古絵葉書・観覧艦 軍艦吾妻絵葉書

軍艦吾妻絵葉書001
装甲巡洋艦・吾妻は明治33年にフランスのロワール社のサン・ナゼール造船所にて竣工し日本海軍が購入した軍艦です。
日露戦争では蔚山沖海戦と日本海海戦に参加。明治45年からは少尉候補生の練習艦として使用されていましたが、第一次世界大戦にも参加しています。
大正10年に海防艦となり、舞鶴機関学校の練習艦として使用。太平洋戦争中の昭和19年に老朽化により除籍・解体されました。
舞鶴機関学校所属練習艦時代は一般市民向けにも公開され、艦内は様々な展示がされていたようです。
この絵葉書は観覧記念として販売されていたもので、外袋には昭和8年6月6日付の記念スタンプが押されており、中には6枚の絵葉書が入っています。
以下に絵葉書を紹介します。「続きを読む」からご覧ください。
続きを読む
スポンサーサイト

古絵葉書・浪速区役所新築落成記念

浪速区役所001
昭和14年に建てられた大阪市浪速区、浪速区役所の新築落成記念絵葉書です。
昭和14年と言えば、モダニズム建築が流行した時代で、この浪速区役所もまさにモダニズム建築といった外観をしております。
浪速区役所002
講堂内部。モダニズムらしく装飾を廃したすっきりとした室内となっています。
浪速区役所003
1階事務室と応接室。応接室には一風変わった装飾がされています。
昭和20年3月13日以降のの大阪への相次ぐ空襲で浪速区は焼失しましたが、この浪速区役所は焼け残り戦後も使用され続けました。2000年代には大阪市内で唯一現存する戦前の区役所庁舎でしたが、2002年に庁舎建て替えのために取り壊されました。

冊子・近畿を中心とせる名勝交通鳥瞰図 (吉田初三郎・作画)

近畿を中心とせる名勝交通鳥瞰図表紙001
大正15年に大阪朝日新聞の付録として発行された近畿地方を描いた鳥瞰図のパンフレットです。
作画は大正広重と呼ばれ鳥瞰図絵師としてその名を馳せた吉田初三郎。大正末期頃から庶民の間に観光ブームが起き、
吉田初三郎はその流れによって多くの全国各地の鳥瞰図を制作。頒布し事業を拡大しました。
旅に出る余裕のない人、子供達はこうした吉田初三郎の鳥瞰図を眺め、まだ知らない街の姿に思いを馳せたのでしょう。
近畿を中心とせる名勝交通鳥瞰図ブログよう
※サムネイルのクリックで拡大します。
近畿地方を中心に据えた鳥瞰図。東は犬山から始まり西は神戸まで描かれ、金沢や広島、遠くには沖縄や台湾や北海道、樺太まで描かれてます。
中心は琵琶湖・京都・大阪。そこから大きく弧を描くような形で周辺の地形や街が描かれています。
吉田初三郎の鳥瞰図は初三郎式と言われる大胆な構図で知られてますが、都市を描いた狭い範囲の鳥瞰図より広域の鳥瞰図の方がより際立っているように思えます。

冊子・洛西名所図会(吉田初三郎 作画)

洛西名所図会リサイズ
※サムネイルのクリックで拡大します。
大正11年に発行された洛西の案内パンフレットで、吉田初三郎作画による二条から嵯峨嵐山までの鳥瞰図が収録されています。
吉田初三郎による京都市内の鳥瞰図は数が多く、公的機関から民間までそれぞれの場所・施設を中心として描いた様々な鳥瞰図が発行されました。この洛西名所図会もそのうちの一つです。
嵯峨
嵯峨駅(現・嵯峨嵐山駅)周辺の拡大。嵯峨嵐山地域は昭和6年に京都市に編入されるまで嵯峨町という自治体でした(鳥瞰図の描かれた大正11年当時は嵯峨村)。そのため、嵯峨役場や嵯峨公会堂といった村の施設が描かれています。これらに描かれた施設のうち、嵯峨公会堂や嵯峨役場は戦後の早い段階に失われたと思われ、明治30年築の嵯峨駅は2007年に取り壊し。戦前の建物で残されているのは嵯峨郵便局のみとなりました。(ただし、旧嵯峨郵便局は昭和初期建築とされ、鳥瞰図に描かれたものではないと思われる。)

冊子・嵐山名所図会附保津川くだり(吉田初三郎 作画)

嵐山名所図会001
昭和5年に発行された、吉田初三郎作画の嵐山・愛宕・保津川の鳥瞰図です。
嵐山愛宕鳥瞰図リサイズ
※サムネイルのクリックで拡大します。
観光パンフレットとして作られたため、学校や官公庁や企業などの建物は描かれておらず、もっぱら観光施設を中心に描いています。
愛宕山
愛宕山の拡大。戦前の愛宕山は嵐山駅から伸びたケーブルカーが走り、8合目の愛宕駅の周りにはホテルや旅館が建ち、遊園地もありました。また山頂付近にはスキー場もあり賑わっていたようです。
愛宕駅1
※現役当時の姿を撮影した愛宕駅の絵葉書。
しかし、昭和19年に戦時下での不要不急路線として廃止が決定。同時にホテル・遊園地・スキー場の施設も閉鎖され、戦後も復活することなく駅舎を含め廃墟となって現在も山中に残されています。

古写真・GHQ、米軍占領下の島津製作所旧本社屋(現・フォーチュンガーデン京都)

島津製作所(占領下)001
終戦後、日本に進駐してきたGHQは日本全国で主要な建物を接収し占領政策を開始しました。
京都も例外ではなく、米軍が進駐し市内の大規模な建物を官民問わず次々と接収し使用しました。
この建物は武田五一によって設計された昭和2年完成の島津製作所の本社屋。
写真には星条旗が翻り、「米軍兵舎」のキャプションがあります。
接収中は進駐軍の兵士たちの兵舎として使用されていたよようです。
島津製作所本社屋は昭和21年に米軍により接収、昭和27年に接収解除となり、本社は三条工場に移転していたため、旧本社屋は河原町別館として近年まで使用されていましたが、現在は「フォーチュンガーデン京都」という結婚式場としてリニューアルされ使用されています。

※関連記事
古絵葉書・島津製作所本店営業所新築記念(3枚組)
古写真・米軍・GHQ占領下の旧京都電燈本社屋(現・関西電力京都支社)
古写真・GHQ、米軍占領下の旧京都市公会堂東館(現・京都市美術館別館)

古写真・GHQ、米軍占領下の旧京都市公会堂東館(現・京都市美術館別館)

京都市公会堂東館(占領下)001
終戦後、日本に進駐してきたGHQは日本各地の主要な建物を接収し、京都市内でも進駐してきた米軍により官民問わずいくつかの建物が接収され進駐軍により使用されました。
昭和5年に建てられた京都市公会堂東館も終戦後に周囲の京都市美術館・京都市勧業館・京都市動物園とともに米軍に接収されました。
写真には「アメリカンクラブ レッドクロス」の文字があり、恐らく米軍の将校クラブとして使用されていたのではないかと思われます。
昭和27年に接収解除。昭和39年から京都会館別館として利用され平成12年から京都市美術館別館として現在もそのまま使用されています。

※関連記事 
古写真・米軍・GHQ占領下の旧京都電燈本社屋(現・関西電力京都支社)

古写真・米軍・GHQ占領下の旧京都電燈本社屋(現・関西電力京都支社)

京都電燈(占領下)
終戦直後、GHQの占領下となり、米軍に接収された旧京都電燈の本社屋です。
京都電燈株式会社は明治21年に創業し京都府と福井県を主とした電力事業を行っていた会社で、
昭和17年の戦時統制によって解散させられるまで存続しました。
写真の本社屋は昭和12年に武田五一設計により京都駅前に建てられたものです。
終戦時までは関西配電となっていたと思われますが、終戦後は進駐軍により接収。
写真に「京洛ホテル」と書かれているとおり、米軍専用のホテルとして使用されていたと思われます。
建物は戦時下の空襲対策のために黒く塗られた時のままの状態でそのまま使用されていたようです。
接収が解除されたのは昭和27年頃と思われ、前年に昭和17年に誕生した関西配電と日本発送電を再編する形で関西電力が誕生していますので、接収解除時にそのまま関西電力が建物を引き継いだのでしょう。旧京都電燈本社屋の建物は現在も後身の関西電力京都支社の建物として使用されています。
手前の木造の建物は壁に「京都府海外引揚者休憩所」の文字があり、舞鶴港へと引き揚げた元軍人や海外居住者が鉄道で京都駅へと到着した際の休憩所として建てられたものと思われます。
この写真はGHQ進駐軍占領下の京都、そして関西電力京都支社の建物の様子を伝える資料として貴重なものだと思われます。

古絵葉書・福知山広小路ニ於ケル猪崎新地芸妓連ノ福知山踊

福知山音頭001
昭和10年代頃の福知山市広小路での福知山踊りの様子を撮影した絵葉書です。踊っているのは北近畿有数の遊郭街、猪崎新地の芸妓たち。福知山音頭は福知山市では馴染み深い音頭で、私が中学生の頃までは夏休みの時期になると駅前通りに土曜夜店が開かれ、広小路通りには絵葉書のような櫓が組まれ、新地はすでに消滅していたので振興会の人たちが福知山音頭を踊っていました。
今でも行われているようですが、花火大会の中止以降、子供の頃に比べてだいぶ規模が小さくなった気がします。
また、絵葉書の街並みの風景も完全に様変わりしています。一番奥の角に建つ和風の建物は高校の頃まで現存していましたが、現在は失われています。絵葉書にも写る当時の建物で唯一残っているのは精肉店の中島本店のみとなってしまいました。

※関連記事
古絵葉書・福知山 広小路と公園地の遠望

古絵葉書・四宮発電所

四宮発電所001
四宮発電所は、明治43年に開業した京津電気軌道株式会社が建設した火力発電所で、京都市山科区四宮に明治45年に完成。現在の京津線を走る車両への電気供給に利用されました。
背後に描かれた「知るも知らぬも逢坂の関」は百人一首の句。京津線はその逢坂山を越えています。
現在の京阪京津線も京都市営地下鉄から始まり、逢坂山のきつい斜面を登る登山鉄道となり、浜大津で路面電車となる特異な路線となっています。

古写真・明治10年代頃撮影の天橋立

明治初期・天橋立001
明治初期頃撮影の宮津市・天橋立の古写真です。
奥に見えるのが天橋立。手前の森は古刹・智恩寺の境内で明応10年(1501)建立の重要文化財に指定されている多宝塔や明暦3年(1657)に中世の堂宇を改修した文殊堂他、江戸時代建立の庫裏など現在も残る建物が写されています。
智恩寺の周辺は門前町や手前の集落以外は全て田畑が広がる状態で、集落の建物もほぼ茅葺屋根の住居であり、江戸時代の風景が未だに残るようです。
明治初期・天橋立002
写真の台紙には「京都府丹後国宮津港字新濱 写真師 中川萬吉」とあります。
宮津市は明治9年に京都府の管轄となりますので、この古写真は明治9年以降の撮影となります。
恐らく明治10年代に撮影されたものではないかと思われます。
写真手前の集落辺りに大正14年、天橋立駅が完成。以後天橋立の最寄り駅として発展し、智恩寺手前の田畑一帯も商業施設や住宅が立ち並んでいきました。
明治の宮津007
こちらは以前紹介した明治30年代の宮津の写真。天橋立の反対側からの撮影なので比較はできないですが、宮津市街は明治30年代にはすでにかなりの建物が建ち並んでいます。

※関連記事
古写真・明治30年代撮影の宮津市街と天橋立

古絵葉書・端島坑九階建社宅(軍艦島・日給社宅)

軍艦島 日給社宅001
海底炭鉱の採掘所として江戸時代から始まった端島の炭鉱は明治時代より近代炭鉱として採掘が進み、明治23年に三菱が所有してから生産量が増大。端島は炭鉱の島として大いに栄えました。それに伴い島内での人口が増大。狭い島内の居住環境を確保するため島の周囲の埋め立てにより端島の拡大を実施。埋め立てられた箇所の周囲はコンクリートの護岸で覆われました。
大正5年、島内の居住空間に合わせた日本最初の鉄筋コンクリート造のアパートが完成(30号棟)。この時の島の姿が三菱長崎造船所で建造中だった戦艦土佐の姿に似ていることから「軍艦島」と呼ばれるようになりました。
続いて大正7年に日給制で働く鉱員のための9階建てのアパート群(16~20号棟)が完成。まとめて「日給社宅」と呼ばれたのが絵葉書の建物です。
絵葉書の写真が撮られた時期は不明ですが、絵葉書の様式から大正期であることは間違いなく、まだ7階から9階部分の一部が完成していないようにも見えます。しかし各階の部屋のベランダには布団や洗濯物が干され、階下には住人が歩くなど生活感あふれる写真となっています。
軍艦島は良質の強粘炭が採掘され栄えたことから軍艦島は戦前から病院・学校・商業施設・娯楽施設など福利厚生施設が充実していましたが、戦後のエネルギー政策の影響で昭和49年に閉山。住民の去った軍艦島は廃墟と化しました。
近年、日本でも最初期の鉄筋コンクリート造のアパート等が残る軍艦島は近代化遺産としての価値が見直されるようになり、2015年には「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」として世界遺産リストに登録されました。
 

祖父の軍隊時代までの来歴(祖父のアルバムより)

13陸軍曹長時代と祖母
私の祖父(2009年1月3日逝去)の日記とアルバムの古写真を見ていたら、祖父の戦前の来歴をまとめたいと思い立ち、記録として残すべくアルバムよりいくつか写真を抜粋しここに記します。
(アルバムは3冊。入営前と入営時からの福知山歩兵第20連隊時代・仙台陸軍教導学校時代・敦賀歩兵第19連隊時代)

続きを読むからご覧ください。
続きを読む

冊子・関東大震災全地域鳥瞰図絵(吉田初三郎・作画)

関東大震災全地域鳥瞰図ブログ用
※サムネイルのクリックで拡大します。
大正12年9月1日に発生した関東大震災は東京・横浜を中心とした京浜地区一帯を壊滅させる未曾有の大災害となりました。
この鳥瞰図は関東大震災発生の1年後の大正13年9月15日に大阪朝日新聞の付録として付けられたものです。
作成したのは大正広重として名を馳せた鳥瞰図絵師・吉田初三郎。吉田式の特徴ある鳥瞰図に各都市の被害の様子を描いています。
震源地
相模湾沖の震源地は波紋で表されています。
関東大震災鳥瞰図東京近郊
※サムネイルのクリックで拡大します。
東京市(当時)とその周辺の被害の様子。各箇所の被害状況が描き分けられています。
東京の被害は甚大で銀座煉瓦街などの明治以来の煉瓦建築は軒並み倒壊。相次ぐ火災で焼け野原となりました。
火災は東へ東へと流れている様子がしっかりと描かれ、特に右端にある被服廠跡は避難してきた4万人もの人々が火災旋風に巻き込まれ亡くなったという大惨事が起きた場所でした。
関東大震災鳥瞰図横浜・横須賀
※サムネイルのクリックで拡大します。
横浜及び横須賀の被害の様子。
戸塚・本牧・桜木町一帯が炎に包まれており、火災は山手まで迫っています。
平沼スタンダード石油の油槽所が倒壊し引火して大火災が発生。絵図でもひときわ大きく炎が描かれています。
横浜でも外国人居留地の洋館等が多く倒壊し、その大量の瓦礫で山下公園が造られたほどでした。
横須賀も海軍工廠の施設が大きな被害を受け、空母改装中の巡洋戦艦天城を含む数隻の艦艇も被害を受けました。

吉田初三郎が描いた関東大震災鳥瞰図は当時の惨事の様子を生々しく描いていますが、裏面には復興に取り組む各都市の様子や課題が文面にて書かれています。

古絵葉書・紀元二千六百年記念日本万国博覧会絵葉書

紀元二千六百年・日本万国博覧会001
昭和15年に神武天皇即位2600年を記念して全国的に行われた記念事業「紀元二千六百年記念行事」の一つとして、東京・横浜を会場とする日本万国博覧会が計画されました。
国際的な博覧会を目指し、170日間の期間の間に入場者数4500万人を目指すという国家的プロジェクトでした。
紀元二千六百年・日本万国博覧会004
「大正広重」として知られる鳥瞰図絵師の大家、吉田初三郎による紀元二千六百年記念万国博覧会の開場予想図。
東京湾の浚渫により誕生した晴海に日本館エリア、豊洲に外国館エリアを会場予定地としました。
紀元二千六百年・日本万国博覧会005
肇国記念館の完成予想イラスト。こちらも吉田初三郎の作画。
肇国記念館は日本館エリアの目玉となる予定の建物でした。
紀元二千六百年記念万国博覧会は開催を目指し工事が進められましたが、日中戦争による財政圧迫と軍部からの反対、諸外国の参加の減少により開催中止。工事は中止となり目玉になる予定だった肇国記念館は基礎工事のみで終了。結局完成したのは現存する会場へのアクセス橋として造られた勝鬨橋と万国博覧会事務所(戦後取り壊し)のみで、紀元二千六百年記念万国博覧会は幻の万博となりました。
紀元二千六百年・日本万国博覧会003
絵葉書の袋の裏面の案内。実は紀元二千六百年記念万国博覧会の前売り入場券はすでに発売されており、6枚綴り2冊で販売額は10円。当時の大卒初任給が約70円くらいらしいので、約3万くらいにはなるでしょうか。結構高いとは思いますが、それでもかなり売れたようです。さらには宝くじもついておりそれもあって売れたのかと思います。
しかし、万博は上記の理由により開催中止が決定。ただし、いつかは開催するという考えだったのか前売り券の払い戻しは行われませんでした。そして太平洋戦争に突入。結局戦後まで万国博覧会は開催されませんでした。この絵葉書の吉田初三郎の鳥瞰図の原画も会場に展示される予定だったのかもしれませんが、現在に至るまで原画は見つかっていないようで、恐らく空襲で焼失したのではと思います。
結局前売り券を買った人たちは損をしたことになりますが、終戦から25年後の1970年に開催された大阪万国博覧会にて特例で使用が認められ、その際は3000枚が利用。さらには2005年の愛知万博でも有効が認められ80枚が使用されたそうです。
捨てずに大切に保管していた人がようやく報われた結果となったようですが、記念として保管してた人でも空襲で亡くなったり焼失したりした人も多かったはずで、無念だったことだと思います。

古絵葉書・福知山衛戍病院保養室並娯楽室 新築記念絵葉書

福知山衛戍病院保養室並娯楽室001
福知山市役所の背後の伯耆丸跡の丘に建てられた陸軍の病院、福知山衛戍病院の保養室と娯楽室の新築を記念して昭和初期に発行されたと思われる絵葉書2枚です。福知山衛戍病院は明治31年に完成しましたが、昭和に入ると施設の老朽化は起きていたはずですし、建て替えも行われたと思われます。
福知山衛戍病院保養室並娯楽室002
保養室・娯楽室の外観。
福知山衛戍病院保養室並娯楽室003
内部の写真。場合によっては長い病院生活。暇を紛らわす娯楽を提供する施設は必要だったのでしょう。
もしかしたら、軍医さんとかの職員も利用していたのかも知りません。
福知山衛戍病院写真帖9
大正13年に出版された福知山衛戍病院に載っている娯楽室の写真。
明治期の建物でしょうか。古く隙間風が入ってきそうで建て替えが必要だったのもうなずけます。

※関連記事
古絵葉書・福知山衛戍病院
古書籍・福知山衛戍病院写真帖(大正13年)

古写真・園部町全景

園部町遠景002
戦前に出版された地誌の1ページの断片に載せられた園部町の全景写真です。
手前の建物は分かりませんが、奥に写る白いビルは昭和3年に建てられた旧園部銀行本店と思われ、近年まで京都銀行園部支店として使用されていました。(2009年取り壊し)。同じページに載っている福知山市街の全景写真のキャプションに「福知山市」とあることから、この園部町の全景写真も福知山市が市政を開始した昭和12年以降の戦前の撮影と思われます。

冊子・北丹鉄道沿線名所図会(吉田初三郎 大正13年)

北丹鉄道表紙001
大正12年に開業した北丹鉄道の沿線のパンフレットで、大正広重と評された吉田初三郎が沿線の鳥瞰図を描いています。
北丹鉄道は福知山駅から宮津駅までを結ぶ路線として宮津町(当時)の熱心な誘致で計画されたものの資金難により頓挫。
とりあえず第1期工事として福知山~河守間の路線が着工され大正12年に完成しました。
北丹鉄道鳥瞰図HN入り
※サムネイルのクリックで拡大します。
この冊子は開業1年後に吉田初三郎に依頼して描かれたもので、当時人気であった吉田初三郎に鳥瞰図を描いてもらうことで、
北丹鉄道が沿線の集客とアピールを狙ったものなのかもしれません。
この北丹鉄道の鳥瞰図は福知山から宮津までが描かれていますが、鳥瞰図の中心は沿線の多くを占める現在の福知山市大江町の名所旧跡がメインに描かれており、福知山市や宮津市は多くが省略されています。
北丹鉄道識001
※サムネイルのクリックで拡大します。
冊子の表紙裏にある吉田初三郎のコメント「絵に添へて一筆」
京都の出身であった吉田初三郎は幼いころから大江山の酒呑童子の話を聞かされていたようで、馴染みのある場所でもあったようです。
北丹鉄道1
北丹鉄道本社のあった福知山西駅。さすがにこちらは詳細に描かれています。
大江山発電
大江山発電所と元伊勢外宮。
千丈ヶ嶽発電所
元伊勢内宮と千丈ヶ嶽発電所(仏生寺発電所)
元伊勢の周りにはいくつか発電所が造られ、鳥瞰図にも3か所描かれていますが、現在も稼働しているのは内宮発電所のみです。
鳥瞰図では、河守駅から宮津駅までの路線が破線となっていますが、これは前出した通り、完成したのが福知山駅から河守駅までの路線で、河守から宮津まではまだ計画段階だったためです。
由良川鉄橋
鳥瞰図には北丹鉄道とは別の路線の鉄道省の省線である宮津線や山陰線なども描かれています。これは宮津線の由良川橋梁。別路線なのでキャプションはありませんが、完成当時も現在も京都府内で一番長い鉄橋であるため、しっかりと描かれています。
ただ、実際の由良川橋梁はプレートガーター橋であるにもかかわらず、鳥瞰図では何故かトラス橋になってます。

北丹鉄道は開業当初から資金難に苦しみ、また由良川の堤防上に路線を敷いていたため、由良川の氾濫で幾度も被害を受け常に経営難に苦しんでいました。戦後も営業は続いていましたが、路線は草が生い茂り、枕木は朽ち犬釘は抜けレールは蛇行している有様。カーブは曲線レールではなく直線のレールを並べてカーブにしていました。当然脱線事故も起きるため25km/hという低速で走行。それでも車体の老朽化もあり凄い揺れだったそうです。
昭和46年、北丹鉄道はついに運行休止。
北丹鉄道1214
北丹鉄道3216
こちらは営業終了時の福知山西駅と車両を撮影した写真です。
そして昭和49年、北丹鉄道は廃線が決定。会社も解散し北丹鉄道は姿を消しました。
北丹鉄道日藤トンネル1
北丹鉄道日藤トンネル2
現在、北丹鉄道の路線跡はほとんど残されていませんが、トンネルや橋脚等がいくつか残され、北丹鉄道の名残を伝えています。

※関連記事
古写真・昭和40年代ごろの北丹鉄道写真
冊子・福知山市鳥瞰図(吉田初三郎・昭和13年)
冊子・宮津橋立名所図会(吉田初三郎 大正13年)

冊子・三井物産株式会社造船部(現・三井造船玉野事業所)営業案内

三井物産造船部1
三井造船は大正6年に岡山県玉野市にて三井物産株式会社造船部として創業したのが始まりです。
昭和12年に株式会社玉造船所として設立。昭和17年に三井造船株式会社に社名変更して今に至ります。
この冊子は三井物産造船部時代に発行された玉工場(現・玉野事業所)の営業案内で、奥書はありませんが、内容から恐らく昭和5年頃と思われます。
31ページと工場の地図を含めた冊子は、図版を多く収録し紙も上質のものを使っているしっかりした冊子です。
追記にて内容の1部を紹介します。「続きを読む」からご覧ください。
続きを読む

古絵葉書・不動貯金銀行彦根代理店

不動貯金銀行彦根代理店001
彦根市土橋(現在の彦根市銀座町)に大正4年に開設された不動貯金銀行の彦根代理店です。
不動貯金銀行は昭和20年5月に他の8つの銀行と合併し日本貯蓄銀行となったため消滅しました。
日本貯金銀行は戦後に協和銀行となり以後合併等を繰り返して現在のりそな銀行へと至っています。
この不動貯金銀行彦根代理店の跡地も、りそな銀行彦根支店が建てられています。
この絵葉書には設計者が書かれていないため不明ですが、不動貯金銀行の店舗設計を手掛けた関根要太郎について研究しているサイトによると、彦根にも店舗建設のために訪れているという記述があり、この不動貯金銀行彦根代理店の建物も関根要太郎の設計の可能性があります。

古絵葉書・奥丹後大震災(北丹後地震)の実景 丹後山田及幾地の部(15枚)

奥丹後大震災001
昭和2年3月7日、丹後半島北部で発生したM7.3の北丹後地震は現在の宮津市・京丹後市・豊岡市で震度6を記録し、家屋の7割から9割までもが倒壊。京丹後市網野町・峰山町・与謝町野田川で火災が発生し8200件余りが焼失。死者は2925人負傷者は7806人という甚大な被害が出ました。
この絵葉書はその北丹後地震の与謝野町・岩滝町付近の被害の様子を記録し絵葉書にしたもので、15枚セットになっています。
外袋には「利益ハ罹災地ヘ寄付」とあり、売上金は被災地への義援金にあてられていたことが分かります。
戦前、絵葉書はお土産品という性格だけでなく、大きな災害や事件が起きた場合、それらを記録した絵葉書を発売し国内に伝えるという報道としての意味合いを持つこともありました。当時の人々はこれらの絵葉書を見て現地の惨状を知り得たわけです。
北丹後地震を報じた絵葉書のセットは5種類のみ確認されているようで、うち新たに確認された1種類が過去に大阪歴史博物館にて展示されたようですが、調べてみるとこの絵葉書セットは確認されている5種類の中には含まれていません。
もしかしたら未だ確認されていないものなのかもしれません。
絵葉書は15枚のセットとなっています。追記のページにて紹介しますので、「続きを読む」からご覧ください。
続きを読む

古絵葉書・愛知郡役所及郡会議事堂

愛知郡役所001
※コメント欄にてご指摘を受け訂正いたします。ご教授ありがとうございました。
この愛知郡役所と郡会議事堂は大正7年10月1日に愛知郡御器所村(現在の名古屋市昭和区永金町一丁目)にて建てられたものです。愛知県愛知郡は現在の名古屋市の西部・東部・南部に渡る面積を持っていましたが、徐々に名古屋市に編入されたり合併して市制を敷いたりと徐々に面積を狭め、現在愛知郡に所属する町は東郷町のみとなっています。
愛知郡役所及郡会議事堂は後には警察署等に利用されました。現在跡地は名古屋芸術大学の敷地となっています。

古絵葉書・神戸トアホテル

神戸トアホテル001
神戸トアホテルは明治41年にドイツ系資本によって開業したホテルで、下田菊太郎設計による本館は全ての客室に浴室がつくものでした。
トアホテルは外国人向けだけでなく日本人に向けても営業をしており、「東亜ホテル」という名で売り出していたようです。
トアホテルは神戸大空襲の被害も受けず終戦時でも現存していましたが、進駐軍の接収中だった昭和25年に原因不明の出火により焼失。跡地に神戸外国倶楽部が建てられました。トアホテルの建物は焼失しましたが、当時の石垣や石塀等の外構は現在も残されています。

古写真・名古屋高等工業学校

名古屋県庁001
名古屋工業高等学校は明治38年に東京・大阪・京都に次いで 4番目に設立された官立の高等工業学校でした。
昭和19年に名古屋工業専門学校と改称。昭和24年に愛知県立工業専門学校との合併により名古屋工業大学が発足。
現在に至ります。古写真の本館は昭和10年に焼失しました。
この古写真は明治末期から大正期の撮影と思われますが、何故か台紙には「名古屋県庁」と書かれています。
勘違いによる誤記でしょうか。

古写真・大阪裁判所(初代)

初代大阪裁判所001
初代の大阪裁判所は明治23年に現在の大阪市北区西天満の鍋島藩・津軽藩の旧蔵屋敷跡に建てられました。
煉瓦造一部3階建ての大きな洋館は大阪控訴院・大阪始審裁判所との合同庁舎で、大阪府庁・造幣局・砲兵工廠などとともに明治の大阪を象徴する建物でした。
しかし、この初代裁判所は明治29年に焼失。明治33年跡地に再び赤煉瓦の裁判所庁舎が建てられますが、明治42年に再び焼失。
大正5年に跡地建てられた3代目の庁舎は、昭和44年まで使用され続けました。
この古写真は初代大阪裁判所を撮影したもので、明治23年から明治29年までの6年間の間に撮影されたものになります。

古写真・大阪 中之島公園 自由亭ホテル

大阪中之島・自由亭ホテル
自由亭ホテルは大阪市中之島公園にある大阪市立東洋陶磁美術館の場所に存在した外国人向けの西洋料理兼ホテルでした。
自由亭ホテルの起源は幕末に長崎にて草野丈吉が開業した日本初の西洋料理店「良林亭」とされ、明治元年に大阪市の川口居留地の近くに自由亭ホテルとして西洋料理兼ホテルを開業しました。
この中之島公園の自由亭ホテルは明治14年にその支店として建てられたもので、明治初期に流行したコロニアル様式で建てられています。
ベランダの高欄には「JIUTEI HOTEL」の文字が掲げられており、外国人を対象に営業していたことが分かります。
ホテルの前には人力車と車夫が待機し、客の送迎をしていたのでしょう。
奥に見えるお屋敷は精華楼という料亭で、明治17年に自由亭ホテルに購入されました。
明治28年、自由亭ホテルから改称して大阪ホテルが開業。
大阪ホテル013
これは明治中期から後期頃に撮影された大阪ホテルで、明治29年に自由亭ホテル時代の建物を建て替え、煉瓦造りのホテルとなりました。明治32年、大阪倶楽部に売却され、大阪倶楽部ホテルとなりましたが明治34年に全焼。明治36年に再建されましたが大正13年に再び全焼。大阪倶楽部ホテルは廃業しました。
この古写真は明治初期の自由亭ホテルの姿を撮影した貴重なものと思います。

古絵葉書・芦生演習林事務所

芦生演習林事務所001
芦生演習林は現在の京都府南丹市美山町にある京都大学の研究林で、大正10年、当時の京都帝国大学が初めて設けた国内演習林でした。
この建物は大正12年に完成した演習林事務所で、同年の京都帝国大学農学部設置に伴い建てられたものと思われます。
演習林事務所はロッジ風の建物で、昭和6年に建てられた京都大学構内にある国指定登録文化財の農学部演習林事務所は、この芦生演習林事務所と共通の意識をもって建てられたように思われます。
この芦生演習林事務所は現存しており、現在も事務所として使用されています。

古絵葉書・横浜 神風楼

横浜・神風楼001
神風楼は横浜高島町に作られた高島遊郭において1番の規模と格式を誇る遊郭でした。
高島町へ移転前の港崎遊郭時代は伊勢楼と称していましたが、慶応3年に高島遊郭へと移転した際に神風楼と改称したようです。
神風楼は横浜を訪れる外国人にも人気で、絵葉書にも書かれている「NECTARINE No.9」はこの神風楼に外国人が書いた看板を掲げていたことから、外国人からは「ナンバーナイン」と呼ばれていました。
神風楼は明治14年の高島遊郭閉鎖によりさらに移転。七軒町に開業しました。
この絵葉書は七軒町時代の神風楼で、高島遊郭時代から呼ばれてきた「No.9」の看板を正面の三角破風に掲げています。
神風楼は横浜一の遊郭として栄えていましたが、明治33年に再び移転命令が下り、相次ぐ移転で費用がかさみついに廃業。建物はその後ホテル等に転用されたようですが、大正期に焼失したようです。

古絵葉書・堺市 大美野田園都市の洋風住宅

堺市・大美野田田園都市001
堺市にある大美野田園都市は昭和6年にヨーロッパの田園都市をモデルに作られた分譲住宅地でした。
関西土地株式会社によって開発された大美野田園都市は関西における郊外住宅地の先駆けとなった場所で、
以降、各地に郊外型住宅地が生まれていきました。
この古絵葉書は大美野田園都市開発を記念して発行された絵葉書の1枚で、昭和初期流行りの中流家庭用の洋風住宅となっています。大美野田園都市はヨーロッパの田園都市をモデルに作られていますが、和風建築も多く建てられています。
現在の大美野田園都市は当時の住宅は少なくなったものの、今でも何件か残されており、この絵葉書の住宅と思われる建物も調べたところ残されているようです。

古絵葉書・海舞鶴駅(舞鶴港駅)

海舞鶴駅001
海舞鶴駅の前身の舞鶴海岸荷扱所は舞鶴鎮守府の開庁に伴う軍需物資の輸送として、さらには国際貿易港となり発展した舞鶴港への物資輸送を目的として明治37年に設置されました。
大正2年に海舞鶴駅と改称。貨物だけでなく旅客も扱う駅となりましたが大正12年に旅客営業は廃止。
戦後、昭和41年に舞鶴港駅と改称されましたが、昭和60年に駅は廃止。現在は駅の施設は何も残されていません。
<?php include_once("analyticstracking.php") ?>