与えました。
明治32年に神戸外国人居留地は日本へ返還され神戸市に編入。旧居留地はビジネス街として大いに発展。現在も戦前の銀行建築や商社ビルの建築が多く残りかつての繁栄を物語ってます。
古写真は外国人居留地時代に撮影されたもので、当時各地の居留地で多く見られたコロニアル様式の洋館が建ち並んでいます。中央の半円の看板を掲げた建物は商店でしょうか。建物の前には人力車が置かれ、文明開化真っ只中の雰囲気が現れています。
現在、居留地時代の建物はほとんど失われ、唯一、旧神戸居留地十五番館が現存し重要文化財に指定されています。

※関連記事
古写真・大阪 川口居留地
古写真・長崎居留地
古写真・明治20年代?の神戸港(神戸濱手市中)

古絵葉書・京都府立福知山中学校改築記念

福知山中学校改築記念001
現在の福知山高校の前身である京都府立第三中学校が開校したのが明治33年。大正7年に福知山中学校と改称されましたが、校舎は府立第三中学校時代のものをそのまま受け継いでました。
しかし、明治以来の木造校舎は老朽化が進み、明治の校舎が建てられてから38年後の昭和13年に新校舎へと建て替えられることとなりました。この絵葉書は新校舎への改築を記念として発行された絵葉書です。
福知山中学校改築記念002
福知山中学校正門。左奥が新築された本館。右奥に体育館と講堂が見えます。
福知山中学校改築記念003
新築校舎の全景。福知山憲兵分隊許可済みの文字があるのは、この方向の撮影だと福知山20連隊等の陸軍の施設が写る可能性があったからかもしれません。
福知山中学校改築記念004
大講堂の内部。昭和10年代らしいすっきりとしたデザインです。
昭和13年に建て替えられた新校舎は戦後も引き続き使用されましたが、昭和54年に現在の校舎へと建て替えられました。

※関連記事
古絵葉書・京都府立第三中学校
古絵葉書・福知山中学校
古絵葉書・我が福中(京都府立福知山中学校)

古絵葉書・鐘ヶ淵紡績株式会社福知山製糸工場

鐘ヶ淵紡績福知山工場001
福知山市は製糸会社として拡大を続けていた郡是製糸のある綾部市に対抗して大手の製糸会社の誘致運動を行っていましたが、大正10年に両丹地区に鐘ヶ淵紡績(後のカネボウ)の工場進出の情報が伝わると鐘ヶ淵紡績に対し熱心な工場誘致を働き掛け、ついに大正11年に工場が竣工しました。以来、隣の綾部市の郡是製糸と競い合い発展していきました。
これはその鐘ヶ淵紡績福知山製糸工場の絵葉書です。
鐘ヶ淵紡績福知山工場002
福知山町(当時)の街並みと鐘ヶ淵紡績福知山福知山製糸工場の外観。
昭和3年に福知山製糸工場という名前に改称されているので、この絵葉書は昭和3年以降の発行となります。
鐘ヶ淵紡績福知山工場003
工場内の様子。煮た繭から糸を取る繰糸機が写されています。
鐘ヶ淵紡績福知山工場004
工場内の寄宿舎と裁縫・生花教室。戦前の大工場では若い従業員が生活する寄宿舎や従業員を教育する女学校のようなものもありました。
郡是製糸でも同様で福利厚生施設や寄宿舎・郡是女学校といった従業員への福利厚生・教育施設を充実させ、従業員を大切にしていました。
戦時中は海軍に接収され軍需工場として稼働していましたが、戦後再び鐘紡工場として稼働。
しかし繊維業の衰退から鐘紡福知山工場はカネボウ食品へと転換。
さらに経営破綻によるカネボウグループの解散によりクラシエホールディングスへと変わったため、カネボウ福知山工場はクラシエフーズ福知山工場へと転換。しかし、現在もかつての鐘ヶ淵紡績福知山製糸工場と同じ敷地で操業しています。

※関連記事
古写真・鐘紡福知山工場(昭和11年版 天田郡志資料より)
古絵葉書・郡是製糸株式会社福知山工場
古絵葉書・郡是製糸株式会社萩原工場

古絵葉書・郡是製糸株式会社園部工場

郡是製糸園部工場001
京都府綾部市に誕生した郡是製糸株式会社(現・グンゼ株式会社)は徐々に事業を拡大し本社のある綾部市内だけでなく京都府内の各所に工場を設立していきました。
現在の京都府南丹市園部町にも明治43年に郡是製糸園部工場が設立。最盛期である大正期には500人の従業員を抱える大工場でしたが、昭和に入り生糸の価格が下落。次第に経営難となり昭和16年に閉鎖されました。
郡是製糸園部工場002
絵葉書の袋の裏にある社訓と社歌。
この絵葉書は昭和初期頃の発行と思われるもので、最盛期を過ぎた頃ですがまだ盛んに操業していたころを物語る絵葉書です。
絵葉書は8枚のセットとなっており、工場の外観や操業の様子、寄宿舎などが写されてます。
中身の絵葉書は「続きを読む」からご覧ください。
続きを読む

古絵葉書・近江水力電気株式会社姉川発電所

近江水力電気姉川発電001
姉川発電所は大正6年に近江水力電気株式会社によって建設・運営された水力発電所で、県下で2番目に運用開始された発電所でした。大正10年、運用をしていた近江水力電気株式会社は宇治川電気株式会社に吸収合併。昭和15年に運用開始された伊吹発電所により昭和19年に姉川発電所は廃止されましたが、煉瓦造の発電所建屋は現在も山中に埋もれる形で残されています。

古写真・海軍将校生徒学習船 東京丸(海軍兵学校仮校舎)

東京丸001
旧日本海軍の士官学校である海軍兵学校は当初東京築地にありました。明治19年、呉鎮守府に近い広島県の江田島へ移転が決定。現在も海上自衛隊の幹部候補生学校として使用されている赤煉瓦の校舎の建設が始まりました。
海軍兵学校が東京から移転を開始したのは移転決定から2年後の明治21年。現在も残る赤煉瓦校舎が完成したのが明治26年。
移転から校舎完成までの5年間はこの古写真に写る東京丸という船が仮校舎として使用されました。
東京丸は元々1864年、日本では幕末の元治元年にアメリカで建造された木造船ニューヨーク号で、明治7年に台湾出兵の際に日本政府が購入し東京丸と名付けられました。明治8年に郵便汽船三菱会社に払い下げられ、明治18年に日本郵船に移籍。明治20年に日本海軍に売却されました。そして翌年より海軍兵学校の仮校舎として使用されたわけですが、建造から24年経った木造船は恐らく老朽化が目立ちしかも係留された船の上の生活は東京生活に慣れた生徒たちには過酷なものだったのかもしれません。
明治26年、ようやく赤煉瓦の校舎が完成すると海軍兵学校は東京丸から移転。役目を終えた東京丸は民間に払い下げられ恐らくそのまま解体されたと思われます。
この古写真の台紙には「海軍将校生徒学習船」の筆書きがあり、海軍兵学校仮校舎として使用された明治21年から明治26年の間の撮影となります。わずか5年の間ですがこの古い木造船は日本海軍の将校たちを育成した日本海軍史に残る記念すべき船となりました。

古写真・東海鎮守府(後の横須賀鎮守府)

東海鎮守府001
明治9年、近隣の港を管轄する海軍の機関として鎮守府の設置が決定。東日本は横須賀に東海鎮守府を西日本には長崎に西海鎮守府が置かれることが決定しましたが、実際に置かれたのは東海鎮守府で横浜に開庁しました。これが後の横須賀鎮守府です。
東海鎮守府は現在の横浜市中区北仲通6丁目にあり、かつて存在した灯台局の隣のドイツ領事館跡に設置されました。
明治17年に東海鎮守府は横須賀に移転し横須賀鎮守府が誕生しました。
古写真は横浜の東海鎮守府の表門を撮影したもので撮影期間は明治9年から明治17年まで。ナマコ壁の土蔵のような塀と門衛所らしき建物、伝統的な冠木門に「東海鎮守府」の看板と明治の文明開化らしいランプの街灯が掲げられています。
築地海軍省002
明治の公的機関でありながら伝統的な日本建築のナマコ壁が使われており既存の江戸時代からの建物を利用したようにも見えますが、明治初期はこの築地にあった初代海軍省のように洋風を目指した新築の建物でありながら外壁はナマコ壁といった「擬洋風建築」がまだまだ主流で当時の建築家や大工が従来の日本建築の技術をもとに洋館を見よう見まねで作った結果なのですが、この東海鎮守府もそういったものなのかもしれません。もしくは旧ドイツ総領事館の建物を再利用した可能性もあります。
日本最初の鎮守府は横浜で生まれ移転先の横須賀にて大きく成長するわけですが、この古写真は築地海軍本省と並び日本海軍草創期を物語る1枚です。

古絵葉書・東京中央電信局新築記念

東京中央電信局001
建築家・山田守の初期の作品であり名作と称されたこの東京中央電信局は最上部のパラボラ型アーチが特徴の建物でした。大正13年に完成したこの建物は戦後も使用され続けましたが、惜しくも昭和44年に解体されました。
この絵葉書は東京中央電信局の新築完成を記念して発行された1枚で、元は数枚のセットだったと思われます。

古絵葉書・株式会社六十九銀行長野支店

株式会社六十九銀行長野支店001
六十九銀行は国立銀行条例に基づき設立された第六十九国立銀行を前身とする銀行で新潟県長岡市にありました。
明治31年に六十九銀行と改称。以後明治・大正・昭和初期を通じて近隣の小規模・中規模の11にも上る地方銀行を吸収合併。
昭和17年に長岡銀行と合併し長岡六十九銀行を設立。戦後の昭和23年に北越銀行と改称し現在に至っています。

古絵葉書・株式会社六十三銀行

株式会社六十三銀行001
六十三銀行は国立銀行条例により設立された第六十三国立銀行を前身とする銀行で、長野市にありました。
明治30年に第六十三国立銀行が普通銀行転換により六十三銀行へと改称。
昭和6年に六十三銀行と第十九銀行が合併。六十三と十九の合計値八十二を銀行名とし八十二銀行として発足。
これが現在も営業を続ける八十二銀行です。

古絵葉書・福知山 岩沢堤

福知山 岩沢堤001
福知山市は江戸時代以前から由良川の氾濫による水害に会い続けた街でした。明治以降も水害の被害が続き、明治29年と明治40年の水害では由良川の堤防が決壊し大きな被害が出たため、由良川の氾濫に耐えうる近代的な堤防が必要となりました。
明治42年に完成した高さ11メートル長さ1200メートルの石張堤防は福知山大堤防と呼ばれ、建設に福知山出身の松村組創始者である松村雄吉が加わり、自らの工事の確かさを証明するため堤防を利用した自邸を建設しました。それが現在も残る旧松村邸です。
福知山大堤防は昭和2年の北丹後地震で亀裂が生じる被害が出たため大規模な改修が決定。当初は被災部分の修復程度の方針でしたが、当時の福知山町長が根本的な改修を国に要求し決定。堤防表面をコンクリートで覆いさらにはドイツ製のラルゼン型鋼矢板2600枚を堤防基部に打ち込むなど最新の工法で改修されました。この改修を手掛けたのが建設技官・岩沢忠恭。住民は親しみを込めて改修された堤防を「岩沢堤」と呼びました。
この絵葉書はセット絵葉書「福知山名所絵葉書」に収録されている1枚で、完成した岩沢堤が紹介されています。絵葉書のキャプションには「この堤防が完成以来浸水はあるが大きな被害は受けていない」とあります。
堤防上に建つ手前の大きな建物は現存し国指定登録文化財に指定されている芦田家住宅。元は福知山市の実業家、片岡家の別宅として大正15年に建設されたものです。
奥に見える橋は音無瀬橋。近代的な鉄筋コンクリート製の永久橋が完成したのは昭和6年。以後、1995年に現在の音無瀬橋に架け替えられるまで福知山市のシンボル的な橋でした。

※関連記事
古絵葉書・福知山 水害の惨状3枚(明治40年水害か)

古写真・愛知県尋常中学校

愛知県尋常中学校001
愛知県尋常中学校は尾張藩が明治3年に設立した洋学校を始まりとする学校で、明治19年の中学校令により愛知県尋常中学校と改称しました。当初は名古屋市中区にありましたが、その後改称しながら明治41年に東区に移転。さらに現在の愛知県立旭丘高校の場所に移転しました。戦後の昭和23年、女子高の名古屋市立第三高等学校と統合。現在の愛知県立旭丘高校となりました。
この写真は東区へと移転する前の愛知県尋常中学校時代のもので、明治前期らしい擬洋風建築の校舎が写されています。
愛知県尋常中学校002
台紙の裏の筆書き。「愛知県尋常中学校正面之景」「明治二十七年十一月十八日求」とあります。
明治27年11月18日に入手したか貰ったということなので、撮影はそれ以前の近いころだったのでしょう。

古絵葉書・兵庫県立農事試験場但馬分場

兵庫県農事試験場但馬分場001
大正9年に現在の兵庫県朝来市和田山町枚田に設立した農業・畜産等の試験場です。
現在は同市安井に移転し兵庫県立農林水産技術総合センター北部農業技術センターとして稼働しています。
この絵葉書は昭和10年代に但馬分場の本館の新築を記念して発行されたものです。
いかにも地方の役所といった下見板の壁と瓦屋根の外観が愛らしく懐かしさを感じさせます。

古絵葉書・中和束尋常高等小学校

中和束尋常高等小学校001
現在の京都府相楽郡和束町にあった尋常小学校で、平成4年に東和束小学校・西和束小学校・湯船小学校とともに統合され、和束小学校となりました。この中和束尋常高等小学校があった中和束村は昭和29年に西和束村と東和束村との合併により和束村が誕生したため消滅しています。この絵葉書は大正期頃に撮影されたと思われるもので、奥に新築された校舎が写っています。
中和束尋常高等小学校002
中和束事情高等小学校本館。
中和束尋常高等小学校003
中和束尋常高等小学校講堂。
この2枚の絵葉書は昭和初期から10年代の様式を持ち、絵葉書の写真もその頃に撮影されたものと思われます。
本館・講堂ともに同じデザインの外観で昭和戦前期の様式のデザインであることから、昭和10年代までに新築された校舎だと思われます。

※関連記事
古絵葉書・中和束村役場

古写真・六郷川鉄橋

六郷鉄橋001
明治5年に開通した日本初の鉄道路線の新橋横浜間は開通当初の橋梁は木製トラスでした。これは当時製鉄産業が未発達の日本において鋼材などは外国からの輸入に頼っており、鉄道橋もイギリスからの輸入を予定されていましたが、それでは間に合わず当面の措置として木造の橋梁が造られました。当然耐久性に難があり、鉄道開通から5年後の明治10年、東海道線の複線化に伴い木造だった六郷川橋梁も複線鉄橋に架け替えられました。
六郷川鉄橋は明治8年にイギリス・リバプールのハミルトンズ・ウインザー・アイアンワークス社で製作され日本に輸入された鉄橋で、錬鉄製のポニー・ワーレントラス構造でした。
明治45年、東海道線の複々線化に伴い撤去され単線用に改造。大正4年に御殿場線の酒匂川を渡る鉄橋として転用されました。
昭和40年、御殿場線での役割も終え撤去された六郷川鉄橋は日本最初期の貴重な鉄道鉄橋として博物館明治村に移築保存され、鉄道記念物に指定されています。
この古写真は多摩川に架かっていた東海道線時代の六郷川鉄橋で、明治中期から後期頃の撮影と思われます。

古絵葉書・潜水母艦大鯨進水記念絵葉書(2枚組)

大鯨001
潜水母艦大鯨は横須賀海軍工廠にて建造された軍艦で、昭和8年に起工し同年11月に進水のか7ヶ月という短さでした。これは事前に昭和天皇に進水式の日程が知らされており、それに合わせたためでした。潜水母艦というのは潜水艦への燃料や弾薬・食料の補給、さらには潜水艦乗員の休息も行うことができた軍艦でした。しかし大鯨は保有艦艇を大きく制限させられたロンドン海軍軍縮会議に対応するため制限のなかった10000トン以下の補助艦艇を有事の際すぐに航空母艦に改造できるようにあらかじめ建造された潜水母艦でした。
大鯨003
太平洋戦争開戦の昭和16年、大鯨は当初の予定通り航空母艦へと改装され、龍鳳と名付けられました。
龍鳳は太平洋戦争の緒戦を戦い抜き、昭和19年にはシンガポールへ輸送船団「ヒ87船団」を護衛し呉に帰還。その後は呉軍港にて浮き砲台として使用。呉軍港空襲では来襲するアメリカ軍機に対して対空射撃を行いました。
龍鳳はそのまま終戦を迎え解体されました。
大鯨002
1枚目の絵葉書の通信欄には進水記念スタンプが2つ押されていました。進水式の時にもらった絵葉書に記念に押されたのでしょう。

古写真・大阪鎮台砲兵営所(明治前期撮影)

大阪鎮台砲兵営所002
「大阪鎮台砲兵営所」の筆書きがある古写真です。分かり難いですが奥に見える長大な建物が砲兵営所です。
大阪鎮台は明治4年に設立し砲兵隊は明治5年頃設立。後に砲兵第四連隊となり明治21年に大阪鎮台が第4師団に改編された際にそのまま第4師団隷下の部隊となりました。
砲兵営所は現在の大阪歴史博物館とNHK大阪放送局の位置にあったようです。
砲兵第四大隊
以前記事にした大阪砲兵第四大隊の古写真。この古写真に写る土蔵のようなナマコ壁の建物が1枚目の大阪鎮台砲兵営所の建物と同じものと思われます。

※関連記事
古写真・砲兵第四大隊(明治10年代頃撮影)

古写真・大坂城内士官室(大阪鎮台)明治前期撮影。

大阪鎮台士官室001
大阪城に陸軍の鎮台が置かれたのは明治4年。初期の頃は大阪鎮台本営の他に歩兵営・砲兵営・鎮台病院・陸軍監獄などがありました。明治21年、大阪鎮台は第4師団に改編。この古写真は「大坂城内士官室」の筆書きがありますが、明治21年までの大阪鎮台時代の撮影と思われます。大阪城の石垣上に建つ洋館が士官室と称される建物のようで、後の陸軍将校倶楽部の偕行社か将校集会所に当たる施設と思われます。
士官室の左手にある土蔵は元々大坂城時代からの物だったものか鎮台創設時に新たに建てられたものか不明です。
士官室があった城内の具体的な場所ははっきり特定できませんでしたが、撮影距離的に本丸にあったものと思われます。

古絵葉書・長崎 出師橋(手彩色絵葉書)

出師橋002
明治後期頃撮影の長崎市の出師橋の手彩色絵葉書です。
出師橋は明治37年に出島の海側を埋め立てて造られた長崎港湾第2期改良工事にて同時に造られた鉄橋でした。
出師橋の名前の由来は日露戦争に第6師団が出島からこの橋を渡って出征したことにちなみます。
絵葉書にあるように橋名を掲げたトラス式の鉄橋は明治期の日本において全国で造られました。
左側に見える大きな洋館は明治24年竣工の長崎税関。煉瓦造ですが長崎大学所蔵の古写真を見るとモルタルらしきものを外壁に塗っているためこの絵葉書に着色された赤煉瓦庁舎のような赤い壁ではなかったはずですので、着色時に煉瓦という情報だけを聞いて実物を見ていない職人がイメージで赤く塗ったのかもしれません。この長崎税関は昭和3年完成の新庁舎完成まで使用されました。
出師橋は昭和33年に区画整理により取り壊されました。

古絵葉書・京都新京極(手彩色絵葉書)

新京極001
明治後期頃の新京極通を撮影した手彩色絵葉書です。
京都の新京極通は明治4年に完成した通りで、明治の中頃から見世物小屋や芝居小屋などが建ち並び始めました。
この絵葉書にも「遊技場」と書かれた提灯の下がる建物などが見えます。
大正・昭和期に入ると松竹座・京洛劇場・京宝会館などの劇場や映画館が建ち並び、京都市内の歓楽街として大いに賑わいました。
新京極通は絵葉書の風景とは大きく様変わりしましたが、現在も京都の観光客にとって定番の観光地となり、近年はMOVIX京都などのシネコンや一般の商店も建ち地元の人含め多くの人たちでにぎわっています。
<?php include_once("analyticstracking.php") ?>