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古絵葉書・重巡洋艦高雄進水記念絵葉書

重巡洋艦高雄進水記念絵葉書001
重巡洋艦・高雄は昭和2年に横須賀海軍工廠にて起工、昭和5年に進水し昭和7年に竣工しました。
この絵葉書は高雄の進水を記念して作成されたもので、高雄の写真と艦名のもとになった京都の高雄山にちなんで有名な高雄山の紅葉と擬宝珠のある朱塗りの橋が描かれています。また、記念のスタンプも押されています。
重巡洋艦・高雄と言えば、現在のこんごう型イージス艦やあたご型イージス艦のような巨大な艦橋が特徴的ですが、絵葉書の写真ではまだ艦橋は完成してませんでしたので先に就役している妙高型重巡洋艦の写真が使用されています。
重巡洋艦高雄進水記念絵葉書002
こちらは進水式の様子を撮影した絵葉書。ちなみに2番艦の愛宕の方が先に竣工しています。
高雄は太平洋戦争時は第四戦隊に所属し主に南方方面の作戦に参加。第二次ソロモン海戦・第三次ソロモン海戦・マリアナ沖海戦・そしてレイテ沖海戦など多くの激しい海戦に参加。潜水艦による雷撃により艦尾を大破しましたが、沈没は免れました。
その後、シンガポールのセレター軍港に係留。重巡洋艦・妙高とともに防空艦としての任務を受けることになりました。
終戦後、接収されたイギリス軍により妙高と同じく自沈処分。高雄と妙高は同じ横須賀海軍工廠の同じ船台で建造されたネームシップで、それぞれの4姉妹の中で唯一終戦時まで生存。同じセレター軍港に係留され同じ場所で自沈されたという数奇な縁を持つ2艦でした。
現在、海上自衛隊のこんごう型護衛艦3番艦で妙高の名を受け継いだイージス艦「みょうこう」と違い、高雄の名を受け継いだ護衛艦は未だありません。将来、高雄の名を受け継ぐ護衛艦は誕生するのでしょうか。
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古絵葉書・重巡洋艦妙高進水記念絵葉書

重巡洋艦妙高進水記念絵葉書001
重巡洋艦・妙高は大正13年に横須賀海軍工廠にて起工され、昭和2年に進水。昭和4年に竣工しました。
この絵葉書は妙高の進水を記念して作成されたもので、建造中の妙高の写真と記念のスタンプが押されています。
重巡洋艦妙高進水記念絵葉書002
2枚目は艦の名前になった妙高山のイラストが描かれており、こちらにも記念スタンプが押されています。
竣工間もない妙高は、昭和5年に神戸沖にて行われた特別大演習観艦式に参加しました。
太平洋戦争開戦後は第五戦隊に所属しスラバヤ沖海戦や珊瑚海海戦、ブーゲンビル島沖海戦に参戦。
ブーゲンビル島沖海戦では夜戦の混乱で駆逐艦初風と衝突する事故も起きましたが、その後もマリアナ沖海戦、レイテ沖海戦に参戦し、多くの日本海軍の艦船が沈んでいく中、妙高は潜水艦による艦尾大破を受けつつも沈没は免れ、シンガポールにて防空艦としての任務を受けました。
シンガポールのセレター軍港に係留された妙高はセレター迷彩と言われる迷彩を施された状態で終戦を迎え、後に接収したイギリス軍により同じく係留されていた重巡洋艦・高雄とともに自沈処分されました。
妙高と高雄は同じ横須賀海軍工廠の同じ船台で建造されたネームシップで、それぞれの4姉妹の中で唯一終戦時まで生存。同じセレター軍港に係留され同じ場所で自沈されたという数奇な縁を持つ2艦でした。
現在、妙高の艦名は海上自衛隊こんごう型護衛艦3番艦であるイージス艦「みょうこう」に受け継がれています。

古写真・双発爆撃機「銀河」 艦上攻撃機「天山」(「航空朝日」昭和20年1月号より)

銀河・天山
※サムネイル画像のクリックで拡大します。
航空機専門雑誌の「航空朝日」昭和20年1月号に掲載された旧海軍が開発した双発爆撃機・銀河と艦上攻撃機・天山の写真です。
銀河は一式陸上攻撃機の後継機として開発された大型爆撃機で、昭和18年より生産開始。終戦までに1100機余り生産され、太平洋戦争の後期に導入されました。正式採用後、銀河は各地の戦線にて配備され、いくつかの巡洋艦や空母を大破・撃沈寸前にまで追い込むなどの戦果をあげましたが多くが失われ、終戦時に残存していた銀河はわずか182機でした。
現在、完全な状態で保存された銀河は無く、スミソニアン博物館に1機のみ分解状態で保存されています。

天山は九七式艦上攻撃機の後継機として開発された旧日本海軍の艦上攻撃機で、昭和18年より生産が開始。終戦までに1266機生産されました。
天山は正式採用後、南方戦線の各地に配備され、天山の配備された第六〇一航空隊はマリアナ沖海戦で激しい戦闘を繰り広げましたが、8割を失うという大損害を受けました。
その後の硫黄島の戦いや沖縄戦では特攻作戦にも参加。終戦時の残存数はわずか187機でした。
現在、スミソニアン博物館にて分解状態で保管された天山が現存しています。

海軍機は戦争前に正式採用された零戦や九七式艦上攻撃機・九九式艦上爆撃機・一式陸上攻撃機の絵葉書は数多く見られ、献納絵葉書でもほとんどがそれらの機体ですが、それ以降となる戦闘機では紫電改。艦上攻撃機では天山。艦上爆撃機では彗星など銀河も含め戦時中に正式採用された機体はほぼ献納絵葉書を含む絵葉書では見られません。
艦上爆撃機 彗星001
彗星は絵葉書サイズの読売ニュース焼付版に何枚か取り上げられてますが、これは絵葉書ではありませんし。
この「航空朝日」は専門雑誌とはいえ市販されていたもので、掲載されている銀河や天山の写真は軍機扱いでは無かったと思いますが、先に紹介した陸軍機の飛燕や疾風も含めて、雑誌では大きく取り上げられている一方で、絵葉書になると極端に数が少なくなるのか疑問に思うところです。

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古写真・三式戦闘機「飛燕」 四式戦闘機「疾風」(「航空朝日」昭和20年1月号より)

古写真・三式戦闘機「飛燕」 四式戦闘機「疾風」(「航空朝日」昭和20年1月号より)

飛燕・疾風
※サムネイルのクリックで画像が拡大します。
航空朝日昭和20年1月号に掲載された三式戦闘機・飛燕と四式戦闘機・疾風の写真です。
三式戦闘機・飛燕はドイツのダイムラー・ベンツ社製のエンジンをもとに開発した液冷エンジンを搭載した戦闘機で、先細りの機首が特徴の機体でした。
昭和17年より生産が開始され、太平洋戦線の各地にて参戦し戦争末期には迎撃機としても使用されました。
image.jpg
現在、1機のみが完全な形で現存し、知覧特攻平和会館に展示されていましたが、修復のため移動し2016年に神戸にて修復完了した飛燕が披露され、その後、かがみはら航空宇宙科学博物館に展示予定となっています。
※写真は管理人が撮影した神戸ポートターミナルにて展示されていた飛燕。

四式戦闘機・疾風は昭和18年に開発完了し、その性能の高さから終戦までのわずか2年の間に3500機余りの数が生産された中島飛行機の集大成と言われた戦闘機です。決戦機として陸軍の航空部隊の多くで四式戦闘機への機種変換が行われましたが、戦局を大きく覆すものではありませんでした。
写真の四式戦闘機は昭和19年10月に所沢陸軍飛行場にて初公開された飛行第73戦隊所属の機体で、尾翼には3本の赤いストライプの部隊マークが描かれています。
飛行第73戦隊は昭和19年5月に三重県伊勢市の明野陸軍飛行学校にて編成された航空隊で、昭和19年10月に所沢に移転しており、その際に公開されたものと思われます。後、南方戦線にて参戦しましたが、多くが失われ、さらには特攻隊にも参加するなどして昭和20年3月には解隊されています。
現在、知覧特攻平和会館に展示されている1機が唯一現存する四式戦闘機となっています。

これら飛燕と疾風ですが、絵葉書では多く見かける一式戦闘機・隼や二式単座戦闘機・鍾馗と比べてまず見かけることはありません。この航空朝日は専門雑誌ではあるものの、市販されていたものですし当時のニュース映画にも飛燕や疾風は普通に写されていますし飛燕は三銭切手の図案にも使われているので機密扱いでは無かったとは思いますが、別ページに掲載されている海軍機の銀河や天山を含め、何故絵葉書関連では数が極端に少ないのか疑問に思うところです。

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古写真・双発爆撃機「銀河」 艦上攻撃機「天山」(「航空朝日」昭和20年1月号より)

古絵葉書・一〇〇式重爆撃機 呑龍(陸軍航空本部提供写真)

呑龍005
陸軍航空本部提供の写真を使い発行された絵葉書で、表の宛名欄と通信欄の間に「君は増産 僕は操縦」のスローガンが書かれています。
一〇〇式重爆撃機・呑龍は陸軍の重爆撃機・九七式重爆撃機の後継機として昭和16年に正式採用された重爆撃機です。
太平洋戦争開戦の年に採用された機体ですが、実戦では主に中国戦線で運用されました。
写真の呑龍の尾翼は部隊マークを隠すためか日の丸が描かれる修正がされているように見えます。
呑龍003
編隊を組む呑龍。呑龍は対ソ戦用に適応するよう開発された経緯もあり、太平洋戦争中の主戦場であった南方方面での運用はいまいち使いづらいこともあり、九七式重爆撃機に比べ生産数も活躍の場も少ない結果に終わりました。
こちらの写真も尾翼に

YouTubeに一〇〇式重爆撃機が撮影されたニュース映画の動画がありました。

古絵葉書・二式単座戦闘機 鍾馗(陸軍航空本部提供写真)

鍾馗001
陸軍航空本部提供写真の二式単座戦闘機・鍾馗の絵葉書です。宛名欄と通信欄の間に「君は増産 僕は操縦」の文字があります。
二式単座戦闘機・鍾馗は昭和15年に初飛行し昭和16年から運用され、一式戦闘機「隼」とともに大戦中を通じて活躍した機体です。
この絵葉書の写真は比較的アップで撮られており、エンジン部分の1部や機銃等の様子が良く確認できます。
鍾馗002
編隊を組んで飛行する鍾馗。こちらは尾翼部分に修正が入れられているように見えます。
鍾馗は大戦末期は本土防衛の迎撃機として使用されましたが、米軍の評価では迎撃機としては優秀であったと評価しています。
昭和19年末に鍾馗の生産は終了。後継機は新開発の四式戦闘機「疾風」となります。

YouTubeにニュース映画に撮影された鍾馗の映像がありました。

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古絵葉書・二式単座戦闘機 鍾馗
古絵葉書・二式単座戦闘機 鍾馗 (内外ゴム献納 愛国第2717号機)

古絵葉書・戦艦霧島進水記念絵葉書

戦艦霧島進水記念絵葉書001
戦艦霧島は金剛型巡洋戦艦の4番艦として長崎三菱造船所にて大正2年に進水しました。
この絵葉書は霧島の進水を記念して発行されたもので、本来は2~3枚のセットだったと思われます。
霧島は昭和5年に近代化改装を行い昭和11年にさらに近代化改装されことにより艦橋が巨大化し艦影が大きく変化するとともに機関部の強化により30ノットの速力を有する高速戦艦として生まれ変わりました。
霧島は姉妹艦の金剛・比叡・榛名とともに太平洋戦争の緒海戦に参加。第三次ソロモン海戦では2度の夜戦による激戦の末、いわゆる「アイアンボトムサウンド(鉄底海峡)」にて米戦艦・ワシントンのレーダー射撃により16インチ主砲の砲弾9発の命中弾を受け沈没しました。
戦艦霧島進水記念絵葉書002
絵葉書の宛名面には霧島の進水式を見学し貰った絵葉書を記念に送りますと書かれてます。
霧島の進水式を見学した人が身内か知り合いに当てたもののようですが、進水式はさぞかし感動したことでしょう。

古絵葉書・戦艦霧島の年賀状

戦艦霧島の年賀状002
新年あけましておめでとうございます。ブログ開設11年目を迎える2017年も当ブログをよろしくお願いいたします。
今回は年始の挨拶用に調達しましたが、微妙に間に合わなかったもの。戦艦霧島の年賀状です。
裏面には戦艦霧島と「謹賀新年 一月元旦」の文字と富士山・登り龍の絵があります。
戦艦霧島の年賀状001
宛名面を見ると、差出人の住所は「軍艦霧島」とあり、霧島から出されたものであると分かります。
艦内の酒保では家族に出すためのハガキや便箋などが売られていましたが、年賀はがきも売られていたようですね。
霧島の年賀はがきとして専用に発注されていたものが酒保で売られていたことなど中々興味深い資料です。
消印が消えてしまったのか出された年が判別できませんが、貼られている記念切手が大正6年に発行された皇太子(後の昭和天皇)の立太子記念切手であることから、大正7年の元旦の年賀状ではと思います。

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古絵葉書・潜水母艦大鯨進水記念絵葉書(2枚組)

大鯨001
潜水母艦大鯨は横須賀海軍工廠にて建造された軍艦で、昭和8年に起工し同年11月に進水のか7ヶ月という短さでした。これは事前に昭和天皇に進水式の日程が知らされており、それに合わせたためでした。潜水母艦というのは潜水艦への燃料や弾薬・食料の補給、さらには潜水艦乗員の休息も行うことができた軍艦でした。しかし大鯨は保有艦艇を大きく制限させられたロンドン海軍軍縮会議に対応するため制限のなかった10000トン以下の補助艦艇を有事の際すぐに航空母艦に改造できるようにあらかじめ建造された潜水母艦でした。
大鯨003
太平洋戦争開戦の昭和16年、大鯨は当初の予定通り航空母艦へと改装され、龍鳳と名付けられました。
龍鳳は太平洋戦争の緒戦を戦い抜き、昭和19年にはシンガポールへ輸送船団「ヒ87船団」を護衛し呉に帰還。その後は呉軍港にて浮き砲台として使用。呉軍港空襲では来襲するアメリカ軍機に対して対空射撃を行いました。
龍鳳はそのまま終戦を迎え解体されました。
大鯨002
1枚目の絵葉書の通信欄には進水記念スタンプが2つ押されていました。進水式の時にもらった絵葉書に記念に押されたのでしょう。

古絵葉書・駆逐艦嵐進水記念絵葉書

駆逐艦嵐進水記念絵葉書002
駆逐艦嵐は陽炎型駆逐艦の16番艦として昭和14年に舞鶴海軍工廠において起工。昭和15年に進水し昭和16年に就役しました。
この絵葉書は嵐の進水を記念して関係者に配られた絵葉書です。
嵐は第四水雷戦隊第四駆逐隊に所属し太平洋戦争の緒戦に参加。ミッドウェー海戦では大破した赤城の雷撃処分を担当しました。
その後は輸送任務等に参加しましたが、昭和18年にソロモン海海戦において敵駆逐艦の雷撃により沈没しました。
余談として「嵐」という字は縦に書くと「山風」とも読めるため、白露型駆逐艦の8番艦「山風」への郵便物の誤配が多く片仮名で「アラシ」とルビを振る通達があったそうです。

古絵葉書・駆逐艦野分進水記念絵葉書

駆逐艦野分進水記念絵葉書001
駆逐艦野分は陽炎型駆逐艦の15番艦として昭和14年に舞鶴海軍工廠にて起工、昭和15年に進水し昭和16年に就役しました。
この絵葉書は野分の進水を記念して関係者に配られた絵葉書です。
野分は第四水雷戦隊第四駆逐隊に所属し太平洋戦争の緒戦に参加。ミッドウェー海戦では大破した赤城の雷撃処分を担当しました。その後は輸送作戦等に参加し、昭和19年のレイテ沖海戦において敵艦隊の集中攻撃により救助された筑摩の乗員を含め全員戦死しました。

古絵葉書・重巡洋艦 羽黒 進水記念 

重巡洋艦羽黒進水式001
重巡洋艦「羽黒」は妙高型重巡洋艦の4番艦として三菱造船長崎造船所にて建造された軍艦です。
この絵葉書は羽黒の進水式の様子を撮影したもので、「軍艦羽黒 昭和三年三月二十四日進水」のキャプションがあります。
いわゆる進水記念絵葉書は別のタイプが存在し、それは進水式当日に関係者に配られるものなので、進水式当日の写真を使ったこの絵葉書は後日発売されたかもしくは関係者に配られたものと思われます。艦橋はまだ完成しておらず仮の形で乗せられています。
この絵葉書と同じ物が、かつて羽黒を建造した三菱重工業長崎造船所の資料館に展示されているようです。
重巡洋艦羽黒進水式002
こちらは支綱切断が行われた来賓席の写真。右端に羽黒の艦首が写っています。
羽黒は昭和4年に竣工後の数年後に近代化改装を施され、日中戦争を初戦として太平洋戦争を通じて歴戦を重ねてきましたが、昭和20年5月17日のマラッカ海峡における日本海軍とイギリス海軍による交戦、ペナン沖海戦にて戦没しました。
最近、ペナン沖で沈んでいる羽黒や他の軍艦等を違法サルベージしたとして地元業者が逮捕されたという事件も起きています。

※スペック(竣工時)
●公試排水量:12,374t・全長:192.39m・全幅:19.00m・最大速力:35.5kt
●武装: 50口径20cm連装砲5基・45口径12cm単装高角砲6基・61cm魚雷3連装発射管4基12門・水偵2機搭載(射出機1基)

古絵葉書・30瓲(トン)積四輪ボギー重油槽車(大阪鉄工所製作・昭和10年4月)

30トン積四輪ボギー重油槽車001
大阪鉄工所が昭和10年4月に製作した四輪ボギーの30トン積み重油槽車です。
ボギー車とは水平方向に回転可能な台車を持つ車両です。
これは、車輪を4軸持つ四輪のボギー台車の重油槽車、つまりタンク車で、日本窒素肥料株式会社(現・チッソ)に納入されたようです。恐らく自社工場内の引き込み線で使用されたものでしょう。
大阪鉄工所は明治14年に創業した企業で、大正3年に株式会社大阪鐵工所へと改組。昭和11年に日立製作所が大阪鉄工所の全株を買収し傘下に。昭和18年に日立造船株式会社に社名変更し現在に至ります。

古絵葉書・電動鉱石車(大阪鉄工所製作・昭和8年8月)

電動鉱石車001
大阪鉄工所製作の鉱石車、いわゆるホッパー車で昭和8年8月に完成したもののようです。
大阪鉄工所は明治14年に創業した企業で、大正3年に株式会社大阪鐵工所へと改組。昭和11年に日立製作所が大阪鉄工所の全株を買収し傘下に。昭和18年に日立造船株式会社に社名変更し現在に至ります。
この電動鉱石車は鉱山などで取れた鉱石や砕石などを運搬していた貨車で、下の蓋が空いて鉱石が落ちる仕組みになってます。名前の通り電動式で開閉するのでしょうか。

古絵葉書・二式複座戦闘機・屠龍(愛国 第6154号献納機)

愛国第六一五四献納機(屠龍)001
二式複座戦闘機は昭和17年より運用開始された陸軍の双発戦闘機で、特に戦争末期の本土防空の迎撃戦に活躍しました。
単発単座の一式戦闘機隼や二式戦闘機鍾馗に比べ運動能力が大きく劣った屠龍は通常の航空戦では敵の戦闘機に対して不利で撃墜されることが多く、逆に迎撃機として本領を発揮した機体と言えます。
この献納機の屠龍は昭和19年2月1日に京都の鴨川高等女学校(現・京都府立鴨沂高校)によって献納された機体で、朱雀号と名付けられています。
愛国第六一五四献納機(屠龍)002
屠龍「朱雀号」の写真。迷彩は大戦末期に塗料の節約のために多く施されたマダラ迷彩です。
愛国第六一五四献納機(屠龍)003
飛行する屠龍。献納された時期は戦争も末期に差し掛かった昭和19年2月で、献納は昭和20年まで行われましたが、記念の絵葉書を作る余裕は次第になくなってきているようで、戦争前に比べて数は少なくなりこの絵葉書の袋も質が落ちています。

古絵葉書・水上機母艦 能登呂

水上機母艦 能登呂001
能登呂は元々給油艦として大正9年に竣工した艦で、大正13年に水上機母艦へと改装。給油機能もそのまま残され、以降は水上機母艦兼給油艦として日中戦争に参加。大戦中は輸送艦として使用されましたが、雷撃で被害を受け修理されることもないままシンガポールにて終戦を迎えました。
能登呂と同じように給油艦から水上機母艦へと改装された艦としては若宮・神威があります。
千歳型水上機母艦からは最初から水上機母艦として設計・建造されました。
この絵葉書には「(日支衝突上海事変)上海湾頭を〇する我航空母艦能登呂の威容」とキャプションがあり、1932年の第一次上海事変に参加した際の能登呂の姿を撮影したものです。
大戦中は軍艦の作戦行動に関しては軍機扱いで具体的な場所は検閲で伏字をされていたのが当たり前でしたが、この時期はそこまで厳しくはなかったのでしょうか。

※データ(水上機母艦改装時)
排水量:(常)15,400t
全長:138.68m
全幅:17.68m
最大速力:12.0kt

武装: 45口径12cm単装高角砲2基、40口径7.6cm単装高角砲2基(ただし平時は台座のみ)
水上偵察機8機搭載

古絵葉書・二式水上戦闘機

二式水戦001
二式水上戦闘機・二式水戦は日本海軍が開発した水上戦闘機で、零戦11型をベースに水上機としての再設計や改良を加え、昭和17年に正式採用されました。
水上機であるために零戦より速力・上昇力・航続距離は落ちたものの、旋回能力は零戦の能力を受け継ぎ、水上戦闘機としては申し分ない機体となりました。
量産された二式水戦は南方戦線に主に配備され、広大な飛行場が建設できない島々の基地で滑走路なしに水面から直接飛び立てる二式水戦は重宝されました。しかし、やはり通常の戦闘機に対しては不利であったため、戦闘機以外の敵機に対しての迎撃に用いられました。
二式水戦は総生産数327機で昭和18年9月に生産終了。終戦時には24機残存していたようですが、全て破棄され現存している機体はありません。
2015年6月、ミクロネシア連邦チューク州ウエノ島近海の海底に沈んでいる二式水戦が発見され、写真に収められました。
ねとらぼ・海に沈んでいた日本海軍の「二式水戦」が撮影される 
絵葉書の二式水戦は主翼前部にオレンジの塗装、機体上部前面に暗緑色、機体側面に白縁の日の丸が描かれています。
これは昭和17年1月15日に制定された「軍用機味方識別に関する海陸軍中央協定」によるもので、他の軍用機にも同じ塗装がされたものです。

古絵葉書・片翼の九六式艦上戦闘機(樫村機)

樫村機001
片翼を失いながら飛行する戦闘機、これは中国戦線で中国軍機のカーチス戦闘機と交戦した際に敵機と空中衝突をし、片翼1/3を失った状態で帰還した樫村寛一兵曹長の九六式艦戦です。
帰還した樫村兵曹長は新聞やニュース映画などで大きく報道。「片翼帰還の英雄」として日本中を沸かせました。
当時のニュース映画に片翼帰還の映像が残されています。

※読売ニュース「片翼誉高し猛鷲樫村機」
樫村兵曹長は功五級金鵄勲章を受章。片翼を失いながら帰還した樫村機は日本に運ばれ、東京の海軍館にて展示されました。
この絵葉書は昭和13年8月22日に海軍館に展示されていた樫村機を見学し帰りにお土産として買った絵葉書でしょう。
観覧記念のスタンプが押されておりスタンプの絵柄もちゃんと片翼の樫村機となっています。
絵葉書の写真は現地で撮影されたものだと思いますが、機体周りの処理がちょっと不自然に見えることから、背景の空と合成して加工したものと思われます。
樫村機はしばらく海軍館で展示された後、江田島の海軍兵学校へ移され展示されていたようですが、終戦時にGHQからの追及を恐れ、破棄されたそうです。
樫村寛一兵曹長は昭和18年3月6日、ソロモン諸島ルッセル島上空で米軍機F6Fワイルドキャットとの戦闘により戦死しました。
日中戦争当時、片翼を失いながらも帰還した兵士に対して日本中から称賛され軍も戦意高揚目的とはいえそれを認めて金鵄勲章を授与したのに対し、大戦末期では生きて帰るなという特攻作戦が主流となり生還すると罵られたのを考えると多選末期の日本がいかに余裕がなかったのかか分かります。

古絵葉書・九七式重爆撃機(浜松陸軍飛行学校所属機)

九七式重爆撃機001
旧陸軍が九三式重爆撃機の後継機として昭和12年に採用した爆撃機で日中戦争から太平洋戦争初期までの間、陸軍の主力爆撃機として活躍しました。
正式採用時は世界的に見ても高速で優れた機体として重慶爆撃・ノモンハン事件・太平洋戦争の緒戦で使用されました。
大戦後期の昭和18年には旧式化が目立ち始め後方任務や夜間爆撃の任務に使用。
それでも後継機の100式重爆撃機「呑龍」の実戦配備の遅れから大戦末期まで使用され生産数も2055機に上りました。
絵葉書の九七式重爆は浜松陸軍飛行学校の所属機で、垂直尾翼に「ハマヒ」を図案化した部隊マークがあります。

古写真・三菱重工業の工場で量産される戦車(九七式中戦車改・新砲塔チハか?)

九七式中戦車新砲塔001
昭和19年1月23日の読売ニュース焼付版の写真です。
三菱重工業〇〇(伏字)工場で量産される戦車です。
窓側のラインで戦車の車体、左側でエンジンを生産しているようです。
リベット位置等々から九七式中戦車改・新砲塔チハかと思いますがいかがでしょう。
新砲塔チハは強力な戦車砲を持つ連合国側の戦車に対抗するため従来の砲塔に代わり一式47mm速射砲を搭載したもので、大戦中を通じて生産されましたが、それでも連合国の戦車に対抗出来うる十分な能力は発揮できませんでした。

古写真・二式高等練習機(第26教育飛行隊所属機)

二式高等練習機001
二式高等練習機は陸軍が開発した練習機で、それまで旧式化した九七式戦闘機を練習機として当てていましたが、練習機として使用するには色々と不具合があったため、新たに開発されたのがこの機体です。
満州飛行機にて生産され、昭和17年から正式採用されました。
性能は良好で練習機としてだけでなく、迎撃機としても使用され特攻機にも使われました。
この古写真は昭和19年9月27日の読売ニュース焼付版のもので、旧満州にあった第26教育飛行隊所属機です。
尾翼に部隊マークが描かれています。
この写真は有名のようで、現在発売されている二式高等練習機のプラモデルのパッケージのイラストにも使用され、
機体の側に写る白シャツの整備員らしき2名もそのまま描かれています。

古絵葉書・零式水上偵察機

零式水上偵察機001
零式水上偵察機は複葉機であった九四式水上偵察機の後継機として開発された偵察機で、川西航空機と愛知航空機が試作した十二試三座水上偵察機の正式採用版の機体です。乗員が3名であるため、零式三座水上偵察機とも呼ばれます。
昭和16年から本格的な運用が開始され、太平洋戦争開戦時には大型主力艦艇に搭載されるようになりました。
しかし、敵の迎撃戦闘機や対空の力が向上しフロート付きの水上機では運用が厳しくなってきたため、艦隊としての索敵任務は空母から発艦する艦上機の偵察機へと置き換わっていきましたが、艦上機を運用できない戦艦や巡洋艦では必要不可欠であり、終戦まで使用され続けました。

古絵葉書・二式単座戦闘機 鍾馗

鍾馗001
二式単座戦闘機は「鍾馗」と呼ばれた旧帝国陸軍の戦闘機で、昭和15年に初飛行し昭和16年から運用され新開発の四式戦闘機「疾風」の開発により昭和19年末には生産が終了しますが、一式戦闘機「隼」とともに大戦中を通じて活躍した機体です。
この絵葉書は陸軍航空本部の協力を得て民間が発行したものと思われます。
キャプションに「西南太平洋〇〇基地にて新鋭戦闘機 鍾馗」とあります。
鍾馗002
編隊を組んで飛行する鍾馗。まぁこの絵葉書はコピペ的な修正がされているように思えます。
鍾馗は大戦末期は本土防衛の迎撃機として使用されましたが、米軍の評価では迎撃機としては優秀であったと評価しています。
鍾馗は献納機として隼とともに多く献納された陸軍機でもありました。また、絵葉書にも比較的よく使われていますが、以降の飛燕疾風の絵葉書をほとんど見かけないことから、国内的にこういったものを製作できる余裕があったのは鍾馗までなのかもしれません。もしくは軍機的なもので公開できたのは鍾馗までだったという可能性もあります。
この2枚目の絵葉書の鍾馗の尾翼には3本の白線が描かれており部隊マークのようですが、調べてもわかりませんでした。
近いのは飛行第73戦隊ですが、違うようですね。もしかするとダミーマークかもしれません。
鍾馗は最終的に1225機生産されましたが、完全な姿で現存している機体は1機もありません。

※関連記事 古絵葉書・二式単座戦闘機 鍾馗 (内外ゴム献納 愛国第2717号機)

古写真・皇土を護る北辺の荒鷲(北海道方面の陸軍機か)

北方迷彩陸軍機001
昭和19年6月4日付の読売ニュース焼付版に紹介されている雪中の陸軍機です。
大戦末期らしいまだら迷彩となっており、尾翼近くに白帯があります。
写真には、「晩春といふに未だ解けやらぬ深雪と闘って皇土を護る北辺の荒鷲。見よ!迷彩も鮮やかに鉄桶の護りに羽搏く逞しき翼を」とキャプションがあります。
皇土ということは日本本土の航空隊でしょう。また晩春なので4月下旬。その時点でまだかなり雪が積もっているということは北海道の部隊と思われます。
当時北海道を担当していたのは第1飛行師団。その所属部隊と思われますが尾翼に部隊マークがないので分かりません。
分かる方はご教授をお願いいたします。

古写真・艦上爆撃機 彗星

彗星001
彗星は太平洋戦争後期に活躍した艦上爆撃機で、昭和15年に試作機が完成し昭和18年から量産を開始され、各地の戦闘にて活躍しました。
彗星は高速を誇る爆撃機でこれまでの海軍の主力艦爆だった九九式艦上爆撃機に代わる機体として最終的に2253機生産されました。
この古写真は、読売新聞ニュースの葉書サイズの焼付版です。
1枚目は敵艦隊発見の報を受け地上基地より離陸する彗星隊で、「敵機動部隊現はる!の報に間髪を入れず、われ先にと基地を飛び立つ海軍新鋭機」のキャプションがあります。昭和19年5月28日発行の日付があり、この日より1ヶ月か2か月前の撮影でしょうか。
艦上爆撃機 彗星001
こちらは以前紹介した彗星の写真。同じ読売新聞ニュース焼付版のもの。
キャプションに「決戦迫るいま、南海の空に新威力を加へたわが新鋭艦上爆撃機は、敵機動部隊を索めて猛然と征く。」とあります。
昭和19年9月20日の発行の日付があります。
彗星002
「写真は決戦場比島の空めがけて突っ込んでいく快速比なき新鋭艦上爆撃機"彗星"の見事な大編隊である。」のキャプションのある2枚目。発行日は昭和20年1月5日となっており、この頃には彗星という名前が一般的に使われていたようです。
キャプションと日付から、写真は昭和19年12月26日に起こった礼号作戦の時の撮影でしょうか。
現在、アメリカや靖国遊就館に実機が保存されています。

古絵葉書・戦艦伊勢進水記念絵葉書

戦艦伊勢進水記念絵葉書001
伊勢は川崎造船所において建造され、大正6年に完成した戦艦です。
この絵葉書は大正5年の進水式を記念して作られた絵葉書のセットです。
伊勢は、伊勢型戦艦の1番艦として建造された戦艦で、前型で色々と構造に問題のあった
扶桑型戦艦を再設計した形で造られました。
その後伊勢はミッドウェー海戦で失った空母群の穴を埋めるため、昭和18年に後部甲板の5番砲塔を撤去し
飛行甲板を取りつけ航空戦艦として改装されました。
昭和19年のレイテ沖海戦では、米軍機の爆撃や雷撃を全て回避という神技を見せ、無事に呉へ帰港しています。
レイテ沖海戦後の伊勢は輸送任務などに就いた後、燃料不足により呉港にて浮き砲台の形で停泊。
昭和20年7月24日と7月28日の呉軍港空襲により大破着底し終戦を迎えました。
戦艦伊勢進水記念絵葉書002
1枚目の戦艦伊勢の竣工後予想図。戦艦加賀の竣工予想図のように写真の加工では無く、手描きとなっています。
艦橋はまだ前時代的なマスト風の形になっています。
戦艦伊勢進水記念絵葉書003
2枚目も完成予想図があり、それに加えて伊勢にゆかりの伊勢神宮のイラストが描かれています。

戦後、伊勢は解体されましたが、その際に艦橋部分が陸揚げされ一時期集合住宅として使用されていました。
NHKアーカイブスの日本ニュース戦後編第97号(昭和22年11月18日) にその様子が撮影されています。
※リンク・日本ニュース戦後編第97号

古絵葉書・戦艦加賀進水記念絵葉書

戦艦加賀進水記念絵葉書001
加賀は長門型戦艦の改良強化型として神戸の川崎造船所で建造された加賀型戦艦の1番艦で、
大正10年11月17日に天皇名代の伏見宮博恭王殿下御臨席のもと、10万人の観衆に見守られて進水しました。
日本海軍の誇りとされ国民から絶大な人気のあった戦艦長門・陸奥のさらなる強化型の戦艦として加賀は
かなりの期待を込められていたことが分かります。
しかし、建造途中に締結されたワシントン海軍軍縮条約により建造中止となり廃艦が決定。
標的艦として使用された後に解体の予定が建てられましたが、関東大震災によって空母改装予定だった戦艦天城の廃棄が決定したため、加賀が空母に改装されることが決定しました。
空母に改装された加賀は機動部隊の第一航空戦隊の一員として日中戦争から太平洋戦争開戦の真珠湾攻撃にも参加しましたが、昭和17年6月5日のミッドウェー海戦にて一航戦の僚艦である赤城、そして二航戦の蒼龍・飛龍とともに戦没しました。
この絵葉書は加賀の進水式を記念して発行された絵葉書セットで3枚のセットとなっており、
3枚ともエンボス加工された豪華な作りとなっております。

以下、絵葉書の紹介は続きを読むからご覧ください。
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古写真・艦上爆撃機 彗星

艦上爆撃機 彗星001
艦上爆撃機・彗星は、従来の九九式艦上爆撃機に代わる機体として昭和16年に運用開始されました。
性能は優れ、当時有数の速力を誇る機体であったため、大戦中を通じて諸戦で活躍しましたが、
大戦末期には他の機体と同様、特攻に使用されました。
この彗星の古写真は、昭和19年9月20日付発行の読売新聞の報道写真で、
新聞もしくは雑誌に付録として付いていたものと思われます。
欄外に
「決戦迫るいま、南海の空に新威力を加へたわが新鋭艦上爆撃機は、敵機動部隊を索めて猛然と往く」
という文章がありますが、昭和19年6月19日に起きたマリアナ沖海戦のことでしょうか。
艦上爆撃機 彗星002
※サムネイルのクリックで画像が大きくなります。
艦載機の垂直尾翼には所属部隊の番号が書かれており、この彗星にも番号があります。
ただ、元写真の画質自体が荒く、拡大してもはっきりとは読めません。
かろうじて「●●-2●2」まで読めましたが、黒丸部分は判別不能です。
マリアナ沖海戦時に彗星を運用していた空母は、大鳳・翔鶴・瑞鶴・隼鷹・飛鷹・龍鳳。以降なら瑞鶴・隼鷹・龍鳳
のようですが、所属番号がはっきりしないため不明です。
お分かりになる方はご教授お願いします。

古写真・丁型海防艦第8号

海防艦8号001
太平洋戦争末期、船団護衛用の艦艇として大量に建造された小型の戦時急造艦で、本来ならば各艦ごとに
艦名を付けられるところが「海第○号」と番号で呼ばれる艦でした。
丁型海防艦は昭和19年2月28日竣工の第2号をはじめとして、ほぼ1ヶ月から2ヶ月毎に竣工し、
昭和20年7月11日の第204号まで建造されました。
この古写真の第8号海防艦は昭和19年2月29日に竣工しましたが、多くの海防艦が激戦の中沈んでいったのに対し、
終戦まで生きのびて昭和22年7月にアメリカに引き渡された数少ない残存艦でした。

古絵葉書・二式単座戦闘機 鍾馗 (内外ゴム献納 愛国第2717号機)

二式単座戦闘機 鍾馗
内外ゴムから昭和19年4月に陸軍に献納された二式単座戦闘機で、それを記念して作られた絵葉書です。
二式単座戦闘機は通称「鍾馗」と呼ばれた陸軍の戦闘機で、昭和15年に試作機の初飛行。
昭和16年12月8日の太平洋戦争開戦と共に実験的に実戦投入。
昭和17年2月に正式採用されました。
鍾馗の生産は昭和19年末に終了し、四式戦闘機疾風に受け継がれることになります。
この内外ゴム献納の鍾馗は末期の生産のものになります。
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