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古絵葉書・観覧艦 軍艦吾妻絵葉書

軍艦吾妻絵葉書001
装甲巡洋艦・吾妻は明治33年にフランスのロワール社のサン・ナゼール造船所にて竣工し日本海軍が購入した軍艦です。
日露戦争では蔚山沖海戦と日本海海戦に参加。明治45年からは少尉候補生の練習艦として使用されていましたが、第一次世界大戦にも参加しています。
大正10年に海防艦となり、舞鶴機関学校の練習艦として使用。太平洋戦争中の昭和19年に老朽化により除籍・解体されました。
舞鶴機関学校所属練習艦時代は一般市民向けにも公開され、艦内は様々な展示がされていたようです。
この絵葉書は観覧記念として販売されていたもので、外袋には昭和8年6月6日付の記念スタンプが押されており、中には6枚の絵葉書が入っています。
以下に絵葉書を紹介します。「続きを読む」からご覧ください。
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古絵葉書・奥丹後大震災(北丹後地震)の実景 丹後山田及幾地の部(15枚)

奥丹後大震災001
昭和2年3月7日、丹後半島北部で発生したM7.3の北丹後地震は現在の宮津市・京丹後市・豊岡市で震度6を記録し、家屋の7割から9割までもが倒壊。京丹後市網野町・峰山町・与謝町野田川で火災が発生し8200件余りが焼失。死者は2925人負傷者は7806人という甚大な被害が出ました。
この絵葉書はその北丹後地震の与謝野町・岩滝町付近の被害の様子を記録し絵葉書にしたもので、15枚セットになっています。
外袋には「利益ハ罹災地ヘ寄付」とあり、売上金は被災地への義援金にあてられていたことが分かります。
戦前、絵葉書はお土産品という性格だけでなく、大きな災害や事件が起きた場合、それらを記録した絵葉書を発売し国内に伝えるという報道としての意味合いを持つこともありました。当時の人々はこれらの絵葉書を見て現地の惨状を知り得たわけです。
北丹後地震を報じた絵葉書のセットは5種類のみ確認されているようで、うち新たに確認された1種類が過去に大阪歴史博物館にて展示されたようですが、調べてみるとこの絵葉書セットは確認されている5種類の中には含まれていません。
もしかしたら未だ確認されていないものなのかもしれません。
絵葉書は15枚のセットとなっています。追記のページにて紹介しますので、「続きを読む」からご覧ください。
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古絵葉書・海舞鶴駅(舞鶴港駅)

海舞鶴駅001
海舞鶴駅の前身の舞鶴海岸荷扱所は舞鶴鎮守府の開庁に伴う軍需物資の輸送として、さらには国際貿易港となり発展した舞鶴港への物資輸送を目的として明治37年に設置されました。
大正2年に海舞鶴駅と改称。貨物だけでなく旅客も扱う駅となりましたが大正12年に旅客営業は廃止。
戦後、昭和41年に舞鶴港駅と改称されましたが、昭和60年に駅は廃止。現在は駅の施設は何も残されていません。

冊子・宮津橋立名所図会(吉田初三郎 大正13年)

宮津橋立名所図会001
吉田初三郎が描いた鳥瞰図が使用されている宮津・天橋立の観光パンフレットです。
表紙を開くと50cmほどの1枚ものの鳥瞰図が現れます。
宮津橋立識001
※サムネイルのクリックで拡大します。
吉田初三郎のコメント「絵に添へて一筆」
宮津橋立名所図会ブログ用2
※サムネイルをクリックすると画像が拡大します。
名勝地である天橋立がメインのためか、宮津市の市街地の表記は少なめになっています。
パンフレットにある吉田初三郎のコメントには、宮津線開業に際して依頼を受け現地の取材の後、この鳥瞰図を書き上げたとあります。注記は少なくても天橋立だけでなく宮津市街地もしっかり取材し描き上げていることがこの鳥瞰図からも読み取ることができる作品です。

※関連記事
冊子・福知山市鳥瞰図(吉田初三郎・昭和13年)
冊子・北丹鉄道沿線名所図会(吉田初三郎 大正13年)

古絵葉書・宮津町上水道(現・宮津市滝上浄水場) 

宮津滝上浄水場001
宮津市の西側の山中に滝上浄水場という上水道の施設があります。明治45年建設という一地方都市としてはかなり早く作られた浄水場は当時から町の名所となっていたようです。この絵葉書は昭和初期頃に当時は宮津町浄水場と呼ばれていた浄水場施設を撮影したものです。1枚目は貯水池から宮津市街方面を撮影したもので、貯水池堰堤と通水路が見えます。右端は散策路になっています。
宮津滝上浄水場002
1枚目にも写っている貯水池の堰堤。堰堤の下に導水管が見えます。堰堤は絵葉書から推測すると通水路と同じ石積みのようです。明治期まではコンクリートは高価で石積みの方が安価で一般的でした。
宮津滝上浄水場003
貯水池の上流にある取水口の堰堤。石積みの堰堤の真ん中に取水のアーチが見えます。滝上浄水場の取水は元々流れていた常願寺川をそのまま利用しており、恐らく常願寺川を拡張し堰堤を築いて貯水したものと思われます。
宮津滝上浄水場004
貯水池から下った所に浄水場のろ過池があります。奥に見える建物は管理事務所でしょうか。
宮津市滝上浄水場取水口堰堤2
※現在の取水口堰堤
宮津市滝上浄水場ろ過池
※現在のろ過池。
滝上浄水場の施設は絵葉書が撮影された90年前の昭和初期頃当時のまま現在も使用されています。
貯水池堰堤は石張り外壁の上にコンクリートで覆って補強されており絵葉書の頃とは面影を一新していますが、ろ過池と取水口堰堤は当時のままの姿で残されています。ただし、取水口堰堤は取水口のアーチから左側のほとんどは土砂で埋まり、また昭和初期の頃と比べ深い木々に覆われかつてのような見晴らしは失われ絵葉書と同じアングルでの撮影は不可能となっています。
ともあれ、当時のまま良好に残されている滝山浄水場は、地方都市の最初期の近代上水施設として貴重な近代化遺産であると言えます。

※関連リンク
宮津市にある近代化遺産の浄水場・滝上浄水場レポ ブログ・べーさんの歴史探訪

古絵葉書・新綾部製糸株式会社筒川工場

新綾部製糸株式会社筒川工場001
京都府伊根町本坂にあった新綾部製糸株式会社筒川工場は元は明治34年に設立した丹後繭糸蚕種生産販売組合が創業した筒川製糸工場でした。
新綾部製糸株式会社は経営難に陥った綾部製糸株式会社を神栄製糸株式会社の傘下に置くことで昭和3年に再スタートした製糸会社で、綾部製糸の工場・従業員をそっくり引き継いだ企業でした。この筒川製糸工場も元は綾部製糸株式会社の工場だったと思われます。
筒川製糸工場は明治42年に火事で工場を全焼し莫大な被害をこうむりました。しかし、役員以下社員一同奮起して工場の復興に努め、大正7年に再建を果たしました。同年10月、工場長・品川萬右衛門は工場再建に奮起した従業員を労うため従業員116名を率いて東京への慰安旅行へと向かいました。しかし、運悪く流行していたスペイン風邪により帰郷した従業員のうち42人が死亡。村内にも広まる被害を出してしまいました。工場長の品川萬右衛門は亡くなった従業員の慰霊のため工場内に青銅製の阿弥陀如来像を建立。これが丹後大仏です。初代の丹後大仏は昭和19年に金属回収令により徴収されましたが、昭和20年に再建された石造の丹後大仏は初代と同じ場所に立てられ、現在も初代と同じ筒川工場の跡地に存在し続けてます。
新綾部製糸株式会社筒川工場は昭和9年ごろまで存在したそうで、絵葉書の撮影時期は昭和3年から昭和9年の間ということになります。

古絵葉書・宮津電燈株式会社 開業記念絵葉書

宮津電燈株式会社001
宮津電燈株式会社は明治43年に多くの電力会社・鉄道会社を設立した実業家・才賀藤吉によって認可を受け開業された電力会社です。開業は明治44年。この絵葉書は開業を記念して発行されたセットです。
宮津電燈株式会社002
宮津電燈株式会社の事務所。大正時代に出版された電気事業要覧によれば、事務所は宮津市字河原1850番地にあったとあります。この場所には重要文化財に指定されている旧三上家住宅がありますが、隣にあったのでしょうか。
左奥に三上家住宅らしき瓦屋根が見えます。
宮津電燈株式会社003
発電所内部。宮津電燈の発電所は火力発電所でした。イギリスから輸入されたガス発動機を使用しています。
発電所の場所も事務所と同じ河原地区にあったようで、事務所に併設されていたものと思われます。
宮津電燈株式会社004
宮津電燈で発電された電気は宮津市内一帯に供給されていました。
宮津電燈株式会社は開業からわずか1年後の明治45年に丹波電気・丹後電気と三社合併し両丹電気株式会社となり、宮津電燈株式会社の名前は消滅しました。

古絵葉書・舞鶴海軍航空隊(栗田水上機基地)

舞鶴海軍航空隊001
現在の宮津市栗田地区にある栗田湾に舞鶴海軍航空隊の基地がありました。
栗田水上機基地とも呼ばれたこの基地は昭和10年に創設。他の海軍航空隊とは異なり、水上機のみで編成された航空隊でした。
絵葉書は舞鶴海軍航空隊の庁舎。舞鶴海軍航空隊の遺構は現在も残されていますが、庁舎を写した古写真などはあまり残されていないようで調べても見かけることがなく、この絵葉書は当時の舞鶴海軍航空隊の庁舎の姿を知ることができる貴重な絵葉書かと思われます。
舞鶴海軍航空隊002
舞鶴海軍航空隊の指揮所の写真。物見やぐらみたいな指揮所塔に吹き流しを置いて風向きを示しています。
奥に見える大きな建物は格納庫です。1枚目の庁舎の絵葉書とともに昭和10年11月9日付の舞鶴航空隊開隊記念の記念スタンプが押されています。
栗田水上機基地001
以前紹介した栗田水上機基地の古絵葉書。
舞鶴海軍航空隊が創設された当初はまだ舞鶴海軍要港部の頃で、そちらに所属していましたが、昭和14年に舞鶴鎮守府として再昇格した際に舞鶴鎮守府の管轄となり、舞鶴鎮守府に所属する艦艇に搭載された水上機を管轄していました。
戦時中は大阪警備負の下で和歌山県沖や日本海沿岸を中心に対潜哨戒任務に従事しましたが、昭和19年12月に佐世保海軍航空隊所属の第九五一航空隊の舞鶴分遣隊として再編成されたため、舞鶴海軍航空隊は解隊されました。
舞鶴海軍航空隊正門
現在、舞鶴航空隊跡地は京都府立海洋高校の敷地となり、絵葉書の庁舎を含め隊舎や格納庫は失われましたが、絵葉書にも写る当時の正門や滑走路等の遺構は現在も残されています。写真は海洋高校の正門に利用されている舞鶴海軍航空隊の正門です。
旧舞鶴海軍航空隊格納庫2
また、格納庫の建物は昭和33年に綾部市に移築され、現在も綾部市市民センターとして利用されています。
旧舞鶴海軍航空隊格納庫3
移築により大きく改変されていますが、当時の物の可能性のある木製の窓枠が一部残されています。
ちなみに、舞鶴海軍航空隊の湾を挟んだ向かいにある現在、関西電力宮津エネルギー研究所となっている場所には水上機の製造・修理を行っていた第31海軍航空廠があり、現在も滑走路跡や元官舎と思われる木造の建物が残されています。

※関連記事
古絵葉書・栗田水上機基地

古絵葉書・舞鶴鎮守府開庁記念(昭和14年再昇格)

舞鶴鎮守府昇格記念001
舞鶴鎮守府は明治34年に日本海側随一の鎮守府として開庁しました。
日露戦争では対峙するロシアの脅威からの護りの拠点として重要視されました。
しかし、大正12年のワシントン海軍軍縮会議により舞鶴鎮守府は舞鶴要港部へと格下げ。同時に舞鶴海軍工廠も舞鶴海軍工作部へと格下げされされました。
昭和11年、舞鶴海軍工作部が一足先に海軍工廠へと再昇格。そして昭和14年に舞鶴海軍要港部が舞鶴海軍鎮守府へと16年ぶりに再昇格しました。
この絵葉書セットは舞鶴海軍鎮守府再昇格を記念して発行されたものです。
画像は絵葉書の外袋。高雄型重巡洋艦の写真が写されています。
舞鶴鎮守府昇格記念002
舞鶴鎮守府庁舎。この庁舎は明治34年開庁以来のもの。両脇にあるのは初代司令長官の東郷平八郎元帥と再昇格時の司令長官、原五郎中将の写真。
舞鶴鎮守府昇格記念003
舞鶴鎮守府の管轄区域の図。日本海側のほとんどを占めています。
舞鶴鎮守府昇格記念004
舞鶴鎮守府および舞鶴要港部時代の歴代司令長官。一番有名なのはやはり初代の東郷平八郎司令長官ですね。
ところでこの絵葉書や最初の外袋には高雄型重巡洋艦の写真が載せられています。
舞鶴鎮守府は再昇格した昭和14年に完成したばかりの最新鋭の重巡洋艦である利根型の2隻、利根・筑摩が横須賀鎮守府から舞鶴鎮守府に配属され駆逐艦など小型の艦艇が主だった舞鶴軍港において大型艦の利根・筑摩は舞鶴市民からかなり親しまれたようですが、絵葉書にある高雄型重巡洋艦の4隻はすべて横須賀鎮守府に所属し横須賀を母港としていたので舞鶴には縁がないはずなのですが。何らかの理由で高雄型が使われたと思うのですが詳細は不明です。

古絵葉書・新舞鶴警察署

新舞鶴警察署001
明治34年に開庁した舞鶴鎮守府により漁村だった東舞鶴一帯は海軍の軍港として発展、それに伴い街並みも整備されていきました。当時東舞鶴は江戸時代以来の城下町で旧来の舞鶴だった西舞鶴地区に対して「新舞鶴」と呼ばれました。
この警察署は東舞鶴地区にあった新舞鶴警察署です。
与保呂川沿いに建てられた木造の洋館は中々洒落ています。
現在、東舞鶴地区の警察署は市役所の近くにあり、かつての新舞鶴警察署の跡地は駐車場等になっています。

古絵葉書・昭和初期頃撮影の峰山町(現・京都府京丹後市峰山町)3枚

峰山町001
現在の京都府京丹後市峰山町の昭和初期頃撮影の絵葉書です。キャプションに「復興ノ峰山町全景」とあります。
昭和2年に発生した北丹後地震は丹後半島一帯に大きな被害をもたらしこの峰山町も甚大な被害を受けました。
この絵葉書は震災の被害から復興を遂げた峰山町を撮影したもので、左奥の小高い丘に現在も残る昭和4年完成の丹後震災記念館が見えることから昭和4年以降の撮影と分かります。峰山町002
「峰山駅通ノ景」のキャプションのある2枚目の絵葉書。左に写る3階建ての日本建築は旅館でしょうか。
右手の洋風建築には「山添陶器店」と書かれており、今でもお店はあるようです。
向かいにある大きな和風建築は料理旅館「和久傳」。現在も高級料亭として存在する和久傳の発祥の場所でした。
峰山駅は現在、京都丹後鉄道となっています。
峰山町003
「峰山本町通ノ景」のキャプションのある3枚目。峰山町のメインストリートです。
左の洋館は昭和4年竣工の丹後商工銀行。
丹後商工銀行2
以前記事にした丹後商工銀行の絵葉書。建物は失われ現在は京都銀行峰山支店となっています。

※関連記事
古絵葉書・丹後商工銀行新築記念絵葉書

古絵葉書・京都府久美浜大橋(現・京都府京丹後市久美浜町久美橋)

久美浜大橋001
京都府京丹後市久美浜町の街中を流れる久美谷川に架かる橋です。アーチの意匠の欄干を持つ鉄筋コンクリート造の橋は昭和戦前期にかけて日本全国で多く架けられた橋です。
絵葉書で「久美浜大橋」となっているこの橋は現在も残されており、「久美橋」と名を変えて使用されています。
橋の竣工は昭和9年。この絵葉書はそれ以降に撮影されたことになりますが、欄干が現在とは違うものになっており、ある時期に欄干だけ付け替えられたのでしょう。
久美橋の架かる不動11号線はかつて存在した久美浜代官所(跡地は現・久美浜小学校)へまっすぐ通じるメインストリートで、久美橋のある交差点名が「土居」という地名から、かつては久美谷川を天然の堀とした久美浜代官所(久美浜陣屋)の大手だったのかもしれません。
絵葉書の撮影時期は昭和9年以降の昭和戦前期であるため、絵葉書に写る街並みは大きく変わってますが、奥に写る西方寺の本堂の大屋根は今と変わらない姿を留めています。

古絵葉書・中舞鶴郵便局

中舞鶴郵便局001
かつて舞鶴鎮守府庁舎が建っていた丘の下にあった中舞鶴郵便局の戦前の絵葉書です。
郵便局庁舎の裏にわずかに見えている丘に舞鶴鎮守府がありました。
絵葉書の中舞鶴郵便局は現存してませんが、同じ場所で今でも中舞鶴郵便局が存在し営業しています。

古絵葉書・舞鶴・軍艦吾妻の軍艦旗掲揚式

吾妻艦上001
舞鶴軍港に係留された軍艦吾妻での軍艦旗掲揚式です。
吾妻は明治33年に完成した装甲巡洋艦で、日露戦争にて活躍しましたが、日露戦争後は少尉候補生の練習艦として利用。
大正10年から舞鶴にて海軍機関学校の練習艦として利用され、舞鶴海軍桟橋に昭和19年まで係留されました。
23年もの長きに渡って舞鶴に係留され続けたためか、舞鶴の観光名所のような形になっていたようで、艦内は展示室もあり海軍関係の資料が展示され一般公開もされていたようです。
この絵葉書は旧制中学の生徒が船務実習をしている様子を写したものです。
岸壁側に木造の大型建物があります。手前に海へ降りるスロープがあるのでボートなどの小型船舶を格納していた建物だと思われます。
これとよく似た旧海軍時代の木造建築がいくつか残されています。
P1050373.jpg
赤れんがパークの対岸にある現在、海上自衛隊舞鶴造修補給所工作部として利用されている建物。
旧海軍時代の建物で、絵葉書の建物とは違いますが、造りはよく似ています。
他にもかつての舞鶴海兵団であった海上自衛隊舞鶴教育隊の敷地内にも残されています。

※関連記事・古写真・舞鶴港の軍艦(装甲巡洋艦・吾妻)

古絵葉書・舞鶴 堀澤外科病院

堀澤外科医院001
現在も東舞鶴駅の近くで開業されている堀澤医院の戦前の姿を写した絵葉書です。
堀澤外科病院の遠景。手前の日本建築が院長家族の生活の母屋、隣の洋館が病院本館と思われます。
奥に屋根だけ見える洋館は病棟です。
堀澤外科医院003
堀澤外科病院の本館。平屋ですが洒落た洋館です。
病院の家族の方や看護婦さんらの従業員たちが記念写真のような形で写っています。
横には自動車が。当時一部のお金持ちしか持てなかった自動車があるこの病院は
舞鶴市内でもかなり大きな病院だったのでしょう。
右上の人物は堀澤院長。海軍中佐の階級章で軍医さんだったと思われます。
戦前の舞鶴には海軍の病院である舞鶴海軍病院や舞鶴海仁会病院がありましたが、それらは軍人やその家族を対象とした病院であり、市民に開かれた病院として舞鶴海軍工廠の職員のための舞鶴海軍工廠職工共済会病院がありましたが、この堀澤外科病院はより市民に身近な町の病院だったと思われます。
ただ、院長さんが海軍の軍医さんしかも中佐という階級であることから、海軍の軍人さんにも多く診察していたことでしょう。
堀澤外科医院004
堀澤外科病院の病舎。外科医院なので手術した患者が入院する病棟が必要となります。
下見板張りの洋風の病舎からは従業員らしき女性たちがベランダから顔を出してます。
玄関周りには白衣の方たちが。その中でも一番左の玄関の真ん前の方、どうやら堀澤院長のようです。
堀澤外科病院は最初に述べましたように現在も堀澤医院として同じ場所で開業されています。
洋館の病院本館や病舎は建て替えられ現存してませんが、母屋はどうやらそのまま残されているようです。

古絵葉書・丹後由良小学校本館

丹後由良小学校001
宮津市由良地区にあった由良小学校は明治6年創立の小学校です。
絵葉書の本館は大正13年4月13日に完成。小学校の本格的な洋館は当時由良村だった地区内においてシンボル的な存在だったと思います。
この絵葉書は様式から大正から昭和初期頃と推定され、本館が完成して間もないころの撮影と思われます。
由良小学校は2013年3月23日に閉校し140年の歴史に幕を閉じました。
由良小学校跡
現在の由良小学校跡地の正門付近。
※GoogleMAPストリートビュー画像より引用。
石造の正門の門柱と塀は大正時代の絵葉書当時のまま残されています。
絵葉書に写る日露戦争の戦勝を記念した「明治三十七八年戦勝紀念碑」と奉安殿は現存していません。
戦後間もなく撤去されたものと思われます。

※関連記事 古絵葉書・宮津 丹後由良全景

古絵葉書・宮津 丹後由良全景

丹後由良地区001
現在の宮津市由良地区は由良川河口左岸に出来た集落で元々製塩や廻船業を生業とした村でした。
明治22年に由良村として発足。昭和31年に宮津市に編入され現在に至ります。
大正13年に由良村の側を鉄道が開通し、丹後由良駅が出来たことから由良海岸の海水浴場へのアクセスも便利となり、夏になれば近隣から海水浴客が多く集まり賑わっていたことから村として栄えたようです。
この絵葉書は大正13年7月10日舞鶴要塞司令部検閲済みとの記載があり、そのころの撮影と思われます。
由良村の集落は伝統的な日本建築が立ち並んでいますが、大正末期の集落としては大規模で村の脇を機関車が走っている姿から、由良村の繁栄を物語っています。
現在は京都府有数の海水浴場である丹後由良海水浴場を有し、夏になれば海水浴客でにぎわい冬場はカニ料理などを目的とした観光客が訪れる観光地としての性格が強い地区ではありますが、
由良1

由良2

由良3
現在も地区内には戦前の公民館の建物がいくつか残されており、かつての繁栄を物語っています。
由良地区には140年の歴史を持つ由良小学校がありましたが、2013年3月23日に閉校しました。

※関連記事 古絵葉書・丹後由良小学校本館

古絵葉書・舞鶴要港部舞鶴工作部(舞鶴海軍工廠)

舞鶴要港部舞鶴工作部001
明治34年に設立した舞鶴海軍工廠は大正12年のワシントン海軍軍縮条約による舞鶴鎮守府から舞鶴要港部へと格下げになったのに伴い、舞鶴海軍工廠も舞鶴海軍工作部へと格下げされました。
昭和11年に舞鶴鎮守府へと復帰した際、舞鶴工作部も舞鶴海軍工廠へと復帰、終戦まで駆逐艦建造の中心を担いました。
この絵葉書は舞鶴工作部時代のもので、絵葉書の様式から昭和初期頃と思われます。
舞鶴海軍工廠はその後民間に払い下げられ、飯野産業・日立造船舞鶴工場・ユニバーサル造船舞鶴工場と所有が変わり、
現在はJMU(ジャパンマリンユナイテッド)舞鶴事業所として海軍工廠時代の施設がほぼそのまま使用されています。

※関連記事 古絵葉書・舞鶴海軍工廠 舞鶴海軍海友社

古絵葉書・中部第71部隊(舞鶴重砲兵連隊)

中部第71部隊001
明治30年に設立され舞鶴湾の要塞守備の任務に当たった舞鶴重砲兵大隊は昭和11年に舞鶴重砲兵連隊に昇格しました。
昭和15年、陸軍中部軍設立により中部第71部隊と改称しました。
これは改称後に撮影された営門で、門柱に「中部第七十一部隊」の真新しい看板が掲げられており、
改称間もないころに撮影されたものと思われます。

※関連記事 古絵葉書・舞鶴重砲兵連隊 連隊本部

古絵葉書・綾部 山家橋

山家橋001
京都府綾部市山家地区は山家藩1万石の領地として廃藩置県まで存続し、明治以降は京都府に編入。昭和25年に綾部市へ編入しました。その山家地区の中心地に明治45年鋼製アーチ橋が架けられました。それがこの絵葉書の山家橋で、由良川に架かる長大な鋼鉄のアーチ橋は山間の田舎町にとって名所とも言うべき橋となりました。しかし、昭和28年の由良川の洪水で惜しくも流失。現在は新たに橋が架けられていますが、もし現存していたら同じ綾部市内にある由良川大橋と並び貴重な近代化遺産として由良川大橋と同じく国指定登録文化財に指定されていたかもしれません。
奥の高台に建つ大きな建物は山家小学校。明治初期創立からの歴史ある小学校でしたが、2004年に口上林小学校と統合して東綾小学校となりました。また、絵葉書に写る校舎も1989年に取り壊されました。小学校左に建つ寺院は現在もその場所に建つ照福寺です。

古絵葉書・久美浜公会堂

久美浜公会堂001
京都府京丹後市久美浜町にある久美浜公会堂です。昭和5年の建築。
久美浜公会堂は現在も公会堂として使用されており、近年オリジナルの姿を保ったまま修復されました。
規模は小さめなものの、地方都市に残る近代和風建築として貴重な存在です。
こちらのサイトに修復後の久美浜公会堂の外観と内部の写真が紹介されています。

古写真・舞鶴築港工事写真(現・西舞鶴 第2埠頭)

舞鶴築港001
※各写真はクリックで大きくなります。
現在の西舞鶴第2埠頭である舞鶴築港の工事の様子を撮影した古写真です。
舞鶴築港は京都府の手により昭和3年から工事が始まり、昭和13年に完成しました。
写真は大判7枚小判1枚の8枚ですが、写真裏に剥がし跡があり、元は写真帳に貼られていたものを
剥がしたもののうちの1部と思われます。
写真裏には昭和11年の年号と各日付、そして検閲済の文字がある判が押されています。
これは、舞鶴要塞司令部の検閲済みという判で、当時存在した「要塞地帯法」という法律により写真撮影等を厳しく制限されており、
要塞に関わる部分を隠して舞鶴要塞司令部の検閲をクリアしたという印となります。
1枚目のこの写真は、西舞鶴大野辺地区の山から匂崎方面を撮影したもので、裏に昭和11年11月30日の日付があります。
右手に写っている四角い箱のようなものは、ケーソン(潜函)と呼ばれる基礎で、海底に沈めるために用意しているものと思われます。
湾内には工事の作業をしていると思われる船舶が数隻停泊しています。
この写真には匂崎は写ってますが、本来なら左手側に写っているはずの槇山がありません。
当時槇山には砲台がありましたので、修正により消されたものと思われます。
舞鶴築港002
1枚目の写真とほぼ同じアングルですが、やや拡大されています。
奥の匂崎は1枚目の写真よりさらに修正が施され、岬の先端は完全に消されています。
これは匂崎に海軍の砲台が置かれていたためと思われますが、1枚目では消されていないのにこの写真では消されているのは、
拡大されているからでしょうか。
1枚目と比較してケーソンが1つ増え、岸にクレーンが置かれているので、日付はありませんが1枚目より後の撮影と思われます。
舞鶴築港003
1枚目・2枚目の写真とは逆の方向を撮影した写真。
昭和11年11月30日の日付があり、1枚目と同日の検閲を受けたものです。
槇山の方角を向いて撮影されてますが、手前側の山はそのまま写されているものの、砲台のあった槇山は消されているようです。埋め立て地には資材運搬用の線路が引かれています。手前には大型のクレーンが写されています。
舞鶴築港004
資材運搬用の仮設線路。仮設線路は山際を削って敷設しているようです。
仮設のためか枕木が角材に加工されていない丸太のままで使用されています。
右奥には屋根と骨組みだけの建物がありります。建設途中なのか仮小屋なのかは不明です。
昭和11年11月30日の日付があり、1枚目3枚目と同日の検閲済です。
舞鶴築港005
削られた山肌。恐らく埠頭建設のための埋め立て用の土取場かと思われます。
舞鶴築港工事の一連の古写真について情報を頂いた舞鶴市郷土資料館の方によれば、土取りで削られた跡は現在も残されているそうです。
昭和11年11月30日の日付があり、1枚目3枚目4枚目と同日の検閲済です。
舞鶴築港006
ケーソンを沈めている瞬間の写真です。
昭和11年11月30日の日付があり、1枚目3枚目4枚目5枚目と同日の撮影です。
ケーソンとはコンクリート製の箱型で大型の構造物であり、港湾工事等において基礎とするため海底に沈められるものです。
1枚目2枚目の写真に写るケーソンを沈めている瞬間かと思われます。
舞鶴築港007
同じくケーソンを沈めている瞬間の写真です。
日付は年に関しては剥がし跡で隠れており判別不能ですが2月6日となってます。
前出のケーソンの写真とは違い、ケーソンに万国旗が飾られ、多くの見物人がいることから、最初に沈められたケーソンでしょうか。
となると、日付は昭和11年2月6日となります。
舞鶴築港008
同じくケーソンを沈めている写真ですが、この写真だけ判が小さいです。
日付は昭和11年11月30日で6枚目のケーソンと同じものと思われます。

これら一連の写真は舞鶴築港工事の記録写真として撮影されたものと思われます。
また、舞鶴要塞司令部の検閲を受けていますので、公式記録として撮影されたものでしょう。
工事は昭和3年から昭和11年まで行われましたので、この8枚の写真はそのうちの一部になりますが、
元のアルバムがどういう形だったかは不明です。

古絵葉書・舞鶴憲兵分隊

舞鶴憲兵分隊001
現在の中舞鶴交番の地には舞鶴憲兵分隊がありました。
舞鶴憲兵分隊は明治33年に紺屋町から移転。木造板張りで瓦葺の官舎は質素そのものですが、敷地内には馬術場や武道場もあったようです。現在建物はありませんが、跡地に建つ中舞鶴交番の門に舞鶴憲兵分隊当時のコンクリート製門柱がそのまま使われています。
この絵葉書にはその門柱らしきものが写っていないのでこの絵葉書の写真が撮影された後に建てられたものでしょうか。
かつて陸軍所属とはいえ警察任務を帯びていた憲兵の官舎の敷地が現在は交番になっているのは歴史の面白さを感じます。

古絵葉書・舞鶴公会堂

舞鶴公会堂001
舞鶴公会堂は昭和12年に舞鶴出身の実業家・有本国蔵の寄進によって建てられました。
この公会堂は昭和57年に取り壊され、跡地は現在舞鶴市役所西支所となっています。
絵葉書には「昭和十五年五月一日」の日付があり、完成から3年後の撮影と分かります。
昭和15年は太平洋戦争開戦の1年前であり、紀元2600年記念の年。
時局を反映してか、公会堂の壁面に「武運長久」「国威宣揚」の文字が書かれた垂れ幕が掲げられています。

古絵葉書・新舞鶴発電所

舞鶴発電所001
「新舞鶴発電所」というタイトルが書かれた絵葉書で奥に高い煙突のある火力発電所らしき建物が写っています。
調べて見ますと、明治41年に新舞鶴町(現・舞鶴市東舞鶴地区)大字浜に大阪電燈が火力発電所を開設、供給を開始したとあります。
大正3年には供給区域拡大のため隣接地に新発電所を建設。その後所有は舞鶴電気株式会社・三丹電気・帝国電燈・東京電燈山陰支社・京都電燈へと推移したようです。
新舞鶴市街地図001
※サムネイルをクリックすると拡大します。
大正6年発行の新舞鶴市街地図に「電燈会社」が書かれています。
共済組合舞鶴病院の近くにある建物ですが、これがこの絵葉書の発電所であると思われます。
現在この場所は関西電力舞鶴営業所となっています。当時の建物は残っていませんが、敷地はそのまま後身の関西電力に引き継がれているようです。

古絵葉書・舞鶴海軍共済組合病院 中舞鶴分院

舞鶴海軍共済組合病院中舞鶴分院002
舞鶴海軍工廠職工共済会病院は舞鶴の海軍工廠で働く職工たちとその家族の相互共済を目的とした共済会が運営する病院のことです。
明治40年に開院され、院長には海軍軍医が就任し、海軍の援助のもと共済会の会員とその家族の医療を行いましたが、海軍工廠の職工だけでなく、一般市民も治療を受けることが出来たため、「共済会病院」の名前で市民にも親しまれていました。
絵葉書の右側の門柱には「私立餘部博愛病院」という看板が掲げられています。
餘部博愛病院は明治34年5月に設立した病院のようですが、明治44年に済生会により発行された施療事業一班という資料によれば、この時すでに経営状態が思わしくなく病院の建物も手狭で設備も不完全と書かれています。
この絵葉書の写真が撮られた頃はまだ餘部博愛病院でしたが、絵葉書が発行された際には舞鶴海軍工廠職工共済会病院へ吸収されてしまったのでしょうか。
この中舞鶴分院は舞鶴鎮守府庁舎のある丘の麓にあり、現在でも当時の門と塀、そして分院の宿舎と思われる建物が残っています。
舞鶴海軍共済組合病院中舞鶴分院跡
現在の中舞鶴分院跡地。絵葉書に写る石垣の一部と思われるものが現在の写真にも写っています。
ただ、位置的に中舞鶴分院跡の隣の宿舎と思われる建物の位置になります。
舞鶴海軍工廠職工共済会病院中舞鶴分院跡2
舞鶴海軍工廠職工共済会病院中舞鶴分院跡の正門。絵葉書の餘部博愛病院の正門と位置が違うため、後に分院の建て替えと敷地の整理が行われたのでしょうか。

※関連記事・古絵葉書・舞鶴海軍工廠職工共済会病院

古絵葉書・大江山ニッケル鉱山

大江山ニッケル鉱山001
京都府北部の福知山市大江町から加悦町にまたがる大江山にはかつてニッケル鉱山がありました。
昭和9年日本火薬工業(現・日本冶金工業)が大江山連峰の地質を調査したところ、豊富なニッケル鉱脈があることが分かり、新たに子会社として大江山ニッケル工業を設立。昭和15年にニッケル鉱の本格的な製造が開始されました。
最盛期には多くの宿舎が建ち並び、また、連合軍や中国からの捕虜なども労働力として投入されたりしていましたが、
終戦とともに鉱山は閉鎖。現在は精錬所跡の煙突が3本だけ残るのみです。
この絵葉書は、本格的な操業が開始された昭和15年頃のものでしょうか。

古絵葉書・宮津電話交換開始記念(宮津郵便局か)

宮津電信局001
記念消印に「宮津 電話交換記念 41-2-11」とあります。
恐らく京都府宮津市の宮津郵便局にて明治41年2月11日に電話交換業務が開始されたのを記念して発行された絵葉書と思われます。
絵葉書には宮津郵便局らしき洋館の屋根に「電話開通」の額が掲げられています。
また、左には電話交換をしている袴姿の女性が写されています。
明治期の電話交換業務は郵便局にて行われていました。絵葉書に写る洋館は明治期の宮津郵便局とみていいと思います。
現代のように自動交換機が無かった戦前において、手動で電話交換を行い取り次ぎをする電話交換手という職業がありました。
電話交換手は女性の職業でしたが、当時は憧れの花形職業でした。
この絵葉書に写る交換手の女性は当時の宮津での名士の娘さんだったのかもしれません。

古絵葉書・舞鶴 北吸桟橋(昭和30年代 護衛艦しい 警備艇いそぎく)

昭和30年代舞鶴北吸桟橋002
昭和30年代の東舞鶴 北吸桟橋の様子を撮影した絵葉書です。
北吸桟橋は元海軍の桟橋で、戦後に海上自衛隊が舞鶴に置かれた際に再び海上自衛隊の桟橋として
そのまま再利用されました。
終戦からまだ10年程度しかたっていないため、旧海軍時代の面影がよく残されています。
桟橋中央に停泊しているのは護衛艦「しい」。元々アメリカ海軍の哨戒フリゲート「ロングビーチ」で、
戦中の1943年9月に就役、主に大戦末期ニューギニア近海で活動しました。
1945年7月に退役後、ソ連に貸与されましたが再び返還され、昭和28年11月横須賀にて海上自衛隊に貸与。
護衛艦「しい」として就役しました。
昭和35年12月1日。舞鶴に司令部を置く第3護衛隊群が編成され、護衛艦「しい」も編成に入りました。
当時第3護衛隊群には9隻の護衛艦が所属していましたが、旧日本海軍の駆逐艦「梨」を改修した
護衛艦「わかば」以外は全てアメリカ海軍からの貸与艦でした。
※参照・第3護衛隊群50周年史
しいの後方には小型の艦艇が7隻並び、うち1隻には「16」の艦番号がついています。
これは、ゆり型警備艇の16番艦「いそぎく」で、大戦中にアメリカ海軍で使用された上陸支援艇でした。
ゆり型は全てアメリカ海軍からの貸与された上陸支援艇で、「いそぎく」も昭和28年に貸与された艦艇でした。
舞鶴地方隊には他にも数隻のゆり型警備艇が配備され、絵葉書に写る警備艇はそれらの艦艇のようです。
奥にも護衛艦らしき艦が停泊し修理を受けています。停泊している場所はかつての舞鶴海軍工廠で、
現在もジャパンマリンユナイテッド舞鶴事業所として旧海軍工廠時代の施設が利用され、
護衛艦の定期修理を行っています。絵葉書では奥に旧海軍工廠時代の煉瓦建築が確認できます。
現在北吸桟橋は旧海軍時代の桟橋の横に新たな桟橋が設けられ、衛所の部分には売店ができ、
右端の木造の建物の場所には第3護衛隊群司令部の建物がたてられたりと絵葉書が撮影された50年前から
施設等が変わりましたが、北吸桟橋の雰囲気は当時と同じですね。
現在北吸桟橋にはイージス艦のみょうこう・あたご、新鋭艦のふゆづき、大型補給艦のましゅう、
そして来年3月には大型艦のひゅうがが配備される予定になっており、この絵葉書の頃から比べると
かなり充実した艦隊を誇っています。

※データ
護衛艦しい(旧アメリカ海軍哨戒フリゲート・ロングビーチ) 
基準排水量:1430トン 全長:92.6m
兵装:3インチ50口径対空砲3門・ 40mm機関砲4門・ 20mm機関砲9門
・ ヘッジホッグ 1基・ 対潜爆雷投射機(Y砲)8基・ 爆雷投下軌条2条

警備艇いそぎく(旧アメリカ海軍上陸支援艇)
基準排水量:254トン 全長:48.3m
兵装:50口径3インチ単装緩射砲1基・40ミリ連装機銃2基・20ミリ単装機銃4基
・12.7mm単装機銃4基・Mk.7 114mmロケット5連装発射機2基

古絵葉書 舞鶴海仁会病院仮診療所

舞鶴海仁会病院仮病棟001
舞鶴海仁会病院は昭和15年に設立した海軍の下士官とその家族の診療を行う病院で、
海仁会病院は各鎮守府に設立されました。
戦後、舞鶴海仁会病院は舞鶴市民病院として生まれ変わり、現在も市民の病院として利用されています。
絵葉書には仮診療所とありますが、正式な病棟施設が完成するまでの間使用されたものでしょうか。
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