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2020-04

古写真・加悦鉄道時代の修復前のハ4995客車(昭和39年8月17日)

加悦鉄道古典車両001
ハ4995客車は明治26年に鉄道省新橋工場にて製造された古典客車です。昭和3年に加悦鉄道へと払い下げられました。
この写真は昭和39年8月17日に撮影されたハ4995客車と思われる写真で、加悦鉄道のパンフレットには昭和44年廃車となっていますが、この頃にはすでに物置にされていたようです。
加悦鉄道古典車両002
写真裏の書き込み。
ハ4995客車は昭和45年に修復復元され、加悦SL広場に現在重要文化財に指定されている2号機関車に連結する形で保存展示されていました。
P8140064.jpg
修復されたハ4995客車と2号機関車。
IMG_6423.jpg
ハ4995客車内部。非貫通式のマッチ箱客車と呼ばれる珍しい車両で、与謝野町指定文化財となっています。
IMG_6376.jpg
2号機関車やハ4995客車を始めとした数多くの貴重な鉄道車両を所有し展示していた加悦SL広場は2020年3月31日をもって閉園。重要文化財の2号機関車と与謝野町指定文化財の車両のいくつかは引き続き与謝野町内にて保存展示される予定ですが、それ以外の車両の今後は未定となっています(2020年4月1日現在)
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古写真・陸軍兵器本廠(陸軍兵器本部)

陸軍兵器本廠001
陸軍兵器廠は日清戦争後の軍備拡充のため兵器・弾薬・機材などの補給、要塞の備砲工事を担当した機関で、陸軍大臣隷下の本廠は東京に、支廠は各師団司令部に置かれました。また要塞所在地の支廠は要塞司令部の隷下となりました。
昭和15年、陸軍兵器廠と陸軍造兵廠は統合し新たな陸軍兵器廠として発足。新設の陸軍兵器本部の下部組織となりました。
この古写真は東京の陸軍兵器本廠の正門と庁舎と思われる写真です。撮影時期は昭和初期から昭和10年代と思われます。
陸軍兵器本廠002
※サムネイル画像のクリックで拡大します。
正門の左側門柱にある看板の拡大画像。2つ看板が並んでおり、向かって左側は「陸軍兵器本廠」とはっきり判読できますが、右側は何とか「東京〇〇(判読不能)本部」と読めました。
陸軍兵器本廠003
※サムネイル画像のクリックで拡大します。
右側の門柱にある看板の拡大画像。こちらも判読し難いですが、「〇〇〇〇(判読不能)本部」とだけは読めました。看板の文字は「陸軍兵器本部」かもしれません。

古写真・米軍個人撮影による読谷飛行場近くの整備工場(第五野戦航空修理廠第一分廠か)

地下工場001
以前紹介しました古写真・米軍個人撮影による陸軍北飛行場(読谷飛行場)への義烈空挺隊の攻撃後写真と一緒にセットだった写真群です。航空機のエンジンの整備工場だったらしい地下壕へ米軍が調査をしている写真です。具体的な場所は不明ですが、恐らく沖縄・読谷飛行場近くにあった第五野戦航空修理廠第一分廠の可能性があります。前身は大刀洗陸軍航空廠那覇分廠で、昭和19年の十・十空襲の後に改称。米軍上陸後は南部へと移動しました。
1枚目のこの写真は地下整備工場への入り口と偽装網で覆われた建物が写されています。
以下、整備工場内部を撮影した写真を紹介していきます。「続きを読む」からご覧ください。

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古写真・米軍撮影による二式複座戦闘機「屠龍」

屠龍ブログ用1
二式複座戦闘機・屠龍は昭和17年より運用開始された陸軍の双発戦闘機で、特に戦争末期の本土防空の迎撃戦に活躍しました。
単発単座の一式戦闘機隼や二式戦闘機鍾馗に比べ運動能力が大きく劣った屠龍は通常の航空戦では敵の戦闘機に対して不利で撃墜されることが多く、逆に迎撃機として本領を発揮した機体と言えます。戦争末期頃は来襲するB-29を迎撃する本土防空戦で活躍しました。この写真は戦後、米軍により撮影された接収後の屠龍です。
屠龍005
写真裏にある解説。「KI-45」はキー45。屠龍の試作名称です。

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古絵葉書・二式複座戦闘機・屠龍(愛国 第6154号献納機)

古絵葉書・舞鶴要塞司令部(付・舞鶴重砲兵大隊)

舞鶴要塞司令部ブログ用002
舞鶴要塞は舞鶴軍港のある舞鶴湾の防備のために設置された陸軍の砲台・堡塁及びそれに付随する施設であり、任務にあたったのが舞鶴重砲兵大隊(昭和11年に連隊に昇格。)で、それらを管轄したのが舞鶴要塞司令部でした。
舞鶴要塞司令部は舞鶴市上安久の現在の舞鶴税務署の場所に開庁しました。この舞鶴要塞司令部の絵葉書は大正期頃と思われます。この記事では舞鶴重砲兵大隊も合わせてご紹介します。
舞鶴重砲兵大隊
舞鶴重砲兵大隊
舞鶴要塞司令部のすぐ隣には、舞鶴要塞の各砲台・堡塁に駐屯していた舞鶴重砲兵大隊の大隊本部や兵舎がありました。
要塞司令部は平時は要塞内の砲台・堡塁・付属施設を管理する官衙であり、普段は要塞施設に駐屯する重砲兵大隊を直接指揮することはありませんでしたが、戦時の際は重砲兵大隊への指揮権が発生したため、要塞司令部と重砲兵大隊の敷地は近くにあることが多かったです。
舞鶴重砲兵連隊001
舞鶴要塞には舞鶴湾を取り囲むように明治期の槇山砲台・金岬砲台・建部山堡塁・葦谷砲台・浦入砲台・吉坂堡塁(高浜町)、昭和期の成生岬砲台・新井崎砲台(伊根町)があり、その他に博奕岬電灯所・下安久弾薬本庫・白杉弾薬本庫などの付属施設がありました。
舞鶴重砲兵連隊
舞鶴重砲兵大隊は昭和11年に舞鶴重砲兵連隊に昇格しました。この絵葉書は連隊昇格後の連隊本部。
中部第71部隊001
昭和15年、中部軍創設に伴い舞鶴重砲兵連隊は中部第71部隊と改称。営門の門柱の看板は中部第七十一部隊の看板に替えられています。
明治期に建設された砲台は航空機の発達により存在意義を失い、金岬砲台は昭和9年の要塞整理要領により廃止。その他の砲台や堡塁、博奕岬電灯所は海軍管轄の防空砲台へと転用。また新たに倉梯山防空砲台や愛宕山防空砲台などが造られていきました。

※関連記事
古絵葉書・舞鶴重砲兵大隊
古絵葉書・舞鶴重砲兵連隊 連隊本部
古絵葉書・中部第71部隊(舞鶴重砲兵連隊)

古絵葉書・豊予要塞司令部

豊予要塞司令部001
豊予要塞は大正9年の要塞整理により廃止された芸予要塞・広島湾要塞に代わって建設された要塞で、佐多岬に佐多岬砲台・佐多岬第一砲台・佐多岬第二砲台が、鶴見半島に鶴見崎砲台・鶴見崎第一砲台・鶴見崎第二砲台が、その他に高島第一砲台・高島第二砲台・高島第三砲台・関崎砲台・丹賀砲台が昭和10年までの間に建設されました。さらに砲台の近くには現地司令部・観測所などの施設がありました。その豊予要塞の司令部が大正15年に大分市佐賀関町に置かれました。この絵葉書は豊予要塞司令部庁舎を写したものです。明治期の要塞司令部より門柱も庁舎も大正期らしきモダンさがあります。
豊予要塞司令部002
豊予要塞司令部の門柱部分を拡大。終戦後、豊予要塞司令部の敷地は佐賀関中学校として使用され庁舎は取り壊されましたが、このタイル張りのモダンな門柱は残されています。
豊予要塞司令部003
また庁舎の背後遠方にある洋館付きの住宅は豊予要塞司令官の官舎で現存しており、2018年7月20日に国登録有形文化財となっています。豊予要塞司令官官舎は大正15年の建築。この豊予要塞司令部の絵葉書の写真は昭和初期頃の撮影と思われます。

古写真・米軍撮影の堺大空襲の写真(昭和20年7月10日)

米軍撮影の堺大空襲ブログ用
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昭和20年7月10日午前1時30分ごろ、サイパン島を飛び立ち堺市上空に進入したB29戦略爆撃機116機が堺市の市街地に焼夷弾を投下。午前3時過ぎまでの1時間半にわたって空襲が行われ、1800人余りの死者を出す被害が出ました。
この写真は空襲に参加した米軍機が撮影した堺大空襲の当時の写真で、上部の記載から空襲が終了する直前の午前2時57分に撮影されたことが分かります。投下された照明弾や焼夷弾で昼間のように明るくなっており、着弾地点には激しく炎上や黒煙が上がっています。写真の地点は南海高野線浅香山駅を中心とした一帯。左上が北になり、右下方向に仁徳天皇陵があります。上部の長方形の区画が3つ並ぶのは浅香山配水場。蛇行している川は大和川。その川の側にある工場は大和川染工所で、戦時中は軍服の着色を行っていました。
堺大空襲の位置
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写真と同じ場所の現在の姿(Google MAPより引用)。空襲の面影は消え、大都市となっています。

古写真・米軍撮影による日本精蝋株式会社徳山工場油槽所への空襲写真(昭和20年7月28日)

呉軍港空襲7月28日ブログ用
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山口県周南市の大島半島にある日本精蝋株式会社徳山工場油槽所が空襲を受けている写真です。
7つある海岸線に並ぶ燃料タンクのうち、1つが爆弾の直撃を受け激しく炎上しています。
日本精蝋株式会社は昭和4年にワックスの製造過程で得られる重油を海軍に供給していた企業でした。
呉軍港空襲7月28日002
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写真裏の解説文。解説文によると7月28日、艦載機が呉軍港を攻撃し、日本の7つの短句を爆撃したとありますが、上記のように呉軍港空襲の写真ではなく、周南市の大島半島にあった日本精蝋株式会社徳山工場油槽所への空襲の写真です。
恐らく、呉軍港空襲の際に合わせて空襲されたのだと思いますが、米軍側の方では呉軍港空襲の写真と誤認されたのかもしれません。
日本精蝋現在
GoogleMapによる現在の姿。
現在もこの場所は日本精蝋株式会社の工場として使用されており、新しく作られたタンクも含めて当時と同じ場所に重油タンクが並んでいます。

古絵葉書・亀山砲台公園に設置された28cm榴弾砲

亀山砲台公園001
山口県山口市にザビエル記念聖堂がある亀山公園がありますが、ここはかつては亀山砲台公園という公園でした。明治40年、陸軍中将・有坂成章の設計により起工。明治43年に完成しました。亀山砲台公園は日露戦争勝利を記念して造られた公園で、日露戦争時に使用された28cm榴弾砲が据えられていましたが、本物の砲台を再利用した公園ではなく、純粋に記念公園として1から作られたものでした。しかし、要塞砲や要塞・砲台の専門家であった有坂中将により設計された亀山砲台公園はまさにレプリカ砲台といったものでした。
亀山砲台記念公園001
据えられていた28cm榴弾砲は昭和16年に金属回収により撤去。現在その場所にはザビエル記念聖堂が建ち、当時の面影は残されていません。

古写真・米軍個人撮影による陸軍北飛行場(読谷飛行場)への義烈空挺隊の攻撃後写真

嘉手納飛行場義烈空挺団九七重爆009
沖縄戦の最中の昭和20年5月24日。連合国軍に占領されていた沖縄の陸軍北飛行場(読谷飛行場)・陸軍中飛行場(嘉手納飛行場へ)日本陸軍の空挺部隊が強襲。飛行場の奪還と米軍機等の破壊を目的としたこの作戦は、強行着陸した機体から完全武装した隊員が次々と敵の機体や施設を破壊するという作戦でした。
熊本・健軍飛行場から飛びたった12機の九七式重爆撃機は途中4機が不調で引き返したものの、8機が目標上空に到達。しかし、激しい対空砲火により7機が撃墜。うち1機のみが読谷飛行場に強行着陸しました。上記の写真は突入に成功した546番機。有名な機体で、この写真は残念ながらピンボケしていますが、尾翼に「546」の番号が確認できます。他に調査中の546番機を写した鮮明な写真があります。突入後機体から飛び出した隊員は次々と破壊工作を開始。一定の損害を与えましたが、隊員はその後全員戦死しました。
上記の九七重爆546番機を始めとした以下の写真は義烈空挺隊攻撃後の読谷飛行場を撮影した米軍の個人撮影の写真で、まだ知られていない未公開写真と思われます。
嘉手納飛行場義烈空挺団010
集められた日本軍機の残骸。恐らく突入時に撃墜された義烈空挺隊の機体の残骸と思われます。
嘉手納飛行場義烈空挺団コルセア
破壊されたF4Uコルセア戦闘機。
嘉手納飛行場義烈空挺団ダグラスC-54輸送機
破壊されたダグラスC-54輸送機。この機体の向こう側に視察でやって来た太平洋艦隊付海兵隊の航空部隊司令官ムーア少将の乗機である破壊されたC-54輸送機があり、そちら側から撮影された写真は知られています。
嘉手納飛行場義烈空挺団ダグラスC-54輸送機2
破壊されたPB4Y-2爆撃機と思われる機体。
嘉手納飛行場義烈空挺団輸送機008
破壊された米軍輸送機。奥にもう1機写っています。
嘉手納飛行場桜花011
読谷飛行場に遺棄されていた特攻兵器・桜花を調査する米軍兵士。
この義烈空挺隊の突入で計26機の米軍機と燃料集積庫2ヵ所がが破壊され、米軍側は死者2名・負傷者18名の被害が出たそうです。
嘉手納飛行場占領後017
あらかた片づけられ、再び機能を取り戻した読谷飛行場。コルセアらしき米軍戦闘機が駐留しています。
嘉手納飛行場B29016
滑走路に駐機するB-29。飛行場占領後、ここからも多くのB-29が飛び立ち、本土を爆撃しました。
嘉手納飛行場占領後018
着陸したC-54輸送機。多くの兵士が出迎え、送迎用と思われる車が待機しているので、司令官クラスの高官の一団が到着したのでしょうか。

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古写真・米軍個人撮影による読谷飛行場近くの整備工場(第五野戦航空修理廠第一分廠か)

古絵葉書・北門貯蓄銀行本店新築記念絵葉書

北門貯蓄銀行001
北門貯蓄銀行は大正11年に設立した銀行で、札幌市に本店がありました。
この絵葉書は昭和5年11月に竣工した本社屋の新築を記念して発行されたものです。
北門貯蓄銀行002
北門貯蓄銀行本店外観。様式は「近世復興式」とのこと。
北門貯蓄銀行003
北門貯蓄銀行本店営業室。
北門貯蓄銀行004
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北門貯蓄銀行本店新築工事概要。設計者の田中豊太郎は北海道で活躍した設計者で、北海道帝国大学工学部校舎などを手掛けています。現存としては札幌市にある三誠ビルがあります。
北門貯蓄銀行は昭和14年に北海貯蓄銀行となり、昭和20年に合併により北海道拓殖銀行となりました。

古写真・米軍撮影の鹿屋海軍航空隊笠之原基地への空襲写真(昭和20年3月18日)

鹿屋海軍航空隊笠野原基地空襲ブログ用
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鹿児島県鹿屋市にあった鹿屋海軍航空隊笠之原基地は、元々大正11年に陸軍指導の下、鹿屋町(当時)が開設し運営していた町営飛行場でした。笠之原飛行場は陸海軍も鹿屋町に賃貸料を支払い演習に使用していました。
昭和19年1月15日(昭和17年という説あり)から鹿屋海軍航空隊が使用し始め、鹿屋には鹿屋海軍航空隊管轄下の鹿屋・串良・笠之原の3つの飛行場が存在することとなりました。
特攻隊が所属していた鹿屋海軍航空隊の笠之原飛行場からも特攻機や直衛機が飛び立ちました。
昭和20年3月18日の鹿屋空襲で笠之原基地も壊滅。この写真はその日の空襲で爆撃を受けている笠之原基地を撮影したものです。
鹿屋海軍航空隊笠野原基地空襲003
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写真裏の解説。
笠野原航空基地昭和22年
国土地理院公開の昭和22年撮影の笠之原基地。建ち並んでいた庁舎や兵舎等の建物はほぼ全て失われており、激しい爆撃が行われたことが分かります。
鹿屋海軍航空隊笠野原基地空襲ブログ用2
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壊滅した笠之原基地ですが、現在も赤枠の弾薬庫と地下壕入り口、そして写真には写ってませんが南側の飛行場の掩体壕の1つが現存しています。
笠野原航空基地現在
現在の笠之原基地の様子。うち弾薬庫は当時の塀と共に民家として再利用されています。弾薬庫と言う造り、そして激しい空襲の中、唯一残された建物。日本一頑丈かつ幸運な民家なのかもしれませんね。

古写真・米軍撮影による熊本鉄工所田迎航空機製作所への空襲の写真(昭和20年8月10日か)

米軍撮影の熊本空襲ブログ用1
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「KUMAMOTO」のタグのある米軍撮影の空襲写真です。あらかた空襲が終わったあとなのか、線路の側にある工場がいくつかの建物を残してほぼ焼失し、一部未だにくすぶっています。この工場は熊本鉄工所田迎航空機製作所。熊本市には元々、健軍地区に三菱重工業熊本航空機製作所という大規模な航空機工場がありましたが、空襲により壊滅的な被害を受けたため、熊本の航空機製造はこの田迎航空機製作所に移転したようです(「れいすい」平成22年7月25日号参照)。
昭和20年7月1日に最初の空襲を受け第1工場が焼失。そして8月10日に第2工場が焼失し壊滅しました。この空襲写真は恐らく8月10日の空襲によるものと思われ、炎上ししているのが第2工場で、すでに跡地だけになっている手前側が7月1日の空襲で焼失した第1工場の跡でしょうか。
米軍撮影の熊本空襲003
写真中央、田迎航空機製作所の敷地内に転がる残骸。田迎航空機製作所では航空機の胴体(四式重爆撃機・飛龍か)を製造していたようで、この残骸はその生産していた航空機の胴体と思われます。
米軍撮影の熊本空襲002
田迎航空機製作所の敷地の前には単線の鉄道が走っています。これは熊延鉄道で、工場前には駅標とホームが写っています。熊本鉄工所田迎航空機製作所の工場前には「熊本鉄工所前駅」という駅があったようで、田迎航空機製作所に努める工員向けに設置された駅と思われます。しかし、写真を見ると駅標はあるものの、ホームは草ぼうぼうで手入れをしている余裕が無かったものと思われます。
熊本鉄工所現在
現在の熊本鉄工所田迎航空機製作所の様子。熊本鉄工所田迎航空機製作所は戦後も数年ほどは生活用品の金属製品を製造していたようです。その後、田迎航空機製作所の跡地は託麻中学校の敷地となり現在に至ります。また、熊延鉄道は昭和39年に廃止。跡地は道路となり面影は失われています。

古写真・米軍撮影による串木野空襲の写真4枚(昭和20年8月9日・12日)

鹿児島県いちき串木野市への空襲は昭和20年5月から8月12日まで計5回ほどの空襲の被害に遭いました。今回紹介する4枚の写真は米軍が撮影した昭和20年8月9日と12日の空襲の写真であり、写真全てに「KUSHIKINO」のタグがついてます。
米軍撮影の串木野空襲ブログ用3
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串木野市街地への空襲の様子を撮影した写真。海岸際にある建物が激しく炎上しており、奥の方でも炎上している建物が見えます。この手前側の町は漁港市場のあった現在のいちき串木野市西浜町付近。炎上しているのは恐らく漁港市場の建物と思われます。8月9日、A-10ハボックやP-38等35機余りが串木野市街地を爆撃。この日の空襲で串木野駅を含む市街地の8割が焼失したと言われています。ちなみに写真中央に写る役場か工場事務所は現在の本浦交流センターの位置にあたりますが、昭和22年の航空写真に写っていますので、空襲の被害には合わなかったようです。奥で炎上しているのは恐らく串木野駅と思われます。
串木野着弾地点
8月9日の空襲写真の現在の姿。×の地点が空襲写真で炎上している付近。現在、手前側がさらに埋め立てられており、当時の面影は失われています。

次に紹介する3枚の空襲写真は8月12日の空襲の際に撮影された連続写真の1部と思われます。うち2枚は工藤洋三氏の著書「日本の都市を焼き尽くせ!」に紹介されており、写真が撮影された8月12日の日時とその当時の飛行ルートが明らかになりました。
以下の写真は同書を参考に記事を書いていきます。
米軍撮影の串木野空襲ブログ用2
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学校と思われる建物の側にナパーム焼夷弾が着弾した瞬間をとらえた写真。焼夷弾の特徴的な破裂の様子が分かります。
工藤洋三氏の著書によれば、この写真の前のコマにパラシュート付きの爆弾が落下する様子が捉えられています。着弾した焼夷弾はそのパラシュート付きの焼夷弾だったことが分かります。
米軍撮影の串木野空襲ブログ用1
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激しく炎上する学校の校舎の向こうの畑に着弾した焼夷弾が炸裂する瞬間をとらえた写真。恐らく先ほどの写真に写る焼夷弾と同じタイプのものと思われます。この写真も工藤洋三氏の著書に掲載されており、学校も照島国民学校(現・照島小学校)と判明しております。
この8月12日の2枚の写真は連続写真であることが分かっており、最初の写真は2コマ目、2枚目の写真は7コマ目となっています。
串木野空襲ルート
この日の空襲はA-20ハボック26機、A-26インベーダー16機が来襲。工藤洋三氏の著書にはこの時の飛行ルートも掲載されており、それを元に記した画像。市来駅から照島小学校を通過し串木野市街地方面へと飛行したようですが、連続写真のコマと飛行ルート、昭和22年の航空写真の地形から判断するに、飛行ルート上とその近辺には市来農芸学校と照島小学校しか見当たらないため、1枚目の写真は市来農芸学校(現・市来農芸高校)ではないかと思われます。
米軍撮影の串木野用空襲ブログ用4
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4枚目の写真もる他の3枚と同じく「KUSHIKINO」のタグが付いているため串木野空襲の写真であることは間違いありませんが、特徴的な建物等が写されていないこと、工藤洋三氏の著書に掲載されていない写真であることから場所の特定はできませんでした。恐らく8月12日の空襲の際の飛行ルート上の郊外の集落かと思われますが断定はできません。
奥の農家辺りに煙が上がっていますので、焼夷弾が落とされて炎上している様子をとらえた写真と思われます。
8月12日のこの空襲はナパーム焼夷弾と通常爆弾を交互に投下しながら飛行していったようで、特定の施設を狙っただけでなく、飛行ルート上を飛行しながら連続で投下していった可能性もあります。この農家の写真はその際のものではないでしょうか。

古写真・米軍撮影による阿久根空襲の写真2枚(市街地・田野澱粉化工場。昭和20年8月12日)

米軍撮影の阿久根空襲ブログ用1
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昭和20年8月12日、現在の鹿児島県阿久根市に米陸軍双発攻撃機のA-20ハボック27機が来襲。500ポンド爆弾やナパーム焼夷弾を市街地に投下。この日の空襲で阿久根の市街地は壊滅しました。この写真はその8月12日の阿久根空襲で炎上する市街地を米軍機が撮影したものです。市街地は激しく炎上し、写真右奥の地点と左端の民家に着弾し爆発した瞬間の様子が撮影されています。右奥の爆発はナパーム焼夷弾と思われ、その地点の奥には激しく炎上している建物があります。これは後述する田野澱粉化工場。手前の海岸には小舟が多数浮かんでいますが、人が乗っているかどうかは確認できません。
米軍撮影の阿久根空襲002
写真には「AKUNE」の文字があり、この写真が阿久根空襲を撮影したものである証明となっています。
阿久根着弾地点
空襲写真の現在の状況。×の地点がナパーム焼夷弾が爆発している辺りで、奥で炎上している田野澱粉化工場の場所は阿久根市役所の近くにありました。。
米軍撮影の阿久根空襲ブログ用2
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空襲に晒される昔ながらの町工場の写真。店舗もしくは事務所らしい日本家屋の裏にナパーム焼夷弾と思われる爆発があり、さらに手前でも爆発。背後の正門が破壊されています。さらに右側のトタン葺きの建物は炎上しており、空襲の惨状を至近距離で生々しく伝える1枚となっています。この写真については地名を記したタグは失われており、写真裏に「KUMAMOTO」と手書きの文字があったため、熊本市内の町工場と思っていましたが、ネットで検索しているうち、こちらの記事を見つけ、この写真が昭和20年8月12日の阿久根空襲で被害を受けた田野澱粉化工場の写真であることが分かりました。さらに2枚の写真の比較とかつて工場のあった地点、撮影方向等を検討した結果、1枚目の写真の奥に炎上する田野澱粉化工場が写っていることが確認できました。時系列としては、田野澱粉化工場の写真の後に空襲に晒され炎上する阿久根市街地の写真が撮られたものと思われます。これらの写真は連続写真と思われ、他にも写真がある物と思われます。
この阿久根空襲と同日、近隣の串木野市も同じようにA-20の空襲被害を受け、更に前日の11日には同じく近隣の加治木町もA-20による空襲を受けているので、同時に北薩地域が攻撃目標になったようです。

古写真・米軍撮影による奥戸漁港への空襲の写真(昭和20年7月15日)

米軍撮影の奥戸漁港空襲ブログ用
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昭和20年7月15日、青森県下北郡大間町の奥戸(おこっぺ)漁港への空襲の様子を米軍が撮影した写真です。
米海軍第3艦隊の航空母艦から発艦した艦載機による攻撃で、沿岸の民家が激しく炎上しています。また、小型の船の側に至近弾が投下されています。
米軍撮影の奥戸漁港空襲003
写真裏には解説文の張り紙や印字などの文字がいくつもあります。
米軍撮影の奥戸漁港空襲002
※サムネイル画像のクリックで拡大します。
解説文をざっと読むと、北日本の太平洋側の港に米海軍第3艦隊の航空母艦が攻撃。港の小船にニアミス。とあります。
これだけでは場所が分かりませんでしたが、ツイッターで頂いた情報により、奥戸漁港への空襲の写真と判明しました。
着弾地点
現在の奥戸漁港の航空写真に着弾地点を記してみました。だいたいこんな感じでしょうか。海に着弾した箇所付近には現在防波堤が造られています。
戦争末期はこんな地方の漁港にも空襲の被害があったわけですね。

古絵葉書・世田谷警察署新築落成記念

世田谷警察署001
昭和10年1月22日に竣工した世田谷警察署の新築落成記念絵葉書です。設計・施工ともデータが無かったため不明です。
世田谷警察署002
世田谷警察署外観。世田谷警察署HPの沿革によれば昭和10年に移転した若林庁舎とのこと。
世田谷警察署003
世田谷警察署内部の事務室と演武場。昭和10年の建物らしく装飾を排したモダンな造りになってます。

古写真・クラークフィールド飛行場の遺棄日本軍機(一式陸上攻撃機か)

クラークフィールド飛行場001
写真裏に「Clark Field」の書き込みがあるので、クラークフィールド飛行場を撮影した写真と思われます。
クラークフィールド飛行場はフィリピン・ルソン島にある飛行場で、元々はアメリカ軍の軍事拠点でしたが、太平洋戦争開戦後の昭和17年に日本軍が占領。この地にクラークフィールド飛行場他複数の飛行場を建設し、南方作戦での軍事拠点となりました。
しかしアメリカ軍の昭和20年1月のルソン島上陸後の激しい反攻により日本軍は撤退。アメリカ軍が再占領しました。
この写真はアメリカ軍の再占領時に破壊・遺棄された日本軍機(一式陸上攻撃機か)の姿を撮影したもののようです。
戦後、クラークフィールド飛行場はアメリカ軍が引き続き使用し、現在に至ってます。

古絵葉書・愛知銀行本店新築記念絵葉書

愛知銀行本店新築記念絵葉書001
昭和3年に竣工した愛知銀行本店の新築記念として発行された絵葉書セットです。この愛知銀行は第十一国立銀行と第百三十四国立銀行を母体として明治29年に設立された銀行で、後に昭和16年に合併により東海銀行となり、さらには現在の三菱東京UFJ現在の銀行となった銀行で、現在の愛知銀行とは無関係です。
愛知銀行本店新築記念絵葉書002
愛知銀行本店外観。大きく目立つ壁面の柱頭飾りと開放感のある大きな窓により華やかな印象を受けます。
愛知銀行本店新築記念絵葉書003
愛知銀行本店内部。天井のアーチが圧巻です。外観もですがまるで百貨店のような華麗さを感じるデザインとなっています。
愛知銀行本店新築記念絵葉書004
※サムネイル画像のクリックで拡大します。
愛知銀行本店新築工事概要。設計監督は愛知銀行建築課となっていますが、中心的な設計は桃井保憲でした。桃井保憲は愛知県営繕係を経て自身の建築事務所を設立し、名古屋を中心に活躍した建築家でした。代表作はこの愛知銀行本店の他に日本貯蓄銀行本店・名古屋銀行協会・三重県議会議事堂がありました。
設計顧問の藤村朗は三菱銀行本店や丸ビルと言った三菱関連の建築に関わり、後に三菱地所社長も務めた建築家、構造計算顧問の内藤多仲はかの東京タワーや名古屋テレビ塔などの設計を手掛け「塔博士」とも呼ばれた人物で、愛知銀行本店の建築には錚々たる人物が関わっています。

古絵葉書・月桂冠昭和蔵・壜詰工場新築記念絵葉書

月桂冠昭和蔵001
日本酒大手の月桂冠の創業は寛永17年(1637)という歴史ある酒造メーカーで、その製品は海外にも知られています。
月桂冠の本社は今も酒どころの京都市伏見区にありますが、近代以降の需要拡大と生産性向上のために昭和2年に建設したのが昭和蔵でした。この絵葉書はその昭和蔵の新築記念絵葉書として発行されたものです。日本初と言われる鉄筋コンクリート造2階建ての昭和蔵は外観がこれまでの酒蔵とはかけ離れた近代的なもので、絵葉書にも「この風景!モダーンな施設の中に」と謳っています。
月桂冠昭和蔵002
月桂冠壜詰工場内部。壜詰工場は昭和6年の竣工で、最新の機械により自動的に日本酒が瓶に充填されていく画期的な設備を有していました。月桂冠としても自慢の設備だったことが絵葉書の力強い解説文に現れています。
その他、昭和3年に昭和蔵に隣接して事務所が建てられましたが、これら昭和蔵・事務所・壜詰工場の建物は現存しており、しかも現役で使用されているという近代化遺産としても貴重な存在となっています。

古写真・米軍撮影の三菱大府飛行場(終戦直後)

三菱大府飛行場001
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終戦直後と思われる米軍撮影の三菱大府飛行場の古写真です。
大府飛行場は三菱重工業名古屋航空機製作所が建設した航空機工場付属飛行場で、現在の愛知県大府市と東海市にまたがる知多半島道路大府東海インターチェンジの北側辺りにあり、完成した軍用機の試験飛行や出荷のための離陸等が行われました。飛行場の完成は昭和19年。戦争も末期に差し掛かったころでした。
写真に米軍の大府飛行場の呼称である「MITSUBISHI AIR FIELD」の文字があり、多くの軍用機が恐らく放置された形で並んでいます。
詳しい方に鑑定してもらった結果、左から双発爆撃機・銀河、一式陸上攻撃機、真ん中奥にある小さな2つの機体は特攻兵器である桜花。手前の機体は九六式艦上戦闘機(大村海軍航空隊所属機?)、その奥の三座の機体は艦上攻撃機・天山。右端手前に少し写っているのが桜花とのことです。
その他にも大府飛行場の組み立て工場では四式重爆撃機・飛龍が生産されており、それらの機体も残されてましたが、終戦時に全て焼却処分されました。
昭和22年大府飛行場
撮影場所ですが、国土地理院公開の米軍撮影・昭和22年航空写真を参考にすると、背後に写っている山の稜線から、記載したどちらかの矢印の方向の撮影かと思うのですがどうでしょうか。
大府飛行場は戦後もしばらくは飛行場として使用されましたが、現在は市街地化し、さらには知多半島道路が造られ面影は失われました。

古写真・米軍撮影、飛行第59戦隊所属の三式戦闘機(飛燕)と五式戦闘機(昭和20年11月13日・芦屋飛行場)

飛燕・五式戦ブログ用
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終戦直後に撮影されたと思われる飛行第59戦隊所属の三式戦闘機・飛燕と五式戦闘機の写真です。米軍が操縦するブルドーザーで飛燕が撤去もしくは破壊されようとしています。撮影場所は飛行第59戦隊が最後に駐屯した芦屋飛行場。撮影時期は昭和20年11月13日とまで判明しました。ブルドーザーの奥に見える斜めの帯が入った機体は飛行第59戦隊所属を表す機体で、機種は五式戦闘機となります。
飛行第59戦隊は一式戦闘機「隼」を中心とし、大戦中各地で華々しい戦果を挙げた部隊として知られています。しかし、大戦末期は三式戦・飛燕を中心として本土防空任務に付いています。
五式戦闘機は大戦末期に開発された陸軍の最新鋭戦闘機であり、性能はかなりの物だったようで、当時の米軍の新鋭戦闘機と互角に戦えたそうです。
神戸展示の飛燕
ついでですが、2016年に神戸にて特別展示された飛燕。管理人撮影。元々知覧の特攻平和会館に展示されていたものですが、岐阜かかみがはら航空宇宙博物館への移管のための修復に際し神戸で期間限定の公開展示がされました。飛燕の完全な現存機はこの1機のみ。現在、岐阜かかみがはら航空宇宙博物館にて展示されています。

古絵葉書・夕張町役場新築記念

夕張町役場001
夕張町は大正7年に登川村から改名され誕生しました。この絵葉書は夕張町役場の新築記念として発行されたものです。戦前、炭鉱で栄えた夕張町らしい瀟洒な洋館となっています。
昭和18年、夕張町は夕張市へと市政移行。現在に至ります。夕張市は炭鉱の閉山で主産業を失いましたが、それに代わり「夕張メロン」という名産品が誕生しました。

古写真・米軍撮影の松山海軍航空基地(終戦直後撮影)

松山海軍航空基地002
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終戦直後に撮影された米軍撮影の松山海軍航空基地の空撮写真です。
松山には現在の松山空港辺りに松山海軍航空基地、その北隣に予科練の教育隊である松山海軍航空隊があり、この写真の場所はかの有名な精鋭部隊、第三四三海軍航空隊が一時期展開していた場所でありました。終戦時は戦闘第401飛行隊が展開。この写真に写る航空機はその戦闘第401飛行隊所属の機体だったと思われます。
昭和22年松山海軍航空基地
国土地理院HPが公開している昭和22年に米軍が撮影した松山海軍航空基地。赤枠の部分が今回紹介の古写真の場所で、航空機は片づけられていますが、昭和20年5月4日の空襲による爆撃の痕がまだ残っています。
以下、写真に写る機体の拡大写真です。なお、個々の機体の鑑定はツイッターのフォロワーさんによるものです。
一式陸攻ブログ用
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写真左下に写る双発の機体は一式陸上攻撃機。昭和16年6月より採用された日本海軍の主力陸上攻撃機でした。
零式輸送機ブログ用
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右下の大型機は零式輸送機。機体は白く塗られ、主翼に十字のマークが描かれています。これは緑十字飛行に用いられた機体で、昭和20年8月14日から昭和20年10月10日まで終戦連絡事務処理のため旧日本軍機を再利用したものです。
この緑十字仕様の零式輸送機が写っているため、この写真の撮影時期は昭和20年8月14日から同年10月10日頃までと分かります。
九七艦攻緑十字機001
※参考・古写真・緑十字飛行仕様の九七式艦上攻撃機
紫電ブログ用
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写真中央にずらりと並ぶ機体は局地戦闘機・紫電。水上戦闘機「強風」を陸上戦闘機に改造したもので、日本本土防空の迎撃機として運用されましたが、中翼の紫電は運用しづらい面もあり低翼に変更した等の改造をした「紫電改」が開発されました。
白菊ブログ用
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写真上部に並ぶ機体は「白菊」。昭和18年より運用された練習機で、操縦性・安定性とも優秀な機体であり、練習機としてだけでなく連絡機・短距離輸送機・哨戒機としても利用され、大戦末期には特攻機としても使用されました。また終戦直後は緑十字機としても使用されました。

松山海軍航空基地の敷地は戦後、現在の松山空港として再整備され現在も使用されており、松山空港の周囲には現在でも3機の掩体壕が残されています。

古絵葉書・静岡県庁舎落成記念

静岡県庁舎001
静岡県庁本館は懸賞設計による当選者、泰井武の設計案に基づき、中村與資平が実施設計し昭和12年10月に完成しました。地上5階建ての鉄筋コンクリート造の和洋折衷の建物でした。
この絵葉書は静岡県庁本館の新築記念として発行されたものです。以下に紹介をしていきます。続きを読むからご覧ください。

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古絵葉書・陸軍青野ヶ原演習場大門廠舎(大正期頃)

青野ヶ原演習場大門廠舎001
陸軍青野ヶ原演習場は兵庫県小野市と加西市および加東市にまでまたがる広大な演習場で、明治33年に開設されました。廠舎という演習に来た兵士たちが宿泊・滞在する施設は演習場北部に高岡廠舎、演習場東部に大門廠舎が設けられました。この絵葉書は大門廠舎の正門および演習所内の様子を撮影したものです。
青野ヶ原演習場大門廠舎002
青野ヶ原演習場大門廠舎正門。正門の門柱は簡素な丸太に看板が掲げられているだけのものです。絵葉書の通信欄の様式や絵葉書面の印刷の状態から、大正期頃の撮影と思われます。
青野ヶ原演習場大門廠舎001
こちらは前回紹介した昭和10年代頃の青野ヶ原演習場大門廠舎の正門。門柱がコンクリート製に変更されています。門柱の老朽化と演習場の需要が増えたため建て替えたのでしょう。
大門廠舎1
現在の青野ヶ原演習場大門廠舎の正門跡。左手に見える古い木造の建物は、窓の造り・建物の構造から絵葉書に写る廠舎当時の建物と思われます。また、廠舎跡である現在の西山町内には当時の廠舎の兵舎がいくつも残されています。
青野ヶ原演習場大門廠舎004
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両方の絵葉書には門柱の前に陸軍の境界杭が写されています。
大門廠舎6
絵葉書の位置にある陸軍境界杭は残されていませんが、現在も大門廠舎の周囲には、同じタイプの当時の石製の境界杭が残されています。
青野ヶ原演習場大門廠舎003
大門橋は大門廠舎の東を流れる加古川に架かる橋です。この絵葉書にはトラス橋と古風な桁橋が写っていますが、いずれも木造です。現在の大門橋は昭和11年完成のコンクリート製。絵葉書の橋は明治30年完成ですが、昭和15年に青野ヶ原演習場に戦車部隊が設置されたのに合わせ架け替えられたと思われます。
青野ヶ原演習場大門廠舎004
青野ヶ原演習場を進む騎馬部隊。将校でしょうか。
青野ヶ原演習場大門廠舎005
こちらは演習場内で実際に射撃をしている兵士を撮影したものです。
青野ヶ原演習場の大門廠舎・高岡廠舎は現在は住宅地となっていますが、演習場自体は陸上自衛隊青野原駐屯地の敷地となり現在も演習場として使用されています。

※関連記事
古絵葉書・陸軍青野ヶ原演習場大門廠舎(昭和10年代)
古絵葉書・陸軍青野ヶ原演習場高岡廠舎(昭和10年代)

古絵葉書・横須賀海軍航空隊庁舎

横須賀海軍航空隊001
横須賀海軍航空隊は大正5年に横須賀市の追浜にて開隊しました。旧日本海軍で最初に発足した海軍航空隊であった横須賀海軍航空隊は、平時は搭乗員の養成、機体の開発・実験・研究などが行われ、有事の際は実戦任務にも就きました。
昭和5年には「予科練」と呼ばれる海軍飛行予科練生が入隊。以後、昭和14年まで予科練教育が行われました。
昭和19年より実戦任務に就き、硫黄島での戦闘で大きな損失を出し、以後は本土防空の任務に就きました。
絵葉書は昭和初期頃の横須賀海軍航空隊の庁舎を撮影したので、重巡洋艦・那智の観覧記念スタンプが押されています。

古絵葉書・陸軍青野ヶ原演習場高岡廠舎(昭和10年代)

青野ヶ原演習場高岡廠舎001
陸軍青野ヶ原演習場は兵庫県小野市と加西市および加東市にまでまたがる広大な演習場で、明治33年に開設されました。廠舎という演習に来た兵士たちが宿泊・滞在する施設は演習場北部に高岡廠舎、演習場東部に大門廠舎が設けられました。この絵葉書は高岡廠舎の正門を撮影したものです。この絵葉書の廠舎正門の門柱はコンクリート製の重厚なもので、さらに絵葉書の通信面の様式から撮影時期は昭和10年代の物と思われます。
高岡廠舎002
同じく昭和10年代撮影と思われる高岡廠舎の別の絵葉書。こちらの絵葉書には兵舎の建物等が別枠で写されています。
演習廠舎は仮設の建物的な感じで、通常の連隊等の兵舎よりも簡素な造りだったわけですが、植栽がされ手入れがされている様子を見ると、ある程度環境的にも配慮されていた様子が伺えます。
高岡廠舎003
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正門の前にある立札を拡大してみました。「陸軍省」以外の文字も読めるかと思いましたが、やはり元々が絵葉書の印刷なので判然としないのが残念です。
大正4年、高岡廠舎の南に第一次世界大戦での俘虜を収容する青野ヶ原俘虜収容所が建設されました。俘虜収容所内での俘虜の生活は食事は貧しかったものの、娯楽やスポーツも可能な比較的自由なものだったようです。
現在、高岡廠舎の跡地は青野原町となっており、廠舎の一部や井戸跡などが残されています。陸軍青野ヶ原演習場の大部分は陸上自衛隊青野原演習場として利用されています。

※関連記事
古絵葉書・陸軍青野ヶ原演習場大門廠舎(昭和10年代)
古絵葉書・陸軍青野ヶ原演習場大門廠舎(大正期頃)

古絵葉書・伏見大手筋

伏見大手筋001
現在の京都市伏見区にある大手筋通りと京町通りの交差点付近から東方向を撮影した古絵葉書です。
「奈良電車のりば」と書かれた高架は奈良電気鉄道(現・近鉄京都線)の線路で、左手に現在もある桃山御陵前駅。奥に見える鳥居は御香宮神社の鳥居です。
左手に「京阪自動車」と書かれた建物があり、乗合自動車(タクシー)が車庫に入っていたり、逆に出たりしています。京阪自動車は現在の京阪バスで、創業は大正11年。当初は桃山自動車でしたが大正13年に京阪自動車と改称。昭和3年には京阪電鉄のグループ会社となりました。現在、京阪自動車の社屋跡地には「京阪バス発祥之地」の石碑が建てられています。

古絵葉書・宮内省図書寮庁舎新築記念絵葉書

宮内省図書寮001
宮内省図書寮は皇室の資料や文書・典籍を管理する機関で、宮内庁の前身である戦前の宮内省の部局でした。
図書寮庁舎は大正12年の関東大震災により被災。昭和3年9月、設計・宮内省内匠寮、施工・清水組により鉄筋コンクリート造3階建ての庁舎が完成しました。この絵葉書は宮内省図書寮庁舎の新築を記念して発行されたものです。
宮内省図書寮002
宮内省図書寮庁舎正面外観。
宮内省図書寮003
宮内省図書寮庁舎背面外観。関東大震災後に区役所や小学校等、東京市内(当時)の各地に建てられた公的機関の不燃建物、鉄筋コンクリート造の復興建築の1つでした。
宮内省図書寮004
宮内省図書寮通用門の北詰橋門。江戸城の門がそのまま使われています。
宮内省図書寮005
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外袋の裏にある宮内省図書寮庁舎新築工事概要。旧庁舎より規模も施設も大きく充実したものと思われます。
宮内省図書寮は戦後、宮内庁書陵部となり、図書寮庁舎も建て替えられて現在に至ります。

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