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2021-04

古写真・米軍撮影の東京湾偵察写真(品川台場・昭和20年2月2日)

米軍撮影の東京偵察写真ブログ用1
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昭和20年2月2日に米軍が撮影した東京湾の偵察写真です。恐らく3月10日の東京大空襲に向けての偵察のために撮影されたものと思われます。この写真には今では失われている第一・第二・第五・第七・御殿山下の品川台場が写っています。
米軍撮影の東京偵察写真ブログ用2
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キャプションを入れた写真。品川台場は相次いで来航する外国船に対抗するため幕府により建設された海上砲台で、嘉永7年に第一・第二・第三台場が、安政元年に第五・第六・御殿山下台場が完成しました(第四・第七は工事中止)。
その後明治に入り陸軍省の管轄に入り、徐々に払い下げられ、大正4年に第三・第六台場が東京市(当時)に払い下げられ、史跡となりました。その他の台場は戦前までは存在していましたが、戦後の昭和32年から昭和40年にかけて、東京湾の航路確保等のために撤去されていき、現在は第三・第六台場のみ現存しています。
米軍撮影の東京偵察写真ブログ用3
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第一から第六台場の部分拡大。各台場は土塁がはっきり写っており、戦争末期でもかなり保存状態が良かったことが伺え、さらに内部には何か施設らしきものが写っており、高度経済成長期当時の事情を考えると仕方なかったとはいえ、貴重な史跡が失われたのは残念です。
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古写真・米軍撮影の指宿海軍航空基地への空襲写真(昭和20年5月12日)

米軍撮影の指宿海軍航空基地空襲ブログ用
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指宿海軍航空基地は昭和18年に宿毛航空隊が佐伯航空基地から移駐し昭和19年1月1日に設立した基地で、水上機専用の基地でした。昭和19年12月15日、第951海軍航空隊に統合され、指宿派遣隊となります。この写真は昭和20年5月12日の指宿海軍航空基地への空襲を米軍が撮影した写真で、奥の方に白煙が上がっています。
米軍撮影の指宿海軍航空基地空襲ブログ用2
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「旧海軍の基地と施設 指宿航空基地」に掲載されている施設配置図を元にキャプションを追加。他サイトでは5月5日の空襲でかなりの被害を受けたとありますが、この写真には多くの施設が写っています。さらに6月25日の空襲で完全に壊滅しました。
指宿海軍航空基地002
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エプロンに駐機している水上機群。指宿海軍航空基地に所属していた機体は、零式水上偵察機・九四式水上偵察機・零式水上観測機・二式飛行艇等でした。
指宿海軍航空基地003
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知林ヶ島付近を飛行する機体。米軍機でしょうか。戦闘機のようにも見えます。

指宿海軍航空基地の跡地は現在キャンプ場となってますが、跡地の一角には慰霊碑が建てられ、防空壕等の遺構がわずかに残されています。

古絵葉書・福知山郵便局電話事務室新築記念

福知山郵便局001
福知山における電話交換業務が開始されたのは明治42年11月25日。昭和に入り電話の加入者の増加、近代化に対応するため、福知山市呉服町の場所に福知山郵便局及び電話事務室の新庁舎を建設。昭和5年4月28日に竣工しました。さらに電話交換を複式に変更。この絵葉書は福知山郵便局と電話事務室の新築を記念して発行されたものです。
福知山郵便局002
福知山郵便局電話事務室外観。装飾を抑えた近代的な外観となってます。
福知山郵便局003
福知山郵便局の交換室と試験室。
福知山郵便局004
福知山郵便局電話事務室新築概要。2階部分が電話交換室で、女子休憩室と女子宿直室があります。自動交換式が普及するまで、電話交換手は女性の職業の花形でした。
福知山郵便局010
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福知山市史第四編より昭和5年の福知山郵便局電話事務室の平面図。1階が郵便局で2階が電話事務室でした。
福知山郵便局005
昭和26年頃撮影の福知山市街(『福知山城の歴史』福知山市郷土資料館刊より)。右端に見えるのが福知山郵便局。竣工当時の姿を保っています。福知山郵便局は移転し、かつての福知山郵便局の跡地は現在道路となってます。

古絵葉書・日本麦酒鉱泉株式会社東京工場落成記念絵葉書

日本麦酒鉱泉株式会社001
日本麦酒鉱泉株式会社はカブトビールを販売していた加富登麦酒が大正10年に三ツ矢シャンペンサイダーの帝国鉱泉と製びん会社の日本製壜を吸収合併して設立した会社でした。主力商品はユニオンビールで、その他に元々販売していたカブトビール、吸収合併した帝国鉱泉の主力商品であった.三ツ矢シャンペンサイダーを販売しました。後に大正14年に金線飲料を吸収合併し、金線飲料の主力商品である金線サイダーも販売していました。
この絵葉書は大正14年に竣工した日本麦酒鉱泉株式会社東京工場を記念して発行された絵葉書です。
以下、中身の絵葉書等は「続きを読む」からご覧ください。

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古絵葉書・某砲台の28センチ榴弾砲

我が重砲001
「我が重砲」のタイトルのある絵葉書です。絵葉書には「要塞司令部許可」とだけあり、どこの要塞の砲台なのかは伏せられています。(フォロワーさんによれば、横須賀の演習砲台ではとのこと。)手前の砲座に28センチ榴弾砲が据えられ、砲座の前には煉瓦の擁壁。奥の小高い場所には観測所らしい施設が見え、現役当時の陸軍の砲台の様子をうかがい知ることができます。
我が重砲002
最大仰角で砲撃する28センチ榴弾砲。現役当時の砲台は木々は全て伐採され、眺望良くしていたイメージがあったんですが、この絵葉書では砲の前には木々が生えています。目隠し目的で木を切らずにいたと考えたら納得です。
我が重砲003
砲撃を終え、次弾装填をしている様子。写真のブレから臨場感が伝わってきます。

古絵葉書・福知山陸軍墓地 満州事変戦死病歿者合同墓碑建設記念

福知山陸軍墓地満州事変戦没者001
福知山陸軍墓地内に昭和11年6月に建立された満州事変戦死病歿者合同墓碑を記念して発行された絵葉書です。
福知山陸軍墓地2
福知山陸軍墓地の正門。奥の最上段に満州事変戦死病歿者合同墓碑があります。
福知山陸軍墓地満州事変戦歿者合同墓碑
満州事変戦死病歿者合同墓碑。
福知山平和公園 平和墓地
福知山陸軍墓地り市街地を望む。
福知山陸軍墓地満州事変戦没者002
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満州事変戦死病歿者合同墓碑に祀られている英霊の方々の名簿。最上階級は大尉ですね。
福知山陸軍墓地1
福知山陸軍墓地は戦後荒廃しましたが、昭和32年より再整備され現在は平和墓地と名を変え現存しています。
福知山陸軍墓地2
現在の満州事変戦死病歿者合同墓碑。
福知山陸軍墓地4
台座は当時の物ですが、塔身は進駐軍により撤去・破壊されたため、現在は昭和33年に新たに作られた「忠霊塔」を据えています。

古絵葉書・津衛戍病院娯楽室愛国寮竣工記念絵葉書

津衛戍病院愛国寮001
津衛戍病院内に建てられた娯楽室・愛国寮の竣工を記念して発行された絵葉書セットです。愛国寮は各地の愛国婦人会の支部が寄付して建てた陸海軍病院の保養施設でした。この愛国寮は愛国婦人会三重県支部が寄付し、昭和10年に完成したものです。
津衛戍病院愛国寮002
津衛戍病院娯楽室・愛国寮の外観。窓を大きく取り、採光を重視した造りになってます。
津衛戍病院愛国寮003
日光浴室(サンルーム)と大広間。
津衛戍病院愛国寮004
面会室と図書室。

ちなみに、津衛戍病院の愛国寮は陸上自衛隊久居駐屯地内に現存しています。
津衛戍病院愛国寮005
現存する津衛戍病院愛国寮。正面の窓の下が塞がれている以外は当時の面影を良く残しています。
津衛戍病院愛国寮006
ただ、やはり現在は放置されている感じで、当時の思いで寄付されたこの愛国寮。何とか保存活用してもらいたいものですが。

古絵葉書・京都衛戍病院愛国寮

京都愛国寮001
陸軍京都衛戍病院内に建てられた愛国寮の絵葉書です。愛国寮は陸軍及び海軍の病院内に建てられた保養・娯楽施設で、愛国婦人会の各支部が寄付したことによります。この愛国寮は愛国婦人会京都支部が寄付したものです。
「アジア歴史資料センター」所蔵の資料によると、昭和9年に寄付の申し出があり、昭和10年8月3日に竣工式と献納式が行われたとあります。なので、昭和10年の建物となりますが、かなりのモダンな建物ですね。あと、かなり採光を重視した設計となっています。

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舞鶴要港部病院愛国寮絵葉書

古絵葉書・郡是製糸株式会社園部工場全景

郡是製糸園部工場全景001
郡是製糸株式会社園部工場は明治43年に創業した綾部市に本社を置く郡是製糸株式会社の工場の1つでした。大正8年に最盛期を迎え、現在の国道9号線から法務局園部支局の範囲までありましたが、昭和に入ってからは次第に衰退し、昭和16年に閉鎖されました。この絵葉書は最盛期頃に近い郡是製糸株式会社園部工場の全景を撮影したものと思われます。
郡是製糸園部工場001

郡是製糸園部工場004
以前紹介した記事、古絵葉書・郡是製糸株式会社園部工場の絵葉書セットに当時の園部工場を詳しく紹介した絵葉書がありますで、そちらもご覧ください。

※関連記事
古絵葉書・郡是製糸株式会社園部工場

古写真・第一国立銀行本店(東京第一銀行・明治29年以降撮影)

東京第一銀行001
第一国立銀行は明治6年に渋沢栄一により設立した日本最古の銀行で、後の第一勧業銀行、そして現在のみずほ銀行に繋がる銀行です。
この第一国立銀行本店の建物は兜町の海運橋東詰に建てられた擬洋風建築の洋館で、設計は現在の清水建設2代目・清水喜助です。明治29年、第一国立銀行は第一銀行に改称されたため、この写真は明治29年以降に撮影されたものと思われます。
第一国立銀行本店1
別アングルから撮影された第一国立銀行本店。この写真も明治29年以降に撮影されたものと思われます。
第一国立銀行だった第一銀行本店の建物は明治35年に辰野金吾設計の2代目本店へと建て替えられました。

古絵葉書・陸軍糧秣本廠正門

陸軍糧秣廠001
陸軍糧秣廠は兵士の食糧や軍馬の飼料を管理した部署であり、本廠は東京にあり、支廠は全国各地に置かれました。
これは陸軍糧秣本廠の正門部分を写した絵葉書です。
陸軍糧秣廠003
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正門の看板を拡大しました。「陸軍糧秣本廠」までは解読できましたが、そこから下は不鮮明で分かりませんでした。

古写真・米軍撮影の緑十字機仕様の一式陸上攻撃機(沖縄・伊江島飛行場での撮影か)

緑十字一式陸攻001
機体を白く塗装し、緑十字の印をした、いわゆる緑十字機仕様の一式陸上攻撃機です。
終戦後、GHQ最高司令官のダグラス・マッカーサーは日本政府に対し、マニラへの降伏使節派遣を要請。その際、使用する旧陸海軍の機体は白く塗装したうえ、緑十字を描くよう命令しました。それが緑十字機でした。
この写真は米軍が撮影した緑十字機仕様の一式陸上攻撃機で、恐らく沖縄の伊江島飛行場に着陸した際の撮影と思われます。
一式陸上攻撃機の周りには多くの米軍兵士が集まってきています。
この時の様子はカラーで撮影された映像が残されています。


古絵葉書・駆逐艦巻波進水記念絵葉書

駆逐艦巻波進水記念絵葉書001
駆逐艦巻波は夕雲型駆逐艦の5番艦として舞鶴海軍工廠にて建造された駆逐艦で、昭和16年4月11日起工、昭和16年12月27日進水、昭和17年8月18日に竣工しました。竣工後は姉妹艦の長波と共に第31駆逐隊に所属しましたが、昭和18年11月25日に.ニューブリテン島沖にて米駆逐艦5隻の襲撃を受け沈没しました。この絵葉書は巻波の進水を記念して発行されたもので、2枚セットだったうちの1枚です。現在、巻波の艦名は海上自衛隊たかなみ型護衛艦3番艦「まきなみ」に受け継がれています。

古写真・本願寺大教校(現・龍谷大学大宮学舎本館 明治22年頃の撮影か)

龍谷大学001
現在の龍谷大学大宮学舎本館の古写真です。龍谷大学名大宮学舎は明治12年に建てられた擬洋風建築の建築で、国指定重要文化財となっています。竣工当時は本願寺大教校と称していました。正門の前には物珍しそうに校舎を眺める人々がおり、右には人力車が停められています。いかにも明治の文明開化の時代といった雰囲気です。
龍谷大学003
同時期の撮影と思われる別アングルの龍谷大学大宮学舎の古写真。手前に平屋の建物がありますが、現在この位置には新たな守衛所が建っています。。
龍谷大学002
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正門脇に掲げられた立札。上の立札の文字は不鮮明ですべて読むのは難しいですが、「〇〇式」と書かれており、その下の立札には「縦覧」の文字があります。龍谷大学のHPによると、明治22年に「図書館建設の準備として、大教校内に雑誌縦覧所を開設」とあり、立札の縦覧は雑誌縦覧所のことかと思われるため、この古写真の撮影時期を明治22年頃と推定しました。

古絵葉書・舞鶴町立幼稚園真砂会絵葉書

舞鶴幼稚園001
現在の舞鶴市にあった舞鶴幼稚園の絵葉書です。真砂会は舞鶴幼稚園の会のようです。
舞鶴幼稚園002
舞鶴幼稚園の園児の記念写真。
舞鶴幼稚園003
舞鶴幼稚園の園児たちの記念写真。撮影場所は田辺城。
田辺城2
写真が撮影された場所の現在の姿。
田辺城1
現在建つ二層櫓は昭和15年の竣工なので、絵葉書の撮影された時期は昭和15年以前となります。

冊子・舞鶴要港部付近三舞鶴町図絵鳥瞰図(舟積作・昭和10年)

三舞鶴町図絵001
昭和10年に三舞鶴市街自動車商会が発行した舞鶴の鳥瞰図です。表面に鳥瞰図が裏面に舞鶴の紹介がされています。
舞鶴要港付近三舞鶴町図絵ブログ用
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三舞鶴町図絵鳥瞰図。右端に舞鶴要港司令部・舞鶴要塞司令部検閲済みの文字があります。ちなみに舞鶴要港部は昭和14年に再び舞鶴鎮守府へと昇格しました。
鳥瞰図は吉田初三郎の初三郎式に似せた構図となっています。作者は右下に「舟積」の署名がありますが、調べても不明でした。
新舞鶴
舞鶴輪要港部・舞鶴海軍工作部(舞鶴海軍工廠)付近の拡大。当時記念艦的な扱いになってた装甲巡洋艦吾妻が大きく描かれていますが、各海軍施設は簡単に描かれているのみです。
舞鶴を中心とせる日本海交通鳥瞰図ブログ用
こちらは吉田初三郎作の舞鶴の鳥瞰図(大正13年)。
舞鶴海軍施設
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同じく舞鶴要港部付近の拡大。見比べるとやはり書き込みの緻密さや正確さは吉田初三郎の作品の方が優れています。

冊子・若狭小浜町(現・小浜市)鳥瞰図(吉田初三郎作・昭和8年)

小浜鳥瞰図1
生涯に3000以上の作品を制作し、「大正広重」と称された鳥瞰図絵師・吉田初三郎が昭和8年に製作した若狭小浜町(現・小浜市)の鳥瞰図です。
小浜町鳥瞰図ブログ用
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若狭小浜町鳥瞰図全体。名所旧跡だけでなく、市街地にある官公庁や学校、公共施設、商業施設も詳細に描かれており、昭和初期当時の小浜市の様子をうかがう事が出来ます。吉田初三郎の作品の特徴は、制作にあたって現地を実際に訪れ、取材したこともあり、大胆な構図の中でも個々の部分は詳細かつ正確に描かれており、構図を楽しめるだけでなく、実際に行ったかのように街の雰囲気も感じ取ることができる作品になってます。また、資料としても貴重なものとなります。
小浜城
鳥瞰図に描かれた小浜城跡。
IMG_7432.jpg
現在の小浜城跡。昭和初期には現在と同じく本丸内堀も完全に埋め立てられていたことが分かります。

古絵葉書・沼津海軍工廠開庁記念絵葉書

沼津海軍工廠001
沼津海軍工廠は横須賀海軍工廠の施設分散のため昭和18年6月に開庁した海軍工廠です。最盛期は23000人もの工員が働き、主に電波探信儀(レーダー)や航空機用の無線機を製造していました。この絵葉書セットは沼津海軍工廠の開庁を記念して発行されたものです。
沼津海軍工廠002
沼津海軍工廠本庁舎と思われる建物を描いたイラスト。写真ではなくイラストですが、資料の少ない沼津海軍工廠において、当時の姿を伺えるものとなっています。写真ではなくイラストなのは、戦時中という事もあり軍事機密的な理由があったからなのでしょうか。写真の工廠長は、中島省三郎海軍中将。海軍大学校の教官や空技廠の兵器部長を経て、沼津海軍工廠開庁と共に工廠長に就任しました。
沼津海軍工廠003
沼津海軍工廠の服務綱領。上部には沼津海軍工廠の工廠章があります。
戦後、沼津海軍工廠の敷地は田畑へと戻され、建物は学校へと転用されました。現在は学校や住宅地などへと変貌し、当時の面影はほとんど残されていません。

冊子・京阪電車沿線御案内鳥瞰図(吉田義人・作)

京阪電車沿線御案内
昭和初期頃に発行された京阪電車の沿線を描いた鳥瞰図です。
京阪電車沿線御案内鳥瞰図ブログ用
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鳥瞰図には現在の京阪電車だけでなく、かつては京阪電車の子会社だった現在の阪急京都線(新京阪電車)や愛宕山鋼索鉄道、そして比叡山ケーブルカーも描かれています。
作者は吉田義人。鳥瞰図の左上に「Yoshito・Y」のサインがあります。吉田義人はこの京阪電車沿線御案内だけでなく岐阜市鳥瞰図や比叡山等の鳥瞰図を数点描いているようですが、作品数もそんなに多くないのと吉田初三郎ほど知られていない絵師のため、研究等がほとんど進んでません。吉田初三郎作品と比較すると、吉田初三郎の作品が写実的でありながら大胆な構図で描かれており見るものにインパクトを与えるものに対して、吉田義人の作品は洋画を意識した作品のように見え、構図や描き方もあっさりとしたおとなしい無難な作風となっています。よく言えば「万人受け」、悪く言えば「つまらない」作風ですかね。吉田義人は吉田初三郎の人気に伴い多く生まれた鳥瞰図絵師の一人と思われます。ちなみに吉田義人は吉田初三郎とは関わりは無かったようです。
師団前
鳥瞰図の京阪本線に「師団前」という駅名が描かれています。これはかつて存在した陸軍第十六師団司令部に伴う駅のことで、昭和16年に藤森駅と改名され現在に至っています。

古絵葉書・帝国生命保険株式会社横須賀出張所新築記念絵葉書

帝国生命保険横須賀出張所001
帝国生命保険株式会社は明治21年に創立した保険会社で、現在の朝日生命保険相互会社の前身であります。
この絵葉書は帝国生命保険株式会社の横須賀出張所の社屋新築を記念して発行されたものです。
帝国生命保険横須賀出張所002
帝国生命保険株式会社横須賀出張所の新社屋外観。絵葉書のセットに建築概要が無いため竣工年、設計者・施工者の情報が無く不明なのが残念ですが、外観を見ると昭和初期頃の様相に思えます。背後の軍艦は恐らく長門型戦艦と思われますが、いくら横須賀とはいえ多少無理矢理感がw
帝国生命保険横須賀出張所003
新社屋及び社宅と内部。社屋に隣接して和風の社宅が建っているのが面白いです。
帝国生命保険横須賀出張所004
社屋内部その2。診察室も備えていたようです。

冊子・岐阜市鳥瞰図(吉田初三郎作・昭和10年)

岐阜市鳥瞰図ブログ用
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昭和10年に吉田初三郎が制作し岐阜市役所が発行した岐阜市の鳥瞰図です。吉田初三郎は大正から昭和初期にかけて活躍した鳥瞰図絵師で、「大正広重」と称された鳥瞰図絵師でした。
岐阜市鳥瞰図拡大1
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岐阜市街地の部分。奥に歩兵第六十八連隊と各務原飛行場が記されています。市街地にも主な公共施設が記されていますが、あまり細かくは描かれていません。この鳥瞰図のサイズ自体も通常の吉田初三郎作品よりも小さく、吉田初三郎自身の後書きである「絵に添えて一言」も無いことから、この岐阜市鳥瞰図は簡略化した廉価版と思われます。
金華山
金華山の山頂には天守閣が描かれていますが、これは現在の岐阜城天守閣ではありません。
岐阜城天守001
明治43年に建てられた岐阜城天守閣で、3層3階、木造トタン屋根の天守閣でしたが、昭和18年に焼失。現在の天守閣は昭和31年に建てられたものです。

※関連記事
古絵葉書・金華山頂ノ岐阜古城址天守閣

冊子・洛東洛西洛南洛北京名所交通図会(吉田初三郎作・昭和3年)

洛東洛西洛南洛北京名所交通図会001
昭和天皇即位の大礼に伴い、京都市教育会が昭和3年に吉田初三郎に依頼して作成された鳥瞰図です。
吉田初三郎は生涯に3000点以上の作品を手掛けた鳥瞰図絵師で、特に観光ブームが起きた大正期には依頼が殺到し、「大正広重」と呼ばれました。この作品は京都市の洛東・洛西・洛南・洛北の神社仏閣・名所旧跡を紹介した4作品の鳥瞰図を収めた冊子です。
洛東交通名所図会ブログ用
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洛東交通名所図会。西から東方面を望んだアングルで、現在の左京区・東山区を中心にした鳥瞰図ですが、現在の北区から伏見区までも範囲に入れられています。遠くには大原や宇治の平等院、琵琶湖までもが入っています。昭和3年の時期にはまだ巨椋池が存在していたようで、鳥瞰図にも描かれています。
洛西交通名所図会ブログ用
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洛西交通名所図会。こちらは南東方向から北西方向を望んだアングルで、京都御所のある中京区から金閣寺のある北区、そして嵯峨嵐山・渡月橋のある右京区から松尾大社の西京区までの範囲の鳥瞰図となります。愛宕山にはかつて鋼索鉄道(ケーブルカー)がありましたが、完成したのは翌年の昭和4年なので、まだ描かれていません。鳥瞰図には現在の嵯峨野線や阪急電車も描かれています。
洛南交通名所図会ブログ用
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洛南交通名所図会。こちらは三十三間堂や建仁寺のある東山区から伏見区、そして現在の長岡京市・八幡市・大山崎町を含めた範囲の鳥瞰図になりますが、遠くの奈良市や平等院、さらには大阪市や神戸市、淡路島までもが描かれているのは吉田初三郎の作品らしさと言えます。昭和3年の頃にはまだ存在していた巨椋池が大きく描かれています。巨椋池は昭和8年より干拓事業が行われ、昭和16年に干拓事業完了により消滅しました。
洛北交通名所図会ブログ用
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洛北交通名所図会。こちらは南西から北東を望んだアングルで、京都駅のある南区から左京区・北区・さらには比叡山までをも望む鳥瞰図となります。比叡山には現在も運営されている昭和2年開業の比叡山ケーブルカーが描かれています。

これらの作品は神社仏閣・名所旧跡をメインとした鳥瞰図で、いわゆる官公庁や銀行、企業などの街並みの施設がほとんど描かれていないので個人的には物足りなく感じますが、吉田初三郎らしい大胆かつ緻密な作品であることには変わりなく、十分楽しめる作品であることには変われありません。

資料・兵営生活絵日記(四国高知第百五十五部隊・四国軍管区歩兵第三補充隊)

兵営生活絵日記1
四国・高知の第百五十五部隊と冊子にある部隊に所属していたある兵士(氏名・階級不明)が書き残した絵日記です。第百五十五部隊は高知市にて編成された四国軍管区歩兵第三補充隊のことで、高知県の沿岸防衛の守備隊の任務にあたりました。この絵日記を描いた兵士はその兵士なのかもしれません。
戦争末期の物のせいか、この冊子の紙質は非常に悪く、ボロボロに劣化しており、ページをめくるだけで折れてしまう代物です。
しかし、この冊子には稚拙ながらも当時の兵営での生活の様子がありのままに描かれ、文章では伝えきれないリアルさを感じ取ることができます。
以下、内容を紹介していきます。「続きを読む」からご覧ください。

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古絵葉書・郡山町信用販売購買利用組合新築記念絵葉書

郡山町信用組合販売購買利用組合001
郡山町信用販売購買利用組合は昭和3年に設立した有限責任郡山町信用組合から昭和13年に改称した信用組合で、後の郡山信用金庫、現在の奈良信用金庫の前身であります。この絵葉書は郡山町信用販売購買利用組合時代に新築された社屋を記念して発行されたものです。
郡山町信用組合販売購買利用組合002
郡山町信用販売購買利用組合外観。昭和10年代の建物らしくモダンな建物です。
郡山町信用組合販売購買利用組合003
郡山町信用販売購買利用組合事務室。こちらもモダンで広々とした空間です。
郡山町信用組合販売購買利用組合004
来賓室と組合長室の金庫室。
郡山町信用組合販売購買利用組合005
3階の大講堂。組合だけでなく地域の式典にも使用されたものと思われます。
郡山町信用販売購買利用組合は昭和26年に郡山信用金庫と改称し、さらに昭和50年に奈良市信用金庫と合併し、現在の奈良信用金庫となりました。

古絵葉書・一府九県連合共進会天守閣と機山館(甲府城跡)

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古絵葉書・京都府立園部中学校本館(現・園部高等学校)

京都府立園部中学校001
京都府立園部中学校は明治20年に設立した船井郡高等小学校を始まりとし、大正15年に京都府立園部中学校として再設立された学校です。戦後、現在の京都府立園部高等学校として再編されました。この絵葉書は旧制の園部中学校の本館を撮影した絵葉書です。
園部城1
園部高校は旧制中学校時代から、かつての園部城の敷地に建てられています。園部城は元和5年(1619)に造られた園部陣屋を元とし、明治2年に大改築により櫓門や櫓が建てられ、園部城となりました。
園部城2

園部城3
園部城自体は明治5年に廃城となりましたが、旧制園部中学校の敷地となっても、櫓門や巽櫓・番所が残され、今に伝えられています。

古絵葉書・陸軍衛生材料廠(5枚組)

陸軍衛生材料廠001
陸軍衛生材料廠は陸軍の医薬品や医療器具の製造や補給、開発研究を行っていた機関で、元々は白金にありましたが、昭和4年に世田谷区に移転しました。この絵葉書は陸軍衛生材料廠の購買にて販売されていた記念絵葉書で、外袋の裏に「昭和十年十月十六日」の手書き文字があることから、移転後の絵葉書と思われます。
絵葉書は全部で5枚あります。「続きを読む」からご覧ください。

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古絵葉書・陸軍京都兵器支廠

京都陸軍兵器支廠001
陸軍京都兵器支廠は近くにあった陸軍第十六師団の兵器の管理・保管を行っていた施設です。
現在は京都警察学校の敷地として使用されています。
陸軍京都兵器支廠兵舎
今から25年ほど前に撮影した写真。この頃はまだ警察学校の敷地に陸軍京都兵器支廠の兵舎の建物が残されていました。
現在は当時の建物はすべて失わされています。

資料・豊郷尋常高等小学校の第27回運動会プログラム表(昭和9年10月3日)

豊郷小学校運動会001
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昭和9年10月3日、豊郷尋常高等小学校(現・豊郷小学校)にて行われた運動会のプログラム表です。
演目を見てみると、徒競走やリレー、障害物競走、玉入れ、綱引きなど今と変わらない演目が並んでいます。また、時期的にまだ戦時色が薄いですね。
豊郷小学校全景
豊郷小学校001
豊郷小学校外観
豊郷小学校と言えば、昭和12年にヴォーリズ建築事務所の設計によって建てられた、この白亜の校舎が有名ですね。
アニメ「けいおん!」の学校の舞台となったことでも知られています。
初代豊郷尋常高等小学校1
ただ、この運動会が行われた昭和9年当時はまだ鉄筋コンクリート造の2代目校舎ではなく、明治20年完成のこちらの初代校舎でした。知名度的には2代目校舎に譲りますが、2代目校舎と同じく国登録有形文化財として保存されている貴重な近代建築です。

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古絵葉書・豊郷尋常高等小学校(現・豊郷小学校旧校舎)竣工記念
冊子・滋賀県豊郷尋常高等小学校(現・豊郷小学校旧校舎群)建築概要
資料・豊郷尋常高等小学校(現・豊郷小学校旧校舎群)開校式案内図

古写真・米軍撮影の熊本市郊外の農家への空襲写真(昭和20年8月頃か)

米軍撮影の熊本空襲ブログ用
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画像ではカットしてますが、「KUMAMOTO」のタグがあるため、熊本市郊外と思われる農家を爆撃した米軍撮影の写真です。KUMAMOTOのタグ以外は日時や作戦コードなどなく、写真でも場所を特定できる特徴的なものが写ってないため、空襲の起きた日時・場所など詳細は不明で、熊本市郊外の農村だろうとしか分かりませんでした。ただ、以前記事にした昭和20年8月10日の熊本鉄工所田迎航空機製作所への空襲の写真と同じ形で一緒にあったため、田迎航空機製作所の近隣で、8月頃の撮影ではないかと推測しています。
爆撃された民家
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爆撃された農家。まだ白煙を上げています。様子から見て直撃弾を受けた物と思いますが、農家の建物はすべて破壊され跡形もありません。隣の農家はかろうじて運よく免れたようです。
ハボック
遠くに写る米軍機。A-20ハボックという双発攻撃機で、南九州の串木野や阿久根の空襲でも使用された機体です。

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