category  [京都市 ]

冊子・洛西名所図会(吉田初三郎 作画)

洛西名所図会リサイズ
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大正11年に発行された洛西の案内パンフレットで、吉田初三郎作画による二条から嵯峨嵐山までの鳥瞰図が収録されています。
吉田初三郎による京都市内の鳥瞰図は数が多く、公的機関から民間までそれぞれの場所・施設を中心として描いた様々な鳥瞰図が発行されました。この洛西名所図会もそのうちの一つです。
嵯峨
嵯峨駅(現・嵯峨嵐山駅)周辺の拡大。嵯峨嵐山地域は昭和6年に京都市に編入されるまで嵯峨町という自治体でした(鳥瞰図の描かれた大正11年当時は嵯峨村)。そのため、嵯峨役場や嵯峨公会堂といった村の施設が描かれています。これらに描かれた施設のうち、嵯峨公会堂や嵯峨役場は戦後の早い段階に失われたと思われ、明治30年築の嵯峨駅は2007年に取り壊し。戦前の建物で残されているのは嵯峨郵便局のみとなりました。(ただし、旧嵯峨郵便局は昭和初期建築とされ、鳥瞰図に描かれたものではないと思われる。)
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冊子・嵐山名所図会附保津川くだり(吉田初三郎 作画)

嵐山名所図会001
昭和5年に発行された、吉田初三郎作画の嵐山・愛宕・保津川の鳥瞰図です。
嵐山愛宕鳥瞰図リサイズ
※サムネイルのクリックで拡大します。
観光パンフレットとして作られたため、学校や官公庁や企業などの建物は描かれておらず、もっぱら観光施設を中心に描いています。
愛宕山
愛宕山の拡大。戦前の愛宕山は嵐山駅から伸びたケーブルカーが走り、8合目の愛宕駅の周りにはホテルや旅館が建ち、遊園地もありました。また山頂付近にはスキー場もあり賑わっていたようです。
愛宕駅1
※現役当時の姿を撮影した愛宕駅の絵葉書。
しかし、昭和19年に戦時下での不要不急路線として廃止が決定。同時にホテル・遊園地・スキー場の施設も閉鎖され、戦後も復活することなく駅舎を含め廃墟となって現在も山中に残されています。

古写真・GHQ、米軍占領下の島津製作所旧本社屋(現・フォーチュンガーデン京都)

島津製作所(占領下)001
終戦後、日本に進駐してきたGHQは日本全国で主要な建物を接収し占領政策を開始しました。
京都も例外ではなく、米軍が進駐し市内の大規模な建物を官民問わず次々と接収し使用しました。
この建物は武田五一によって設計された昭和2年完成の島津製作所の本社屋。
写真には星条旗が翻り、「米軍兵舎」のキャプションがあります。
接収中は進駐軍の兵士たちの兵舎として使用されていたよようです。
島津製作所本社屋は昭和21年に米軍により接収、昭和27年に接収解除となり、本社は三条工場に移転していたため、旧本社屋は河原町別館として近年まで使用されていましたが、現在は「フォーチュンガーデン京都」という結婚式場としてリニューアルされ使用されています。

※関連記事
古絵葉書・島津製作所本店営業所新築記念(3枚組)
古写真・米軍・GHQ占領下の旧京都電燈本社屋(現・関西電力京都支社)
古写真・GHQ、米軍占領下の旧京都市公会堂東館(現・京都市美術館別館)

古写真・GHQ、米軍占領下の旧京都市公会堂東館(現・京都市美術館別館)

京都市公会堂東館(占領下)001
終戦後、日本に進駐してきたGHQは日本各地の主要な建物を接収し、京都市内でも進駐してきた米軍により官民問わずいくつかの建物が接収され進駐軍により使用されました。
昭和5年に建てられた京都市公会堂東館も終戦後に周囲の京都市美術館・京都市勧業館・京都市動物園とともに米軍に接収されました。
写真には「アメリカンクラブ レッドクロス」の文字があり、恐らく米軍の将校クラブとして使用されていたのではないかと思われます。
昭和27年に接収解除。昭和39年から京都会館別館として利用され平成12年から京都市美術館別館として現在もそのまま使用されています。

※関連記事 
古写真・米軍・GHQ占領下の旧京都電燈本社屋(現・関西電力京都支社)

古絵葉書・四宮発電所

四宮発電所001
四宮発電所は、明治43年に開業した京津電気軌道株式会社が建設した火力発電所で、京都市山科区四宮に明治45年に完成。現在の京津線を走る車両への電気供給に利用されました。
背後に描かれた「知るも知らぬも逢坂の関」は百人一首の句。京津線はその逢坂山を越えています。
現在の京阪京津線も京都市営地下鉄から始まり、逢坂山のきつい斜面を登る登山鉄道となり、浜大津で路面電車となる特異な路線となっています。

古絵葉書・京都駅前 京都観光案内所

京都観光案内所001
昭和2年に京都駅に観光案内所が設置されました。
昭和5年に京都市は観光課を新設。昭和6年に京都駅の観光案内所を拡充したとあり、この絵葉書の京都観光案内所は昭和6年に拡充した際に建てられたものと思われます。
建物は近代的なデザインですが、左側の塔屋の屋根は和風を感じさせる屋根に釣燈籠のようなものが下げられ、京都らしい和風を意識したデザインになっています。
観光案内所の建物の脇にはベンチを置いた休憩所もあります。
背景のイラストは大文字の送り火と三条大橋の納涼床の夕涼み。いかにも京都らしいイラストです。
京都観光案内所002
こちらもいかにも京都といった舞妓さんのイラストに観光案内所の内部の写真。
観光客を応対するカウンターの横にパンフレットが置かれた棚があり、その様子は現在の各地の駅にある観光案内所と変わらない姿のようです。

資料・琵琶湖疏水線路全景二万分一之図

琵琶湖疏水線全路景二万五千分の一之図ブログ用
※サムネイルのクリックで画像が拡大します。
琵琶湖疏水は明治天皇の東京奠都により衰退した京都市を琵琶湖の水を使った水運・水車動力による工業(当初計画)・上水道を目的として明治18年に起工・明治23年に完成した疏水です。
大津市と京都市を水路やトンネルでつなぎ、琵琶湖の水を京都まで通すという壮大な計画は当時若干21歳の田邉朔郎が設計監督を担当し、当時お雇い外国人の監督指導が当たり前だった明治前期の近代的土木工事において全て日本人の手によりこの大事業を成し遂げられた工事でした。
この琵琶湖疏水の全図は竣工式前日の明治23年4月8日付の日出新聞(現在の京都新聞の前身)の付録として発行されたもので、完成したばかりの琵琶湖疏水の様子が描かれています。また、裏面には工事の要略と起工から完成までの各工事の沿革、使用された物資や工事費等が詳細に書かれています。
琵琶湖疏水線全路景二万五千分の一之図ブログ用2
※注釈入り。サムネイルクリックで画像が拡大します。
図を見てみますと、琵琶湖疏水に使用する煉瓦を焼いた山科の煉瓦工場やトンネル工事を担った藤尾工場・蹴上工場等、現存しない琵琶湖疏水工事のために設置された工場の位置が描かれています。
逆に翌年の運転開始となる蹴上発電所や明治25年の着工となる鴨川運河は描かれていません。
琵琶湖疏水を象徴する蹴上インクラインと南禅寺水路閣は描かれていますが、水路閣にはキャプションが無く、インクラインは「科入舟車道」と書かれています。また、鴨東運河に閘門の文字があり、そこに夷川船溜まりが描かれていますが、大正3年に現存する煉瓦造りの夷川発電所が建設されました。
琵琶湖疏水は明治時代前期において京都市・京都府のみならず国家的事業の大工事とされ、竣工式の前日には国旗掲揚や提灯行列はもちろんのこと、竣工式が行われた夷川船溜まりには祇園祭の山鉾が並び、大文字の送り火にまで点火され多くの人で賑わったそうで、この琵琶湖疏水がいかに京都市の威信をかけて建設され京都市民の希望の星になっていたかが分かります。
この日出新聞の付録が出された翌日の4月9日に明治天皇と昭憲皇太后の両陛下を招き竣工式が行われました。
現在、琵琶湖疏水は本来メインであった船運は廃止され、主に上水道と発電の役割を果たしていますが、明治前期の日本で初めての近代土木技術が多く取り入れられ、また日本人のみで行われた近代工事であり、近代化遺産として非常に価値が高く、第1疏水全線が国指定史跡にしていされました。そのため、京都の観光地としても近年知られるようになりました。

古絵葉書・京都農園

京都農園001
キャプションに「京都農園」とある絵葉書です。奥に温室らしき建物が見えます。
現在、京都府立植物園となっている大礼記念京都植物園の温室かと思いましたが、どうも違うようです。
ご存知の方がいましたらご教授ください。

古絵葉書・京都府教育会館新築落成記念絵葉書

京都府教育会館001
京都市の丸太町橋の北側、鴨川沿いに建てられた京都府教育会館の新築落成記念絵葉書です。
教育会とは明治10年代以降に各都道府県郡市町村にて結成され、各地の教育行政官・教員・名望家などを構成員として、教育の普及・改良のために教員研修、教育研究・教材開発などを担った私立教育団体です。
京都府教育会館002
京都府教育会館は和風の建物ですが、この建物は大正天皇の即位の大礼のために京都御所建春門の外に新築され使用された「第二朝集所着替所および便所・運転手詰所・湯沸所・廊下」の建物を下賜されて建てられたものです。
大正大礼の式典後、使用された新築建物は京都府内を中心に下賜されましたが、多くは大きな改造はされず元の姿まま解体移築の形で建てられ使用されました。背後に見えている洋館は京大病院です。
京都府教育会館003
昭和天皇即位の大礼の時も使用された建物は下賜されましたが、大正大礼の時に比べて下賜された数が多く現存している建物もいくつかあるのに対し、大正大礼時の下賜建物はいずれも現存していません。
この京都府教育会館の建物も現存せず、跡地は川端通の一部となっています。

古絵葉書・株式会社第四十九銀行本店

第49銀行001
第四十九銀行は明治5年の国立銀行条例により国立銀行の49番目に誕生した第四十九国立銀行を前身とする銀行で、京都に本店を置きました。
四十九銀行は明治41年に京都商工銀行に買収され四十九銀行は消滅。さらに京都商業銀行は大正5年に第一銀行に合併吸収されました。
絵葉書には四十九銀行の本店建物が写されてますが、伝統的な町屋の建物で、元からあった商家の建物をそのまま利用したのかもしれません。
表の宛名面には明治34年3月13日の消印が押されています。

古絵葉書・第三高等学校 新徳館(旧・饗宴場付属調理場)

新徳館001
旧制第三高等学校(現・京都大学構内)にあった新徳館は元々、昭和天皇の大礼式典で使用された饗宴場付属調理場の建物の下賜された部材を利用し、武田五一の設計により建てられたものでした。昭和大礼のために建てられ使用された建物は全て和風建築で、式典後これらの建物は京都府内を中心とした公共施設・学校・神社仏閣に下賜されました。それらはほとんどが改造されることなくそのままの状態で使用されましたが、新徳館は洋風の建物に建て直されています。

古絵葉書・賀茂大橋竣工記念絵葉書

賀茂大橋竣工記念001
賀茂大橋は京都市を流れる鴨川に架かる橋で、関西の建築会の重鎮であり、京都大学工学部建築学科を創設した武田五一の設計により昭和6年に完成しました。
この絵葉書セットは賀茂大橋の竣工を記念して京都市により発行されたものです。
賀茂大橋竣工記念002
賀茂大橋遠景。下部ゲルバー式鋼桁橋の構造で、上部は石製の欄干と照明のある燈籠型の親柱があります。この石製欄干と燈籠は現在もそのままです。賀茂大橋の北側には鴨川デルタとして知られる高野川との合流点の三角洲。さらに北には世界遺産の下鴨神社があります。
賀茂大橋竣工記念003
正面から見た賀茂大橋。かつては市電が橋の上を走ってました。
賀茂大橋竣工記念004
賀茂大橋親柱。現在もそのまま使われ日が落ちると明かりが灯る親柱は伝統的な和風の燈籠型をしています。これは、賀茂大橋の上を通る今出川通が京都御所の北を通るのと、賀茂大橋のすぐ北に下鴨神社があるため、それらを意識してデザインしたのではないかと思います。
賀茂大橋は架橋から今年で86年を経ており、老朽化が目立つようになったため、大規模な改修工事が行われていますが、著名な建築家の設計で戦前に架橋された歴史的価値のある橋梁であるため、架け替えはせず、耐震補強などの改修に留めることで決定したようです。

古絵葉書・西川甚五郎商店京都支店(現・京都西川)

西川甚五郎商店001
寝具販売会社の大手、京都西川は戦国時代の永禄9年(1566)に西川グループの祖となる初代仁右衛門が創業したのが始まりで、、寛延3年(1750)に京都に開店した店舗が後の京都西川となりました。
この絵葉書は松原通寺町にあった西川甚五郎商店の京都支店の外観で昭和初期らしい洋風のモダンな外観をしています。
西川甚五郎商店京都支店は昭和16年の各支店の改組により法人化。京都西川として独立しました。

古絵葉書・京都日出新聞(現・京都新聞)

京都日出新聞001
現在の京都新聞社の前身である京都日出新聞社の5枚組絵葉書です。
京都日出新聞社は明治12年に創刊した京都商事迅報を起源とし、明治14年に京都新報創刊。明治30年に京都日出新聞に改題したのが始まりとなっています。
昭和17年に京都日日新聞と京都日出新聞が合併「京都新聞」を創刊。これが現在の京都新聞の始まりとなりました。
絵葉書は京都日出新聞時代の社屋を紹介したもので、左下に昭和12年の記述があります。
1枚目は京都日出新聞社の社屋の外観。社屋内には日出会館という貸ホールも併設されていました。
京都日出新聞002
社屋内の日出会館の大ホールと地下食堂。日出会館の大ホールでは演劇や歌舞伎などの催しが多く上演されていたようです。
地下食堂も一般の人にも利用され、奥のメニューにはランチ表としてオムレツランチ・エビランチなどのメニューが見えます。
京都日出新聞003
こちらは京都日出新聞の施設。新聞に使う写真の製版室や本文の活字鋳造室。
輪転機に使う活版の活字は社屋内で作っていたんですね。
京都日出新聞004
新聞の印刷には重要な機器であるドイツ製の輪転機。よくドラマとかで新聞報道のイメージに使われる機会です。
京都日出新聞005
こちらは電光式高速度輪転機と配電盤。新聞社の命である輪転機。輸入された最新鋭の輪転機は会社にとって自慢の装備だったことでしょう。

古絵葉書・京都新京極(手彩色絵葉書)

新京極001
明治後期頃の新京極通を撮影した手彩色絵葉書です。
京都の新京極通は明治4年に完成した通りで、明治の中頃から見世物小屋や芝居小屋などが建ち並び始めました。
この絵葉書にも「遊技場」と書かれた提灯の下がる建物などが見えます。
大正・昭和期に入ると松竹座・京洛劇場・京宝会館などの劇場や映画館が建ち並び、京都市内の歓楽街として大いに賑わいました。
新京極通は絵葉書の風景とは大きく様変わりしましたが、現在も京都の観光客にとって定番の観光地となり、近年はMOVIX京都などのシネコンや一般の商店も建ち地元の人含め多くの人たちでにぎわっています。

古写真・酵素パパナ工場(坂酵素研究所 現・日本酵素薬品株式会社か?)

酵素パパナ工場001
戦前の工場を撮影した写真です。工場名は記載されていないのでわかりませんが、煙突に「酵素パパナ工場」の文字が書かれています。
調べましたところ、戦前に「パパナ錠」という酵素消化薬があり、それを製造販売していた「坂酵素研究所」という会社があったことが分かりました。
坂酵素研究所は昭和15年に京都市で開業した会社で、前出の通り「パパナ錠」を発売。昭和22年に坂酵素工業所に改称。昭和31年から日本酵素薬品株式会社と改称し現在に至る企業で主に入浴剤を製造販売しているようです。
日本酵素薬品株式会社のHP

古絵葉書・川崎銀行五条支店本館

川崎銀行五条支店本館001
絵葉書のキャプションには「五条支店本館」とだけ書かれていますが、建物の正面ペディメントの下に「川崎銀行五条支店」の文字が確認できます。
川崎銀行は東京川崎財閥によって設立した銀行で戦前は全国各地に支店を展開。戦後の財閥解体で東京川崎財閥は消滅しましたが、川崎銀行は日本信託銀行として存続。現在は東京三菱UFJ銀行に吸収されています。
この五条支店は京都市左京区五条橋にあり、大和大路通の西に在りました。
川崎銀行五条支店2
※立命館大学「京都市明細オーバーレイマップ」より引用。
昭和初期の古地図に「川崎銀行五条支店」の記載があります。
川崎銀行五条支店のあったこの場所は現在、五建ビルという建物になっています。

古絵葉書・絹糸紡績株式会社

絹糸紡績株式会社001
京都市上京区にあった紡績工場です。操業は明治23年。明治10年に群馬県高崎市に創業した旧官営新町屑糸紡績所(現存・国指定重要文化財)をモデルに設立され、屑糸や屑繭を再利用し紡績糸に再利用するための工場でした。
絵葉書の工場の写真には赤煉瓦の工場棟やコロニアル様式の事務所。和風の造りの倉庫などが建ち並び、いかにも明治の工場といった雰囲気です。
絹糸紡績株式会社は明治41年出版の京都府写真帖によれば京都市上京東竹屋町にあったとされ、この絵葉書の宛名面にも差出人の住所に京都市上京絹糸紡績社宅内(明治42年12月31日消印)とあります。
無題
立命館大学京都市明細オーバーレイマップより引用。クリックで拡大します。
上京となっていますが、現在の左京区で丸太町東大路西にありました。オーバレイマップには絹糸紡績株式会社の文字は無く、鐘ヶ淵紡績株式会社の名前がありさらにそれが消されて日国工業の名前に変えられています。
昭和初期までに所有が変わったようですね。
現在、絹糸紡績株式会社の敷地は京都大学熊野寮として使用されています。

冊子・洛東アパート(光華寮)

洛東アパート001
洛東アパートは昭和6年に京都大学の敷地の東に建設されたアパートで、設計は土浦稲城。戦前・戦後のモダニズム建築の作品を多く手掛けた土浦亀城の実弟に当たります。
デザインは昭和戦前期より流行したモダニズム建築で、外観に装飾がないすっきりとしたデザインとなっています。
このパンフレットは、発行年は書かれてませんが、完成間もないころに発行されたものと思われ、表面には洛東アパートを紹介する文章と外観写真および室内のパース図。裏面は各階の平面図が書かれています。
洛東アパート2
※クリックで拡大します。
表面の内容。洛東アパートはアパートでありながら1階にはホテルの機能も備えていたようです。
洛東アパート3
※クリックで拡大します。
裏面の各階平面図。
1階には大食堂やホテル機能があり、地下には厨房や理髪店など割と中流以上を対象としたアパートだったのかもしれません。

洛東アパートは昭和19年、日本政府により日本国内各地の大学にいる留学生に対し「留学生教育非常措置」に基づいて京都大学で集合教育を実施。昭和20年に洛東アパートを中国からの留学生の寮とするため「光華寮」という名称に変更し使用を開始。
この時期に所有権が移ったのでしょうか。
終戦後、留学生の集合教育は廃止され、京都大学は光華寮の管理を終了しました。
昭和25年に中華民国駐日大使館が光華寮を購入。しかし、所有権をめぐって日中間の外交問題にまで発展した「光華寮訴訟」が起きました。
旧光華寮
現在の洛東アパート。住人はおらずかなりの老朽化が目立ち窓ガラスも割れたままで周りは侵入防止のフェンスで覆われていますが、未だ京都華僑総会が所有しているため、取り壊せず廃墟化した形で放置されています。
京都アパート3
京都市内には同じ昭和6年に建設されたアパート建築が現存しています。
洛東アパートにやや近い場所にある現在京都府警の青雲寮として利用されている旧京都アパートで、
洛東アパートとともに貴重な戦前京都のアパート建築です。
設計は別の人ですが、デザインはもちろんプランもどことなく洛東アパートと似通ってます。

※関連記事 古絵葉書・京都アパート

古絵葉書・財団法人京都共済会第六社会館

京都共済会001
京都共済会とは孤児・浮浪者・失業者などの生活困窮者を救済する目的で設立された団体で、大正9年に京都府知事を会長として発足したのが始まりです。京都共済会の活動内容は隣保事業・生活資金貸付・保育・共同住宅・職業指導・救護所など市民の福祉に関する多岐にわたる事業を担いました。
戦後も事業はそのまま引き継がれ、現在は「社会福祉法人 京都社会事業財団」として活動しています。
この絵葉書は第六社会館と呼ばれている建物で、恐らく託児所として使用された建物かと思われます。
京都共済会002
第六社会館内部。和室を基本とした内装になっています。

古絵葉書・蹴上浄水場沈殿池

蹴上浄水場004
京都市の蹴上地区にある蹴上浄水場の沈殿池です。
蹴上浄水場は明治45年に琵琶湖疏水の水源を利用した浄水場で、日本初の急速ろ過式浄水場でした。
浄水場内の赤煉瓦の施設は琵琶湖疏水の設計をした田邉朔郎による設計でした。
絵葉書は完成間もないころの蹴上浄水場と思われます。浄水場の右奥にはインクラインが見えます。
明治45年建設の蹴上浄水場の施設は近年まで現役で使用されていました。
蹴上浄水場002
今から20年くらい前に撮影したろ過池建屋。
蹴上浄水場003
旧ポンプ室と旧制御室。
これらの建物は老朽化のため取り壊されてしまいました。
蹴上浄水場5
唯一残されたのが第一高区配水池のこのヨーロッパの城門風の煉瓦建築。
この建物と反対に位置する煉瓦建屋は歴史的建築物として保存が決まり、配水池の修復工事の際に曳家され補強工事を受けています。

古絵葉書・京都搾乳畜産組合事務所

京都搾乳畜産組合001
乳製品の生産者組合である京都搾乳畜産組合の事務所です。
シンプルながらも中々洒落た洋館の事務所です。
宛名面の切手を貼る位置に「新築紀念 昭和9年」とあり、この事務所が昭和9年に完成したことが分かります。
恐らく当初は新築記念絵葉書として袋入りの数枚セットだったと思われます。
京都搾乳畜産組合の場所に関して調べましたが、見つかりませんでした。
ただ、昭和4年刊の京都市政要覧に山城搾乳畜産組合の記述があり、それによると上長者町通浄福寺町西入新柳馬場町五三二にあったとありますが、立命館大学の京都市明細図オーバーレイマップで確認しても見当たりませんでした。
昭和9年の新築時に事務所の場所を移転して組合名も変更した可能性があります。

古絵葉書・加島銀行京都支店(辰野・片岡建築事務所設計)

加島銀行京都支店001
加島銀行は、NHK朝の連続テレビ小説「あさが来た」のヒロイン、白岡あさのモデルになっている広岡浅子が大阪の豪商である加島屋を母体に明治21年に開業しました。
本店は大阪。この京都支店は大正3年に辰野金吾・片岡安の設計で建築。いかにも辰野式らしい花崗岩の白帯のある煉瓦建築です。
加島銀行京都支店
それから7年後の大正10年にヴォーリズ建築事務所により古典様式の京都支店が建てられました。
辰野・片岡設計の支店からたった7年で何故建て替えられたのか疑問でしたが、ヴォーリズ設計の支店の右側に写っている道路が辰野・片岡設計の支店には写ってないことから、辰野片岡設計の支店は下京支店、ヴォーリズ設計の支店は四条大宮にあったという京都支店の可能性があります。
加島銀行は昭和恐慌のあおりを受けて倒産。京都の支店のうち下京支店は山口銀行に四条大宮の京都支店は野村銀行へと譲渡されました。
古地図
※クリックで大きくなります。
立命館大学の「京都市明細図オーバーレイマップ」の烏丸万寿寺通り上ルの位置に加島銀行の記載がありました。
立地的に辰野・片岡建築事務所設計の支店でしょうか。
ただし地図では所有は三井生命となっており、現在も跡地は三井生命京都支社となっております。
ちなみに、四条大宮の方はそれらしい記載はありませんでした。

※関連記事 加島銀行京都支店(ヴォーリズ建築事務所設計)

古絵葉書・大礼記念京都美術館竣功記念絵葉書

京都市美術館001
現在も現役で使用されている京都市美術館は昭和8年に昭和天皇即位の礼を記念して建てられた美術館で、公立美術館としては東京都美術館に次いで2番目に開館した美術館でした。
設計は京都市営繕課の前田健二郎。コンペにおいて日本趣味を基調とすることを条件とした設計を求められ、前田健二郎案が採用されました。近代的な洋風建築の屋根に日本風の千鳥破風屋根を設け、建物の各所に和風の衣装を散りばめた様式は「帝冠様式」と呼ばれ、日本趣味・国粋主義が広まり始めた昭和初期に良く建てられた様式の建築で、この京都市美術館は帝冠様式の代表作として知られています。
この絵葉書は当時大礼記念京都美術館として開館した京都市美術館の竣工を記念して発行されたものです。
京都市美術館002
大礼記念京都美術館外観。現在の京都市美術館と全く同じ外観で当時のまま使われています。正門の門柱も現在も当時のままで、京都美術館の文字にうっすらと「大禮記念」の文字が残されています。
美術館前の掲示板も建設当時のままで、本館だけでなく付属の建造物もそのまま使用されているのは珍しいです。
また、隣接する同じく昭和8年完成の事務所棟も当時のまま使用されており、美術館一帯の雰囲気が昭和8年当時のまま保たれています。
京都市美術館003
正面玄関のエントランス。
建物内部の顔といえるエントランスも外観に合わせた和風を基調としたデザインで、階段は大理石製の豪華なものです。
この玄関部分も当時のまま残されています。
京都市美術館004
陳列室。
陳列室は主役である展示物の美術品を引き立たせる必要があるため、内装は極めてシンプルになっています。
京都市美術館は改修はされているものの、外観も内部もほぼ当時のまま残されている建物で、東京都美術館が建て替えられている現在において現存する最古の公立美術館として貴重な建築物です。
京都市は京都市美術館再整備基本計画において、公立美術館として現存日本最古となる京都市美術館本館の将来的な文化財指定を目指し保存を決定。また同じ年に完成の事務所棟も改修し転用することを発表しました。
※京都市美術館再整備基本計画(PDFファイル)

古絵葉書・周山尋常高等小学校

周山小学校001
周山尋常小学校は現在の京都市右京区京北町周山にあった小学校です。
明治6年に周山村にあった篠山藩の藩役所跡地に校舎を設けたのが始まりで明治35年に周山尋常小学校となりました。
は移り平成11年、周山小学校は細野小学校・宇津小学校と合併し京北町立京北第一小学校となり、平成17年には市町村合併による京都市への編入により京都市立京北第一小学校となりました。

古絵葉書・洛東園(東山温泉)

洛東園001
京都市東山区の三年坂近くにあった旅館、東山温泉の一角の敷地の施設です。
東山温泉洛東園古地図
※京都市明細図オーバーレイマップから引用。
立命館大学が公開している「京都市明細図オーバーレイマップ」に洛東園がありました。
敷地はかなり広く、当時としても有名旅館として経営されていたと思われます。
洛東園の絵葉書には洋館が写っています。建物の様式から昭和初期に建てられたものと思われ、
迎賓館的な使われ方をされたのかもしれません。
現在、洛東園の場所はマンションとなっており、洛東園・東山温泉とも失われています。

古絵葉書・朝日製粉株式会社

朝日製粉株式会社001
朝日製粉株式会社は、明治37年5月に現在の京都市下京区に設立した小麦粉製造会社です。
大正4年、東洋製粉株式会社に吸収。さらに大正9年に現在の日本製粉株式会社に吸収されまが、
京都工場はいつの頃からか閉鎖されたようで現在は存在していません。

古絵葉書・京都市立第二商業学校 学友会プール築造以前ノ御土居堀

京都市第二商業学校 御土居001
京都市立第二商業学校は明治43年に西陣の地において設立された学校で、現在の京都市立北野中学校です。
学校建築の場所は竹やぶと泥沼が広がる荒地で途方に暮れたそうです。
その場所にかつて豊臣秀吉が京都防御のため洛中を囲むように築いた長大な土塁、御土居とその堀が残されており、
学校建設に当たって御土居を切り崩し敷地の用土に充てたとされます。
学校開設からしばらくは敷地内に崩されなかった御土居と堀の一部が残され旧状を留めていたようですが、
大正15年に府内初の大規模な競技用プールが残されていた御土居と堀を利用して作られ、堀はプールに御土居は観客席になり秀吉築造当時の面影は失われました。
この絵葉書はプール工事前の御土居と堀を撮影したもので、当初の姿を知る興味深い資料となります。
右側に御土居がありますが、堀側が削られたような形になっており、学校工事の際に土取りされた後だと思います。
堀は幅が広く築造当時は幅が10m ほどあったという記録を裏付ける姿をしています。この箇所の堀は自然の湧水があり、それによって常に水を湛えた堀だったようです。また、これは後世のものかもしれませんが、堀と御土居の間には木杭の護岸がされています。
現在残されている御土居は北野中学校敷地内の御土居を含め11ヶ所。うち、北野天満宮境内の御土居や鷹峰御土居史跡公園など国指定史跡に指定された御土居は9ヶ所。この北野中学校の御土居は史跡に指定されていません。プール工事によって大幅な改変がされ、オリジナルの形を大きく損ねたからでしょうか。

古絵葉書・有本本店新築記念

京都有本商店001
京都に本店を置く有本株式会社は明治6年創業昭和10年設立の服飾企業です。
明治26年に現在の本店のある三条通御幸町に移転。大正9年に3階建ての洋館の店舗を建て、
有本商店として営業しました。この絵葉書は新店舗の新築記念として発行された絵葉書で、
恐らく当初は数枚セットだったと思われます。
この洋館は昭和46年に建て替えられ、さらに平成元年に現在の本社ビルに建て替えられました。

古絵葉書・京都府測候所五十年記念絵葉書

京都府測候所五十年記念001
京都府測候所は明治13年、槇村知事の決定により京都御苑内に観象台として設置されたのが始まりです。
明治14年に京都府測候所と改称。大正2年に現在の京都地方気象台の場所に移転しました。
昭和32年、京都府の管轄から離れ運輸省の外局となり、京都地方気象台と改称しました。
この絵葉書は京都府測候所が開設されてから50年を記念して発行された絵葉書で、
開設から50年なので、設置された明治13年(1880)からと考えると、発行されたのは昭和5年(1930)でしょうか。

以下に中身の絵葉書を紹介します。「続きを読む」からご覧ください。
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