古写真・名古屋高等工業学校

名古屋県庁001
名古屋工業高等学校は明治38年に東京・大阪・京都に次いで 4番目に設立された官立の高等工業学校でした。
昭和19年に名古屋工業専門学校と改称。昭和24年に愛知県立工業専門学校との合併により名古屋工業大学が発足。
現在に至ります。古写真の本館は昭和10年に焼失しました。
この古写真は明治末期から大正期の撮影と思われますが、何故か台紙には「名古屋県庁」と書かれています。
勘違いによる誤記でしょうか。
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古写真・大阪裁判所(初代)

初代大阪裁判所001
初代の大阪裁判所は明治23年に現在の大阪市北区西天満の鍋島藩・津軽藩の旧蔵屋敷跡に建てられました。
煉瓦造一部3階建ての大きな洋館は大阪控訴院・大阪始審裁判所との合同庁舎で、大阪府庁・造幣局・砲兵工廠などとともに明治の大阪を象徴する建物でした。
しかし、この初代裁判所は明治29年に焼失。明治33年跡地に再び赤煉瓦の裁判所庁舎が建てられますが、明治42年に再び焼失。
大正5年に跡地建てられた3代目の庁舎は、昭和44年まで使用され続けました。
この古写真は初代大阪裁判所を撮影したもので、明治23年から明治29年までの6年間の間に撮影されたものになります。

古写真・大阪 中之島公園 自由亭ホテル

大阪中之島・自由亭ホテル
自由亭ホテルは大阪市中之島公園にある大阪市立東洋陶磁美術館の場所に存在した外国人向けの西洋料理兼ホテルでした。
自由亭ホテルの起源は幕末に長崎にて草野丈吉が開業した日本初の西洋料理店「良林亭」とされ、明治元年に大阪市の川口居留地の近くに自由亭ホテルとして西洋料理兼ホテルを開業しました。
この中之島公園の自由亭ホテルは明治14年にその支店として建てられたもので、明治初期に流行したコロニアル様式で建てられています。
ベランダの高欄には「JIUTEI HOTEL」の文字が掲げられており、外国人を対象に営業していたことが分かります。
ホテルの前には人力車と車夫が待機し、客の送迎をしていたのでしょう。
奥に見えるお屋敷は精華楼という料亭で、明治17年に自由亭ホテルに購入されました。
明治28年、自由亭ホテルから改称して大阪ホテルが開業。
大阪ホテル013
これは明治中期から後期頃に撮影された大阪ホテルで、明治29年に自由亭ホテル時代の建物を建て替え、煉瓦造りのホテルとなりました。明治32年、大阪倶楽部に売却され、大阪倶楽部ホテルとなりましたが明治34年に全焼。明治36年に再建されましたが大正13年に再び全焼。大阪倶楽部ホテルは廃業しました。
この古写真は明治初期の自由亭ホテルの姿を撮影した貴重なものと思います。

古絵葉書・芦生演習林事務所

芦生演習林事務所001
芦生演習林は現在の京都府南丹市美山町にある京都大学の研究林で、大正10年、当時の京都帝国大学が初めて設けた国内演習林でした。
この建物は大正12年に完成した演習林事務所で、同年の京都帝国大学農学部設置に伴い建てられたものと思われます。
演習林事務所はロッジ風の建物で、昭和6年に建てられた京都大学構内にある国指定登録文化財の農学部演習林事務所は、この芦生演習林事務所と共通の意識をもって建てられたように思われます。
この芦生演習林事務所は現存しており、現在も事務所として使用されています。

古絵葉書・横浜 神風楼

横浜・神風楼001
神風楼は横浜高島町に作られた高島遊郭において1番の規模と格式を誇る遊郭でした。
高島町へ移転前の港崎遊郭時代は伊勢楼と称していましたが、慶応3年に高島遊郭へと移転した際に神風楼と改称したようです。
神風楼は横浜を訪れる外国人にも人気で、絵葉書にも書かれている「NECTARINE No.9」はこの神風楼に外国人が書いた看板を掲げていたことから、外国人からは「ナンバーナイン」と呼ばれていました。
神風楼は明治14年の高島遊郭閉鎖によりさらに移転。七軒町に開業しました。
この絵葉書は七軒町時代の神風楼で、高島遊郭時代から呼ばれてきた「No.9」の看板を正面の三角破風に掲げています。
神風楼は横浜一の遊郭として栄えていましたが、明治33年に再び移転命令が下り、相次ぐ移転で費用がかさみついに廃業。建物はその後ホテル等に転用されたようですが、大正期に焼失したようです。

古絵葉書・堺市 大美野田園都市の洋風住宅

堺市・大美野田田園都市001
堺市にある大美野田園都市は昭和6年にヨーロッパの田園都市をモデルに作られた分譲住宅地でした。
関西土地株式会社によって開発された大美野田園都市は関西における郊外住宅地の先駆けとなった場所で、
以降、各地に郊外型住宅地が生まれていきました。
この古絵葉書は大美野田園都市開発を記念して発行された絵葉書の1枚で、昭和初期流行りの中流家庭用の洋風住宅となっています。大美野田園都市はヨーロッパの田園都市をモデルに作られていますが、和風建築も多く建てられています。
現在の大美野田園都市は当時の住宅は少なくなったものの、今でも何件か残されており、この絵葉書の住宅と思われる建物も調べたところ残されているようです。

古絵葉書・海舞鶴駅(舞鶴港駅)

海舞鶴駅001
海舞鶴駅の前身の舞鶴海岸荷扱所は舞鶴鎮守府の開庁に伴う軍需物資の輸送として、さらには国際貿易港となり発展した舞鶴港への物資輸送を目的として明治37年に設置されました。
大正2年に海舞鶴駅と改称。貨物だけでなく旅客も扱う駅となりましたが大正12年に旅客営業は廃止。
戦後、昭和41年に舞鶴港駅と改称されましたが、昭和60年に駅は廃止。現在は駅の施設は何も残されていません。

古絵葉書・松江放送局

松江放送局001
昭和7年に松江市内の床几山に松江放送局が開局しました。
目立つ2本の電波塔は松江市の名所にもなったそうです。
現在、松江放送局のあとを引き継ぐNHK松江放送局は市街地に移転し、旧松江放送局は松徳幼稚園となっています。

古絵葉書・第四十八銀行本店新築記念

第四十八銀行本店新築記念001
第四十八銀行は明治10年に設立された第四十八国立銀行を始まりとし、明治31年に第四十八銀行へと改称しました。
この絵葉書は昭和12年に本店の新築を記念して発行された3枚組の絵葉書セットです。
第四十八銀行本店新築記念002
第四十八銀行本店外観。昭和初期の銀行建築に多く見られる古典様式の外観で、ファザードにはドリス式の列柱が並びます。
第四十八銀行本店新築記念003
営業室と頭取室。営業室は昭和10年代という時代を反映したモダニズム的なすっきりとしたデザインです。
頭取室はさすがに装飾に富んだ豪華な作りです。
第四十八銀行本店新築記念004
会議室と重役室。こちらもデザインの少ない機能的な造りです。
第四十八銀行本店は高堂徳治の設計、株式会社清水組(現・清水建設)の施工により完成。
しかし、この本店の完成から4年後の昭和16年、旧秋田銀行と湯沢銀行との合併により新生の秋田銀行となり、
第四十八銀行は消滅しました。

冊子・宮津橋立名所図会(吉田初三郎 大正13年)

宮津橋立名所図会001
吉田初三郎が描いた鳥瞰図が使用されている宮津・天橋立の観光パンフレットです。
表紙を開くと50cmほどの1枚ものの鳥瞰図が現れます。
宮津橋立名所図会ブログ用2
※サムネイルをクリックすると画像が拡大します。
名勝地である天橋立がメインのためか、宮津市の市街地の表記は少なめになっています。
パンフレットにある吉田初三郎のコメントには、宮津線開業に際して依頼を受け現地の取材の後、この鳥瞰図を書き上げたとあります。注記は少なくても天橋立だけでなく宮津市街地もしっかり取材し描き上げていることがこの鳥瞰図からも読み取ることができる作品です。

※関連記事
冊子・福知山市鳥瞰図(吉田初三郎・昭和13年)

古書籍・福知山衛戍病院写真帖(大正13年)

福知山衛戍病院写真帖1
大正13年に発行された福知山衛戍病院の写真帖です。
衛戍病院とは陸軍の病院のことで、この福知山衛戍病院は明治31年に設立、かつての福知山城の曲輪の一つだった伯耆丸跡に建てられました。戦後は国立福知山病院(現・市立福知山市民病院)になりました。
この写真帖は大正13年の頃の福知山衛戍病院を記録したものです。
30ページのうち、一部を紹介いたします。長い記事で画像も多いため追記ページにて紹介します。
(続きを読む)よりご覧ください。
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古絵葉書・園部城跡(大正時代頃)

園部城跡001
園部城は1619年(元和5年)に小出吉親により築かれた園部陣屋を始まりとし、以後江戸幕府260年間に渡り代々小出氏が園部藩の藩主を務めました。
慶応4年、京都に近く山陰道の守りの要だった園部陣屋は幕末の動乱に対応するため、既存の陣屋をより城郭としての防御力を持たせるための改修を新政府に申し出、許可されると普請を開始。明治2年に櫓門3か所、巽櫓、小麦山の三重櫓が完成。日本における最後の城郭建築となりました。
明治5年、現存する本丸櫓門・付属番所・巽櫓・土塀を除き多くの建物は移築されるか取り壊されました。
その後、本丸敷地は船井郡立高等女学校の敷地として利用。この絵葉書は女学校時代のもので、大正時代に撮影されたものです。
絵葉書には現存する櫓門・番所・土塀・巽櫓が写ってますが、櫓門の奥に屋敷のような建物が写ってます。船井郡立高等女学校の校舎ですが、もしかしたら、旧園部城の本丸御殿を再利用したのかもしれません。
また、現在は失われている多聞櫓風の建物が左手前に写ってます。絵図によると「鐘場」とあり、奥にある剣道場と繋がる建物だったようです。
園部城跡2
現在の園部城跡。現在園部城の本丸跡地は園部高校の敷地となり御殿建物は完全に失われてますが、櫓門は高校の校門として利用され、巽櫓・番所・土塀も当時のまま保存されています。櫓門の手前にあった「鐘場」は残念ながら失われ、現在はテニスコートになっています。

※関連記事
古絵葉書・船井郡立高等女学校

古絵葉書・京都駅前 京都観光案内所

京都観光案内所001
昭和2年に京都駅に観光案内所が設置されました。
昭和5年に京都市は観光課を新設。昭和6年に京都駅の観光案内所を拡充したとあり、この絵葉書の京都観光案内所は昭和6年に拡充した際に建てられたものと思われます。
建物は近代的なデザインですが、左側の塔屋の屋根は和風を感じさせる屋根に釣燈籠のようなものが下げられ、京都らしい和風を意識したデザインになっています。
観光案内所の建物の脇にはベンチを置いた休憩所もあります。
背景のイラストは大文字の送り火と三条大橋の納涼床の夕涼み。いかにも京都らしいイラストです。
京都観光案内所002
こちらもいかにも京都といった舞妓さんのイラストに観光案内所の内部の写真。
観光客を応対するカウンターの横にパンフレットが置かれた棚があり、その様子は現在の各地の駅にある観光案内所と変わらない姿のようです。

古絵葉書・宮津町上水道(現・宮津市滝上浄水場) 

宮津滝上浄水場001
宮津市の西側の山中に滝上浄水場という上水道の施設があります。明治45年建設という一地方都市としてはかなり早く作られた浄水場は当時から町の名所となっていたようです。この絵葉書は昭和初期頃に当時は宮津町浄水場と呼ばれていた浄水場施設を撮影したものです。1枚目は貯水池から宮津市街方面を撮影したもので、貯水池堰堤と通水路が見えます。右端は散策路になっています。
宮津滝上浄水場002
1枚目にも写っている貯水池の堰堤。堰堤の下に導水管が見えます。堰堤は絵葉書から推測すると通水路と同じ石積みのようです。明治期まではコンクリートは高価で石積みの方が安価で一般的でした。
宮津滝上浄水場003
貯水池の上流にある取水口の堰堤。石積みの堰堤の真ん中に取水のアーチが見えます。滝上浄水場の取水は元々流れていた常願寺川をそのまま利用しており、恐らく常願寺川を拡張し堰堤を築いて貯水したものと思われます。
宮津滝上浄水場004
貯水池から下った所に浄水場のろ過池があります。奥に見える建物は管理事務所でしょうか。
宮津市滝上浄水場取水口堰堤2
※現在の取水口堰堤
宮津市滝上浄水場ろ過池
※現在のろ過池。
滝上浄水場の施設は絵葉書が撮影された90年前の昭和初期頃当時のまま現在も使用されています。
貯水池堰堤は石張り外壁の上にコンクリートで覆って補強されており絵葉書の頃とは面影を一新していますが、ろ過池と取水口堰堤は当時のままの姿で残されています。ただし、取水口堰堤は取水口のアーチから左側のほとんどは土砂で埋まり、また昭和初期の頃と比べ深い木々に覆われかつてのような見晴らしは失われ絵葉書と同じアングルでの撮影は不可能となっています。
ともあれ、当時のまま良好に残されている滝山浄水場は、地方都市の最初期の近代上水施設として貴重な近代化遺産であると言えます。

※関連リンク
宮津市にある近代化遺産の浄水場・滝上浄水場レポ ブログ・べーさんの歴史探訪

古絵葉書・二式単座戦闘機 鍾馗(京都府何鹿郡綾部町民献納 愛国第3223号)

二式単戦 綾部町民献納001
二式単座戦闘機は通称「鍾馗」と呼ばれた陸軍の戦闘機で、昭和15年に試作機の初飛行。
昭和16年12月8日の太平洋戦争開戦と共に実験的に実戦投入。
昭和17年2月に正式採用されました。鍾馗の生産は昭和19年末に終了し、四式戦闘機疾風に受け継がれることになります。
この鍾馗は昭和19年4月29日に当時綾部町だった綾部市の市民によって献納された機体です。
二式単戦 綾部町民献納002
富士山をバックに撮影された愛国第3223号機綾部号。この絵葉書は別の場所で撮影されたものですが、献納式はこちらのサイトによると、「綾部町運動場」にて行われたとあります。実際に二式単戦が運動場に持ち込まれたかはわかりません。
二式単戦 綾部町民献納003
飛行する愛国第3223号機綾部号ですが、これは別の二式単戦を撮影したものでしょう。
二式単座戦闘機の絵葉書は珍しくはないですが、この綾部市民が献納した愛国第3223号機の絵葉書は戦争末期の綾部市を伝える郷土資料としては貴重なものかと思います。

※関連記事
古絵葉書・二式単座戦闘機 鍾馗
古絵葉書・二式単座戦闘機 鍾馗(陸軍航空本部提供写真)

資料・琵琶湖疏水線路全景二万分一之図

琵琶湖疏水線全路景二万五千分の一之図ブログ用
※サムネイルのクリックで画像が拡大します。
琵琶湖疏水は明治天皇の東京奠都により衰退した京都市を琵琶湖の水を使った水運・水車動力による工業(当初計画)・上水道を目的として明治18年に起工・明治23年に完成した疏水です。
大津市と京都市を水路やトンネルでつなぎ、琵琶湖の水を京都まで通すという壮大な計画は当時若干21歳の田邉朔郎が設計監督を担当し、当時お雇い外国人の監督指導が当たり前だった明治前期の近代的土木工事において全て日本人の手によりこの大事業を成し遂げられた工事でした。
この琵琶湖疏水の全図は竣工式前日の明治23年4月8日付の日出新聞(現在の京都新聞の前身)の付録として発行されたもので、完成したばかりの琵琶湖疏水の様子が描かれています。また、裏面には工事の要略と起工から完成までの各工事の沿革、使用された物資や工事費等が詳細に書かれています。
琵琶湖疏水線全路景二万五千分の一之図ブログ用2
※注釈入り。サムネイルクリックで画像が拡大します。
図を見てみますと、琵琶湖疏水に使用する煉瓦を焼いた山科の煉瓦工場やトンネル工事を担った藤尾工場・蹴上工場等、現存しない琵琶湖疏水工事のために設置された工場の位置が描かれています。
逆に翌年の運転開始となる蹴上発電所や明治25年の着工となる鴨川運河は描かれていません。
琵琶湖疏水を象徴する蹴上インクラインと南禅寺水路閣は描かれていますが、水路閣にはキャプションが無く、インクラインは「科入舟車道」と書かれています。また、鴨東運河に閘門の文字があり、そこに夷川船溜まりが描かれていますが、大正3年に現存する煉瓦造りの夷川発電所が建設されました。
琵琶湖疏水は明治時代前期において京都市・京都府のみならず国家的事業の大工事とされ、竣工式の前日には国旗掲揚や提灯行列はもちろんのこと、竣工式が行われた夷川船溜まりには祇園祭の山鉾が並び、大文字の送り火にまで点火され多くの人で賑わったそうで、この琵琶湖疏水がいかに京都市の威信をかけて建設され京都市民の希望の星になっていたかが分かります。
この日出新聞の付録が出された翌日の4月9日に明治天皇と昭憲皇太后の両陛下を招き竣工式が行われました。
現在、琵琶湖疏水は本来メインであった船運は廃止され、主に上水道と発電の役割を果たしていますが、明治前期の日本で初めての近代土木技術が多く取り入れられ、また日本人のみで行われた近代工事であり、近代化遺産として非常に価値が高く、第1疏水全線が国指定史跡にしていされました。そのため、京都の観光地としても近年知られるようになりました。

古絵葉書・京都農園

京都農園001
キャプションに「京都農園」とある絵葉書です。奥に温室らしき建物が見えます。
現在、京都府立植物園となっている大礼記念京都植物園の温室かと思いましたが、どうも違うようです。
ご存知の方がいましたらご教授ください。

古絵葉書・京都府教育会館新築落成記念絵葉書

京都府教育会館001
京都市の丸太町橋の北側、鴨川沿いに建てられた京都府教育会館の新築落成記念絵葉書です。
教育会とは明治10年代以降に各都道府県郡市町村にて結成され、各地の教育行政官・教員・名望家などを構成員として、教育の普及・改良のために教員研修、教育研究・教材開発などを担った私立教育団体です。
京都府教育会館002
京都府教育会館は和風の建物ですが、この建物は大正天皇の即位の大礼のために京都御所建春門の外に新築され使用された「第二朝集所着替所および便所・運転手詰所・湯沸所・廊下」の建物を下賜されて建てられたものです。
大正大礼の式典後、使用された新築建物は京都府内を中心に下賜されましたが、多くは大きな改造はされず元の姿まま解体移築の形で建てられ使用されました。背後に見えている洋館は京大病院です。
京都府教育会館003
昭和天皇即位の大礼の時も使用された建物は下賜されましたが、大正大礼の時に比べて下賜された数が多く現存している建物もいくつかあるのに対し、大正大礼時の下賜建物はいずれも現存していません。
この京都府教育会館の建物も現存せず、跡地は川端通の一部となっています。

古絵葉書・株式会社第四十九銀行本店

第49銀行001
第四十九銀行は明治5年の国立銀行条例により国立銀行の49番目に誕生した第四十九国立銀行を前身とする銀行で、京都に本店を置きました。
四十九銀行は明治41年に京都商工銀行に買収され四十九銀行は消滅。さらに京都商業銀行は大正5年に第一銀行に合併吸収されました。
絵葉書には四十九銀行の本店建物が写されてますが、伝統的な町屋の建物で、元からあった商家の建物をそのまま利用したのかもしれません。
表の宛名面には明治34年3月13日の消印が押されています。

古絵葉書・向日町教会

向日町教会001
京都府向日市にある向日町教会は昭和11年に設立した教会です。教会の正門脇の掲示板に「園児募集」「向日町幼稚園」の文字がありますが、設立当初から教会内で幼稚園も運営されていました。この絵葉書は完成間もないころの向日町教会を撮影したものと思われます。現在この建物は存在していませんが、まこと幼稚園と名称が変わった幼稚園内に向日町教会が存在する形で存続されています。

古絵葉書・第三高等学校 新徳館(旧・饗宴場付属調理場)

新徳館001
旧制第三高等学校(現・京都大学構内)にあった新徳館は元々、昭和天皇の大礼式典で使用された饗宴場付属調理場の建物の下賜された部材を利用し、武田五一の設計により建てられたものでした。昭和大礼のために建てられ使用された建物は全て和風建築で、式典後これらの建物は京都府内を中心とした公共施設・学校・神社仏閣に下賜されました。それらはほとんどが改造されることなくそのままの状態で使用されましたが、新徳館は洋風の建物に建て直されています。

古絵葉書・新綾部製糸株式会社筒川工場

新綾部製糸株式会社筒川工場001
京都府伊根町本坂にあった新綾部製糸株式会社筒川工場は元は明治34年に設立した丹後繭糸蚕種生産販売組合が創業した筒川製糸工場でした。
新綾部製糸株式会社は経営難に陥った綾部製糸株式会社を神栄製糸株式会社の傘下に置くことで昭和3年に再スタートした製糸会社で、綾部製糸の工場・従業員をそっくり引き継いだ企業でした。この筒川製糸工場も元は綾部製糸株式会社の工場だったと思われます。
筒川製糸工場は明治42年に火事で工場を全焼し莫大な被害をこうむりました。しかし、役員以下社員一同奮起して工場の復興に努め、大正7年に再建を果たしました。同年10月、工場長・品川萬右衛門は工場再建に奮起した従業員を労うため従業員116名を率いて東京への慰安旅行へと向かいました。しかし、運悪く流行していたスペイン風邪により帰郷した従業員のうち42人が死亡。村内にも広まる被害を出してしまいました。工場長の品川萬右衛門は亡くなった従業員の慰霊のため工場内に青銅製の阿弥陀如来像を建立。これが丹後大仏です。初代の丹後大仏は昭和19年に金属回収令により徴収されましたが、昭和20年に再建された石造の丹後大仏は初代と同じ場所に立てられ、現在も初代と同じ筒川工場の跡地に存在し続けてます。
新綾部製糸株式会社筒川工場は昭和9年ごろまで存在したそうで、絵葉書の撮影時期は昭和3年から昭和9年の間ということになります。

古絵葉書・宮津電燈株式会社 開業記念絵葉書

宮津電燈株式会社001
宮津電燈株式会社は明治43年に多くの電力会社・鉄道会社を設立した実業家・才賀藤吉によって認可を受け開業された電力会社です。開業は明治44年。この絵葉書は開業を記念して発行されたセットです。
宮津電燈株式会社002
宮津電燈株式会社の事務所。大正時代に出版された電気事業要覧によれば、事務所は宮津市字河原1850番地にあったとあります。この場所には重要文化財に指定されている旧三上家住宅がありますが、隣にあったのでしょうか。
左奥に三上家住宅らしき瓦屋根が見えます。
宮津電燈株式会社003
発電所内部。宮津電燈の発電所は火力発電所でした。イギリスから輸入されたガス発動機を使用しています。
発電所の場所も事務所と同じ河原地区にあったようで、事務所に併設されていたものと思われます。
宮津電燈株式会社004
宮津電燈で発電された電気は宮津市内一帯に供給されていました。
宮津電燈株式会社は開業からわずか1年後の明治45年に丹波電気・丹後電気と三社合併し両丹電気株式会社となり、宮津電燈株式会社の名前は消滅しました。

 古写真・熊本 歩兵第13連隊(明治27年撮影)

熊本歩兵第13連隊001
歩兵第13連隊は明治8年に熊本城の二ノ丸にて編成されました。大正14年にかつて歩兵第23連隊が駐屯していた場所に移転。この古写真は台紙裏に明治27年撮影とありますので、二ノ丸に駐屯していたころの撮影になります。
二ノ丸時代の歩兵第13連隊の遺構は残されていませんが、移転後の駐屯地(現・熊本学園大学)では営門や旧酒保・旧炊事場の建物が残されてます。

古絵葉書・賀茂大橋竣工記念絵葉書

賀茂大橋竣工記念001
賀茂大橋は京都市を流れる鴨川に架かる橋で、関西の建築会の重鎮であり、京都大学工学部建築学科を創設した武田五一の設計により昭和6年に完成しました。
この絵葉書セットは賀茂大橋の竣工を記念して京都市により発行されたものです。
賀茂大橋竣工記念002
賀茂大橋遠景。下部ゲルバー式鋼桁橋の構造で、上部は石製の欄干と照明のある燈籠型の親柱があります。この石製欄干と燈籠は現在もそのままです。賀茂大橋の北側には鴨川デルタとして知られる高野川との合流点の三角洲。さらに北には世界遺産の下鴨神社があります。
賀茂大橋竣工記念003
正面から見た賀茂大橋。かつては市電が橋の上を走ってました。
賀茂大橋竣工記念004
賀茂大橋親柱。現在もそのまま使われ日が落ちると明かりが灯る親柱は伝統的な和風の燈籠型をしています。これは、賀茂大橋の上を通る今出川通が京都御所の北を通るのと、賀茂大橋のすぐ北に下鴨神社があるため、それらを意識してデザインしたのではないかと思います。
賀茂大橋は架橋から今年で86年を経ており、老朽化が目立つようになったため、大規模な改修工事が行われていますが、著名な建築家の設計で戦前に架橋された歴史的価値のある橋梁であるため、架け替えはせず、耐震補強などの改修に留めることで決定したようです。

古写真・熊本 砲兵第六連隊

熊本砲兵第6大隊001
砲兵第六連隊は明治6年に熊本鎮台隷下の砲兵部隊として熊本城内の備前屋敷跡に設立された第三砲隊を始まりとします。
明治8年に砲兵第六大隊に。明治9年の神風連の乱では砲兵隊の営舎が制圧されました。明治17年に砲兵第六連隊へと改編。明治40年に野砲兵第六連隊へと改称されました。
また明治31年に熊本城内から現在の白川中学校のある熊本市大江に移転しています。
この古写真は明治27年に撮影されたと台紙裏にありますので、熊本城内にあった砲兵第六連隊時代のものです。

古絵葉書・重巡洋艦高雄進水記念絵葉書

重巡洋艦高雄進水記念絵葉書001
重巡洋艦・高雄は昭和2年に横須賀海軍工廠にて起工、昭和5年に進水し昭和7年に竣工しました。
この絵葉書は高雄の進水を記念して作成されたもので、高雄の写真と艦名のもとになった京都の高雄山にちなんで有名な高雄山の紅葉と擬宝珠のある朱塗りの橋が描かれています。また、記念のスタンプも押されています。
重巡洋艦・高雄と言えば、現在のこんごう型イージス艦やあたご型イージス艦のような巨大な艦橋が特徴的ですが、絵葉書の写真ではまだ艦橋は完成してませんでしたので先に就役している妙高型重巡洋艦の写真が使用されています。
重巡洋艦高雄進水記念絵葉書002
こちらは進水式の様子を撮影した絵葉書。ちなみに2番艦の愛宕の方が先に竣工しています。
高雄は太平洋戦争時は第四戦隊に所属し主に南方方面の作戦に参加。第二次ソロモン海戦・第三次ソロモン海戦・マリアナ沖海戦・そしてレイテ沖海戦など多くの激しい海戦に参加。潜水艦による雷撃により艦尾を大破しましたが、沈没は免れました。
その後、シンガポールのセレター軍港に係留。重巡洋艦・妙高とともに防空艦としての任務を受けることになりました。
終戦後、接収されたイギリス軍により妙高と同じく自沈処分。高雄と妙高は同じ横須賀海軍工廠の同じ船台で建造されたネームシップで、それぞれの4姉妹の中で唯一終戦時まで生存。同じセレター軍港に係留され同じ場所で自沈されたという数奇な縁を持つ2艦でした。
現在、海上自衛隊のこんごう型護衛艦3番艦で妙高の名を受け継いだイージス艦「みょうこう」と違い、高雄の名を受け継いだ護衛艦は未だありません。将来、高雄の名を受け継ぐ護衛艦は誕生するのでしょうか。

古絵葉書・重巡洋艦妙高進水記念絵葉書

重巡洋艦妙高進水記念絵葉書001
重巡洋艦・妙高は大正13年に横須賀海軍工廠にて起工され、昭和2年に進水。昭和4年に竣工しました。
この絵葉書は妙高の進水を記念して作成されたもので、建造中の妙高の写真と記念のスタンプが押されています。
重巡洋艦妙高進水記念絵葉書002
2枚目は艦の名前になった妙高山のイラストが描かれており、こちらにも記念スタンプが押されています。
竣工間もない妙高は、昭和5年に神戸沖にて行われた特別大演習観艦式に参加しました。
太平洋戦争開戦後は第五戦隊に所属しスラバヤ沖海戦や珊瑚海海戦、ブーゲンビル島沖海戦に参戦。
ブーゲンビル島沖海戦では夜戦の混乱で駆逐艦初風と衝突する事故も起きましたが、その後もマリアナ沖海戦、レイテ沖海戦に参戦し、多くの日本海軍の艦船が沈んでいく中、妙高は潜水艦による艦尾大破を受けつつも沈没は免れ、シンガポールにて防空艦としての任務を受けました。
シンガポールのセレター軍港に係留された妙高はセレター迷彩と言われる迷彩を施された状態で終戦を迎え、後に接収したイギリス軍により同じく係留されていた重巡洋艦・高雄とともに自沈処分されました。
妙高と高雄は同じ横須賀海軍工廠の同じ船台で建造されたネームシップで、それぞれの4姉妹の中で唯一終戦時まで生存。同じセレター軍港に係留され同じ場所で自沈されたという数奇な縁を持つ2艦でした。
現在、妙高の艦名は海上自衛隊こんごう型護衛艦3番艦であるイージス艦「みょうこう」に受け継がれています。

古絵葉書・名古屋ホテル

名古屋ホテル001
明治28年、名古屋市内の竪三ツ蔵町に名古屋ホテルが開業しました。木造階建ての洋館は当時としてはおしゃれで目を引いたことかと思います。絵葉書は大正期ころのものと思われます。

古絵葉書・舞鶴海軍航空隊(栗田水上機基地)

舞鶴海軍航空隊001
現在の宮津市栗田地区にある栗田湾に舞鶴海軍航空隊の基地がありました。
栗田水上機基地とも呼ばれたこの基地は昭和10年に創設。他の海軍航空隊とは異なり、水上機のみで編成された航空隊でした。
絵葉書は舞鶴海軍航空隊の庁舎。舞鶴海軍航空隊の遺構は現在も残されていますが、庁舎を写した古写真などはあまり残されていないようで調べても見かけることがなく、この絵葉書は当時の舞鶴海軍航空隊の庁舎の姿を知ることができる貴重な絵葉書かと思われます。
舞鶴海軍航空隊002
舞鶴海軍航空隊の指揮所の写真。物見やぐらみたいな指揮所塔に吹き流しを置いて風向きを示しています。
奥に見える大きな建物は格納庫です。1枚目の庁舎の絵葉書とともに昭和10年11月9日付の舞鶴航空隊開隊記念の記念スタンプが押されています。
栗田水上機基地001
以前紹介した栗田水上機基地の古絵葉書。
舞鶴海軍航空隊が創設された当初はまだ舞鶴海軍要港部の頃で、そちらに所属していましたが、昭和14年に舞鶴鎮守府として再昇格した際に舞鶴鎮守府の管轄となり、舞鶴鎮守府に所属する艦艇に搭載された水上機を管轄していました。
戦時中は大阪警備負の下で和歌山県沖や日本海沿岸を中心に対潜哨戒任務に従事しましたが、昭和19年12月に佐世保海軍航空隊所属の第九五一航空隊の舞鶴分遣隊として再編成されたため、舞鶴海軍航空隊は解隊されました。
舞鶴海軍航空隊正門
現在、舞鶴航空隊跡地は京都府立海洋高校の敷地となり、絵葉書の庁舎を含め隊舎や格納庫は失われましたが、絵葉書にも写る当時の正門や滑走路等の遺構は現在も残されています。また、格納庫の建物は綾部市に移築され、現在も綾部市市民センターとして利用されています。写真は海洋高校の正門に利用されている舞鶴海軍航空隊の正門です。
ちなみに、舞鶴海軍航空隊の湾を挟んだ向かいにある現在、関西電力宮津エネルギー研究所となっている場所には水上機の製造・修理を行っていた第31海軍航空廠があり、現在も滑走路跡や元官舎と思われる木造の建物が残されています。

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