category  [京都市 ]

古絵葉書・賀茂大橋竣工記念絵葉書

賀茂大橋竣工記念001
賀茂大橋は京都市を流れる鴨川に架かる橋で、関西の建築会の重鎮であり、京都大学工学部建築学科を創設した武田五一の設計により昭和6年に完成しました。
この絵葉書セットは賀茂大橋の竣工を記念して京都市により発行されたものです。
賀茂大橋竣工記念002
賀茂大橋遠景。下部ゲルバー式鋼桁橋の構造で、上部は石製の欄干と照明のある燈籠型の親柱があります。この石製欄干と燈籠は現在もそのままです。賀茂大橋の北側には鴨川デルタとして知られる高野川との合流点の三角洲。さらに北には世界遺産の下鴨神社があります。
賀茂大橋竣工記念003
正面から見た賀茂大橋。かつては市電が橋の上を走ってました。
賀茂大橋竣工記念004
賀茂大橋親柱。現在もそのまま使われ日が落ちると明かりが灯る親柱は伝統的な和風の燈籠型をしています。これは、賀茂大橋の上を通る今出川通が京都御所の北を通るのと、賀茂大橋のすぐ北に下鴨神社があるため、それらを意識してデザインしたのではないかと思います。
賀茂大橋は架橋から今年で86年を経ており、老朽化が目立つようになったため、大規模な改修工事が行われていますが、著名な建築家の設計で戦前に架橋された歴史的価値のある橋梁であるため、架け替えはせず、耐震補強などの改修に留めることで決定したようです。
スポンサーサイト

古絵葉書・西川甚五郎商店京都支店(現・京都西川)

西川甚五郎商店001
寝具販売会社の大手、京都西川は戦国時代の永禄9年(1566)に西川グループの祖となる初代仁右衛門が創業したのが始まりで、、寛延3年(1750)に京都に開店した店舗が後の京都西川となりました。
この絵葉書は松原通寺町にあった西川甚五郎商店の京都支店の外観で昭和初期らしい洋風のモダンな外観をしています。
西川甚五郎商店京都支店は昭和16年の各支店の改組により法人化。京都西川として独立しました。

古絵葉書・京都日出新聞(現・京都新聞)

京都日出新聞001
現在の京都新聞社の前身である京都日出新聞社の5枚組絵葉書です。
京都日出新聞社は明治12年に創刊した京都商事迅報を起源とし、明治14年に京都新報創刊。明治30年に京都日出新聞に改題したのが始まりとなっています。
昭和17年に京都日日新聞と京都日出新聞が合併「京都新聞」を創刊。これが現在の京都新聞の始まりとなりました。
絵葉書は京都日出新聞時代の社屋を紹介したもので、左下に昭和12年の記述があります。
1枚目は京都日出新聞社の社屋の外観。社屋内には日出会館という貸ホールも併設されていました。
京都日出新聞002
社屋内の日出会館の大ホールと地下食堂。日出会館の大ホールでは演劇や歌舞伎などの催しが多く上演されていたようです。
地下食堂も一般の人にも利用され、奥のメニューにはランチ表としてオムレツランチ・エビランチなどのメニューが見えます。
京都日出新聞003
こちらは京都日出新聞の施設。新聞に使う写真の製版室や本文の活字鋳造室。
輪転機に使う活版の活字は社屋内で作っていたんですね。
京都日出新聞004
新聞の印刷には重要な機器であるドイツ製の輪転機。よくドラマとかで新聞報道のイメージに使われる機会です。
京都日出新聞005
こちらは電光式高速度輪転機と配電盤。新聞社の命である輪転機。輸入された最新鋭の輪転機は会社にとって自慢の装備だったことでしょう。

古絵葉書・京都新京極(手彩色絵葉書)

新京極001
明治後期頃の新京極通を撮影した手彩色絵葉書です。
京都の新京極通は明治4年に完成した通りで、明治の中頃から見世物小屋や芝居小屋などが建ち並び始めました。
この絵葉書にも「遊技場」と書かれた提灯の下がる建物などが見えます。
大正・昭和期に入ると松竹座・京洛劇場・京宝会館などの劇場や映画館が建ち並び、京都市内の歓楽街として大いに賑わいました。
新京極通は絵葉書の風景とは大きく様変わりしましたが、現在も京都の観光客にとって定番の観光地となり、近年はMOVIX京都などのシネコンや一般の商店も建ち地元の人含め多くの人たちでにぎわっています。

古写真・酵素パパナ工場(坂酵素研究所 現・日本酵素薬品株式会社か?)

酵素パパナ工場001
戦前の工場を撮影した写真です。工場名は記載されていないのでわかりませんが、煙突に「酵素パパナ工場」の文字が書かれています。
調べましたところ、戦前に「パパナ錠」という酵素消化薬があり、それを製造販売していた「坂酵素研究所」という会社があったことが分かりました。
坂酵素研究所は昭和15年に京都市で開業した会社で、前出の通り「パパナ錠」を発売。昭和22年に坂酵素工業所に改称。昭和31年から日本酵素薬品株式会社と改称し現在に至る企業で主に入浴剤を製造販売しているようです。
日本酵素薬品株式会社のHP

古絵葉書・川崎銀行五条支店本館

川崎銀行五条支店本館001
絵葉書のキャプションには「五条支店本館」とだけ書かれていますが、建物の正面ペディメントの下に「川崎銀行五条支店」の文字が確認できます。
川崎銀行は東京川崎財閥によって設立した銀行で戦前は全国各地に支店を展開。戦後の財閥解体で東京川崎財閥は消滅しましたが、川崎銀行は日本信託銀行として存続。現在は東京三菱UFJ銀行に吸収されています。
この五条支店は京都市左京区五条橋にあり、大和大路通の西に在りました。
川崎銀行五条支店2
※立命館大学「京都市明細オーバーレイマップ」より引用。
昭和初期の古地図に「川崎銀行五条支店」の記載があります。
川崎銀行五条支店のあったこの場所は現在、五建ビルという建物になっています。

古絵葉書・絹糸紡績株式会社

絹糸紡績株式会社001
京都市上京区にあった紡績工場です。操業は明治23年。明治10年に群馬県高崎市に創業した旧官営新町屑糸紡績所(現存・国指定重要文化財)をモデルに設立され、屑糸や屑繭を再利用し紡績糸に再利用するための工場でした。
絵葉書の工場の写真には赤煉瓦の工場棟やコロニアル様式の事務所。和風の造りの倉庫などが建ち並び、いかにも明治の工場といった雰囲気です。
絹糸紡績株式会社は明治41年出版の京都府写真帖によれば京都市上京東竹屋町にあったとされ、この絵葉書の宛名面にも差出人の住所に京都市上京絹糸紡績社宅内(明治42年12月31日消印)とあります。
無題
立命館大学京都市明細オーバーレイマップより引用。クリックで拡大します。
上京となっていますが、現在の左京区で丸太町東大路西にありました。オーバレイマップには絹糸紡績株式会社の文字は無く、鐘ヶ淵紡績株式会社の名前がありさらにそれが消されて日国工業の名前に変えられています。
昭和初期までに所有が変わったようですね。
現在、絹糸紡績株式会社の敷地は京都大学熊野寮として使用されています。

冊子・洛東アパート(光華寮)

洛東アパート001
洛東アパートは昭和6年に京都大学の敷地の東に建設されたアパートで、設計は土浦稲城。戦前・戦後のモダニズム建築の作品を多く手掛けた土浦亀城の実弟に当たります。
デザインは昭和戦前期より流行したモダニズム建築で、外観に装飾がないすっきりとしたデザインとなっています。
このパンフレットは、発行年は書かれてませんが、完成間もないころに発行されたものと思われ、表面には洛東アパートを紹介する文章と外観写真および室内のパース図。裏面は各階の平面図が書かれています。
洛東アパート2
※クリックで拡大します。
表面の内容。洛東アパートはアパートでありながら1階にはホテルの機能も備えていたようです。
洛東アパート3
※クリックで拡大します。
裏面の各階平面図。
1階には大食堂やホテル機能があり、地下には厨房や理髪店など割と中流以上を対象としたアパートだったのかもしれません。

洛東アパートは昭和19年、日本政府により日本国内各地の大学にいる留学生に対し「留学生教育非常措置」に基づいて京都大学で集合教育を実施。昭和20年に洛東アパートを中国からの留学生の寮とするため「光華寮」という名称に変更し使用を開始。
この時期に所有権が移ったのでしょうか。
終戦後、留学生の集合教育は廃止され、京都大学は光華寮の管理を終了しました。
昭和25年に中華民国駐日大使館が光華寮を購入。しかし、所有権をめぐって日中間の外交問題にまで発展した「光華寮訴訟」が起きました。
旧光華寮
現在の洛東アパート。住人はおらずかなりの老朽化が目立ち窓ガラスも割れたままで周りは侵入防止のフェンスで覆われていますが、未だ京都華僑総会が所有しているため、取り壊せず廃墟化した形で放置されています。
京都アパート3
京都市内には同じ昭和6年に建設されたアパート建築が現存しています。
洛東アパートにやや近い場所にある現在京都府警の青雲寮として利用されている旧京都アパートで、
洛東アパートとともに貴重な戦前京都のアパート建築です。
設計は別の人ですが、デザインはもちろんプランもどことなく洛東アパートと似通ってます。

※関連記事 古絵葉書・京都アパート

古絵葉書・財団法人京都共済会第六社会館

京都共済会001
京都共済会とは孤児・浮浪者・失業者などの生活困窮者を救済する目的で設立された団体で、大正9年に京都府知事を会長として発足したのが始まりです。京都共済会の活動内容は隣保事業・生活資金貸付・保育・共同住宅・職業指導・救護所など市民の福祉に関する多岐にわたる事業を担いました。
戦後も事業はそのまま引き継がれ、現在は「社会福祉法人 京都社会事業財団」として活動しています。
この絵葉書は第六社会館と呼ばれている建物で、恐らく託児所として使用された建物かと思われます。
京都共済会002
第六社会館内部。和室を基本とした内装になっています。

古絵葉書・蹴上浄水場沈殿池

蹴上浄水場004
京都市の蹴上地区にある蹴上浄水場の沈殿池です。
蹴上浄水場は明治45年に琵琶湖疏水の水源を利用した浄水場で、日本初の急速ろ過式浄水場でした。
浄水場内の赤煉瓦の施設は琵琶湖疏水の設計をした田邉朔郎による設計でした。
絵葉書は完成間もないころの蹴上浄水場と思われます。浄水場の右奥にはインクラインが見えます。
明治45年建設の蹴上浄水場の施設は近年まで現役で使用されていました。
蹴上浄水場002
今から20年くらい前に撮影したろ過池建屋。
蹴上浄水場003
旧ポンプ室と旧制御室。
これらの建物は老朽化のため取り壊されてしまいました。
蹴上浄水場5
唯一残されたのが第一高区配水池のこのヨーロッパの城門風の煉瓦建築。
この建物と反対に位置する煉瓦建屋は歴史的建築物として保存が決まり、配水池の修復工事の際に曳家され補強工事を受けています。

古絵葉書・京都搾乳畜産組合事務所

京都搾乳畜産組合001
乳製品の生産者組合である京都搾乳畜産組合の事務所です。
シンプルながらも中々洒落た洋館の事務所です。
宛名面の切手を貼る位置に「新築紀念 昭和9年」とあり、この事務所が昭和9年に完成したことが分かります。
恐らく当初は新築記念絵葉書として袋入りの数枚セットだったと思われます。
京都搾乳畜産組合の場所に関して調べましたが、見つかりませんでした。
ただ、昭和4年刊の京都市政要覧に山城搾乳畜産組合の記述があり、それによると上長者町通浄福寺町西入新柳馬場町五三二にあったとありますが、立命館大学の京都市明細図オーバーレイマップで確認しても見当たりませんでした。
昭和9年の新築時に事務所の場所を移転して組合名も変更した可能性があります。

古絵葉書・加島銀行京都支店(辰野・片岡建築事務所設計)

加島銀行京都支店001
加島銀行は、NHK朝の連続テレビ小説「あさが来た」のヒロイン、白岡あさのモデルになっている広岡浅子が大阪の豪商である加島屋を母体に明治21年に開業しました。
本店は大阪。この京都支店は大正3年に辰野金吾・片岡安の設計で建築。いかにも辰野式らしい花崗岩の白帯のある煉瓦建築です。
加島銀行京都支店
それから7年後の大正10年にヴォーリズ建築事務所により古典様式の京都支店が建てられました。
辰野・片岡設計の支店からたった7年で何故建て替えられたのか疑問でしたが、ヴォーリズ設計の支店の右側に写っている道路が辰野・片岡設計の支店には写ってないことから、辰野片岡設計の支店は下京支店、ヴォーリズ設計の支店は四条大宮にあったという京都支店の可能性があります。
加島銀行は昭和恐慌のあおりを受けて倒産。京都の支店のうち下京支店は山口銀行に四条大宮の京都支店は野村銀行へと譲渡されました。
古地図
※クリックで大きくなります。
立命館大学の「京都市明細図オーバーレイマップ」の烏丸万寿寺通り上ルの位置に加島銀行の記載がありました。
立地的に辰野・片岡建築事務所設計の支店でしょうか。
ただし地図では所有は三井生命となっており、現在も跡地は三井生命京都支社となっております。
ちなみに、四条大宮の方はそれらしい記載はありませんでした。

※関連記事 加島銀行京都支店(ヴォーリズ建築事務所設計)

古絵葉書・大礼記念京都美術館竣功記念絵葉書

京都市美術館001
現在も現役で使用されている京都市美術館は昭和8年に昭和天皇即位の礼を記念して建てられた美術館で、公立美術館としては東京都美術館に次いで2番目に開館した美術館でした。
設計は京都市営繕課の前田健二郎。コンペにおいて日本趣味を基調とすることを条件とした設計を求められ、前田健二郎案が採用されました。近代的な洋風建築の屋根に日本風の千鳥破風屋根を設け、建物の各所に和風の衣装を散りばめた様式は「帝冠様式」と呼ばれ、日本趣味・国粋主義が広まり始めた昭和初期に良く建てられた様式の建築で、この京都市美術館は帝冠様式の代表作として知られています。
この絵葉書は当時大礼記念京都美術館として開館した京都市美術館の竣工を記念して発行されたものです。
京都市美術館002
大礼記念京都美術館外観。現在の京都市美術館と全く同じ外観で当時のまま使われています。正門の門柱も現在も当時のままで、京都美術館の文字にうっすらと「大禮記念」の文字が残されています。
美術館前の掲示板も建設当時のままで、本館だけでなく付属の建造物もそのまま使用されているのは珍しいです。
また、隣接する同じく昭和8年完成の事務所棟も当時のまま使用されており、美術館一帯の雰囲気が昭和8年当時のまま保たれています。
京都市美術館003
正面玄関のエントランス。
建物内部の顔といえるエントランスも外観に合わせた和風を基調としたデザインで、階段は大理石製の豪華なものです。
この玄関部分も当時のまま残されています。
京都市美術館004
陳列室。
陳列室は主役である展示物の美術品を引き立たせる必要があるため、内装は極めてシンプルになっています。
京都市美術館は改修はされているものの、外観も内部もほぼ当時のまま残されている建物で、東京都美術館が建て替えられている現在において現存する最古の公立美術館として貴重な建築物です。
京都市は京都市美術館再整備基本計画において、公立美術館として現存日本最古となる京都市美術館本館の将来的な文化財指定を目指し保存を決定。また同じ年に完成の事務所棟も改修し転用することを発表しました。
※京都市美術館再整備基本計画(PDFファイル)

古絵葉書・周山尋常高等小学校

周山小学校001
周山尋常小学校は現在の京都市右京区京北町周山にあった小学校です。
明治6年に周山村にあった篠山藩の藩役所跡地に校舎を設けたのが始まりで明治35年に周山尋常小学校となりました。
は移り平成11年、周山小学校は細野小学校・宇津小学校と合併し京北町立京北第一小学校となり、平成17年には市町村合併による京都市への編入により京都市立京北第一小学校となりました。

古絵葉書・洛東園(東山温泉)

洛東園001
京都市東山区の三年坂近くにあった旅館、東山温泉の一角の敷地の施設です。
東山温泉洛東園古地図
※京都市明細図オーバーレイマップから引用。
立命館大学が公開している「京都市明細図オーバーレイマップ」に洛東園がありました。
敷地はかなり広く、当時としても有名旅館として経営されていたと思われます。
洛東園の絵葉書には洋館が写っています。建物の様式から昭和初期に建てられたものと思われ、
迎賓館的な使われ方をされたのかもしれません。
現在、洛東園の場所はマンションとなっており、洛東園・東山温泉とも失われています。

古絵葉書・朝日製粉株式会社

朝日製粉株式会社001
朝日製粉株式会社は、明治37年5月に現在の京都市下京区に設立した小麦粉製造会社です。
大正4年、東洋製粉株式会社に吸収。さらに大正9年に現在の日本製粉株式会社に吸収されまが、
京都工場はいつの頃からか閉鎖されたようで現在は存在していません。

古絵葉書・京都市立第二商業学校 学友会プール築造以前ノ御土居堀

京都市第二商業学校 御土居001
京都市立第二商業学校は明治43年に西陣の地において設立された学校で、現在の京都市立北野中学校です。
学校建築の場所は竹やぶと泥沼が広がる荒地で途方に暮れたそうです。
その場所にかつて豊臣秀吉が京都防御のため洛中を囲むように築いた長大な土塁、御土居とその堀が残されており、
学校建設に当たって御土居を切り崩し敷地の用土に充てたとされます。
学校開設からしばらくは敷地内に崩されなかった御土居と堀の一部が残され旧状を留めていたようですが、
大正15年に府内初の大規模な競技用プールが残されていた御土居と堀を利用して作られ、堀はプールに御土居は観客席になり秀吉築造当時の面影は失われました。
この絵葉書はプール工事前の御土居と堀を撮影したもので、当初の姿を知る興味深い資料となります。
右側に御土居がありますが、堀側が削られたような形になっており、学校工事の際に土取りされた後だと思います。
堀は幅が広く築造当時は幅が10m ほどあったという記録を裏付ける姿をしています。この箇所の堀は自然の湧水があり、それによって常に水を湛えた堀だったようです。また、これは後世のものかもしれませんが、堀と御土居の間には木杭の護岸がされています。
現在残されている御土居は北野中学校敷地内の御土居を含め11ヶ所。うち、北野天満宮境内の御土居や鷹峰御土居史跡公園など国指定史跡に指定された御土居は9ヶ所。この北野中学校の御土居は史跡に指定されていません。プール工事によって大幅な改変がされ、オリジナルの形を大きく損ねたからでしょうか。

古絵葉書・有本本店新築記念

京都有本商店001
京都に本店を置く有本株式会社は明治6年創業昭和10年設立の服飾企業です。
明治26年に現在の本店のある三条通御幸町に移転。大正9年に3階建ての洋館の店舗を建て、
有本商店として営業しました。この絵葉書は新店舗の新築記念として発行された絵葉書で、
恐らく当初は数枚セットだったと思われます。
この洋館は昭和46年に建て替えられ、さらに平成元年に現在の本社ビルに建て替えられました。

古絵葉書・京都府測候所五十年記念絵葉書

京都府測候所五十年記念001
京都府測候所は明治13年、槇村知事の決定により京都御苑内に観象台として設置されたのが始まりです。
明治14年に京都府測候所と改称。大正2年に現在の京都地方気象台の場所に移転しました。
昭和32年、京都府の管轄から離れ運輸省の外局となり、京都地方気象台と改称しました。
この絵葉書は京都府測候所が開設されてから50年を記念して発行された絵葉書で、
開設から50年なので、設置された明治13年(1880)からと考えると、発行されたのは昭和5年(1930)でしょうか。

以下に中身の絵葉書を紹介します。「続きを読む」からご覧ください。
続きを読む

古絵葉書・京都府師範学校附属小学校

京都師範学校付属小学校001
京都府師範学校附属小学校の校舎として昭和12年に建てられました。
設計は京都府営繕課の十河安雄。京都府立鴨沂高校や京都府立鳥羽高校など京都府の学校建築等を手がけた建築家です。
京都師範学校付属小学校002
この校舎は全体的に昭和初期頃に流行したスクラッチタイルを貼り、正面塔屋の屋根には和風の千鳥破風を設けた
いわゆる帝冠様式といえるデザインの建物で、4年前の昭和8年に完成した同じ帝冠様式の京都市美術館の建物とよく似たデザインとなっています。
現在は後身の京都教育大学附属小学校の校舎として使用されていますが、外観を含め当時のままで使用されているだけでなく、見た目もまるで最近の建物の様に綺麗で、いかにこの建物が大切に使用されているかがわかります。

古絵葉書・京都市医師会館

京都市医師会館001
大正13年完成の建物で、設計は武田五一。京都市上京区丸太町通智恵光院にありました。
戦後、飲食チェーングループの春陽堂が事務所として使用していましたが、2007年に取り壊され、
後、春陽堂も倒産しました。

古写真・簡易宿泊所 錦林浴場(京都市政要覧 昭和4年刊より)

簡易宿泊所・錦林浴場
簡易宿泊所は七条職業紹介所の隣に造られ、職業紹介所にやってきた無職の人を対象に1人1泊限りで満14歳以上は1泊20銭、満14歳未満は1泊10銭の前払いで提供していたようです。
生活の厳しい人を対象に簡易食堂のカレーライスの代金よりちょっと多めの料金という格安の料金で宿泊させていた公設の宿泊所ですが、写真を見る限り洋館の中々立派な作りですね。ちなみにお金を持たない人には隣接の職業紹介所の宿泊室を無料で提供していたようです。
錦林浴場は京都市が昭和3年に鹿ケ谷に開設した公設浴場の一つで、他に大正12年開設の東七条の崇仁浴場と上京区田中馬場町の養正浴場があり、これらは市街地からやや外れた銭湯が少なかった地域に設立したとあります。
営業は各地域の青年団や地区会に委託していたとあり、代金は崇仁浴場と養正浴場は大人2銭・子供1銭。錦林浴場は大人3銭・子供2銭とあります。
写真は錦林浴場ですが、洋風のモダンな造りの建物で錦林浴場が他の2つより入浴料がやや高いのは、新築だったこととそれにより新しい設備を導入したためでしょうか。

古写真・七条簡易食堂 中央簡易食堂(京都市政要覧 昭和4年刊より)

簡易食堂
昭和4年刊の京都市政要覧に収録されている写真です。
京都市が単身者や諸事情により家庭にて食事ができない中流以下の人を対象とした公営の大衆食堂です。
京都市政要覧によると、大正7年に壬生にて試験的に壬生食堂なる市営の大衆食堂を開設していたが、
中々の評判だったため、大正11年に建設された七条職業紹介所内に七条簡易食堂を開設し、
さらに大正14年に千本丸太町にあった中央職業紹介所に隣接して中央簡易食堂を新築したとあります。
いずれも職業紹介所に隣接して作られていることから、職探しに来た人を目当てに開設されたのかもしれません。
今でこそ多種多様な飲食店が多いですが、大正昭和初期は恐らく街中至る所にあったわけでもないでしょうから、
公営の大衆食堂が作られたのかもしれませんが、それでも当時から福利厚生がしっかりしてたのは驚きです。
ちなみに、この簡易食堂は市の委託を受けた業者が営んでいたようで、本によると、通常営業時間は午前7時から午後7時まで。夏季は午前6時から午後8時まで。朝定食は13銭。昼・夜定食は15銭。お代りのご飯大10銭。小は5銭。肉丼25銭。副食物5銭。漬物5銭。焼物15銭。カレーライス15銭。コーヒー5銭。冷麦15銭。ソーダ水5銭となっています。

古絵葉書・京都日日新聞社(現・京都新聞社)

京都日日新聞001
京都日日新聞は現在の京都新聞の前身の新聞社で、明治45年創刊の京都夕刊新聞が大正9年に改名したものです。
昭和6年に神戸新聞社・大阪時事新報・京都日日新聞社が合併して三都合同新聞社が発足しましたが、
昭和8年に京都日日新聞社が独立、昭和17年に京都日出新聞と合併し京都新聞が創刊されるまで京都日日新聞として発行されました。
絵葉書には京都日日新聞の本社屋と背後に新聞の画像があしらわれています。
新聞の日付は昭和12年4月28日となっており、1面の見出しには「総選挙愈よ明後日」と書かれています。
これは、「食い逃げ解散」と呼ばれた衆議院解散後の総選挙で選挙結果を受けて総辞職した林内閣の第20回衆議院議員総選挙のことです。
本社屋の建物も装飾を控えたモダニズム建築と昭和戦前期に流行った丸窓など昭和10年代前後年代の建物の特徴を備えています。

古絵葉書・日本聖公会京都地区ウィリアムス旧邸

ウィリアムズ邸001
ウィリアムスは長崎や京都で布教活動を行った宣教師で、日本聖公会初代監督でもありました。
ウィリアムスは明治43年に死去。この建物はウィリアムスが生活していた建物として記念に保存されたようです。
この絵葉書は様式的に昭和初期から10年代のもののようなので、その頃には記念館のような感じだったのかもしれません。
ウィリアムズ邸002
このウィリアムスの旧邸は現存しています。
烏丸通沿いに面した位置にあり、煉瓦造の聖アグネス教会を北へ上がった場所にあります。
現在の建物は窓の部分が改変されているのとと1階と2階との間にある長押状の軒回りが失われている以外は
絵葉書の頃の姿とほぼ同じです。
基礎周りは煉瓦積みで通風孔の金網も当時のままのようです。
ウィリアムスが生活していた邸宅なら明治期のものであることは間違いありませんが…。
ウィリアムス氏旧邸の前に記念碑がありますが、絵葉書には写っていません。
ウィリアムズ邸003
ウィリアムス氏旧邸の裏にはジョージアン様式の立派な洋館が建っています。
日本聖公会京都地区 ウィリアムス神学館の建物で元は昭和6年に建てられた旧ニコル邸でした。
この洋館を紹介しているサイトは時々見かけますが、烏丸通に面したウィリアムス氏旧邸はあまり紹介されていないようです。

古写真・横大路発電所(京都市政要覧 昭和4年刊より)

横大路発電所
昭和4年刊の京都市政要覧に収録されている写真です。
琵琶湖疏水による水力発電の電力を補うため、京都市が伏見区横大路に設立した火力発電所で、
大正14年5月に竣工しました。
現在、横大路には関西電力の変電所がありますが、この横大路発電所は現在の変電所の場所に
あったのでしょうか。

古写真・市立京都病院(京都市政要覧 昭和4年刊より)

京都病院
昭和4年刊の京都市政要覧に収録されている写真です。
市立京都病院は大正4年京都市中京区西院東高田町に設立した病院で、
明治22年に設立した吉田病院の後身です。
吉田病院は市内の伝染病患者の収容をしていた病院でしたが、
移転後の市立京都病院でも伝染病患者の収容が行われました。
現在は京都市立病院として同じ場所にて開院しています。

古写真・下京区役所(京都市政要覧 昭和4年刊より)

下京区役所
昭和4年刊の京都市政要覧に収録されている下京区役所の写真です。
京都市下京区は上京区と同時期の明治12年に設立しました。
この庁舎は大正7年6月25日に完成。未だ明治・大正期の面影が残る木造の庁舎でした。

古写真・上京区役所(京都市政要覧 昭和4年刊より)

上京区役所
昭和4年刊の京都市政要覧に収録されている上京区役所庁舎です。
京都市上京区は明治12年に設立しました。
この庁舎は明治43年3月31日完成で、下見板張りのいかにも明治期と言ったデザインです。
その後、昭和12年に鉄筋コンクリートの近代的な庁舎に建て替えられて近年まで使用されていましたが、
新庁舎に建て替えられました。

古絵葉書・日本動産火災保険京都支部、東邦火災保険京都支店新築落成記念

日本動産火災保険株式会社京都支店001
日本動産火災保険株式会社京都支部と東邦火災保険株式会社京都支店の社屋新築を記念して
発行された絵葉書です。現状では3枚セットとなっています。
日本動産火災保険は大正3年設立、東邦火災保険は明治44年の設立ですが、
昭和19年に東邦火災保険は日本動産火災保険に吸収合併されました。
2004年に東京海上火災保険と合併して現在の東京海上日動火災保険株式会社となりました。
この絵葉書の建物はは2社の京都支店が入居する新社屋ですが、昭和19年より以前の
作成と思われます。合併前からそれを伺わせる雰囲気があったのでしょうか。

中身の3枚は追記にて紹介します。
続きを読むからご覧ください。
続きを読む
<?php include_once("analyticstracking.php") ?>