冊子・天の橋立と橋北汽船(吉田初三郎・昭和9年)

「大正広重」と称された鳥瞰図絵師・吉田初三郎が昭和9年に描いた宮津市街地と天橋立の鳥瞰図です。依頼したと思われる橋北汽船は大正12年に操業した観光汽船会社で、橋北汽船の桟橋から天橋立の傘松公園の下、更には伊根町あたりまで周遊していました。

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吉田初三郎作・「天の橋立と橋北汽船」鳥瞰図。冊子自体は手帳サイズの折本で小さいものですが、郡是製糸宮津工場や天橋立の端にある知恩寺や対岸の成相寺・丹後一宮籠神社・傘松公園といった名所旧跡、その他学校などしっかり書き込まれています。

橋北汽船本社。大正12年に建てられた本社屋は現存し、現在は橋北汽船の後継である丹海交通によってリフォームされ丹海バスの案内所として利用されています。
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吉田初三郎は大正13年にも宮津市街地と天橋立の鳥瞰図を描いています。昭和9年に描かれた鳥瞰図と丁度10年前に描かれた大正13年の鳥瞰図。見比べてみて如何でしょうか?どことなく宮津市街地に近代的な建物が増えているようにも思えます。
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冊子・宮津橋立名所図会(吉田初三郎 大正13年)
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古絵葉書・静岡市役所竣工記念絵葉書(11枚組)
古絵葉書・飛行第三連隊絵葉書(10枚組)

飛行第三連隊は大正10年に編成された飛行第三大隊が大正14年に改変され昇格した陸軍の航空部隊で、滋賀県八日市市にあった八日市飛行場に隣接していました。昭和13年に飛行第三戦隊に改変。爆弾を水切りの石のように水面を跳躍させて敵目標へと到達させる「跳飛爆撃」を編み出しレイテでの航空戦に挑みましたが、1機以外全て未帰還という結果となり壊滅した部隊です。戦時中は飛行第三戦隊は退出し、代わりに第104教育飛行連隊・第8航空教育隊・飛行第244戦隊等が駐屯していました。昭和20年7月24日と25日には米軍機による機銃掃射が八日市飛行場に対して行われ、民間人4名が犠牲になりました。
この絵葉書は昭和初期頃に発行された記念絵葉書で、酒保などでお土産品として売られていた物と思います。
中身の10枚は以下に紹介します。「続きを読む」からご覧ください。
古写真・米軍撮影の沖縄戦及び占領後の写真(33枚)
古写真・日本火災保険株式会社大阪支店新築営業所

昭和14年に竣工した日本火災保険株式会社大阪支店の古写真です。支店の店舗の新築を記念したものですが、よくある記念絵葉書ではなく、生写真を袋に入れたものとなっており、外袋の表のタイトルは手書きです。恐らく社員が個人的に記念としたものと思われます。

裏側。本社の印が押されています。日本火災保険は明治25年に操業。昭和19年に合併により日本火災海上保険株式会社となり、平成13年に日本火災海上保険と興亜火災海上保険が合併し日本興亜損害保険となり、現在の損保ジャパンへと至ります。

日本火災保険株式会社大阪支店外観。写真裏に「昭和十四年七月 新築屋出セル 日本火災大阪支店」の書き込みがあります。鉄筋コンクリート造2階建てで、玄関部分にはガラスブロックの窓があります。

写真裏に「日本火災大阪支店 一階事務室」の書き込みがあります。室内は昭和10年代らしく装飾の無いモダンなデザインです。

写真裏に「日本火災大阪支店 二階事務室」の書き込みがあります。1階事務室と同じとはいえ、机も何もないのでいささか殺風景です。

写真裏に「日本火災大阪支店 二階会議室」の書き込みがあります。

写真裏に「日本火災大阪支店 二階重役室」の書き込みがあります。普通重役室くらいは多少の装飾とかあるものですが、こちらは事務室や会議室と同じ内装。時代とはいえ、ちょっと物足りなさを感じてしまいます。
冊子・舞鶴を中心とせる日本海交通鳥瞰図(吉田初三郎作画・大正13年)

「大正広重」と称された鳥瞰図絵師・吉田初三郎が大正13年に描いた舞鶴市の鳥瞰図です。当時舞鶴市は舞鶴町(現在の西舞鶴)と新舞鶴町(現在の東舞鶴)とに分かれており、舞鶴町は昔ながらの城下町であり商業港でしたが、かつては小さな漁村だった東舞鶴地区に明治34年に舞鶴鎮守府が開庁。それに伴い明治39年には新舞鶴町が発足。以後、海軍の街として発展していきました。この鳥瞰図はその海軍の街だった新舞鶴町・現在の東舞鶴地区を中心として描いています。
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大正13年に吉田初三郎が描いた舞鶴市鳥瞰図。左下の欄外に「舞鶴要塞司令部検閲済」とあります。軍港のある場所にはその軍港を守るための陸軍管轄の砲台や堡塁が周辺の山などに造られており、それらを要塞としましたが、その軍港や要塞のある一帯は「要塞地帯法」という法律で保護され、要塞地帯内では許可なく写真・写生・模写・測量などは厳しく禁じられ、取り締まられました。この舞鶴の鳥瞰図は要塞地帯を管轄する舞鶴要塞司令部の許可をちゃんと得ていますが、砲台はもちろん描かれておらず、海軍の諸施設は描かれているものの、キャプションはありません。
吉田初三郎自身、鳥瞰図は昭和10年代くらいまでは盛んに描いていましたが、戦争が進むにつれてこういった鳥瞰図は軍事機密的に好ましくないとされ、以後は絵葉書作家へと転向し、戦後まで鳥瞰図を描くことはありませんでした。
以下、この舞鶴の鳥瞰図の中で気になった箇所(主に軍事施設)を紹介していきます。

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舞鶴海軍鎮守府(当時は舞鶴海軍要港部)の周辺の箇所。舞鶴軍港の中枢と言える場所で、舞鶴海軍鎮守府庁舎を始めとして舞鶴海軍工廠・舞鶴海兵団などが並んでいます。そのためか描かれてはいるものの、原画には一切キャプションがありません(キャプションは管理人が追加)。ちなみに大正12年にワシントン軍縮会議により舞鶴鎮守府は要港部へ、舞鶴海軍工廠は工作部へと格下げになりますが、この鳥瞰図を描き始めた頃はまだ格下げ前と思われるので、格下げ前の名称を使用しました。ちなみに舞鶴海軍工作部は昭和11年に舞鶴要港部は昭和14年にそれぞれ海軍工廠・鎮守府へと復帰しました。
鳥瞰図にある舞鶴海兵団もワシントン軍縮条約に伴い廃止されこの場所は海軍機関学校の敷地となり終戦まで存続。現在は舞鶴地方総監部の敷地となっています。海軍工廠の隣には現在の北吸桟橋として現在も海上自衛隊が使用している海軍桟橋があり、その下には今では舞鶴を象徴する赤煉瓦倉庫群・海軍兵器廠や海軍軍需部の赤煉瓦倉庫が描かれています。
湾内に描かれた戸島や蛇島は色々と伝説もある名所的な島ですが、キャプションがありません。これは海軍が明治30年に買収し、戸島は明治42年に火薬庫や海軍病院消毒所が、蛇島には大正13年にガソリン庫が作られたためかと思われますが、鳥瞰図にはそれらしき施設が描かれています。なお戸島には昭和4年に大砲発射場・蛇島には昭和17年に地下タンクが造られています。

舞鶴要塞司令部と舞鶴重砲兵大隊。舞鶴要塞地帯内の砲台や堡塁を管轄する陸軍部隊でした。鳥瞰図に描かれた軍事施設のうち、ここだけキャプションがあります。

海舞鶴駅と周辺。舞鶴鎮守府の軍需物資輸送と商業港としての輸送の需要に伴い明治37年に作られた駅で、戦後も昭和60年に廃止されるまで稼働していました。

西舞鶴の由良川河口部分。河口の中州に養魚場があったんですね。鮎や遡上してくる鮭を養殖や孵化をしていた場所でしょうか。現在この場所を航空写真で確認してみましたが中州はありませんでした。
手前の丹後富士は建部山。戦国時代までは建部山城があり、明治34年に建部山堡塁砲台が建設され現在も煉瓦造の遺構等が残されていますが、軍機に触れるせいか鳥瞰図には描かれていません。

西舞鶴の湾の先にある岬・金岬。この金岬と隣の槇山にも砲台が建設され現在も煉瓦造の頑丈な遺構が残されていますが、こちらも鳥瞰図には砲台は一切描かれていません。
古絵葉書・三十八銀行新築記念絵葉書

三十八銀行は明治10年に姫路市にて設立した第三十八国立銀行が前身で、明治31年に三十八銀行となりました。この絵葉書は大正14年に竣工した本店新築を記念して発行されたものです。

三十八銀行新築本店外観。鉄筋コンクリート造で外壁は石張りでした。

営業室。戦前の銀行建築らしく営業室は吹き抜けで広々としています。

会議室。なんと暖炉があります。この頃は商業建築でも暖炉はステータスだったんですね。

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三十八銀行新築本館平面図。普通2階にある重役室が珍しく1階の営業室の脇にあります。行員食堂も完備されてますが、重役と一般行員とでは食堂が分けられているのが時代を感じます。

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三十八銀行新築本店概要。
設計は設楽建築事務所。建築課・設楽貞雄の設計で、初代通天閣など大阪を中心に作品を残しました。施工は大手の大林組です。
三十八銀行は昭和11年に他の6銀行と合併し神戸銀行となりました。
冊子・都ホテルを中心とせる洛内外名所交通鳥瞰図(吉田初三郎作画・昭和3年)

「大正広重」と称された鳥瞰図絵師・吉田初三郎が都ホテル(現・ウェスティン都ホテル京都)の依頼を受けて描いた京都市内の鳥瞰図です。
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都ホテルを中心として描いた鳥瞰図であるため、蹴上付近や東山が詳細に描かれています。また、外国人観光客や要人が多く宿泊する理由からか、英文表記もされています。
この鳥瞰図より気になった箇所を一部抜粋して紹介いたします。

中心に大きく描かれた都ホテル。流石に依頼者である都ホテルの姿は大きく描かれています。描かれている都ホテルの建物は大正4年に完成した本館群です。ホテルには多数の送迎の車が行き交っている姿が描かれ、賑わっている様子を表現しています。それにしても都ホテルが余りにも巨大に描かれているために周辺の他の建物との比率が大きく歪む結果になっているのが面白いところです。

岡崎公園の大礼記念大博覧会会場。昭和3年に昭和天皇即位を記念して開催された大礼記念京都大博覧会は、まさにこの鳥瞰図が描かれた時に開催されていたわけですが、この鳥瞰図の主役はあくまで都ホテルなので、控えめに描かれています。

都ホテル下に描かれた蹴上発電所。右側の黄色い建物が明治24年完成の第1期蹴上発電所。左の薄赤の建物が現存する第2期蹴上発電所。昭和3年のこの鳥瞰図には描かれている第1期蹴上発電所は昭和11年に第3期蹴上発電所建設のために姿を消しました。

南禅寺境内にある琵琶湖疏水水路閣と蹴上のインクライン、そして蹴上の船溜まりの部分。現存している片山東熊設計の九条山ポンプ室の建物も描かれています。

さすがに京都駅は大きく詳細に描かれています。大正4年、渡辺節の設計による2代目駅舎です。
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以前記事にしました同じく吉田初三郎が昭和3年に大丸の依頼で描いた「大丸を中心とせる京都名所案内鳥瞰図」。

その鳥瞰図に描かれている都ホテルは物凄くこじんまりと簡略化されて描かれています。同じ吉田初三郎が同じ昭和3年の年に描いたにもかかわらず依頼者や主題が異なるとここまで扱いに違いが出て来るのは、比較して見ると面白いですね。
古絵葉書・大阪株式取引所市場新築記念絵葉書

大阪株式取引所は明治11年に大阪市の北浜に存在した株式取引所の市場で、この絵葉書は昭和10年に竣工したビルの新築を記念して発行されたものです。大阪株式取引所は昭和18年に日本証券取引所に統合され大阪支所となり、戦後は大阪証券取引所として再スタートしました。

大阪株式取引所外観。特徴的な円形の正面の塔屋が目を引きます。現在この正面には2004年に設置された有名な五代友厚の銅像が建てられています。大阪の経済に多大な功績を遺した五代友厚は、この大阪株式取引所の設立にも尽力しました。

大阪株式取引所市場内部。広々とした空間で昭和10年築らしくモダンなデザインとなっています。

大阪株式取引所貴賓室。壁や床はモザイクデザインの組木になっており、ソファーもモザイクデザインに統一されています。

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大阪株式取引所市場新築工事概要。設計は長谷部竹腰建築事務所、施工は大林組です。
大阪証券取引所は2000年に閉鎖。外壁と正面玄関の塔屋部分を保存した形で高層ビルが新築され、大阪取引所ビルとしてオープンしました。
冊子・同潤会アパートメントハウス(建築雑誌498号巻末附図・昭和2年)

関東大震災により住宅を失った多くの人達のために内務省が住宅供給のための財団法人を設立しました。それが同潤会で、関東大震災での火災の反省から不燃建築の集合住宅の建設を計画。まず最初に中之郷アパートの設計が東京帝大建築学科の建築家・内田祥三研究室により進められ、大正15年8月に竣工。以後、同潤会設計部が中心となり、東京・横浜に計16ヵ所のいわゆる「同潤会アパート」が建設されました。
この資料は昭和2年に出版された建築雑誌498号の巻末附図に紹介された同潤会アパートで、中之郷アパート・東大工町アパート(後の清砂通アパート)・青山アパート・渋谷アパート(後の青山アパート)が収録されています。
各アパートの写真及び図面は続きを読むからご覧ください。
古絵葉書・舞鶴海軍機関学校全景

海軍機関学校は、海軍の機関科に所属する将校を養成する学校で、海軍兵学校・海軍経理学校と合わせて「海軍三校」と呼ばれました。
海軍機関学校の始まりは、明治7年横須賀に置かれた海軍兵学寮の分校で、明治14年に海軍機関学校の名称となりました。
その後しばらく横須賀にありましたが、大正12年の関東大震災により校舎が大きな被害を受けたため、昭和3年に舞鶴へと移転しました。この絵葉書は舞鶴に移転後に撮影された全景写真の絵葉書です。


以前紹介した舞鶴海軍機関学校の生徒館と大講堂の絵葉書。
この全景写真には背後に海軍の施設がいくつか写っているのも特徴の一つです。

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判明している各施設にキャプションを付けてみました。以下、当ブログで紹介している各施設の絵葉書資料です。

舞鶴鎮守府庁舎

舞鶴海軍水交支社。

舞鶴海軍工廠共済組合病院中舞鶴分院。

舞鶴海軍海友社・舞鶴海軍工廠。

中舞鶴郵便局

高田商会は軍関係の取引をしていた商社で、現在も明治期の洋館の事務所が残されています。

現在、海軍機関学校だった敷地は海上自衛隊舞鶴地方総監部と海上自衛隊第四術科学校となっていますが、海軍機関学校時代の建物の多くが現存しそのまま使用されています。写真はかつての海軍機関学校の本庁舎だった建物と生徒館。現在の舞鶴地方総監部第一庁舎と第四術科学校。

海軍機関学校大講堂は現在、海軍記念館として一般公開されています。

大講堂の内部は当時の姿を保たれたままの状態で旧海軍の遺品等が展示されています。
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古絵葉書・舞鶴海軍機関学校
古絵葉書・舞鶴 海軍機関学校生徒館
古絵葉書・東洋紡績株式会社敦賀工場

東洋紡績株式会社敦賀工場は昭和9年に操業開始しました。当時の敦賀市は日本海側の商業港として発展しており、そのこともあり東洋紡の大規模な工場が作られたようです。東洋紡敦賀工場は地元の雇用や状業の発展に大きく貢献したものと思われます。
戦時中は軍需工場として軍用車両のタイヤなどを生産し、学徒動員の10代の学生も多く働いていましたが、昭和20年8月8日、1機のB29が東洋紡敦賀工場にパンプキン爆弾・いわゆる模擬原爆を投下。動員学徒16名を含む33名が犠牲になりました。

東洋紡績株式会社敦賀工場は現在も操業しており、戦前当時と思われる建物等も残されています。
このかつての本館と思われる建物は昭和22年の米軍撮影の航空写真にも写されています。

絵葉書の正門は残されてませんが、恐らく通用門と思われる戦前の門柱と塀は東洋紡敦賀工場敷地の南端に残されています。

南側の門柱のアップです。

敷地の南端には絵葉書と同じ形の塀が続いています。恐らくは工場敷地全体をこの形の塀が取り囲んでいたと思われます。

また、東洋紡敦賀工場の北側のかつて東洋紡敦賀工場の社宅街があった場所には昭和10年築のクラブハウスの洋館が残されており、かつての繁栄を今に伝えます。
古写真・米軍撮影によるベトナム・ファンランの推定日本軍基地への空襲写真2枚(昭和20年3月28日明号作戦時か)

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ベトナム南中部のファンラン・タップチャムには第二次世界大戦中に日本軍の飛行場がありました。当時、ベトナムを含むラオス・カンボジアを合わせた一帯はフランス領であり、フランス領インドシナ(いわゆる仏印)でした。当時、親ドイツ政権であったフランス・ヴィシー政権との協定により日本軍は仏印進駐を開始。仏印の各地に飛行場などの日本軍基地が設営され駐屯しました。しかし、欧州でのドイツの劣勢が顕著になるとフランスでは反ドイツ派が大頭。これに対し日本軍はこれまで共同防衛の関係にあったフランス領インドシナ軍を攻撃。これが仏印武力処理と言われる明号作戦でした。
明号作戦ではアメリカ軍も航空支援による爆撃を行ったようで、この写真もアメリカ軍が日本軍のファンラン飛行場を狙った空襲の際に、日本軍の基地と思われる施設を爆撃した際の写真と思われます。写真のキャプションに「3・28 1200」とあるので、恐らくですが昭和20年3月28日に撮影された写真と思われます。写真を見ると、立派な階段の玄関がある建物辺りが爆撃されており、もしかしたら司令部的な建物だったのかもしれません。また、周りには日本家屋っぽい入母屋の建物がいくつか見られます。

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同じ箇所の2枚目。1枚目より少し位置が手前の写真になります。左下に給水塔が見えます。

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給水塔の側には植え込みで文字らしきものが造られてます。紋章かもしれません。
写真からもう少し何か情報が無いかと探しましたが、これ以上の情報は得られませんでした。
冊子・望駿荘(小布施新三郎邸洋館) 建築写真類聚より。

建築写真類聚第六期第九回に収録された東京目白台にあった「望駿荘」です。
望駿荘はこの建築写真類聚では個人宅であるため望駿荘という名前は仮名であると解説していますが、この望駿荘は株取引で巨額の財を成した小布施新三郎が昭和2年頃に邸宅の敷地の主屋に付属する形で建てられた洋館でした。

望駿荘の解説。解説によると「某富豪の別邸の可成りな面積を持つ日本家屋の一部に接続」「金に糸目をつけない建築」「(外壁のスプリンクラーに関して)黄金の力ならでは出来難き芸当である」と当時からその豪華に驚嘆しています。
建築写真類聚「望駿荘」には外観・内部の写真と平面図50枚付余り収録されています。外観や内部の写真を見るとその豪華さに驚かされます。以下に紹介していきます。「続きを読む」からご覧ください。
古絵葉書・仙台陸軍教導学校絵葉書(8枚組) ※祖父のアルバムからの写真も加えて

陸軍教導学校は歩兵科の下士官の質を高めるために開設された歩兵科下士官養成の学校で、昭和2年に豊橋・仙台・熊本に開校しました。各連隊から入校した下士官候補者はそれぞれの教導学校で1年間の教育を経て、卒業後に下士官となって各部隊に配属されました。以後、昭和18年に廃止されるまで多くの下士官候補者を育成していきました。
この絵葉書は仙台陸軍教導学校の8枚組の記念絵葉書で、学内での生活の様子や演習の様子などが収められています。

実は私の祖父も入営した地元の連隊で伍長勤務上等兵となった後、昭和15年7月にこの仙台陸軍教導学校に入校し、卒業後は下士官として敦賀の連隊に配属され曹長で終戦を迎えました。

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仙台陸軍教導学校入校前夜の日記。残念ながら仙台陸軍教導学校時代の日記は残されていませんが、当時の写真が祖父の遺したアルバムにいくつか残されています。祖父のアルバムの写真を交えながら絵葉書を紹介していきたいと思います。
続きを読むからご覧ください。
古絵葉書・京都地方裁判所 新築落成記念絵葉書
古写真・京都舎密局 (文部省出張所試薬局・京都司薬場)

舎密局とは、明治初期に科学技術の研究や教育を目的として設立された公的機関で、大阪と京都にありました。
この古写真の京都舎密局は明治3年に京都府によって設立されたもので、石鹸やガラスなどの工業製品の製造・研究を行い、京都舎密局には後に島津製作所を設立する島津源蔵も在籍していました。
明治8年に京都舎密局には文部省の京都司薬場が併設。写真裏に(文部省出張所試薬局)の書き込みがあることから、この京都舎密局の写真は京都司薬場が廃止される明治9年9月までの間に撮影されたものと思われます。

以前紹介しました京都舎密局の古写真。正面から撮影された京都舎密局の写真は良く知られていますが、今回紹介します横から撮影された写真は見たことがなく珍しいものと思われます。京都舎密局の横には試験用の畑らしきものが広がり、背後には付属の建物や倉らしきものも確認できます。
京都舎密局は明治14年に勧業事業政策転換により廃止。その後は設立者の明石博高に払い下げられそのまま経営されましたが、明治17年には譲渡され京都倶楽部として使用された後、明治28年に焼失しました。
跡地は現在、銅駝美術工芸高校となっており、京都舎密局の説明板も置かれています。
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古写真・京都舎密局
古写真・大刀洗陸軍飛行学校甘木生徒隊入校式

大刀洗陸軍飛行学校は少年飛行兵に基本操縦の教育を行う飛行学校で、昭和15年に開校しました。
昭和18年、大刀洗陸軍飛行場の南、現在の福岡県朝倉市の一木児童公園の場所にあった高射砲第四連隊がニューギニアへ移駐したため、跡地に甘木生徒隊が開隊。全国から2000名余りの若者が入隊。6ヶ月間の地上訓練を受けた後に大刀洗陸軍飛行学校の本校及び各分校へと別れて基本操縦を学び、各地の航空隊へと実戦配備されました。
写真は昭和18年10月11日に撮影された甘木生徒隊の入校式の様子を撮影したもので、まさに甘木生徒隊最初の入隊式となります。
こちらのブログ記事にあります甘木生徒隊の配置図を参考にしますと、この入校式の写真の奥に写る建物は被服倉庫の様で、見切れてますが、写真右手に各中隊の兵舎が建ち並んでいたようです。

写真裏の書き込み。

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以前紹介した米軍撮影の昭和20年4月21日の大刀洗陸軍飛行場への空襲の様子を撮影した写真に注釈を追加したもの。
写真の下の方にわずかに甘木生徒隊が写っています。
現在、甘木生徒隊の跡地は一木児童公園となっており、甘木生徒隊の正門が保存されています。
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古写真・米軍撮影による大刀洗陸軍飛行場への空襲の写真(昭和20年4月21日)
古絵葉書・一身田尋常高等小学校 落成記念絵葉書
古写真・米軍撮影の名古屋市に対する空襲前後の偵察写真か(昭和20年3月24日)

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米軍が撮影した名古屋市の航空写真です。上部に「Ⅳ:55-3.24」とあり、昭和20年3月24日に撮影された写真と分かります。
「3PR5M16」は作戦名のようで、同日、徳島・神戸・大阪市街も撮影されたようです。
3月24日も名古屋市に対して空襲が行われ、その際の偵察写真と思われます。

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上記の偵察写真に名古屋市内の主な軍事施設・軍需工場の位置を記してみました。名古屋市には名古屋城周辺に第3師団司令部他の陸軍の司令部や陸軍病院、連隊などの諸施設。また市街地の各地には名古屋陸軍造兵廠や住友・三菱・愛知航空機などの軍需工場が多く存在し、それらも米軍の爆撃目標となりました。

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名古屋城の部分を拡大。高高度からの撮影でやや不鮮明ですが、天守等の建造物らしきものが確認できます。5月14日の空襲で名古屋城の大天守・小天守・本丸御殿等の貴重な建造物群が焼失しました。
名古屋市へはこの後、2068名の犠牲者が出た6月9日の熱田空襲が行われ、7月26日のエノラ・ゲイによる模擬原爆投下を最後に計63回もの空襲を受け名古屋市は壊滅しました。
古写真・水上戦闘機 強風

水上戦闘機・強風はこれまで偵察任務が主だった水上機を、空戦を主目的として開発された水上戦闘機で、昭和15年より開発が開始され昭和18年に採用されました。
水上機は水面から飛び立つことが出来るため、大規模な飛行場や航空母艦が無くても離水や着水が出来る利点がありますが、陸上機や艦載機と違い水面に浮かぶためのフロートが必要であり、その分の負担により通常の戦闘機より速度が落ちるため、通常の戦闘機と同等の速力と空戦力を要求された強風は、当時最大の出力を持つ火星エンジンが採用されました。
しかし、制式採用された昭和18年時点ですでに水上戦闘機の活躍の場は失われており、わずか97機で生産は終了しました。
この強風の写真は終戦時に米軍が接収した際に撮影されたものと思われます(場所不明)。強風は4機がアメリカに送られ、うち3機はほぼオリジナルの状態で保存されています。

この強風の写真裏には「これはAIRBOOKSの独占写真であるため、申請無しの複写を禁ずる」といった内容の印字がされ、さらに強風の米軍のコードネームである「RexⅡ」の文字が手書きされています。
強風は97機で生産が終了しましたが、この強風を元に開発された局地戦闘機「紫電一一型」と、その改良型の「紫電改」は大戦末期の本土防衛の迎撃機として終戦まで奮戦しました。
冊子・津市小観(昭和3年・吉田初三郎作)

「大正広重」と称された吉田初三郎が昭和3年に描いた津市の鳥瞰図です。津市の市街地をメインに描いています。

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津市小観に収録された吉田初三郎作の鳥瞰図。前回、同じく吉田初三郎が昭和5年に津市を描いた「冊子・津市を中心とせる名所交通鳥瞰図(昭和5年・吉田初三郎作) 」を紹介しましたが、それと比べると建物の特徴や街並み、市街地にある各施設の書き込みが甘く、あまり正確とは言えない出来となっています。
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こちらは以前紹介した吉田初三郎が昭和5年に改めて描いた津市の鳥瞰図。昭和3年の作品と比べると描写や書き込みが格段に差があります。昭和5年の津市鳥瞰図の奥書には「面目を一新して本図を作成した」とあり、吉田初三郎本人としても昭和3年の作品はあまり納得のいかない作品だったのかもしれません。
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冊子・津市を中心とせる名所交通鳥瞰図(昭和5年・吉田初三郎作)
冊子・津市を中心とせる名所交通鳥瞰図(昭和5年・吉田初三郎作)
古写真・米軍撮影の日立製作所海岸工場への空襲の写真2枚(昭和20年6月10日)

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昭和20年6月10日。茨城県日立市にある日立製作所海岸工場に対して大規模な空襲が行われました。B29100機以上が1トン爆弾806発を投下。日立製作所海岸工場は9割の施設が破壊され、この日は振り替え休日で職員の数は少なかったとはいえ、634人の出勤していた従業員や動員学徒が犠牲になりました。また隣接地域も被害を受け、合わせて1275人もの犠牲者が出ました。
日立製作所海岸工場は民間工場でしたが、日本有数の発電設備生産工場であり、航空機の関連部品や高射砲、対戦車砲などの軍需品を多く製造し軍に納入していた重要な軍需工場でありました。そのことはアメリカ軍も把握しており、この日立製作所海岸工場を狙った爆撃を行ったようです。
写真はその昭和20年6月10日に行われた空襲の様子を米軍が撮影したもので、写真には「6-10-1013」の文字があり、写真は6月10日の10時13分に撮影されたものであることが分かります。写真では日立製作所海岸工場を中心に爆撃され、激しく煙が上がっています。右下の海岸側の工場も日立製作所の工場ですが、こちらはまだ爆撃を受けていないようです。

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1枚目の写真の撮影から1分後、10時14分に撮影された写真です。1枚目よりアップの状態で撮影されています。
攻撃を受け激しく煙が上がる日立製作所海岸工場は、広大な敷地に多数の工場棟や工員住宅が建ち並ぶ大規模な工場であったことが分かります。10時13分と14分に撮影されたこの2枚の空襲写真は恐らく空襲開始の様子を写したもので、最終的には写っている建物のほとんどが破壊されたのではと思います。
日立製作所海岸工場はこの日の空襲で壊滅したため、その後の艦砲射撃や7月19日の空襲は免れました。
空襲を受けた日立製作所海岸工場の敷地は戦後も日立製作所の敷地として使用されており、毎年6月10日になると空襲の犠牲者を弔う慰霊祭が行われています。
古絵葉書・蹴上発電所(第2期)工事

日本初の営業用発電所として明治24年に操業した蹴上発電所は、電力需要の拡大と第2琵琶湖疏水の完成に伴い、明治45年に第1期の発電所は取り壊され、隣接した場所に新たに発電所が建設されました。それが第2期蹴上発電所です。この絵葉書はその第2期蹴上発電所の建設中の様子を紹介したものです。

水圧鉄管の工事の様子。

その後、昭和11年にかつて第1期蹴上発電所のあった場所に新たに発電所を建設。これが現在も関西電力が現役で操業している第3期蹴上発電所です。絵葉書は以前紹介した第3期蹴上発電所の竣工記念絵葉書で、手前に第2期蹴上発電所の建屋が写っています。

第1期蹴上発電所の建屋は失われましたが、第2期・第3期蹴上発電所の建屋は現存しており、特に煉瓦造の第2期蹴上発電所の建屋は南禅寺近くのランドマークとして知られる建物となっており、2001年に「琵琶湖疏水の発電施設群」として、夷川発電所、墨染発電所とともに土木学会選奨土木遺産に認定されています。
※関連項目
古絵葉書・昭和十一年蹴上発電所竣功記念















