古絵葉書・一〇〇式重爆撃機 呑龍(陸軍航空本部提供写真)

呑龍005
陸軍航空本部提供の写真を使い発行された絵葉書で、表の宛名欄と通信欄の間に「君は増産 僕は操縦」のスローガンが書かれています。
一〇〇式重爆撃機・呑龍は陸軍の重爆撃機・九七式重爆撃機の後継機として昭和16年に正式採用された重爆撃機です。
太平洋戦争開戦の年に採用された機体ですが、実戦では主に中国戦線で運用されました。
写真の呑龍の尾翼は部隊マークを隠すためか日の丸が描かれる修正がされているように見えます。
呑龍003
編隊を組む呑龍。呑龍は対ソ戦用に適応するよう開発された経緯もあり、太平洋戦争中の主戦場であった南方方面での運用はいまいち使いづらいこともあり、九七式重爆撃機に比べ生産数も活躍の場も少ない結果に終わりました。
こちらの写真も尾翼に

YouTubeに一〇〇式重爆撃機が撮影されたニュース映画の動画がありました。
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古絵葉書・二式単座戦闘機 鍾馗(陸軍航空本部提供写真)

鍾馗001
陸軍航空本部提供写真の二式単座戦闘機・鍾馗の絵葉書です。宛名欄と通信欄の間に「君は増産 僕は操縦」の文字があります。
二式単座戦闘機・鍾馗は昭和15年に初飛行し昭和16年から運用され、一式戦闘機「隼」とともに大戦中を通じて活躍した機体です。
この絵葉書の写真は比較的アップで撮られており、エンジン部分の1部や機銃等の様子が良く確認できます。
鍾馗002
編隊を組んで飛行する鍾馗。こちらは尾翼部分に修正が入れられているように見えます。
鍾馗は大戦末期は本土防衛の迎撃機として使用されましたが、米軍の評価では迎撃機としては優秀であったと評価しています。
昭和19年末に鍾馗の生産は終了。後継機は新開発の四式戦闘機「疾風」となります。

YouTubeにニュース映画に撮影された鍾馗の映像がありました。

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古絵葉書・二式単座戦闘機 鍾馗 (内外ゴム献納 愛国第2717号機)

古絵葉書・丹波佐治堺卯楼

丹波佐治堺卯楼001
丹波佐治は現在の兵庫県丹波市青垣町佐治のことで、京都府福知山市と隣接している町です。
この絵葉書は佐治にあった堺卯楼という旅館を写したものです。
2階建ての古風な和風建築で玄関に大きく「旅館」と書かれた扁額を掲げ、玄関脇には「キリンビール」「カブトビール」の木の看板を掲げています。旅館業が主体だけど恐らく料理屋も営んでいたのでしょう。
丹波佐治堺卯楼002
通信欄を見ると、福知山市の内記4丁目にあった「額田屋」という旅館に宛てて出してます。
新年の挨拶状で比較的近い場所にあった両旅館は何らかの形で親しい間柄か同業者の組合みたいな関係だったのでしょう。
ちなみに堺卯楼も額田屋も調べた結果、どうやらすでに存在しないようです。

古写真・大阪 眺望閣

大阪 眺望閣
現在の大阪市浪速区日本橋の日本橋幼稚園辺りにかつて5階建ての高層建築がありました。眺望閣と呼ばれたこの古写真の建物は明治21年に完成し、有宝地と呼ばれた遊園地の中にありました。
高層建築と言えばお城か寺院の五重塔くらいしかなく登ることもできなかった明治中期においてこういった観光施設としての高層建築は珍しく、多くの人々が見物に押し寄せました。
この眺望閣に触発されたのか翌年の明治22年、現在の大阪市北区茶屋町に眺望閣より10m高い9階建ての建物が完成。凌雲閣と名付けられた建物は「ミナミの五階」と呼ばれた眺望閣に対して「ミナミの九階」と呼ばれそれぞれミナミとキタのシンボルとなりました。
明治23年、東京浅草に煉瓦造りの12階建ての高層建築が建てられました。それがキタの九階と同じ名前の「凌雲閣」です。
さらに眺望閣がある同じミナミに明治45年、パリのエッフェル塔を模した鉄骨の高層建築が完成。それが初代通天閣です。
明治中期は観光としての高層建築ブームに沸いた時代でしたが、眺望閣はわずか16年後の明治37年に取り壊され、浅草凌雲閣は大正12年の関東大震災で崩壊し大阪の凌雲閣も昭和初期に取り壊されました。
現在、日本橋商店街にある五階百貨店がかつて存在したミナミの五階・眺望閣の名残を今に伝えています。

古写真・日進艦(初代・スループ)

日進(初代)001
初代の日進は慶応3年に佐賀藩によりオランダへ発注されたスループです。明治2年に完成。明治3年に長崎へと到着しましたがすでに政権は徳川幕府から明治新政府へと移行していたため日進はそのまま明治政府が引き継ぎ海軍籍に入りました。
日進は日本海軍黎明期の軍艦の中でも藩政時代から引き継いだ最初期の艦で、明治初期の日本海軍の軍艦として台湾出兵や西南戦争に参戦しました。また明治8年の樺太・千島交換条約の締結では開拓使長官の黒田清隆を乗せてカムチャッカへと派遣されています。
明治25年に除籍され売却されたため、日清戦争には参戦していません。
初代日進の画像は明治初期の艦のためか多くはなく、ネット検索では絵画のものが出てくる程度です。
なのでこの日進の古写真は珍しいものではありますが新資料ではなく同じアングルの写真はすでに知られているようです。

古絵葉書・舞鶴鎮守府開庁記念(昭和14年再昇格)

舞鶴鎮守府昇格記念001
舞鶴鎮守府は明治34年に日本海側随一の鎮守府として開庁しました。
日露戦争では対峙するロシアの脅威からの護りの拠点として重要視されました。
しかし、大正12年のワシントン海軍軍縮会議により舞鶴鎮守府は舞鶴要港部へと格下げ。同時に舞鶴海軍工廠も舞鶴海軍工作部へと格下げされされました。
昭和11年、舞鶴海軍工作部が一足先に海軍工廠へと再昇格。そして昭和14年に舞鶴海軍要港部が舞鶴海軍鎮守府へと16年ぶりに再昇格しました。
この絵葉書セットは舞鶴海軍鎮守府再昇格を記念して発行されたものです。
画像は絵葉書の外袋。高雄型重巡洋艦の写真が写されています。
舞鶴鎮守府昇格記念002
舞鶴鎮守府庁舎。この庁舎は明治34年開庁以来のもの。両脇にあるのは初代司令長官の東郷平八郎元帥と再昇格時の司令長官、原五郎中将の写真。
舞鶴鎮守府昇格記念003
舞鶴鎮守府の管轄区域の図。日本海側のほとんどを占めています。
舞鶴鎮守府昇格記念004
舞鶴鎮守府および舞鶴要港部時代の歴代司令長官。一番有名なのはやはり初代の東郷平八郎司令長官ですね。
ところでこの絵葉書や最初の外袋には高雄型重巡洋艦の写真が載せられています。
舞鶴鎮守府は再昇格した昭和14年に完成したばかりの最新鋭の重巡洋艦である利根型の2隻、利根・筑摩が横須賀鎮守府から舞鶴鎮守府に配属され駆逐艦など小型の艦艇が主だった舞鶴軍港において大型艦の利根・筑摩は舞鶴市民からかなり親しまれたようですが、絵葉書にある高雄型重巡洋艦の4隻はすべて横須賀鎮守府に所属し横須賀を母港としていたので舞鶴には縁がないはずなのですが。何らかの理由で高雄型が使われたと思うのですが詳細は不明です。

古写真・山梨県庁(初代)

山梨県庁001
明治10年に完成した初代の山梨県庁はいわゆる「藤村式」と呼ばれる擬洋風建築でした。
中央の正面ファザードから左右に翼を張り出したシンメトリーな擬洋風のデザインはまさに明治初期の官庁建築の典型で、中央屋根の三角破風には菊の御紋章が左右翼部の屋根には山梨県の「山」の字が入っています。
この初代山梨県庁は現存する昭和5年築の2代目県庁舎の新築により建て替えられたと思われますが、かつての初代山梨県庁舎を思い起こさせる建物が2棟、愛知県の明治村に移築されています。
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旧東山梨郡役所。明治18年完成の藤村式擬洋風建築。
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旧三重県庁舎。明治12年完成。古写真の初代山梨県庁舎と非常によく似た形で、明治初期の擬洋風建築の官庁建築はデザインはもちろんプランも一定のテンプレート的なものがあったのかもしれません。

古写真・山梨県師範学校

山梨県師範学校002
山梨県師範学校は江戸時代に設立した藩校、「徽典館」を始まりとします。
明治6年に開智学校と改称。さらに明治8年に山梨県師範学校となりました。
明治16年に校舎が焼失。藩校時代以来の貴重な典籍を焼失しましたが、翌年の明治17年に新校舎が完成。
それがこの古写真の左奥に写る建物で、いわゆる山梨県内において明治初期に多く建てられた「藤村式」と呼ばれる擬洋風建築でした。
明治43年、校舎移転によりこの建物は取り壊されたと思われます。
明治17年築の山梨県師範学校の校舎は甲府市錦町、現在の中央公園にあり、擬洋風建築3階建ての校舎は目を引いたことと思います。

古絵葉書・館山海軍航空隊(8枚組)

館山海軍航空隊001
昭和5年、日本海軍最初の航空隊である横須賀海軍航空隊の拡充に伴い、機能分散のため千葉県の館山市に設立されたのが館山海軍航空隊です。
その後横須賀海軍航空隊が研究部隊に特化するのに合わせ、館山海軍航空隊は実戦部隊を担うようになり、昭和11年に木更津海軍航空隊が設立すると木更津海軍航空隊外戦任務、館山海軍航空隊は内戦任務と分担するようになりました。
太平洋戦争末期、シーレーン確保のための対潜哨戒部隊として第九〇一海軍航空隊・第九〇三海軍航空隊が設立。対潜哨戒機の「東海」などが運用されました。
戦後、館山海軍航空隊の基地は海上自衛隊館山航空基地として使用されています。

この絵葉書は昭和10年頃に発行された8枚組セットです。以下に中身の絵葉書の紹介をいたします。
「続きを読む」からご覧ください。
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古写真・長野市内(?)の通りの防空壕

長野市 防空壕002
前所有者が長野市内と説明のあった戦時中の古写真ですが、通りの場所等含め詳細は不明です。
右手側の商店にある看板の文字等を拡大したりもしてみましたが読み取れませんでした。
ただし、写真の撮影された時期は写真に写されている白割烹着や和服の女性の姿から日中戦争開始から太平洋戦争前の時期かと思われます。
写真を見ると比較的大きな通りの真ん中に四角い穴があけられています。
これは空襲時に身を隠す防空壕・・・というより退避壕ですが、戦時中には多くの都市で盛んに作られました。
戦争末期の大空襲による結果を知る我々にとってはあまりに貧弱な壕ですが、焼夷弾の認識はあったものの当時の空襲による爆弾は爆発による建物の破壊を目的としたものが主で、爆風や破片から身を守れればよいという認識が主流だったためです。
時局防空必携001
所有している昭和18年版の時局防空必携の中にも当時の家庭用の退避壕について書かれています。
時局防空必携002
※サムネイルのクリックで拡大します。
書かれた退避壕のイラストによると深さは1m程度。古写真と同じく露天掘りで上には畳をかぶせるとあります。
当然直撃すればひとたまりもなく、文章中にも地面下に掘って作ったものの方がより安全であると書かれていますが、爆風や破片からとりあえず身を守る程度ならこの塹壕のような退避壕で十分と考えられていたのでしょう。
実際、太平洋戦争中盤の日本本土初空襲となるドーリットル隊の爆撃は通常爆弾を使用したピンポイント爆撃であり、また日本の木造家屋に対して従来の爆弾はオーバーキルとなり都市の破壊に対して大きな成果を得られなかったため、日本の都市のほとんどを占める木造家屋を効率よく破壊し都市全体を焼失させる焼夷弾を用いた大規模無差別爆撃が行われるようになったのは戦争末期の昭和19年から20年にかけてのことでした。
その頃には当然写真のような露天掘りの退避壕は役に立たず、それどころか地下式の防空壕すら危険な有様となってました。

古絵葉書・新舞鶴警察署

新舞鶴警察署001
明治34年に開庁した舞鶴鎮守府により漁村だった東舞鶴一帯は海軍の軍港として発展、それに伴い街並みも整備されていきました。当時東舞鶴は江戸時代以来の城下町で旧来の舞鶴だった西舞鶴地区に対して「新舞鶴」と呼ばれました。
この警察署は東舞鶴地区にあった新舞鶴警察署です。
与保呂川沿いに建てられた木造の洋館は中々洒落ています。
現在、東舞鶴地区の警察署は市役所の近くにあり、かつての新舞鶴警察署の跡地は駐車場等になっています。

古絵葉書・鈴鹿海軍航空隊

鈴鹿海軍航空隊001
鈴鹿海軍航空隊は昭和13年に設立されたパイロット養成(予科練)の訓練飛行場で終戦まで多くの海軍のパイロットを育成しました。戦争末期になると実戦部隊の航空隊としても使用せざるを得なくなり特攻隊の基地としての役割も担うことになりました。
終戦後に部隊は解散。鈴鹿海軍航空隊の跡地は鈴鹿科学医療大学やNTTの敷地となり近年まで格納庫が残されていましたが現在は解体。当時の物は正門と門衛所のみが残されています。

番外編・冊子「代用食 芋と南瓜の上手な食べ方」昭和20年10月刊

去年の公開以来話題となり異例の大ヒットとなったアニメーション映画「この世界の片隅に」。
※公式サイト
広島市に生まれ呉市に嫁いだ主人公のすずの昭和8年から終戦後すぐまでを描いた作品で、私も拝見しましたが、よくある思想的・イデオロギー的な要素が強くなりがちな戦時中を描いた作品ではなく、戦時中であっても楽しいことや笑いがある日常、そしてその中で起こる悲しみなど戦時中の人々であっても現代と変わらない感情があったということを表現し、その中で平和の有り難さを伝えており、私自身素晴らしい作品だと感じることが出来ました。
ストーリーも見入るような内容で、最初は長いと思えた130分があっという間に感じました。
その作中の中で重要なテーマの一つだったのが食糧問題。呉市に嫁ぎ主婦として日々のメニューを限られた食料からいかにして考え家族に食わせるか苦心したシーンがたびたび登場しますが、見ているうちに戦争末期から終戦直後の昭和20年の食糧事情がどんなものだったのか興味が湧いてきました。
代用食
そして入手したのが昭和20年10月に出版された「代用食 芋と南瓜の上手な食べ方」。
私自身、祖父や祖母から戦時中の話はかなり多く聞いてきましたが、元々農家なため食料に関しては飢えるほどではなかったと聞いてました。(街から着物を持ってきて食料と交換して欲しいという人がたびたび来たくらいらしい。)
なので、祖父の軍隊時代の話は多く聞いていても食糧問題に関してはよく聞くような苦労話はあまり聞かなかったため、都会や街ではどうだったのかと知りたくなり、その一端としてこの資料を入手してみたわけです。
以下に中のページの一部を紹介してますので「続きを読む」より、ご覧ください。
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古絵葉書・郡是製糸株式会社萩原工場

郡是製糸株式会社萩原工場001
福知山市上六人部萩原にかつて製糸工場がありました。明治30年、共進製糸合資会社が設立。萩原に製糸工場が造られました。しかし、前年に綾部市で設立した郡是製糸株式会社が業績を拡大する一方、共進製糸合資会社は業績が伸び悩み明治42年に郡是製糸株式会社に売却を決定。萩原工場は郡是製糸株式会社萩原工場となりました。
以後、戦前を通じて製糸工場として稼働を続けましたが昭和38年に工場は閉鎖。工場施設は全て取り壊され跡地は現在物流センターの敷地となり、現在は郡是製糸萩原工場跡の説明版と石碑が近くに残されているのみです。
この絵葉書は昭和10年代頃と思われる郡是製糸株式会社萩原工場を空撮したものです。

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古絵葉書・郡是製糸株式会社福知山工場

郡是製糸株式会社福知山工場001
京都府綾部市で創立した郡是製糸株式会社(現・グンゼ)は次第に業績を拡大し京都府下を中心に製糸工場を新設及び既存の別会社の工場を買収していきました。
大正7年、福知山製糸株式会社が福知山市中ノに工場を設立。しかし、わずか2年後の大正9年に郡是製糸に吸収・合併され郡是製糸株式会社福知山工場となりました。
郡是製糸株式会社は合併した旧福知山製糸の工場に新たに事務所等を建設。施設の充実を図っていきました。
この絵葉書には昭和4年完成の事務所の建物が写っており、撮影はそれ以降のものであることが分かります。
fgunze1.jpg
郡是製糸株式会社福知山工場は現在、グンゼ福知山配送センターとなり製糸工場としての稼働はされていませんが、絵葉書にも写る昭和4年築の事務所棟・木造建物・繭倉庫・女子寮などが現存し、福知山市内及び北近畿での近代化遺産として貴重な存在となっています。

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古絵葉書・京都府立須知農林学校 女子部新設養蚕室落成記念

京都府立須知農林学校001
京都府立須知農林学校は明治6年設立の京都府農牧学校を始まりとする農業学校で、現在の京都府立須知高校の前身でもあります。この絵葉書は新設された女子部と養蚕室の落成を記念して製作された絵葉書セットです。
京都府立須知農林学校002
須知農林学校の正門と校舎。左手前に奉安殿が見えます。大正7年、京都府立種畜場廃止により敷地建物を無償で譲り受け船井郡立実業学校が設立。大正12年に須知農学校と改称しさらには昭和7年に併設された林業科に伴い須知農林学校へと改称されました。
京都府立須知農林学校003
キャプションがなく不明ですが、この建物が女子部及び養蚕室の建物と思われます。
女子部は昭和16年に設立されましたので、この絵葉書もその頃に発行されたものでしょう。
現在外袋に入ってるのは2枚のみですが、もしかしたら本来は内部の絵葉書が2~3枚と建築概要を記したものが入っていたのかもしれません。

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古絵葉書・宇治川電気株式会社大阪事務所

宇治川電気株式会社001
宇治川電気株式会社は戦前の関西地区において存在した電力会社で、戦前の大手五大電力会社の1つでした。
宇治川電気は明治39年に京都にて設立。現在の宇治市に宇治水力発電所(現存・関西電力所有)を完成させるとそこで発電された電力をもとに京阪地区への電力供給を開始しました。
太平洋戦争開戦以前の京都府内には、琵琶湖疏水を利用した発電所(蹴上・夷川・墨染)を所有する京都市、京都府内一円の発電所を所有する京都電燈株式会社、そして宇治川電気株式会社の3社が競合し、結局潰し合いを防ぐため供給地域の分担が行われました。
昭和17年、国家総動員法により解散。発電所や社屋等の施設は新たに設立した関西配電の所有となり、戦後現在の関西電力となりました。
絵葉書は大正元年に竣工した大阪事務所です。

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古絵葉書・戦艦霧島進水記念絵葉書

戦艦霧島進水記念絵葉書001
戦艦霧島は金剛型巡洋戦艦の4番艦として長崎三菱造船所にて大正2年に進水しました。
この絵葉書は霧島の進水を記念して発行されたもので、本来は2~3枚のセットだったと思われます。
霧島は昭和5年に近代化改装を行い昭和11年にさらに近代化改装されことにより艦橋が巨大化し艦影が大きく変化するとともに機関部の強化により30ノットの速力を有する高速戦艦として生まれ変わりました。
霧島は姉妹艦の金剛・比叡・榛名とともに太平洋戦争の緒海戦に参加。第三次ソロモン海戦では2度の夜戦による激戦の末、いわゆる「アイアンボトムサウンド(鉄底海峡)」にて米戦艦・ワシントンのレーダー射撃により16インチ主砲の砲弾9発の命中弾を受け沈没しました。
戦艦霧島進水記念絵葉書002
絵葉書の宛名面には霧島の進水式を見学し貰った絵葉書を記念に送りますと書かれてます。
霧島の進水式を見学した人が身内か知り合いに当てたもののようですが、進水式はさぞかし感動したことでしょう。

古絵葉書・戦艦霧島の年賀状

戦艦霧島の年賀状002
新年あけましておめでとうございます。ブログ開設11年目を迎える2017年も当ブログをよろしくお願いいたします。
今回は年始の挨拶用に調達しましたが、微妙に間に合わなかったもの。戦艦霧島の年賀状です。
裏面には戦艦霧島と「謹賀新年 一月元旦」の文字と富士山・登り龍の絵があります。
戦艦霧島の年賀状001
宛名面を見ると、差出人の住所は「軍艦霧島」とあり、霧島から出されたものであると分かります。
艦内の酒保では家族に出すためのハガキや便箋などが売られていましたが、年賀はがきも売られていたようですね。
霧島の年賀はがきとして専用に発注されていたものが酒保で売られていたことなど中々興味深い資料です。
消印が消えてしまったのか出された年が判別できませんが、貼られている記念切手が大正6年に発行された皇太子(後の昭和天皇)の立太子記念切手であることから、大正7年の元旦の年賀状ではと思います。

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古写真・神戸外国人居留地

神戸居留地001
神戸居留地は幕末の開港による安政五カ国条約により、慶応3年(1868)から明治32年(1899)まで存在した外国人居留地です。
計画的な都市設計により造られた街並みは当時としては珍しい西洋館が建ち並び、下水道完備・街灯や街路樹の設置など、これまでの日本には見られない近代的な街並みでした。
当初は日本人の立ち入りが禁止されていましたが、徐々に解禁され神戸や関西での近代化・文明開化に大きく影響を与えました。
明治32年に神戸外国人居留地は日本へ返還され神戸市に編入。旧居留地はビジネス街として大いに発展。現在も戦前の銀行建築や商社ビルの建築が多く残りかつての繁栄を物語ってます。
古写真は外国人居留地時代に撮影されたもので、当時各地の居留地で多く見られたコロニアル様式の洋館が建ち並んでいます。中央の半円の看板を掲げた建物は商店でしょうか。建物の前には人力車が置かれ、文明開化真っ只中の雰囲気が現れています。
現在、居留地時代の建物はほとんど失われ、唯一、旧神戸居留地十五番館が現存し重要文化財に指定されています。

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古絵葉書・京都府立福知山中学校改築記念

福知山中学校改築記念001
現在の福知山高校の前身である京都府立第三中学校が開校したのが明治33年。大正7年に福知山中学校と改称されましたが、校舎は府立第三中学校時代のものをそのまま受け継いでました。
しかし、明治以来の木造校舎は老朽化が進み、明治の校舎が建てられてから38年後の昭和13年に新校舎へと建て替えられることとなりました。この絵葉書は新校舎への改築を記念として発行された絵葉書です。
福知山中学校改築記念002
福知山中学校正門。左奥が新築された本館。右奥に体育館と講堂が見えます。
福知山中学校改築記念003
新築校舎の全景。福知山憲兵分隊許可済みの文字があるのは、この方向の撮影だと福知山20連隊等の陸軍の施設が写る可能性があったからかもしれません。
福知山中学校改築記念004
大講堂の内部。昭和10年代らしいすっきりとしたデザインです。
昭和13年に建て替えられた新校舎は戦後も引き続き使用されましたが、昭和54年に現在の校舎へと建て替えられました。

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古絵葉書・鐘ヶ淵紡績株式会社福知山製糸工場

鐘ヶ淵紡績福知山工場001
福知山市は製糸会社として拡大を続けていた郡是製糸のある綾部市に対抗して大手の製糸会社の誘致運動を行っていましたが、大正10年に両丹地区に鐘ヶ淵紡績(後のカネボウ)の工場進出の情報が伝わると鐘ヶ淵紡績に対し熱心な工場誘致を働き掛け、ついに大正11年に工場が竣工しました。以来、隣の綾部市の郡是製糸と競い合い発展していきました。
これはその鐘ヶ淵紡績福知山製糸工場の絵葉書です。
鐘ヶ淵紡績福知山工場002
福知山町(当時)の街並みと鐘ヶ淵紡績福知山福知山製糸工場の外観。
昭和3年に福知山製糸工場という名前に改称されているので、この絵葉書は昭和3年以降の発行となります。
鐘ヶ淵紡績福知山工場003
工場内の様子。煮た繭から糸を取る繰糸機が写されています。
鐘ヶ淵紡績福知山工場004
工場内の寄宿舎と裁縫・生花教室。戦前の大工場では若い従業員が生活する寄宿舎や従業員を教育する女学校のようなものもありました。
郡是製糸でも同様で福利厚生施設や寄宿舎・郡是女学校といった従業員への福利厚生・教育施設を充実させ、従業員を大切にしていました。
戦時中は海軍に接収され軍需工場として稼働していましたが、戦後再び鐘紡工場として稼働。
しかし繊維業の衰退から鐘紡福知山工場はカネボウ食品へと転換。
さらに経営破綻によるカネボウグループの解散によりクラシエホールディングスへと変わったため、カネボウ福知山工場はクラシエフーズ福知山工場へと転換。しかし、現在もかつての鐘ヶ淵紡績福知山製糸工場と同じ敷地で操業しています。

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古写真・鐘紡福知山工場(昭和11年版 天田郡志資料より)
古絵葉書・郡是製糸株式会社福知山工場
古絵葉書・郡是製糸株式会社萩原工場

古絵葉書・郡是製糸株式会社園部工場

郡是製糸園部工場001
京都府綾部市に誕生した郡是製糸株式会社(現・グンゼ株式会社)は徐々に事業を拡大し本社のある綾部市内だけでなく京都府内の各所に工場を設立していきました。
現在の京都府南丹市園部町にも明治43年に郡是製糸園部工場が設立。最盛期である大正期には500人の従業員を抱える大工場でしたが、昭和に入り生糸の価格が下落。次第に経営難となり昭和16年に閉鎖されました。
郡是製糸園部工場002
絵葉書の袋の裏にある社訓と社歌。
この絵葉書は昭和初期頃の発行と思われるもので、最盛期を過ぎた頃ですがまだ盛んに操業していたころを物語る絵葉書です。
絵葉書は8枚のセットとなっており、工場の外観や操業の様子、寄宿舎などが写されてます。
中身の絵葉書は「続きを読む」からご覧ください。
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古絵葉書・近江水力電気株式会社姉川発電所

近江水力電気姉川発電001
姉川発電所は大正6年に近江水力電気株式会社によって建設・運営された水力発電所で、県下で2番目に運用開始された発電所でした。大正10年、運用をしていた近江水力電気株式会社は宇治川電気株式会社に吸収合併。昭和15年に運用開始された伊吹発電所により昭和19年に姉川発電所は廃止されましたが、煉瓦造の発電所建屋は現在も山中に埋もれる形で残されています。

古写真・海軍将校生徒学習船 東京丸(海軍兵学校仮校舎)

東京丸001
旧日本海軍の士官学校である海軍兵学校は当初東京築地にありました。明治19年、呉鎮守府に近い広島県の江田島へ移転が決定。現在も海上自衛隊の幹部候補生学校として使用されている赤煉瓦の校舎の建設が始まりました。
海軍兵学校が東京から移転を開始したのは移転決定から2年後の明治21年。現在も残る赤煉瓦校舎が完成したのが明治26年。
移転から校舎完成までの5年間はこの古写真に写る東京丸という船が仮校舎として使用されました。
東京丸は元々1864年、日本では幕末の元治元年にアメリカで建造された木造船ニューヨーク号で、明治7年に台湾出兵の際に日本政府が購入し東京丸と名付けられました。明治8年に郵便汽船三菱会社に払い下げられ、明治18年に日本郵船に移籍。明治20年に日本海軍に売却されました。そして翌年より海軍兵学校の仮校舎として使用されたわけですが、建造から24年経った木造船は恐らく老朽化が目立ちしかも係留された船の上の生活は東京生活に慣れた生徒たちには過酷なものだったのかもしれません。
明治26年、ようやく赤煉瓦の校舎が完成すると海軍兵学校は東京丸から移転。役目を終えた東京丸は民間に払い下げられ恐らくそのまま解体されたと思われます。
この古写真の台紙には「海軍将校生徒学習船」の筆書きがあり、海軍兵学校仮校舎として使用された明治21年から明治26年の間の撮影となります。わずか5年の間ですがこの古い木造船は日本海軍の将校たちを育成した日本海軍史に残る記念すべき船となりました。

古写真・東海鎮守府(後の横須賀鎮守府)

東海鎮守府001
明治9年、近隣の港を管轄する海軍の機関として鎮守府の設置が決定。東日本は横須賀に東海鎮守府を西日本には長崎に西海鎮守府が置かれることが決定しましたが、実際に置かれたのは東海鎮守府で横浜に開庁しました。これが後の横須賀鎮守府です。
東海鎮守府は現在の横浜市中区北仲通6丁目にあり、かつて存在した灯台局の隣のドイツ領事館跡に設置されました。
明治17年に東海鎮守府は横須賀に移転し横須賀鎮守府が誕生しました。
古写真は横浜の東海鎮守府の表門を撮影したもので撮影期間は明治9年から明治17年まで。ナマコ壁の土蔵のような塀と門衛所らしき建物、伝統的な冠木門に「東海鎮守府」の看板と明治の文明開化らしいランプの街灯が掲げられています。
築地海軍省002
明治の公的機関でありながら伝統的な日本建築のナマコ壁が使われており既存の江戸時代からの建物を利用したようにも見えますが、明治初期はこの築地にあった初代海軍省のように洋風を目指した新築の建物でありながら外壁はナマコ壁といった「擬洋風建築」がまだまだ主流で当時の建築家や大工が従来の日本建築の技術をもとに洋館を見よう見まねで作った結果なのですが、この東海鎮守府もそういったものなのかもしれません。もしくは旧ドイツ総領事館の建物を再利用した可能性もあります。
日本最初の鎮守府は横浜で生まれ移転先の横須賀にて大きく成長するわけですが、この古写真は築地海軍本省と並び日本海軍草創期を物語る1枚です。

古絵葉書・東京中央電信局新築記念

東京中央電信局001
建築家・山田守の初期の作品であり名作と称されたこの東京中央電信局は最上部のパラボラ型アーチが特徴の建物でした。大正13年に完成したこの建物は戦後も使用され続けましたが、惜しくも昭和44年に解体されました。
この絵葉書は東京中央電信局の新築完成を記念して発行された1枚で、元は数枚のセットだったと思われます。

古絵葉書・株式会社六十九銀行長野支店

株式会社六十九銀行長野支店001
六十九銀行は国立銀行条例に基づき設立された第六十九国立銀行を前身とする銀行で新潟県長岡市にありました。
明治31年に六十九銀行と改称。以後明治・大正・昭和初期を通じて近隣の小規模・中規模の11にも上る地方銀行を吸収合併。
昭和17年に長岡銀行と合併し長岡六十九銀行を設立。戦後の昭和23年に北越銀行と改称し現在に至っています。

古絵葉書・株式会社六十三銀行

株式会社六十三銀行001
六十三銀行は国立銀行条例により設立された第六十三国立銀行を前身とする銀行で、長野市にありました。
明治30年に第六十三国立銀行が普通銀行転換により六十三銀行へと改称。
昭和6年に六十三銀行と第十九銀行が合併。六十三と十九の合計値八十二を銀行名とし八十二銀行として発足。
これが現在も営業を続ける八十二銀行です。

古絵葉書・福知山 岩沢堤

福知山 岩沢堤001
福知山市は江戸時代以前から由良川の氾濫による水害に会い続けた街でした。明治以降も水害の被害が続き、明治29年と明治40年の水害では由良川の堤防が決壊し大きな被害が出たため、由良川の氾濫に耐えうる近代的な堤防が必要となりました。
明治42年に完成した高さ11メートル長さ1200メートルの石張堤防は福知山大堤防と呼ばれ、建設に福知山出身の松村組創始者である松村雄吉が加わり、自らの工事の確かさを証明するため堤防を利用した自邸を建設しました。それが現在も残る旧松村邸です。
福知山大堤防は昭和2年の北丹後地震で亀裂が生じる被害が出たため大規模な改修が決定。当初は被災部分の修復程度の方針でしたが、当時の福知山町長が根本的な改修を国に要求し決定。堤防表面をコンクリートで覆いさらにはドイツ製のラルゼン型鋼矢板2600枚を堤防基部に打ち込むなど最新の工法で改修されました。この改修を手掛けたのが建設技官・岩沢忠恭。住民は親しみを込めて改修された堤防を「岩沢堤」と呼びました。
この絵葉書はセット絵葉書「福知山名所絵葉書」に収録されている1枚で、完成した岩沢堤が紹介されています。絵葉書のキャプションには「この堤防が完成以来浸水はあるが大きな被害は受けていない」とあります。
堤防上に建つ手前の大きな建物は現存し国指定登録文化財に指定されている芦田家住宅。元は福知山市の実業家、片岡家の別宅として大正15年に建設されたものです。
奥に見える橋は音無瀬橋。近代的な鉄筋コンクリート製の永久橋が完成したのは昭和6年。以後、1995年に現在の音無瀬橋に架け替えられるまで福知山市のシンボル的な橋でした。

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古絵葉書・福知山 水害の惨状3枚(明治40年水害か)
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