古絵葉書・二式単座戦闘機 鍾馗(京都府何鹿郡綾部町民献納 愛国第3223号)

二式単戦 綾部町民献納001
二式単座戦闘機は通称「鍾馗」と呼ばれた陸軍の戦闘機で、昭和15年に試作機の初飛行。
昭和16年12月8日の太平洋戦争開戦と共に実験的に実戦投入。
昭和17年2月に正式採用されました。鍾馗の生産は昭和19年末に終了し、四式戦闘機疾風に受け継がれることになります。
この鍾馗は昭和19年4月29日に当時綾部町だった綾部市の市民によって献納された機体です。
二式単戦 綾部町民献納002
富士山をバックに撮影された愛国第3223号機綾部号。この絵葉書は別の場所で撮影されたものですが、献納式はこちらのサイトによると、「綾部町運動場」にて行われたとあります。実際に二式単戦が運動場に持ち込まれたかはわかりません。
二式単戦 綾部町民献納003
飛行する愛国第3223号機綾部号ですが、これは別の二式単戦を撮影したものでしょう。
二式単座戦闘機の絵葉書は珍しくはないですが、この綾部市民が献納した愛国第3223号機の絵葉書は戦争末期の綾部市を伝える郷土資料としては貴重なものかと思います。

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古絵葉書・二式単座戦闘機 鍾馗
古絵葉書・二式単座戦闘機 鍾馗(陸軍航空本部提供写真)
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資料・琵琶湖疏水線路全景二万分一之図

琵琶湖疏水線全路景二万五千分の一之図ブログ用
※サムネイルのクリックで画像が拡大します。
琵琶湖疏水は明治天皇の東京奠都により衰退した京都市を琵琶湖の水を使った水運・水車動力による工業(当初計画)・上水道を目的として明治18年に起工・明治23年に完成した疏水です。
大津市と京都市を水路やトンネルでつなぎ、琵琶湖の水を京都まで通すという壮大な計画は当時若干21歳の田邉朔郎が設計監督を担当し、当時お雇い外国人の監督指導が当たり前だった明治前期の近代的土木工事において全て日本人の手によりこの大事業を成し遂げられた工事でした。
この琵琶湖疏水の全図は竣工式前日の明治23年4月8日付の日出新聞(現在の京都新聞の前身)の付録として発行されたもので、完成したばかりの琵琶湖疏水の様子が描かれています。また、裏面には工事の要略と起工から完成までの各工事の沿革、使用された物資や工事費等が詳細に書かれています。
琵琶湖疏水線全路景二万五千分の一之図ブログ用2
※注釈入り。サムネイルクリックで画像が拡大します。
図を見てみますと、琵琶湖疏水に使用する煉瓦を焼いた山科の煉瓦工場やトンネル工事を担った藤尾工場・蹴上工場等、現存しない琵琶湖疏水工事のために設置された工場の位置が描かれています。
逆に翌年の運転開始となる蹴上発電所や明治25年の着工となる鴨川運河は描かれていません。
琵琶湖疏水を象徴する蹴上インクラインと南禅寺水路閣は描かれていますが、水路閣にはキャプションが無く、インクラインは「科入舟車道」と書かれています。また、鴨東運河に閘門の文字があり、そこに夷川船溜まりが描かれていますが、大正3年に現存する煉瓦造りの夷川発電所が建設されました。
琵琶湖疏水は明治時代前期において京都市・京都府のみならず国家的事業の大工事とされ、竣工式の前日には国旗掲揚や提灯行列はもちろんのこと、竣工式が行われた夷川船溜まりには祇園祭の山鉾が並び、大文字の送り火にまで点火され多くの人で賑わったそうで、この琵琶湖疏水がいかに京都市の威信をかけて建設され京都市民の希望の星になっていたかが分かります。
この日出新聞の付録が出された翌日の4月9日に明治天皇と昭憲皇太后の両陛下を招き竣工式が行われました。
現在、琵琶湖疏水は本来メインであった船運は廃止され、主に上水道と発電の役割を果たしていますが、明治前期の日本で初めての近代土木技術が多く取り入れられ、また日本人のみで行われた近代工事であり、近代化遺産として非常に価値が高く、第1疏水全線が国指定史跡にしていされました。そのため、京都の観光地としても近年知られるようになりました。

古絵葉書・京都農園

京都農園001
キャプションに「京都農園」とある絵葉書です。奥に温室らしき建物が見えます。
現在、京都府立植物園となっている大礼記念京都植物園の温室かと思いましたが、どうも違うようです。
ご存知の方がいましたらご教授ください。

古絵葉書・京都府教育会館新築落成記念絵葉書

京都府教育会館001
京都市の丸太町橋の北側、鴨川沿いに建てられた京都府教育会館の新築落成記念絵葉書です。
教育会とは明治10年代以降に各都道府県郡市町村にて結成され、各地の教育行政官・教員・名望家などを構成員として、教育の普及・改良のために教員研修、教育研究・教材開発などを担った私立教育団体です。
京都府教育会館002
京都府教育会館は和風の建物ですが、この建物は大正天皇の即位の大礼のために京都御所建春門の外に新築され使用された「第二朝集所着替所および便所・運転手詰所・湯沸所・廊下」の建物を下賜されて建てられたものです。
大正大礼の式典後、使用された新築建物は京都府内を中心に下賜されましたが、多くは大きな改造はされず元の姿まま解体移築の形で建てられ使用されました。背後に見えている洋館は京大病院です。
京都府教育会館003
昭和天皇即位の大礼の時も使用された建物は下賜されましたが、大正大礼の時に比べて下賜された数が多く現存している建物もいくつかあるのに対し、大正大礼時の下賜建物はいずれも現存していません。
この京都府教育会館の建物も現存せず、跡地は川端通の一部となっています。

古絵葉書・株式会社第四十九銀行本店

第49銀行001
第四十九銀行は明治5年の国立銀行条例により国立銀行の49番目に誕生した第四十九国立銀行を前身とする銀行で、京都に本店を置きました。
四十九銀行は明治41年に京都商工銀行に買収され四十九銀行は消滅。さらに京都商業銀行は大正5年に第一銀行に合併吸収されました。
絵葉書には四十九銀行の本店建物が写されてますが、伝統的な町屋の建物で、元からあった商家の建物をそのまま利用したのかもしれません。
表の宛名面には明治34年3月13日の消印が押されています。

古絵葉書・向日町教会

向日町教会001
京都府向日市にある向日町教会は昭和11年に設立した教会です。教会の正門脇の掲示板に「園児募集」「向日町幼稚園」の文字がありますが、設立当初から教会内で幼稚園も運営されていました。この絵葉書は完成間もないころの向日町教会を撮影したものと思われます。現在この建物は存在していませんが、まこと幼稚園と名称が変わった幼稚園内に向日町教会が存在する形で存続されています。

古絵葉書・第三高等学校 新徳館(旧・饗宴場付属調理場)

新徳館001
旧制第三高等学校(現・京都大学構内)にあった新徳館は元々、昭和天皇の大礼式典で使用された饗宴場付属調理場の建物の下賜された部材を利用し、武田五一の設計により建てられたものでした。昭和大礼のために建てられ使用された建物は全て和風建築で、式典後これらの建物は京都府内を中心とした公共施設・学校・神社仏閣に下賜されました。それらはほとんどが改造されることなくそのままの状態で使用されましたが、新徳館は洋風の建物に建て直されています。

古絵葉書・新綾部製糸株式会社筒川工場

新綾部製糸株式会社筒川工場001
京都府伊根町本坂にあった新綾部製糸株式会社筒川工場は元は明治34年に設立した丹後繭糸蚕種生産販売組合が創業した筒川製糸工場でした。
新綾部製糸株式会社は経営難に陥った綾部製糸株式会社を神栄製糸株式会社の傘下に置くことで昭和3年に再スタートした製糸会社で、綾部製糸の工場・従業員をそっくり引き継いだ企業でした。この筒川製糸工場も元は綾部製糸株式会社の工場だったと思われます。
筒川製糸工場は明治42年に火事で工場を全焼し莫大な被害をこうむりました。しかし、役員以下社員一同奮起して工場の復興に努め、大正7年に再建を果たしました。同年10月、工場長・品川萬右衛門は工場再建に奮起した従業員を労うため従業員116名を率いて東京への慰安旅行へと向かいました。しかし、運悪く流行していたスペイン風邪により帰郷した従業員のうち42人が死亡。村内にも広まる被害を出してしまいました。工場長の品川萬右衛門は亡くなった従業員の慰霊のため工場内に青銅製の阿弥陀如来像を建立。これが丹後大仏です。初代の丹後大仏は昭和19年に金属回収令により徴収されましたが、昭和20年に再建された石造の丹後大仏は初代と同じ場所に立てられ、現在も初代と同じ筒川工場の跡地に存在し続けてます。
新綾部製糸株式会社筒川工場は昭和9年ごろまで存在したそうで、絵葉書の撮影時期は昭和3年から昭和9年の間ということになります。

古絵葉書・宮津電燈株式会社 開業記念絵葉書

宮津電燈株式会社001
宮津電燈株式会社は明治43年に多くの電力会社・鉄道会社を設立した実業家・才賀藤吉によって認可を受け開業された電力会社です。開業は明治44年。この絵葉書は開業を記念して発行されたセットです。
宮津電燈株式会社002
宮津電燈株式会社の事務所。大正時代に出版された電気事業要覧によれば、事務所は宮津市字河原1850番地にあったとあります。この場所には重要文化財に指定されている旧三上家住宅がありますが、隣にあったのでしょうか。
左奥に三上家住宅らしき瓦屋根が見えます。
宮津電燈株式会社003
発電所内部。宮津電燈の発電所は火力発電所でした。イギリスから輸入されたガス発動機を使用しています。
発電所の場所も事務所と同じ河原地区にあったようで、事務所に併設されていたものと思われます。
宮津電燈株式会社004
宮津電燈で発電された電気は宮津市内一帯に供給されていました。
宮津電燈株式会社は開業からわずか1年後の明治45年に丹波電気・丹後電気と三社合併し両丹電気株式会社となり、宮津電燈株式会社の名前は消滅しました。

 古写真・熊本 歩兵第13連隊(明治27年撮影)

熊本歩兵第13連隊001
歩兵第13連隊は明治8年に熊本城の二ノ丸にて編成されました。大正14年にかつて歩兵第23連隊が駐屯していた場所に移転。この古写真は台紙裏に明治27年撮影とありますので、二ノ丸に駐屯していたころの撮影になります。
二ノ丸時代の歩兵第13連隊の遺構は残されていませんが、移転後の駐屯地(現・熊本学園大学)では営門や旧酒保・旧炊事場の建物が残されてます。

古絵葉書・賀茂大橋竣工記念絵葉書

賀茂大橋竣工記念001
賀茂大橋は京都市を流れる鴨川に架かる橋で、関西の建築会の重鎮であり、京都大学工学部建築学科を創設した武田五一の設計により昭和6年に完成しました。
この絵葉書セットは賀茂大橋の竣工を記念して京都市により発行されたものです。
賀茂大橋竣工記念002
賀茂大橋遠景。下部ゲルバー式鋼桁橋の構造で、上部は石製の欄干と照明のある燈籠型の親柱があります。この石製欄干と燈籠は現在もそのままです。賀茂大橋の北側には鴨川デルタとして知られる高野川との合流点の三角洲。さらに北には世界遺産の下鴨神社があります。
賀茂大橋竣工記念003
正面から見た賀茂大橋。かつては市電が橋の上を走ってました。
賀茂大橋竣工記念004
賀茂大橋親柱。現在もそのまま使われ日が落ちると明かりが灯る親柱は伝統的な和風の燈籠型をしています。これは、賀茂大橋の上を通る今出川通が京都御所の北を通るのと、賀茂大橋のすぐ北に下鴨神社があるため、それらを意識してデザインしたのではないかと思います。
賀茂大橋は架橋から今年で86年を経ており、老朽化が目立つようになったため、大規模な改修工事が行われていますが、著名な建築家の設計で戦前に架橋された歴史的価値のある橋梁であるため、架け替えはせず、耐震補強などの改修に留めることで決定したようです。

古写真・熊本 砲兵第六連隊

熊本砲兵第6大隊001
砲兵第六連隊は明治6年に熊本鎮台隷下の砲兵部隊として熊本城内の備前屋敷跡に設立された第三砲隊を始まりとします。
明治8年に砲兵第六大隊に。明治9年の神風連の乱では砲兵隊の営舎が制圧されました。明治17年に砲兵第六連隊へと改編。明治40年に野砲兵第六連隊へと改称されました。
また明治31年に熊本城内から現在の白川中学校のある熊本市大江に移転しています。
この古写真は明治27年に撮影されたと台紙裏にありますので、熊本城内にあった砲兵第六連隊時代のものです。

古絵葉書・重巡洋艦高雄進水記念絵葉書

重巡洋艦高雄進水記念絵葉書001
重巡洋艦・高雄は昭和2年に横須賀海軍工廠にて起工、昭和5年に進水し昭和7年に竣工しました。
この絵葉書は高雄の進水を記念して作成されたもので、高雄の写真と艦名のもとになった京都の高雄山にちなんで有名な高雄山の紅葉と擬宝珠のある朱塗りの橋が描かれています。また、記念のスタンプも押されています。
重巡洋艦・高雄と言えば、現在のこんごう型イージス艦やあたご型イージス艦のような巨大な艦橋が特徴的ですが、絵葉書の写真ではまだ艦橋は完成してませんでしたので先に就役している妙高型重巡洋艦の写真が使用されています。
重巡洋艦高雄進水記念絵葉書002
こちらは進水式の様子を撮影した絵葉書。ちなみに2番艦の愛宕の方が先に竣工しています。
高雄は太平洋戦争時は第四戦隊に所属し主に南方方面の作戦に参加。第二次ソロモン海戦・第三次ソロモン海戦・マリアナ沖海戦・そしてレイテ沖海戦など多くの激しい海戦に参加。潜水艦による雷撃により艦尾を大破しましたが、沈没は免れました。
その後、シンガポールのセレター軍港に係留。重巡洋艦・妙高とともに防空艦としての任務を受けることになりました。
終戦後、接収されたイギリス軍により妙高と同じく自沈処分。高雄と妙高は同じ横須賀海軍工廠の同じ船台で建造されたネームシップで、それぞれの4姉妹の中で唯一終戦時まで生存。同じセレター軍港に係留され同じ場所で自沈されたという数奇な縁を持つ2艦でした。
現在、海上自衛隊のこんごう型護衛艦3番艦で妙高の名を受け継いだイージス艦「みょうこう」と違い、高雄の名を受け継いだ護衛艦は未だありません。将来、高雄の名を受け継ぐ護衛艦は誕生するのでしょうか。

古絵葉書・重巡洋艦妙高進水記念絵葉書

重巡洋艦妙高進水記念絵葉書001
重巡洋艦・妙高は大正13年に横須賀海軍工廠にて起工され、昭和2年に進水。昭和4年に竣工しました。
この絵葉書は妙高の進水を記念して作成されたもので、建造中の妙高の写真と記念のスタンプが押されています。
重巡洋艦妙高進水記念絵葉書002
2枚目は艦の名前になった妙高山のイラストが描かれており、こちらにも記念スタンプが押されています。
竣工間もない妙高は、昭和5年に神戸沖にて行われた特別大演習観艦式に参加しました。
太平洋戦争開戦後は第五戦隊に所属しスラバヤ沖海戦や珊瑚海海戦、ブーゲンビル島沖海戦に参戦。
ブーゲンビル島沖海戦では夜戦の混乱で駆逐艦初風と衝突する事故も起きましたが、その後もマリアナ沖海戦、レイテ沖海戦に参戦し、多くの日本海軍の艦船が沈んでいく中、妙高は潜水艦による艦尾大破を受けつつも沈没は免れ、シンガポールにて防空艦としての任務を受けました。
シンガポールのセレター軍港に係留された妙高はセレター迷彩と言われる迷彩を施された状態で終戦を迎え、後に接収したイギリス軍により同じく係留されていた重巡洋艦・高雄とともに自沈処分されました。
妙高と高雄は同じ横須賀海軍工廠の同じ船台で建造されたネームシップで、それぞれの4姉妹の中で唯一終戦時まで生存。同じセレター軍港に係留され同じ場所で自沈されたという数奇な縁を持つ2艦でした。
現在、妙高の艦名は海上自衛隊こんごう型護衛艦3番艦であるイージス艦「みょうこう」に受け継がれています。

古絵葉書・名古屋ホテル

名古屋ホテル001
明治28年、名古屋市内の竪三ツ蔵町に名古屋ホテルが開業しました。木造階建ての洋館は当時としてはおしゃれで目を引いたことかと思います。絵葉書は大正期ころのものと思われます。

古絵葉書・舞鶴海軍航空隊(栗田水上機基地)

舞鶴海軍航空隊001
現在の宮津市栗田地区にある栗田湾に舞鶴海軍航空隊の基地がありました。
栗田水上機基地とも呼ばれたこの基地は昭和10年に創設。他の海軍航空隊とは異なり、水上機のみで編成された航空隊でした。
絵葉書は舞鶴海軍航空隊の庁舎。舞鶴海軍航空隊の遺構は現在も残されていますが、庁舎を写した古写真などはあまり残されていないようで調べても見かけることがなく、この絵葉書は当時の舞鶴海軍航空隊の庁舎の姿を知ることができる貴重な絵葉書かと思われます。
舞鶴海軍航空隊002
舞鶴海軍航空隊の指揮所の写真。物見やぐらみたいな指揮所塔に吹き流しを置いて風向きを示しています。
奥に見える大きな建物は格納庫です。1枚目の庁舎の絵葉書とともに昭和10年11月9日付の舞鶴航空隊開隊記念の記念スタンプが押されています。
栗田水上機基地001
以前紹介した栗田水上機基地の古絵葉書。
舞鶴海軍航空隊が創設された当初はまだ舞鶴海軍要港部の頃で、そちらに所属していましたが、昭和14年に舞鶴鎮守府として再昇格した際に舞鶴鎮守府の管轄となり、舞鶴鎮守府に所属する艦艇に搭載された水上機を管轄していました。
戦時中は大阪警備負の下で和歌山県沖や日本海沿岸を中心に対潜哨戒任務に従事しましたが、昭和19年12月に佐世保海軍航空隊所属の第九五一航空隊の舞鶴分遣隊として再編成されたため、舞鶴海軍航空隊は解隊されました。
現在、舞鶴航空隊跡地は京都府立海洋高校の敷地となり、絵葉書の庁舎を含め隊舎や格納庫は失われましたが、絵葉書にも写る当時の正門や滑走路等の遺構は現在も残されています。また、格納庫の建物は綾部市に移築され、現在も綾部市市民センターとして利用されています。
ちなみに、舞鶴海軍航空隊の湾を挟んだ向かいにある現在、関西電力宮津エネルギー研究所となっている場所には水上機の製造・修理を行っていた第31海軍航空廠があり、現在も滑走路跡や元官舎と思われる木造の建物が残されています。

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古絵葉書・栗田水上機基地

古絵葉書・西川甚五郎商店京都支店(現・京都西川)

西川甚五郎商店001
寝具販売会社の大手、京都西川は戦国時代の永禄9年(1566)に西川グループの祖となる初代仁右衛門が創業したのが始まりで、、寛延3年(1750)に京都に開店した店舗が後の京都西川となりました。
この絵葉書は松原通寺町にあった西川甚五郎商店の京都支店の外観で昭和初期らしい洋風のモダンな外観をしています。
西川甚五郎商店京都支店は昭和16年の各支店の改組により法人化。京都西川として独立しました。

古写真・双発爆撃機「銀河」 艦上攻撃機「天山」(「航空朝日」昭和20年1月号より)

銀河・天山
※サムネイル画像のクリックで拡大します。
航空機専門雑誌の「航空朝日」昭和20年1月号に掲載された旧海軍が開発した双発爆撃機・銀河と艦上攻撃機・天山の写真です。
銀河は一式陸上攻撃機の後継機として開発された大型爆撃機で、昭和18年より生産開始。終戦までに1100機余り生産され、太平洋戦争の後期に導入されました。正式採用後、銀河は各地の戦線にて配備され、いくつかの巡洋艦や空母を大破・撃沈寸前にまで追い込むなどの戦果をあげましたが多くが失われ、終戦時に残存していた銀河はわずか182機でした。
現在、完全な状態で保存された銀河は無く、スミソニアン博物館に1機のみ分解状態で保存されています。

天山は九七式艦上攻撃機の後継機として開発された旧日本海軍の艦上攻撃機で、昭和18年より生産が開始。終戦までに1266機生産されました。
天山は正式採用後、南方戦線の各地に配備され、天山の配備された第六〇一航空隊はマリアナ沖海戦で激しい戦闘を繰り広げましたが、8割を失うという大損害を受けました。
その後の硫黄島の戦いや沖縄戦では特攻作戦にも参加。終戦時の残存数はわずか187機でした。
現在、スミソニアン博物館にて分解状態で保管された天山が現存しています。

海軍機は戦争前に正式採用された零戦や九七式艦上攻撃機・九九式艦上爆撃機・一式陸上攻撃機の絵葉書は数多く見られ、献納絵葉書でもほとんどがそれらの機体ですが、それ以降となる戦闘機では紫電改。艦上攻撃機では天山。艦上爆撃機では彗星など銀河も含め戦時中に正式採用された機体はほぼ献納絵葉書を含む絵葉書では見られません。
艦上爆撃機 彗星001
彗星は絵葉書サイズの読売ニュース焼付版に何枚か取り上げられてますが、これは絵葉書ではありませんし。
この「航空朝日」は専門雑誌とはいえ市販されていたもので、掲載されている銀河や天山の写真は軍機扱いでは無かったと思いますが、先に紹介した陸軍機の飛燕や疾風も含めて、雑誌では大きく取り上げられている一方で、絵葉書になると極端に数が少なくなるのか疑問に思うところです。

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古写真・三式戦闘機「飛燕」 四式戦闘機「疾風」(「航空朝日」昭和20年1月号より)

古写真・三式戦闘機「飛燕」 四式戦闘機「疾風」(「航空朝日」昭和20年1月号より)

飛燕・疾風
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航空朝日昭和20年1月号に掲載された三式戦闘機・飛燕と四式戦闘機・疾風の写真です。
三式戦闘機・飛燕はドイツのダイムラー・ベンツ社製のエンジンをもとに開発した液冷エンジンを搭載した戦闘機で、先細りの機首が特徴の機体でした。
昭和17年より生産が開始され、太平洋戦線の各地にて参戦し戦争末期には迎撃機としても使用されました。
image.jpg
現在、1機のみが完全な形で現存し、知覧特攻平和会館に展示されていましたが、修復のため移動し2016年に神戸にて修復完了した飛燕が披露され、その後、かがみはら航空宇宙科学博物館に展示予定となっています。
※写真は管理人が撮影した神戸ポートターミナルにて展示されていた飛燕。

四式戦闘機・疾風は昭和18年に開発完了し、その性能の高さから終戦までのわずか2年の間に3500機余りの数が生産された中島飛行機の集大成と言われた戦闘機です。決戦機として陸軍の航空部隊の多くで四式戦闘機への機種変換が行われましたが、戦局を大きく覆すものではありませんでした。
写真の四式戦闘機は昭和19年10月に所沢陸軍飛行場にて初公開された飛行第73戦隊所属の機体で、尾翼には3本の赤いストライプの部隊マークが描かれています。
飛行第73戦隊は昭和19年5月に三重県伊勢市の明野陸軍飛行学校にて編成された航空隊で、昭和19年10月に所沢に移転しており、その際に公開されたものと思われます。後、南方戦線にて参戦しましたが、多くが失われ、さらには特攻隊にも参加するなどして昭和20年3月には解隊されています。
現在、知覧特攻平和会館に展示されている1機が唯一現存する四式戦闘機となっています。

これら飛燕と疾風ですが、絵葉書では多く見かける一式戦闘機・隼や二式単座戦闘機・鍾馗と比べてまず見かけることはありません。この航空朝日は専門雑誌ではあるものの、市販されていたものですし当時のニュース映画にも飛燕や疾風は普通に写されていますし飛燕は三銭切手の図案にも使われているので機密扱いでは無かったとは思いますが、別ページに掲載されている海軍機の銀河や天山を含め、何故絵葉書関連では数が極端に少ないのか疑問に思うところです。

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古写真・熊本 騎兵第6大隊(山崎練兵場時代・明治27年頃撮影)

熊本騎兵第6大隊001
騎兵第6大隊は明治21年に熊本市山崎町にて編成されました。明治29年に連隊に昇格。連隊旗を拝領。明治34年の山崎練兵場移転とともに現在の開新高等学校の場所に移転し終戦まで駐屯しました。
この古写真は連隊に昇格前の山崎練兵場に駐屯していたころのもので、台紙裏に「明治27年」の書き込みがあります。
写真は騎兵第6大隊の営門前と思われ、奥に3階建てらしき大きな兵舎が見えます。営門前に集まっている軍人はいずれも将校で、サーベルを釣り革長靴を履き、いわゆる肋骨服と呼ばれる将校の軍服を着用しています。時期的に明治19年制定の軍服でしょうか。
熊本騎兵第6大隊002
台紙の裏に写真に関しての書き込みがあります。書き込みには明治27年に旧制第五高等学校医学部(現・熊本大学医学部)の卒業記念に購入したとあります。明治のナンバースクールの医学部学生ということは相当なエリートだったことでしょう。

古写真・東京府第一勧工場

東京府第一勧工場001
明治10年に上野で開催された第1回内国勧業博覧会は西南戦争やコレラの流行で入場者数が振るわず成功とはいえない結果に終わりましたが、以降の博覧会の原型となる重要な役割を果たしました。
博覧会閉会後、展示された出品物の売れ残りは出品者に返還されましたが出品者の希望によりそのまま販売を継続することが決まり、翌年新たに販売場所を設けて展示販売されました。これが勧工場で、東京麹町辰ノ口にあった旧幕府の伝奏屋敷の建物が利用されました。この古写真は最初に開設された東京府第一勧工場で、奥に写るのが旧伝奏屋敷の建物です。門は新築されたようで、門柱に「東京府第一勧工場」の看板が掲げられています。
東京府第一勧工場002
門のアップ。右側に「東京府第一勧工場」左側に「〇(判読不明)覧人入口門」と書かれた看板が掲げられています。
明治13年に勧工場は民営化。勧工場は人気を博し、その後東京内でもいくつも民営の勧工場が設立され、さらに全国にも広がりました。
しかし、乱立する勧工場は品質の悪い品物も置くものも増え、勧工場へのイメージが低下。大正期には新たに登場し品質の高い品物を扱う百貨店へと人気が移り、勧工場は急速に姿を消していきました。
この古写真は東京府の文字が看板にありますので民営化される前の明治11年から明治12年にかけての間の撮影となります。
旧伝奏屋敷を利用した第一勧工場の跡地は現在、大正9年に完成し国指定登録文化財に指定されている日本工業倶楽部会館が建っています。

古写真・熊本 第6師団司令部(明治27年・2代目庁舎)

熊本第6師団司令部001
明治5年に熊本城下の旧藩主邸に置かれた熊本鎮台は明治21年に第6師団司令部再編成され、熊本・大分・宮崎・鹿児島の南九州地方の部隊を管轄しました。
熊本鎮台司令部は明治8年に熊本城大天守内に移転しますが西南戦争により大・小天守が焼失。一時現存の宇土櫓に司令部が移転した後、天守台の東側に鎮台司令部の庁舎が新築されました。
明治25年、第6師団と改称後も司令部庁舎として使用されていた旧鎮台司令部庁舎が焼失。明治25年に新たに庁舎が新築されました。
熊本第6師団司令部002
古写真の台紙裏の書き込み。「明治二十七年十一月二十八日第五高等学校医学部生徒修学施日之際購求之」とあり、旧制第五高等学校医学部(現・熊本大学医学部)卒業記念に購入したという内容ですが、購入時が明治27年なので、この第6師団司令部庁舎の古写真は明治25年に新築された2代目庁舎であることが分かります。庁舎は明治期らしい擬洋風建築のデザインをした建物です。
熊本第6師団兵営003
熊本第6師団の遠景写真。師団司令部庁舎の古写真と同じ台紙裏の書き込みがこの古写真の台紙裏にもあり、五高医学部を卒業した同じ人が購入したものです。(旧制五高医学部卒は相当なエリートですね。)
2代目の第6師団司令部庁舎は大正6年に2階建ての新庁舎に建て替えられ、戦後しばらくは学校の校舎や博物館に転用されましたが、昭和35年の大・小天守の再建の際に取り壊されました。

古絵葉書・京都日出新聞(現・京都新聞)

京都日出新聞001
現在の京都新聞社の前身である京都日出新聞社の5枚組絵葉書です。
京都日出新聞社は明治12年に創刊した京都商事迅報を起源とし、明治14年に京都新報創刊。明治30年に京都日出新聞に改題したのが始まりとなっています。
昭和17年に京都日日新聞と京都日出新聞が合併「京都新聞」を創刊。これが現在の京都新聞の始まりとなりました。
絵葉書は京都日出新聞時代の社屋を紹介したもので、左下に昭和12年の記述があります。
1枚目は京都日出新聞社の社屋の外観。社屋内には日出会館という貸ホールも併設されていました。
京都日出新聞002
社屋内の日出会館の大ホールと地下食堂。日出会館の大ホールでは演劇や歌舞伎などの催しが多く上演されていたようです。
地下食堂も一般の人にも利用され、奥のメニューにはランチ表としてオムレツランチ・エビランチなどのメニューが見えます。
京都日出新聞003
こちらは京都日出新聞の施設。新聞に使う写真の製版室や本文の活字鋳造室。
輪転機に使う活版の活字は社屋内で作っていたんですね。
京都日出新聞004
新聞の印刷には重要な機器であるドイツ製の輪転機。よくドラマとかで新聞報道のイメージに使われる機会です。
京都日出新聞005
こちらは電光式高速度輪転機と配電盤。新聞社の命である輪転機。輸入された最新鋭の輪転機は会社にとって自慢の装備だったことでしょう。

古絵葉書・一〇〇式重爆撃機 呑龍(陸軍航空本部提供写真)

呑龍005
陸軍航空本部提供の写真を使い発行された絵葉書で、表の宛名欄と通信欄の間に「君は増産 僕は操縦」のスローガンが書かれています。
一〇〇式重爆撃機・呑龍は陸軍の重爆撃機・九七式重爆撃機の後継機として昭和16年に正式採用された重爆撃機です。
太平洋戦争開戦の年に採用された機体ですが、実戦では主に中国戦線で運用されました。
写真の呑龍の尾翼は部隊マークを隠すためか日の丸が描かれる修正がされているように見えます。
呑龍003
編隊を組む呑龍。呑龍は対ソ戦用に適応するよう開発された経緯もあり、太平洋戦争中の主戦場であった南方方面での運用はいまいち使いづらいこともあり、九七式重爆撃機に比べ生産数も活躍の場も少ない結果に終わりました。
こちらの写真も尾翼に

YouTubeに一〇〇式重爆撃機が撮影されたニュース映画の動画がありました。

古絵葉書・二式単座戦闘機 鍾馗(陸軍航空本部提供写真)

鍾馗001
陸軍航空本部提供写真の二式単座戦闘機・鍾馗の絵葉書です。宛名欄と通信欄の間に「君は増産 僕は操縦」の文字があります。
二式単座戦闘機・鍾馗は昭和15年に初飛行し昭和16年から運用され、一式戦闘機「隼」とともに大戦中を通じて活躍した機体です。
この絵葉書の写真は比較的アップで撮られており、エンジン部分の1部や機銃等の様子が良く確認できます。
鍾馗002
編隊を組んで飛行する鍾馗。こちらは尾翼部分に修正が入れられているように見えます。
鍾馗は大戦末期は本土防衛の迎撃機として使用されましたが、米軍の評価では迎撃機としては優秀であったと評価しています。
昭和19年末に鍾馗の生産は終了。後継機は新開発の四式戦闘機「疾風」となります。

YouTubeにニュース映画に撮影された鍾馗の映像がありました。

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古絵葉書・二式単座戦闘機 鍾馗
古絵葉書・二式単座戦闘機 鍾馗 (内外ゴム献納 愛国第2717号機)

古絵葉書・丹波佐治堺卯楼

丹波佐治堺卯楼001
丹波佐治は現在の兵庫県丹波市青垣町佐治のことで、京都府福知山市と隣接している町です。
この絵葉書は佐治にあった堺卯楼という旅館を写したものです。
2階建ての古風な和風建築で玄関に大きく「旅館」と書かれた扁額を掲げ、玄関脇には「キリンビール」「カブトビール」の木の看板を掲げています。旅館業が主体だけど恐らく料理屋も営んでいたのでしょう。
丹波佐治堺卯楼002
通信欄を見ると、福知山市の内記4丁目にあった「額田屋」という旅館に宛てて出してます。
新年の挨拶状で比較的近い場所にあった両旅館は何らかの形で親しい間柄か同業者の組合みたいな関係だったのでしょう。
ちなみに堺卯楼も額田屋も調べた結果、どうやらすでに存在しないようです。

古写真・大阪 眺望閣

大阪 眺望閣
現在の大阪市浪速区日本橋の日本橋幼稚園辺りにかつて5階建ての高層建築がありました。眺望閣と呼ばれたこの古写真の建物は明治21年に完成し、有宝地と呼ばれた遊園地の中にありました。
高層建築と言えばお城か寺院の五重塔くらいしかなく登ることもできなかった明治中期においてこういった観光施設としての高層建築は珍しく、多くの人々が見物に押し寄せました。
この眺望閣に触発されたのか翌年の明治22年、現在の大阪市北区茶屋町に眺望閣より10m高い9階建ての建物が完成。凌雲閣と名付けられた建物は「ミナミの五階」と呼ばれた眺望閣に対して「ミナミの九階」と呼ばれそれぞれミナミとキタのシンボルとなりました。
明治23年、東京浅草に煉瓦造りの12階建ての高層建築が建てられました。それがキタの九階と同じ名前の「凌雲閣」です。
さらに眺望閣がある同じミナミに明治45年、パリのエッフェル塔を模した鉄骨の高層建築が完成。それが初代通天閣です。
明治中期は観光としての高層建築ブームに沸いた時代でしたが、眺望閣はわずか16年後の明治37年に取り壊され、浅草凌雲閣は大正12年の関東大震災で崩壊し大阪の凌雲閣も昭和初期に取り壊されました。
現在、日本橋商店街にある五階百貨店がかつて存在したミナミの五階・眺望閣の名残を今に伝えています。

古写真・日進艦(初代・スループ)

日進(初代)001
初代の日進は慶応3年に佐賀藩によりオランダへ発注されたスループです。明治2年に完成。明治3年に長崎へと到着しましたがすでに政権は徳川幕府から明治新政府へと移行していたため日進はそのまま明治政府が引き継ぎ海軍籍に入りました。
日進は日本海軍黎明期の軍艦の中でも藩政時代から引き継いだ最初期の艦で、明治初期の日本海軍の軍艦として台湾出兵や西南戦争に参戦しました。また明治8年の樺太・千島交換条約の締結では開拓使長官の黒田清隆を乗せてカムチャッカへと派遣されています。
明治25年に除籍され売却されたため、日清戦争には参戦していません。
初代日進の画像は明治初期の艦のためか多くはなく、ネット検索では絵画のものが出てくる程度です。
なのでこの日進の古写真は珍しいものではありますが新資料ではなく同じアングルの写真はすでに知られているようです。

古絵葉書・舞鶴鎮守府開庁記念(昭和14年再昇格)

舞鶴鎮守府昇格記念001
舞鶴鎮守府は明治34年に日本海側随一の鎮守府として開庁しました。
日露戦争では対峙するロシアの脅威からの護りの拠点として重要視されました。
しかし、大正12年のワシントン海軍軍縮会議により舞鶴鎮守府は舞鶴要港部へと格下げ。同時に舞鶴海軍工廠も舞鶴海軍工作部へと格下げされされました。
昭和11年、舞鶴海軍工作部が一足先に海軍工廠へと再昇格。そして昭和14年に舞鶴海軍要港部が舞鶴海軍鎮守府へと16年ぶりに再昇格しました。
この絵葉書セットは舞鶴海軍鎮守府再昇格を記念して発行されたものです。
画像は絵葉書の外袋。高雄型重巡洋艦の写真が写されています。
舞鶴鎮守府昇格記念002
舞鶴鎮守府庁舎。この庁舎は明治34年開庁以来のもの。両脇にあるのは初代司令長官の東郷平八郎元帥と再昇格時の司令長官、原五郎中将の写真。
舞鶴鎮守府昇格記念003
舞鶴鎮守府の管轄区域の図。日本海側のほとんどを占めています。
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舞鶴鎮守府および舞鶴要港部時代の歴代司令長官。一番有名なのはやはり初代の東郷平八郎司令長官ですね。
ところでこの絵葉書や最初の外袋には高雄型重巡洋艦の写真が載せられています。
舞鶴鎮守府は再昇格した昭和14年に完成したばかりの最新鋭の重巡洋艦である利根型の2隻、利根・筑摩が横須賀鎮守府から舞鶴鎮守府に配属され駆逐艦など小型の艦艇が主だった舞鶴軍港において大型艦の利根・筑摩は舞鶴市民からかなり親しまれたようですが、絵葉書にある高雄型重巡洋艦の4隻はすべて横須賀鎮守府に所属し横須賀を母港としていたので舞鶴には縁がないはずなのですが。何らかの理由で高雄型が使われたと思うのですが詳細は不明です。

古写真・山梨県庁(初代)

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明治10年に完成した初代の山梨県庁はいわゆる「藤村式」と呼ばれる擬洋風建築でした。
中央の正面ファザードから左右に翼を張り出したシンメトリーな擬洋風のデザインはまさに明治初期の官庁建築の典型で、中央屋根の三角破風には菊の御紋章が左右翼部の屋根には山梨県の「山」の字が入っています。
この初代山梨県庁は現存する昭和5年築の2代目県庁舎の新築により建て替えられたと思われますが、かつての初代山梨県庁舎を思い起こさせる建物が2棟、愛知県の明治村に移築されています。
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旧東山梨郡役所。明治18年完成の藤村式擬洋風建築。
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旧三重県庁舎。明治12年完成。古写真の初代山梨県庁舎と非常によく似た形で、明治初期の擬洋風建築の官庁建築はデザインはもちろんプランも一定のテンプレート的なものがあったのかもしれません。
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