category  [近畿地方 ]

古絵葉書・丹波佐治堺卯楼

丹波佐治堺卯楼001
丹波佐治は現在の兵庫県丹波市青垣町佐治のことで、京都府福知山市と隣接している町です。
この絵葉書は佐治にあった堺卯楼という旅館を写したものです。
2階建ての古風な和風建築で玄関に大きく「旅館」と書かれた扁額を掲げ、玄関脇には「キリンビール」「カブトビール」の木の看板を掲げています。旅館業が主体だけど恐らく料理屋も営んでいたのでしょう。
丹波佐治堺卯楼002
通信欄を見ると、福知山市の内記4丁目にあった「額田屋」という旅館に宛てて出してます。
新年の挨拶状で比較的近い場所にあった両旅館は何らかの形で親しい間柄か同業者の組合みたいな関係だったのでしょう。
ちなみに堺卯楼も額田屋も調べた結果、どうやらすでに存在しないようです。
スポンサーサイト

古絵葉書・宇治川電気株式会社大阪事務所

宇治川電気株式会社001
宇治川電気株式会社は戦前の関西地区において存在した電力会社で、戦前の大手五大電力会社の1つでした。
宇治川電気は明治39年に京都にて設立。現在の宇治市に宇治水力発電所(現存・関西電力所有)を完成させるとそこで発電された電力をもとに京阪地区への電力供給を開始しました。
太平洋戦争開戦以前の京都府内には、琵琶湖疏水を利用した発電所(蹴上・夷川・墨染)を所有する京都市、京都府内一円の発電所を所有する京都電燈株式会社、そして宇治川電気株式会社の3社が競合し、結局潰し合いを防ぐため供給地域の分担が行われました。
昭和17年、国家総動員法により解散。発電所や社屋等の施設は新たに設立した関西配電の所有となり、戦後現在の関西電力となりました。
絵葉書は大正元年に竣工した大阪事務所です。

※関連記事
古絵葉書・宇治発電所

古絵葉書・近江水力電気株式会社姉川発電所

近江水力電気姉川発電001
姉川発電所は大正6年に近江水力電気株式会社によって建設・運営された水力発電所で、県下で2番目に運用開始された発電所でした。大正10年、運用をしていた近江水力電気株式会社は宇治川電気株式会社に吸収合併。昭和15年に運用開始された伊吹発電所により昭和19年に姉川発電所は廃止されましたが、煉瓦造の発電所建屋は現在も山中に埋もれる形で残されています。

古絵葉書・兵庫県立農事試験場但馬分場

兵庫県農事試験場但馬分場001
大正9年に現在の兵庫県朝来市和田山町枚田に設立した農業・畜産等の試験場です。
現在は同市安井に移転し兵庫県立農林水産技術総合センター北部農業技術センターとして稼働しています。
この絵葉書は昭和10年代に但馬分場の本館の新築を記念して発行されたものです。
いかにも地方の役所といった下見板の壁と瓦屋根の外観が愛らしく懐かしさを感じさせます。

古絵葉書・豊郷倶楽部

豊郷倶楽部001
※龍岡様よりコメント欄にて情報をいただきました。ありがとうございました。
豊郷倶楽部とキャプションのある古絵葉書です。絵葉書を見ると、広い敷地に表門・数寄屋風の主屋にハーフチンバーの洋館とかなりのお屋敷であり、紀念スタンプの「豊郷倶楽部竣工記念 大正二年」より大正2年に完成したことが分かります。
豊郷町と言えば現在の伊藤忠商事や丸紅の伊藤忠財閥を創立した伊藤忠兵衛の出身として知られます。
この豊郷倶楽部は兵庫県住吉村、現在の兵庫県東灘区住吉にて丸紅の従業員のための保養所として作られた施設のようです。

古絵葉書・鳴門要塞 門崎砲台もしくは行者ヶ岳砲台か

鳴門要塞・門崎砲台もしくは行者ヶ岳砲台
鳴門要塞は明治30年に着工した要塞で、当初は独立した要塞地帯でしたが、明治36年に由良要塞と合併したあとは由良要塞所属の鳴門地区砲台として運用されました。
鳴門要塞には門崎砲台・笹山砲台・行者ヶ岳砲台の砲台が3つ。柿ヶ原堡塁砲台の堡塁が1つあり24センチ榴弾砲などを設置していました。
絵葉書には24センチ榴弾砲が砲座に設置されている様子が撮影されています。
由良要塞は由良地区・友ヶ島地区・加太地区の三つの地域と鳴門地区に21の砲台と8つの堡塁を備えた大規模な要塞地帯でしたが、24センチ榴弾砲を設置していたのは鳴門地区の門崎砲台と行者ヶ岳砲台だけだったようで、深山重砲兵連隊が運用していたかはわかりませんでしたが、この絵葉書の砲台は上記の理由からそのいずれか2つの砲台だった可能性があります。

ところで、戦前の日本の要塞地帯には軍事機密を守るため、明治32年を制定された「要塞地帯法」という法律がありました。要塞地帯法は要塞地帯に指定された地域内では無許可での写真撮影やスケッチなどの記録は厳しく制限され、新聞に知らずに掲載された背後の山が実は砲台のある山で軍から差し止めを食らったという話もありました。
なので、この深山第一砲台の絵葉書のように砲台そのものが撮影され絵葉書となって販売されることはありえないのですが、この絵葉書が発売されたのは恐らく昭和10年代。その頃は航空機が発達し沿岸砲台の戦略的価値が低下しており、そのため砲台の絵葉書が発売されるくらいまで緩和されたのでしょうか。
現在、門崎砲台や行者ヶ岳砲台は鳴門大橋の工事やその他の道路工事等で大きく損壊し、一部を残してほぼ失われているようです。この絵葉書が門崎砲台もしくは行者ヶ岳砲台のいずれかを撮影したものであれば、今は失われた砲台の戦前の現役当時の砲台の運用の様子を今に伝える興味深い絵葉書資料です。

※関連記事・古絵葉書・由良要塞 加太地区 深山第一砲台

古絵葉書・由良要塞 加太地区 深山第一砲台

由良要塞・深山第一砲台001
日本と清の緊張が高まった明治22年に建設が決定した由良要塞は大阪湾へ侵攻してくる敵艦隊を紀淡海峡で迎え撃ち進入を阻止する要塞でした。その重要性から由良要塞は淡路島東部と和歌山県西部にまたがる由良地区・友ヶ島地区・加太地区の三つの地域と明治36年に編入された鳴門地区に合わせて21の砲台と8つの堡塁を備えた大規模な要塞地帯でした。
この絵葉書は加太地区にあった深山第一砲台を撮影したものです。
深山第一砲台は和歌山市加太地区にあった砲台で、明治32年竣工。終戦まで機能し終戦後は廃止されましたが、由良要塞の砲台跡で一番保存状態が良いことでも知られ、現在は整備・保存されています。
絵葉書は砲座に設置された28センチ榴弾砲が写されています。奥の2門は最大仰角で構えており、敵艦を砲撃するときはこのような仰角で曲射弾道つまり放物線を描く弾道になるほう砲撃し、敵艦の甲板を打ち抜く砲撃をしました。
砲の横にある数字は射角や距離を示したものでしょう。当時の大砲はまずは1発か2発撃って着弾点を確認し観測。目標との誤差を計算して砲撃という方法でした。
キャプションの深山重砲兵連隊は加太地区の砲台を管轄していた陸軍の部隊で、加太地区の各砲台の運用もこの連隊が行っていました。
ところで、戦前の日本の要塞地帯には軍事機密を守るため、明治32年を制定された「要塞地帯法」という法律がありました。要塞地帯法は要塞地帯に指定された地域内では無許可での写真撮影やスケッチなどの記録は厳しく制限され、新聞に知らずに掲載された背後の山が実は砲台のある山で軍から差し止めを食らったという話もありました。
なので、この深山第一砲台の絵葉書のように砲台そのものが撮影され絵葉書となって販売されることはありえないのですが、この絵葉書が発売されたのは恐らく昭和10年代。その頃は航空機が発達し沿岸砲台の戦略的価値が低下しており、そのため砲台の絵葉書が発売されるくらいまで緩和されたのでしょうか。
ただ、深山砲台に関しては大正10年頃より演習砲台として使われたようで、機密としての重要性はなくなったのかもしれません。
ともあれ、戦前の現役当時の砲台の運用の様子を今に伝える興味深い絵葉書資料です。

※関連記事・古絵葉書・鳴門要塞 門崎砲台もしくは行者ヶ岳砲台か

古絵葉書・二楽荘 

二楽荘001
二楽荘はかつて神戸市東灘区の六甲山の麓にあった西本願寺法主で伯爵の大谷光瑞の別邸でした。
大谷光瑞はシルクロード研究に大きな成果をもたらした大谷探検隊を結成したことでも有名です。
二楽荘は明治42年に完成。設計は友人で東洋美術や東洋建築に造詣の深い建築士・伊東忠太。
二楽荘は別邸としてだけではなく私塾や事務所・測候所・図書館まで設けられ大谷探検隊が持ち帰った文化財も展示され、半ば公的な施設だったようです。二楽荘は当時から有名だったようで、設計者の伊東忠太自身が新聞に連載したりしており、このような記念スタンプの押された絵葉書が発売されたのもうなずけます。
しかし、大谷探検隊や教団運営などの多額の負債と汚職事件により大谷光瑞は法主を辞任。その際に二楽荘は大谷探検隊のコレクションとともに大谷光瑞の手から離れ、大阪の実業家に売却。その頃の二楽荘は荒廃しかつての壮麗な姿からは見る影もない哀れな姿だったそうです。
大正7年、甲南中学の設立の際に二楽荘の建物を活用する案が持ち上がりましたが、結局立ち消えとなり、さらには昭和7年に不審火で焼失するという不幸ともいえる最期を遂げました。
現在、二楽荘跡地は宗教団体の施設の敷地となっています。

古絵葉書・白川発電所

白川発電所001
白川発電所は奈良県吉野郡上北山村にある水力発電所で、大正10年に運用開始になりました。
当初は大和電気という土着の電力会社だったようですか、絵葉書には宇治川電気株式会社白川発電所となっています。
大正10年、大和電機は宇治川電気に吸収合併され白川発電所の使用認可を受けていることから、白川発電所の建設中に吸収合併され、そのまま大和電気から宇治川電気へと引き継がれたのではないかと思います。
宇治川電気は戦前の電力会社の大手「五大電力」の一つで関西地方を中心に広く電力事業を手掛けていましたが、昭和17年に国家総動員法による解散を受け現在は関西電力の所有になっています。
所有の白川発電所の絵葉書は6枚組となっており今は失われてますが、かつては外袋に収められていたと思われます。

残りの5枚は「続きを読む」からご覧ください。
続きを読む

古絵葉書・大阪市内の不明モダニズム建築(銀行か?)

機能主義建築001
大阪市内にあったと思われるモダニズム建築です。かなり規模の大きい建物ですが、建物名が書かれていないため不明です。
機能主義建築004
ただ、右下の看板を拡大すると「ビフテキはスエヒロ本町店 東区本町二・交差点前」と書かれており、現在も営業している平野町スエヒロかと思われます。現在大阪市に東区はありませんが、1989年に中央区となるまでは存在してました。
機能主義建築005
営業室というキャプションがある絵葉書。左奥にカウンターの窓口らしきものが見えます。
機能主義建築006
第一応接室。機能主義スタイルなので装飾は廃しているとはいえ、贅を尽くした造りとなっています。
所有している1984年初版発行、1994年第6刷の近代建築ガイドブック関西編で調べましたが見つからなかったため、それ以前に取り壊されていた可能性があります。
また、所有している昭和10年刊の建築写真集第三編・昭和14年刊の建築写真集第四編(竹中工務店)、昭和12年・昭和13年・昭和14年刊の工事年鑑3冊(清水組)にも該当する建物はありませんでした。
何か分かる方はご教授くださいませ。

古写真・奈良県添上郡第一発電所

奈良県添上郡第一発電所001
台紙の裏に「奈良県添上郡第一発電所」の墨書のある写真です。
撮影時期は明治後期から大正期にかけてと思われます。
添上郡は明治13年に発足した郡で、戦後に合併で奈良市と天理市に編入。
2005年に添上郡最後の自治体だった月ヶ瀬村が奈良市に編入され、添上郡は消滅しました。
この第一発電所と明記のある発電所は添上郡内にあったようですが、具体的な場所は探してもわかりませんでした。
日本の水力発電所を取り上げた「水力ドットコム」様によると、奈良県での最初の水力発電所は明治45年創業の迫発電所、大正期では大正9年の室生発電所、大正10年の白川発電所、大正12年の樫尾発電所がありますが、どれも添上郡内ではないため、この第一発電所は今ではほぼ忘れられた村内のみで稼業していた発電所なのかもしれません。情報をお持ちの方からのご教授をお待ちしております。

古絵葉書・大日本国防婦人会関西本部会館

大日本国防婦人会関西本部会館001
大日本国防婦人会とは昭和7年から昭和17年まで存在した婦人団体で、戦地に出征した兵士を支援するため慰問袋を作成したり出征する兵士の見送りなど銃後と言われた内地からの支援活動を行った団体です。
大日本国防婦人会の始まりは昭和7年の上海事変勃発の際、大阪の主婦たちが自主的に出征兵士に対してお茶などを振る舞ったのが始まりで、当初は軍とは関係ない「大阪国防婦人会」という民間団体でした。
後に軍が支援をして「大日本国防婦人会」となり、全国に拡大しました。
国防婦人会と言えば戦前戦中の写真でも良く見られる白い割烹着に「大日本国防婦人会」と書かれた襷が良く知られていますが、これが大日本国防婦人会の会服でした。
しかし、戦争が激しくなるにつれ、女性の国民服はモンペへと変わってゆき、時局に合わせて大日本国防婦人会も大日本婦人会へと変わりました。
この建物は大日本国防婦人会の関西本部だった建物で、昭和12年の完成。昭和10年代の建物らしく装飾を廃した機能主義のすっきりとした建物です。
戦後は一時期米軍が接収したあと大阪府婦人会館として利用され、1994年からは大阪府警察本部上町別館となり近年まで利用されましたが、2014年に解体され姿を消しました。

古絵葉書・株式会社六十八銀行

六十八銀行001
六十八銀行奈良支店は奈良市の電信局跡地に大正15年に建てられました。
設計は日本銀行関連の建築を多く手掛けた長野宇平治。施工は大林組。
六十八銀行は昭和9年に合併して南都銀行となり現在に至りますが、この建物はそのまま南都銀行本店として使用され、
1997年に国指定登録文化財に指定されました。

古絵葉書・兵庫県氷上郡佐治町西部

氷上郡佐治町002
兵庫県氷上郡佐治町は現在の兵庫県丹波市で、大正10年に佐治町が設立。1955年に合併により青垣町となり、2004年の平成の大合併により氷上郡の6町が合併し丹波市となりました。
この絵葉書は様式から昭和10年代のものと思われます。
町の建物の多くはかつて宿場町だったころの面影を残す町屋造りがほとんどを占めてますが、加古川に架かる橋は近代的なコンクリート橋になってます。

古絵葉書・航空第三大隊本部

航空第三大隊本部001
航空第三大隊は現在の滋賀県八日市市に設立された陸軍航空部隊です。
大隊本部建物は通常の兵舎と違い、観測用の望楼が屋根の上に付けられています。
航空第三大隊は大正9年に設立され、元々存在していた八日市飛行場に配属されました。
八日市飛行場は戦前戦中を通じて使用され、戦後は廃止。跡地は民間に払い下げられたりしましたが、
現在も大隊の門柱や掩体壕などが残されています。

古絵葉書・長谷水力発電所

長谷水力発電所001
三菱鉱業により生野銀山用の発電所として明治34年に運用が開始された小規模な発電所です。
この絵葉書の宛名面に「44.11.11」の書き込みがあり、明治44年11月11日に絵葉書を入手した人により書き込まれたものと思われますが、宛名面が明治末期から大正初期の様式を持っているため、書き込みとほぼ同時期の撮影と思われます。
絵葉書に写る鉄橋は現在もそのままで、発電所も当初のものかは分かりませんがほぼ同規模の発電所建屋があり、現在も三菱マテリアルが所有していますが運用自体は休止状態のようです。

古絵葉書・生野鉱山本部

生野鉱山本部001
明治元年に日本初の官営鉱山となった生野銀山は明治22年に皇室財産へと移管されたあと、明治29年に三菱合資会社へと払い下げられました。この絵葉書は宛名面の切手貼りつけ部分に「44.11.11」の書き込みがあり、明治44年11月11日に入手した人が書きこんだものと思われますが、絵葉書自体も宛名面が明治末期から大正初期の様式を持っていますので、書き込みの年とほぼ同時期の撮影のものと思われます。
生野鉱山に関しては以前、明治16年から明治21年の間に撮影された生野鉱山局時代の古写真を紹介しています。
生野鉱山局遠景
背後の山や煙突、山の中腹にある煙突のある建物等を見比べると生野鉱山局の古写真よりも右側からの撮影であることが分かります。撮影から20年余り経った生野鉱山は一部変わっている箇所は見受けられるものの、ほぼ官営時代の姿を踏襲しているようです。
ただ、背後の山に関しては明治16年~明治21年の生野鉱山局時代より植生が戻ってきているように見えます。
20年の間に鉱害対策がなされたのでしょうか。

※関連記事・古写真・生野鉱山局(生野銀山)2枚(明治16年~明治21年撮影)

古絵葉書・生野鉱山発電所

生野鉱山発電所001
銀山として有名な生野鉱山で事業用に使用されていた水力発電所です。
運用は大正8年。絵葉書の建屋は建て替えられましたが、つい最近まで煉瓦風の新しい建屋があったようです。
しかし、現在はその建屋も撤去されており、導水管と「三菱マテリアル 生野発電所」の石碑のみ残されています。

関連記事・古写真・生野鉱山局

古絵葉書・生野町公会堂

生野町公会堂001
現在の兵庫県朝来市生野町にあった公会堂です。外観は戦前の地方都市の公共建築によく見られた下見板張りの洋風デザインですが、内部は格天井に床の間と違い棚、花頭窓のある平書院という伝統的な和風建築である書院造の内装になっています。
この生野町公会堂ですが、同じく戦前に存在した旧生野町役場と外観のデザインが良く似ています。
生野町役場001
以前紹介した生野町役場の絵葉書です。軒回りの格子のデザインや下見板張りの外壁などそのままですが、さらに左奥に写る1階にある切妻屋根の庇が生野町公会堂の入り口とほぼ同じのように見え、窓の配置や建物周りの石柱柵も同じです。
情報が見つからないので確定はできませんが、恐らく生野町役場と生野町公会堂は同じ建物で、1階が役場2階の大広間が公会堂として使用されていたのではないかと思われます。

※関連記事 古絵葉書・生野町役場

古絵葉書・生野町役場

生野町役場001
生野銀山で有名な兵庫県朝来市生野町にあった生野町役場の絵葉書です。
明治元年の官営鉱山時代から払い下げ後の三菱時代を経た生野銀山のお膝元の生野町は鉱山の町として大いに栄えました。
しかし、昭和48年の閉山以降は山間の静かな町へと戻っています。
この生野町役場は鉱山町として栄えた町の役場らしく洋風のしゃれた作りとなっています。
現在生野町の市街地には明治19年築の擬洋風建築である旧生野警察署や、明治の官営鉱山時代から昭和初期まで建築された旧生野鉱山官舎群など数多くの近代化遺産が現存し、市街地も古い町並みが残されていますが、この生野町役場は現存していません。

※関連記事 古写真・生野鉱山局

古絵葉書・蒲生郡役所(現・白雲館)

蒲生郡役所001
現在の滋賀県近江八幡市にあった蒲生郡役所です。
この郡役所の建物は当初から郡役所として建てられたものではなく、元々は明治10年に八幡東学校として建てられたものでした。
明治26年に学校としての役目を終えた後、明治28年に八幡町役場になり明治33年に蒲生郡役所として使用されました。
大正11年に蒲生郡役所が移転した後は再び八幡町役場となりました。
白雲館
戦後は様々な施設に使用された後、平成4年に近江八幡市に移管。失われていた望楼など明治の姿に復元するなどの修復工事を経て、白雲館と名付けられ観光案内所として使用されています。平成10年には国指定登録文化財に指定されました。
絵葉書には蒲生郡役所と書かれていますので明治33年から大正11年の頃のものであることが分かります。
この頃には屋根にあった望楼は撤去されていたようです。

古絵葉書・豊郷尋常高等小学校(現・豊郷小学校旧校舎)竣工記念

豊郷小学校袋
滋賀県豊郷町にある豊郷小学校は、昭和12年に建てられた鉄筋コンクリート造の近代的な小学校で、
完成当時は「東洋一」と謳われた小学校でした。
設計は著名な建築家であるウィリアム・メレル・ヴォーリズ。
手すりに設置されたウサギとカメの像は小学校のシンボルとなってます。

この小学校は平成11年の校舎解体計画により危機的状況に陥りましたが、
解体反対が全国に知られるようになると保存を求める声が強まり、
この校舎は保存・改修されて図書館や資料館などが設けられた町の施設として
再スタートすることとなりました。

また、去年放送されたテレビアニメ「けいおん!」の主人公たちが通う高校のモデルとなったことで、
多くのファンが訪問することとなり、特に主人公たちが部活を行う部室(音楽準備室)は、
アニメでの部活の雰囲気が再現され、ファンの交流の場ともなっています。

この絵葉書はその豊郷小学校旧校舎が竣工した記念として発行されたもので、
私の手元には残念ながら3枚しかありませんが、元は講堂や図書館を含む10枚近くの
絵葉書が入っていたと思われます。

今回は入手したその3枚を紹介します。
豊郷小学校全景
豊郷小学校の全景。
中央の建物が本館。正面玄関の上の3階が音楽室。
右奥が講堂で、左手前が旧図書館。旧図書館には現在は観光案内所が入ってます。
基本的に大きな改造を受けなかったためか、現在とほぼ同じ姿です。
豊郷小学校模型
豊郷小学校校舎の模型。ウォーリズ設計事務所製作のものでしょうか。
豊郷小学校廊下
豊郷小学校校舎内の廊下。現在も当時とほぼ同じ姿を保ってます。
今回入手した中には、残念ながらウサギとカメの手すりや講堂・図書館・貴賓室。
そして、音楽室や音楽準備室の絵葉書はありませんでしたが、
今後も探していく予定です。
豊郷小学校001
竣工から数年経った頃と思われる豊郷小学校の絵葉書。(昭和18年の消印あり)
竣工記念絵葉書に写る樹木が少し育っていますね。
この絵葉書の風景は実習用の畑が駐車場になっていること以外現在と変わりません。
豊郷小学校外観
現在は整備され、地元の図書館等に利用されるほか、上記のアニメや映画のロケ地としても使用されています。

追記
豊郷小学校竹中工務店
昭和14年刊の建築写真集第四編(竹中工務店刊)に豊郷小学校が載っています。
こちは背面からの撮影ですね。

※関連記事・古絵葉書 豊郷尋常高等小学校

古絵葉書・豊郷尋常高等小学校

豊郷小学校001
けいおん!の高校のモデルとして有名になった滋賀県の豊郷小学校の戦前の絵葉書です。
豊郷小学校の校舎はW・M・ヴォーリズ設計で、小さな町に誕生した白亜の大規模な校舎は
豊郷村(当時)の村民の誇りでした。
この校舎の建築費用を負担し寄付したのは近江商人の古川鉄治郎。絵葉書の右上にある銅像の人物で
現在も校舎前に銅像が置かれています。
豊郷小学校は2001年に解体問題が起きましたが保存が決定し、現在は町の複合施設として使用されています。
2012年には国指定登録有形文化財に指定されました。
絵葉書の写真は校庭に植えられている樹木がまだ小さいことと、現在駐車場となっている実習用の畑以外は
現在とほぼ同じ風景を保っています。
豊郷小学校全景
こちらは以前紹介した竣工記念絵葉書の豊郷小学校。1枚目の絵葉書は竣工記念絵葉書より数年経った頃の撮影と思われます。1枚目の絵葉書は竣工記念絵葉書の左端に写る旧図書館(現・酬徳記念館)の屋上から撮影したものと思われます。
豊郷小学校の戦前の絵葉書は所有している竣工記念絵葉書と今回の絵葉書、そして豊郷小学校に展示されていた物の3点確認できました。他にもあるかもしれません。

※関連記事・古絵葉書・豊郷尋常高等小学校(現・豊郷小学校旧校舎)竣工記念

古絵葉書・陸軍歩兵第九連隊(大津時代)

歩兵第九連隊001
歩兵第九連隊は明治7年に大阪にて編成され、明治8年に大津市に移駐しました。
以来、日清・日露の戦争を戦い抜きましたが、大正14年の宇垣軍縮により京都の伏見に移駐が決定。
郷土の誇りであり重要な経済基盤であった第九連隊の移駐は地元市民からの反対も根強く、
結果、第三大隊が残ることになりました。
現在、連隊の跡地は大津商業高校となり、当時の建物等は失われています。
最初の絵葉書は連隊本部の建物。
歩兵第九連隊002
大津練兵場。
第九連隊の駐屯地前にあった練兵場。跡地は現在、皇子山総合運動公園となっています。
歩兵第九連隊003
将校集会所より兵営と琵琶湖を望む。
将校集会所は連隊内の将校クラブの施設ですが、どこの連隊もやや小高い場所に建てられていました。
兵舎はロの字に配置され、真ん中に営庭が作られていますが、現在の大津商業高校のグラウンドと
同じ位置のようです。

古絵葉書・滋賀銀行本店新築記念絵葉書(絵葉書3枚・建築概要付)

滋賀銀行本店1001
滋賀県を中心に展開する滋賀銀行の本店新築記念絵葉書です。
滋賀銀行は明治12年に国立銀行の一つであった第百三十三国立銀行を起源とし、
昭和8年に八幡銀行と合併。株式会社滋賀銀行が誕生しました。
この新築記念絵葉書の本店建物は昭和9年の1月10日に起工。同年10月17日に完成していますので、
合併そして滋賀銀行誕生に伴って新築されたのでしょう。
この新築記念絵葉書は、絵葉書3枚に加え建築概要・本店平面図が記された小冊子が付属しています。
以下、紹介していきます。
「続きを読む」からご覧ください。
続きを読む

古絵葉書・豊郷病院(3枚)

豊郷病院001
けいおん!の聖地で有名になった豊郷小学校の滋賀県犬上郡豊郷町にある豊郷病院です。
以前紹介した豊郷病院とは別の絵葉書で、恐らく竣工記念として作られたセット物と思われます。
1枚目は豊郷病院の本館。アーチ窓が特徴の洋風の建物です。
豊郷病院002
豊郷病院の全景イラスト。
本館の背後は平屋建ての病室が並んでいます。
豊郷病院003
定礎と平面図。
定礎には大正15年とあります。
豊郷病院004
※サムネイルクリックで大きくなります。
豊郷病院平面図のアップです。
元の図面が小さい上に印刷の関係で字がつぶれていて見づらいですが、
正面の本館には、1階に待合室や内科と外科の診察室、レントゲン室、事務室。
そして手術室。2階には講堂と図書室があります。
本館裏の建物は左から普通病舎・特別病舎・寄宿舎となっています。
豊郷病院は昭和15年にヴォーリズ建築事務所によって建て直されているようです。
この建物の設計者は分かりませんでした。

※関連記事 古絵葉書・豊郷病院

古絵葉書・龍ヶ池揚水機場新設排水路(豊郷町)

龍ヶ池
滋賀県豊郷町にある龍ヶ池揚水機場は、明治44年に農地への給水目的として井戸からポンプで水を汲み上げ
排水する施設として造られたものです。
この絵葉書は新たに造られた用水路を記念して発行された絵葉書と思われます。
絵葉書の様式から、大正から昭和初期のものと思われます。

龍ヶ池揚水機場に関しては下記の関連記事である「豊郷村砂山池・龍ヶ池・安食西揚水機場」
をご覧ください。

※関連記事・豊郷村砂山池・龍ヶ池・安食西揚水機場

古絵葉書・和歌山県有田郡役所及有田郡会議事堂

有田郡役所
和歌山県内にある有田郡の郡役所で、現在の湯浅町に置かれました。
向かって右が郡役所。左が郡会議事堂のようです。
地方の小さな町でありながらこれほど立派な洋館を建てる気概が
戦前の役所にはあったんですね。

古絵葉書・豊郷村役場新築落成記念絵葉書(4枚組)

豊郷村役場新築落成記念1
けいおん!の舞台としてすっかり有名になった豊郷小学校旧校舎群から
中山道を大津・京都方面へ500mほど進んだところに、豊郷町役場があります。
この建物は昭和5年に村役場として完成した庁舎で、改造はされているものの
当時の建物がそのまま使われています。
この絵葉書は豊郷村役場の完成を記念して作られた絵葉書セットで、
全部で4枚入っています。

追記ページに絵葉書等の紹介をしますので、「続きを読む」からご覧ください。
続きを読む

古絵葉書・奈良大本営(奈良倶楽部)

奈良大本営
大本営とは、戦時中や事変の際に設置された帝国陸海軍の最高統帥機関です。
これは、奈良倶楽部という建物に大本営が置かれた時の絵葉書ですが、
奈良倶楽部を調べても該当の戦前の和風建築のデータが見つかりません。
建物は大規模な和風建築で、現在も残っていれば貴重な近代和風建築となるのですが、
恐らく現存していないものと思われます。
<?php include_once("analyticstracking.php") ?>