古写真・明治20年代?の神戸港(神戸濱手市中)

明治30年代の神戸港
海に浮かぶ船から明治20年代ではと思われる神戸港の古写真です。
湾内に3本マストの船が4隻浮かんでます。
手前は旧居留地。居留地時代の洋館が写ってますね。

古絵葉書・舞鶴軍港 水雷団庁舎

舞鶴海軍水雷団庁舎
舞鶴海軍水雷団は、明治33年に舞鶴海軍鎮守府開庁とともに設置されました。
水雷団とは爆雷・魚雷を主兵装とする水雷艇・駆逐艦・潜水艇で編成される攻撃部と
機雷等を敷設する敷設艇で編成される敷設部で構成される部隊です。
舞鶴水雷団
こちらは、以前記事にした舞鶴海軍水雷団の正門の絵葉書です。
この絵葉書には庁舎は写ってませんが、奥に水雷団の兵舎が写ってます。

関連記事・古絵葉書 舞鶴水雷団

古写真・明治35年撮影の大阪麦酒吹田醸造所(現・アサヒビール)

大阪麦酒吹田醸造所
台紙の裏に「明治三十五(中略)アサヒビール似テ写ス」とあり、
明治35年にアサヒビール工場前で記念写真を撮影したものだと分かります。
工場の敷地の塀に「OSAKA BEER」とあります。
明治22年、大阪において「大阪麦酒」が設立。
明治24年吹田市に吹田醸造所が設立。写真に写っているアサヒビールの工場がその大阪麦酒吹田醸造所で、
現在のアサヒビール吹田工場です。

吹田工場には、創業当時の煉瓦の壁が一部保存されています。

大阪麦酒は、明治39年に札幌麦酒と日本麦酒とで合併し大日本麦酒株式会社を設立。
昭和24年に大日本麦酒株式会社が札幌麦酒と朝日麦酒に分割され、現在のアサヒビールになりました。
アサヒビールが社名になったのは戦後からで、戦前までは商品のブランド名だったわけですね。

古絵葉書・福知山衛戍地軍用水道 濾過池及浄水池作業図

福知山衛戍軍用水道009
キャプションに「福知山衛戍地軍用水道 濾過池及浄水池作業図」とある絵葉書です。
福知山衛戍地は、福知山市に駐屯していた陸軍歩兵第20連隊のことですが、
その連隊駐屯地に供給するための上水道施設の工事の模様のようです。
ただ、福知山の軍用水道のことを調べて見ましても有力な情報を得られず、
どこにあったのか不明です。
この絵葉書は使用済みで、消印は大正3年になっておりますので、
大正期の間に完成したと思われます。

古絵葉書・明治後期頃の横浜港大桟橋

横浜港
明治後期頃撮影と思われる横浜港大桟橋の手彩色絵葉書です。
左端にある煉瓦建築は、明治26年完成の横浜築港事務所。
かのジョサイア・コンドル設計の建物です。

古絵葉書・福知山陸軍墓地

福知山陸軍墓地2
以前紹介した福知山陸軍墓地の別アングルの絵葉書です。
福知山陸軍墓地は、現在平和公園となってますが、陸軍墓地時代の墓標や供養塔が
そのまま残され管理されています。
福知山陸軍墓地満州事変戦歿者合同墓碑
陸軍墓地の中央最上部には、「満州事変戦歿者合同墓碑」という慰霊碑が建てられていました。
現在は台座以下のみ残り、その上には元首相の芦田均氏による忠霊塔が建てられています。
戦後のある時期に塔身のみ撤去され、新たに作られたのでしょうか。

※参照 kanレポート・福知山陸軍墓地
福知山平和公園 平和墓地
陸軍墓地側が見た写真の絵葉書。遠くには福知山市街が見え、
立地のいい場所に作られていることが分かります。
陸軍墓地の近くにはかつて工兵第10大隊が駐屯していました。(大正14年岡山へ移転)

関連記事・福知山陸軍墓地ヨリ練兵場及ビ福知山町ヲ望ム


古写真・明治中期〜後期頃の横浜グランドホテル

横浜海岸グランドホテル
横浜グランドホテルは、明治22年に横浜海岸通に建てられたホテルで、
国際港横浜を代表するホテルとなり、海外の要人も数多く宿泊しました。
しかし、大正12年の関東大震災で瓦解し、それとともに営業も終了しました。

この古写真は、明治中期〜後期頃撮影と思われるもので、写真に着色した
手彩色写真です。

古写真・明治中期〜後期頃の歌舞伎座

歌舞伎座
歌舞伎座は明治22年に設立された劇場で、経営者はジャーナリストであり劇作家の
福地源一郎でした。
その後この洋風の外観の歌舞伎座は大改修が行われ、明治44年に完成しましたが、
外観は当初期の洋風から純和風へと変わりました。
しかし、歌舞伎座は大正10年に漏電で焼失。その後再建工事が行われ、
大正13年に鉄筋コンクリート製の歌舞伎座が完成します。
歌舞伎座(昭和期)
こちらが大正13年完成の歌舞伎座で、空襲で一度大被害を受けましたが、近年まで使用されていました。

古写真の歌舞伎座は、純和風の外観に大改修される前の姿で、明治中期から後期頃の撮影だと思われます。
改修後の歌舞伎座に比べ、初期の歌舞伎座は欧州の劇場のようで、いかにも文明開化の頃の建物という
印象を受けます。

古絵葉書・明治40年頃の京都岡崎(手彩色絵葉書)

明治後期の京都市街
明治後期頃の撮影と思われる京都市左京区岡崎一帯の遠景です。
手前の洋館は都ホテル(現・ウェスティン都ホテル京都)。中央奥には平安神宮。
その右隣の大規模な洋館は内国勧業博覧会の時の美術館(現存せず)。
その前には、内国勧業博覧会の際の回廊の建物があります。
さらにその前には、建設中の洋館が見えますが、これは京都商品陳列所の建物ではと思われます。

岡崎一帯は明治28年に開催された第4回内国勧業博覧会の会場でした。
博覧会終了後、跡地は岡崎公園として図書館・美術館・勧業館など
公共施設が立ち並びました。

この手彩色絵葉書は博覧会終了後の岡崎地区で、博覧会に使われた建物が京都商品陳列所の建物として
移築されている最中の様子であることから、明治40年頃の撮影と思われます。

古絵葉書・奈良大本営(奈良倶楽部)

奈良大本営
大本営とは、戦時中や事変の際に設置された帝国陸海軍の最高統帥機関です。
これは、奈良倶楽部という建物に大本営が置かれた時の絵葉書ですが、
奈良倶楽部を調べても該当の戦前の和風建築のデータが見つかりません。
建物は大規模な和風建築で、現在も残っていれば貴重な近代和風建築となるのですが、
恐らく現存していないものと思われます。

古絵葉書・大仁温泉ホテル

大仁温泉ホテル
大仁温泉ホテルは、箱根にあるホテルで、昭和15年に開業しました。
外観はモダニズム風のデザインで、展望浴場やサロンなどがありました。

古絵葉書・郡是製糸株式会社(明治後期頃)

郡是製糸株式会社明治41年
京都府綾部市に本社のあるグンゼは、明治29年創業の郡是製糸株式会社を前身とする企業です。
この絵葉書は明治41年の消印があり、それ以前の明治後期の郡是製糸株式会社の姿です。
現在記念館として保存されている旧本館は大正6年築。現在の本社社屋は昭和8年の建築なので、
の絵葉書にはまだそれらの建物は写っていませんね。

関連記事・郡是製糸本社新築記念

古絵葉書・敦賀名所 税関と桟橋

敦賀
敦賀市の大正期のものと思われる敦賀港の絵葉書です。
桟橋に貨物船が停泊し、荷物を税関に持って行っている様子でしょうか。
税関の建物は明治期の建築のようで、いかにも港の玄関口にふさわしい瀟灑な洋館です。
税関の建物は昭和初期に建て替えられたようで、現在は敦賀税関支所としてその役割を引き継いでいます。

古絵葉書・堰堤上の宇治川ライン口(モーターボート乗場)

宇治川ライン
宇治川ラインの誕生は大正13年。大峯ダム建設に伴い整備された道路で、
ダム湖ではモーターボートや遊覧船の運行も行われました。
この絵葉書はモーターボート乗場の様子で、左側は遊歩道用な感じで公園化していますね。

番外編・大正百年

今年2012年は、大正元年から数えて100年になる記念すべき年になります。
100年前と言うとイメージ的に明治なんですが、もう明治を過ぎて大正に入ってしまってるんですね。
まさに「明治は遠くなりにけり。」

そこで今回は番外編として、所有しております大正期発行の古書籍等を紹介してみようと思います。

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古絵葉書・野砲兵第九連隊

野砲兵第九連隊
野砲兵第九連隊は、明治29年に金沢で編成された部隊で、金沢第9師団の隷下部隊でした。
日露戦争では連隊長戦死という事態が起きています。
太平洋戦争中は沖縄や台湾を転戦。台湾で終戦を迎えました。

この絵葉書は明治後期のものと思われます。

古絵葉書・京都ステーションホテル

京都ステーションホテル
かつて京都駅前で営業していたホテルで、昭和3年に完成したホテルです。
全体的にスクラッチタイルを施し、塔屋上部には丸窓を設けるなど、
いかにも昭和初期の建築らしい建物ですね。

京都ステーションホテルは戦後も営業していましたが、昭和59年に廃業し、
現在は建物も失われています。

古絵葉書・陸軍歩兵第十八旅団司令部

歩兵第18旅団司令部
陸軍歩兵第18旅団は敦賀において編成され、司令部が置かれました。
18旅団は金沢の第9師団所属の部隊で、日露戦争にも参加しています。
この絵葉書は明治後期頃の撮影のものと思われます。

奥に旅団司令部の建物が写っていますが、様々な様式で建てられた師団司令部の建物と違い、
旅団司令部の建物はデザイン・大きさともに統一されていたようです。
第二十旅団司令部
※参考・福知山歩兵第20旅団司令部

現存している金沢の第6旅団司令部や京都伏見の第19旅団司令部、そして上の福知山第20旅団司令部の建物を
見ると分かる通り、正面に三角のペディメントの破風を設け、左右に翼部を伸ばしたシンメトリーの建物と
なっています。
旅団司令部の隷下の連隊の連隊本部の建物は基本的には似通っているとは言え、微妙にデザインに違いがあるのに対し、旅団司令部は全国の旅団全てで統一していたのが興味深いですね。

古絵葉書・吉田忠商店新築記念絵葉書(7枚組)

吉田忠商店1
吉田忠商店は京都市にあった呉服店で、かの大丸に並ぶ企業でした。
この絵葉書は、昭和6年に新店舗が新築された際に記念として発行されたものです。
7枚組となっており、新店舗等の様子が紹介されています。

残りの6枚は「続きを読む」からご覧ください。
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古絵葉書・三条市大崎浄水場

三条市浄水場
新潟県三条市にある浄水場で、昭和8年に完成した浄水施設です。
現在も当時の施設がほとんど残され、現在これらの施設は国指定登録文化財に指定されています。

古絵葉書・保津川鉄橋

保津川鉄橋1
現在、トロッコ列車の路線になっている嵯峨野線(山陰本線)の旧路線に架かる大きなトラス橋があります。
明治32年に完成した保津川橋梁で、当時、東洋一と呼ばれていました。
しかし、大正11年の脱線事故で鉄橋が破損。(嵯峨野線の前身である京都鉄道の創始者、田中源太郎も死亡)
修理されたのち昭和3年に新たに架けられました。
それが現在の保津川橋梁です。
初代の保津川橋梁は同年に名古屋市に移設され、向野跨線橋として現在も使われています。

保津川橋梁の橋台は煉瓦造りですが、アーチや隅石などの装飾を設けるなど、意匠的にも凝っています。

保津川鉄橋2
別のアングルからの撮影。
2枚とも明治末から大正期の頃と思われます。

古絵葉書・住友銀行四条支店

住友銀行四条支店
京都市にあった住友銀行の四条支店です。
昭和10年代らしい装飾のないすっきりとしたデザインですね。

古絵葉書・豊郷村砂山池・龍ヶ池・安食西揚水機場

豊郷村砂山池揚水機場
ヴォーリズ建築と、けいおん!の舞台で有名な旧豊郷小学校の近くに、
豊郷町の歴史を物語る2つの近代化遺産が遺されています。
「砂山池揚水機場」と「龍ヶ池揚水機場」で、この地の用水の苦労を物語る遺産です。

上の古絵葉書は四十九院地区にある砂山池揚水機場で、明治44年竣工の際に発行された絵葉書です。
砂山池揚水機場

砂山池揚水機場2
現在の砂山池揚水機場。竣工当時の姿をほぼ留めています。
木造の建屋の下は煉瓦造りですが、アーチ部分は当初から塞がれていて鉄管で揚水していたようです。
豊郷村龍ヶ池揚水機場
砂山池揚水機場から南へしばらく進んだ石畑地区というところに、龍ヶ池揚水機場かあります。
この龍ヶ池揚水機場も現存しています。
龍ヶ池揚水機場
現在の龍ヶ池揚水機場。同じく明治44年竣工。
砂山池揚水機場に比べて大分改修されていますが、面影は遺されています。
また、「タツガイケ」の文字が記された煉瓦造りの煙突も現存しています。
安食西揚水機場
こちらは安食西地区にあった揚水機場です。恐らく同じ明治44年竣工と思われます。
この揚水機場は現存はしていないようです。

豊郷町はかつては水不足により農業用水を人力で井戸から汲み上げ、田畑に使用する状況でした。
そうした状態を打開するために、明治42年「豊郷村耕地整理組合」を設立。
ポンプによる井戸水の揚水施設を建設し、人力に頼らない大量の用水を田畑に送る計画を立てました。
そして、明治44年。念願の揚水機場が完成し、現在に至るまで豊郷町の田畑へ水を送り続けています
説明板
※クリックで拡大します。
この揚水機場について、旧豊郷小学校内にも展示がされています。

古絵葉書・京都市仁和尋常高等小学校 新築校舎

仁和尋常高等小学校
仁和尋常高等小学校は、京都市上京区にある現・仁和小学校の前身で、
明治2年開校の「第九番組小学校」が始まりとなっています。
この絵葉書の新築校舎は、昭和9年の室戸台風による被害のため、破損した校舎に代わり
昭和12年に完成した鉄筋コンクリートの近代的な校舎です。
昭和10年代の建築らしく、装飾の無いすっきりとしたモダニズム建築のスタイルを取っています。

真ん中の階段室になっている塔屋3階窓から垂らされた、
「祈皇軍武運長久」「国威宣揚」
の垂れ幕が時代背景を映しだしています。

古絵葉書・配水地ヨリ見タル福知山町(福知山上水道)

福知山上水道
昭和8年に完成した福知山浄水場の配水地から眺めた福知山市街地の絵葉書です。
昭和8年当時は福知山町で、昭和12年に福知山市の市政が誕生しました。
完成当時、福知山浄水場は噴水が設置されたりと公園化もされており、
市民の憩いの場でもあったようです。
福知山町浄水場配水池
こちらが、以前紹介した福知山浄水場の正門です。
福知山町浄水場ポンプ場
ポンプ場の建屋です。
福知山町浄水場ポンプ場内部
ポンプ場建屋内部の様子です。
これら絵葉書の様式や感じから、今回紹介した一枚目の絵葉書とセットだったと思われます。

※関連記事 古絵葉書・福知山町上水道

古絵葉書・舞鶴海兵団(昭和新設時)

舞鶴海兵団(昭和新設時)
海兵団とは、海軍兵の下士官や新兵を教育する機関です。
各鎮守府に置かれ、舞鶴へは明治35年に設置されました。
しかし、ワシントン海軍軍縮条約により舞鶴鎮守府は大正12年に要港部へと格下げ。
海兵団は廃止となりました。
その後、海兵団跡地には大正14年に海軍機関学校が移転しました。
昭和14年、舞鶴要港部が再び鎮守府へと格上げ。海兵団も新たに設置する必要が出たため、
新たに東舞鶴後に敷地を得て新設されました。
それがこの絵葉書の舞鶴海兵団です。

現在、この海兵団だった敷地は舞鶴教育隊の敷地となり、当時の建物が今でも残っています。
舞鶴教育隊
海側から見た現在の舞鶴教育隊の姿です。
写真のベージュ色の建物は当時の庁舎で、絵葉書に写る建物です。
また、手前にある木造の建物も海兵団当時の建物です。

関連記事・舞鶴海兵団(明治〜大正期)

古絵葉書・舞鶴海軍下士卒集会所

舞鶴海軍下士卒集会所
舞鶴市の富士通りにあった海軍の下士卒集会所です。
下士卒集会所とは海軍の下士官兵の厚生施設で、運営は海軍の下士官親睦団体「海仁会」が行なっていました。。
海軍将校の厚生施設は水交社。准士官の厚生施設は海友社と呼ばれる施設でした。

関連記事 古絵葉書・舞鶴水交支社 古絵葉書・舞鶴海友社

古写真・明治初期頃の街並み(場所不明)

明治初期の街並み1
明治初期の頃の撮影と思われる街並みの古写真です。
写真にも台紙にも書き込みがなく、どこの場所を撮影したものかはわかりませんが、
手前の建物は明らかに日本建築の建物なので、国内であることは間違いありません。

写真を見た感じでは、手前側の道路に面した長い平屋の建物は元からあった家屋で、
そこから奥に行くに従い、新たに建てなおされたり区画整理されたりしているように見えます。
電線や電柱はなく、奥側の新たに区画された街路にはガス灯らしきものが立っています。

山の手側には洋館が建っています。
明治初期の街並み2
写真中央奥に建つ洋館群のアップ。
一番大きな2階建ての洋館は煉瓦造りのようで、かなり立派な建物です。
その右隣に平屋の洋館が2棟建ってますが、この煉瓦造りの洋館に付属する建物と思われます。
左側に日章旗が掲げられていますので、公的機関の建物でしょうか。
明治初期の街並み3
その洋館群の左下に建つ白亜の洋館。
小規模な2階建ての洋館で、洋館正面にはなにやら掲示板のようなものが見えます。
恐らく役場的な建物ではないかと思われます。

現段階ではどこの場所を撮影したものか全く不明です。
もし何かお分かりだという方は、情報をお寄せ下さい。

古絵葉書・曽木発電所

曽木発電所1
鹿児島県大口市の名所、曽木の滝の上流にまるで古代遺跡のように煉瓦の壁だけ残された建物があります。
その建物は旧曽木発電所遺構で、現在はダムの貯水により冬季は水没し夏の渇水時期のみ姿を表す
インパクトのある遺構であるため、その価値が最認識され国指定登録文化財に指定され、
保存整備されることになりました。

この絵葉書は操業していた当時のもので、現在も残る煉瓦造りの発電所建屋や建屋上部のヘッドタンクの他に、
水圧鉄管や木造の建物なども見えます。

曽木発電所は明治42年に「曽木第二発電所」として完成した発電所で、鹿児島県内でも最初期に位置する
大規模な発電所でした。
曽木発電所は明治39年に野口遵によって設立した「曽木電気株式会社」の操業で、当初は牛尾鉱山・大口金山への電力供給と近郊町村への電力・電灯の供給を目的とした電力会社で、創業当時は現在の曽木第二発電所の上流に第一発電所がありました。
その曽木電気株式会社は、水俣市にあった日本カーバイド商会と合併。「日本窒素肥料株式会社(現・チッソ)」となり、
この曽木第二発電所は、大口市の鉱山と日本窒素肥料の工場に送電するために作られた発電所でした。

昭和36年、下流にできた鶴田ダムにより、曽木発電所は廃止され、煉瓦の建屋はダム湖に沈むことになりました。
しかし夏の渇水期は水位が下がり発電所の煉瓦建屋の躯体が姿を表し、その古代遺跡のような幻想的な姿が話題となり、国指定登録文化財に指定され保存整備されました。

曽木発電所2
10年ほど前に撮影した整備前の曽木発電所遺構です。
曽木発電所3
整備前の状況は発電所建屋が半分くらい土砂に埋もれていましたが、
現在は土砂が撤去され掘り起こされています。
曽木発電所5
湖面に面した部分は比較的当時の姿を保っています。
曽木発電所3

曽木発電所6
煉瓦の建屋遺構は、まるで欧州の古城跡か古代遺跡のよう。
曽木発電所4
建屋上部にあるヘッドタンクの遺構。
絵葉書も写ってますが、このアーチ状の穴から建屋へ水圧鉄管が伸び、水を通して発電をしていました。
現在はこのヘッドタンクと水圧鉄管のあった導水路部分も掘り起こされ、再整備しています。

現在の曽木発電所遺構を紹介したサイトです。

古写真・国鉄シキ40形貨車(シキ40)

寝覚発電所11
寝覚発電所工事記録写真の中にあった1枚で、発電所の発電機部品の一部を輸送している古写真です。
輸送している貨車は「国鉄シキ40形貨車」で、昭和4年から昭和20年にかけて42両が生産された車両です。
車体には「シキ40」と書かれており、シキ40形の40番の車両ではないでしょうか。
写真をよく観察しますと、車体に色々書き込みがあり、その中に「水戸驛常備」と書かれており、
水戸駅に所属していた貨車と思われますが、その貨車が遠く離れた長野県の発電所工事の輸送に
使われてます。それは発電機等の機器が日立製作所による製作で、この写真は日立製作所から
搬出されて貨車に乗せられ出発しようと準備している姿ではないかと思われます。

関連記事・古写真・発電所工事の記録写真24枚(寝覚発電所か)