category  [福知山市(京都府) ]

古書籍・福知山衛戍病院写真帖(大正13年)

福知山衛戍病院写真帖1
大正13年に発行された福知山衛戍病院の写真帖です。
衛戍病院とは陸軍の病院のことで、この福知山衛戍病院は明治31年に設立、かつての福知山城の曲輪の一つだった伯耆丸跡に建てられました。戦後は国立福知山病院(現・市立福知山市民病院)になりました。
この写真帖は大正13年の頃の福知山衛戍病院を記録したものです。
30ページのうち、一部を紹介いたします。長い記事で画像も多いため追記ページにて紹介します。
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古絵葉書・郡是製糸株式会社萩原工場

郡是製糸株式会社萩原工場001
福知山市上六人部萩原にかつて製糸工場がありました。明治30年、共進製糸合資会社が設立。萩原に製糸工場が造られました。しかし、前年に綾部市で設立した郡是製糸株式会社が業績を拡大する一方、共進製糸合資会社は業績が伸び悩み明治42年に郡是製糸株式会社に売却を決定。萩原工場は郡是製糸株式会社萩原工場となりました。
以後、戦前を通じて製糸工場として稼働を続けましたが昭和38年に工場は閉鎖。工場施設は全て取り壊され跡地は現在物流センターの敷地となり、現在は郡是製糸萩原工場跡の説明版と石碑が近くに残されているのみです。
この絵葉書は昭和10年代頃と思われる郡是製糸株式会社萩原工場を空撮したものです。

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古絵葉書・郡是製糸株式会社福知山工場

郡是製糸株式会社福知山工場001
京都府綾部市で創立した郡是製糸株式会社(現・グンゼ)は次第に業績を拡大し京都府下を中心に製糸工場を新設及び既存の別会社の工場を買収していきました。
大正7年、福知山製糸株式会社が福知山市中ノに工場を設立。しかし、わずか2年後の大正9年に郡是製糸に吸収・合併され郡是製糸株式会社福知山工場となりました。
郡是製糸株式会社は合併した旧福知山製糸の工場に新たに事務所等を建設。施設の充実を図っていきました。
この絵葉書には昭和4年完成の事務所の建物が写っており、撮影はそれ以降のものであることが分かります。
fgunze1.jpg
郡是製糸株式会社福知山工場は現在、グンゼ福知山配送センターとなり製糸工場としての稼働はされていませんが、絵葉書にも写る昭和4年築の事務所棟・木造建物・繭倉庫・女子寮などが現存し、福知山市内及び北近畿での近代化遺産として貴重な存在となっています。

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古絵葉書・京都府立福知山中学校改築記念

福知山中学校改築記念001
現在の福知山高校の前身である京都府立第三中学校が開校したのが明治33年。大正7年に福知山中学校と改称されましたが、校舎は府立第三中学校時代のものをそのまま受け継いでました。
しかし、明治以来の木造校舎は老朽化が進み、明治の校舎が建てられてから38年後の昭和13年に新校舎へと建て替えられることとなりました。この絵葉書は新校舎への改築を記念として発行された絵葉書です。
福知山中学校改築記念002
福知山中学校正門。左奥が新築された本館。右奥に体育館と講堂が見えます。
福知山中学校改築記念003
新築校舎の全景。福知山憲兵分隊許可済みの文字があるのは、この方向の撮影だと福知山20連隊等の陸軍の施設が写る可能性があったからかもしれません。
福知山中学校改築記念004
大講堂の内部。昭和10年代らしいすっきりとしたデザインです。
昭和13年に建て替えられた新校舎は戦後も引き続き使用されましたが、昭和54年に現在の校舎へと建て替えられました。

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古絵葉書・鐘ヶ淵紡績株式会社福知山製糸工場

鐘ヶ淵紡績福知山工場001
福知山市は製糸会社として拡大を続けていた郡是製糸のある綾部市に対抗して大手の製糸会社の誘致運動を行っていましたが、大正10年に両丹地区に鐘ヶ淵紡績(後のカネボウ)の工場進出の情報が伝わると鐘ヶ淵紡績に対し熱心な工場誘致を働き掛け、ついに大正11年に工場が竣工しました。以来、隣の綾部市の郡是製糸と競い合い発展していきました。
これはその鐘ヶ淵紡績福知山製糸工場の絵葉書です。
鐘ヶ淵紡績福知山工場002
福知山町(当時)の街並みと鐘ヶ淵紡績福知山福知山製糸工場の外観。
昭和3年に福知山製糸工場という名前に改称されているので、この絵葉書は昭和3年以降の発行となります。
鐘ヶ淵紡績福知山工場003
工場内の様子。煮た繭から糸を取る繰糸機が写されています。
鐘ヶ淵紡績福知山工場004
工場内の寄宿舎と裁縫・生花教室。戦前の大工場では若い従業員が生活する寄宿舎や従業員を教育する女学校のようなものもありました。
郡是製糸でも同様で福利厚生施設や寄宿舎・郡是女学校といった従業員への福利厚生・教育施設を充実させ、従業員を大切にしていました。
戦時中は海軍に接収され軍需工場として稼働していましたが、戦後再び鐘紡工場として稼働。
しかし繊維業の衰退から鐘紡福知山工場はカネボウ食品へと転換。
さらに経営破綻によるカネボウグループの解散によりクラシエホールディングスへと変わったため、カネボウ福知山工場はクラシエフーズ福知山工場へと転換。しかし、現在もかつての鐘ヶ淵紡績福知山製糸工場と同じ敷地で操業しています。

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古写真・鐘紡福知山工場(昭和11年版 天田郡志資料より)
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古絵葉書・福知山 岩沢堤

福知山 岩沢堤001
福知山市は江戸時代以前から由良川の氾濫による水害に会い続けた街でした。明治以降も水害の被害が続き、明治29年と明治40年の水害では由良川の堤防が決壊し大きな被害が出たため、由良川の氾濫に耐えうる近代的な堤防が必要となりました。
明治42年に完成した高さ11メートル長さ1200メートルの石張堤防は福知山大堤防と呼ばれ、建設に福知山出身の松村組創始者である松村雄吉が加わり、自らの工事の確かさを証明するため堤防を利用した自邸を建設しました。それが現在も残る旧松村邸です。
福知山大堤防は昭和2年の北丹後地震で亀裂が生じる被害が出たため大規模な改修が決定。当初は被災部分の修復程度の方針でしたが、当時の福知山町長が根本的な改修を国に要求し決定。堤防表面をコンクリートで覆いさらにはドイツ製のラルゼン型鋼矢板2600枚を堤防基部に打ち込むなど最新の工法で改修されました。この改修を手掛けたのが建設技官・岩沢忠恭。住民は親しみを込めて改修された堤防を「岩沢堤」と呼びました。
この絵葉書はセット絵葉書「福知山名所絵葉書」に収録されている1枚で、完成した岩沢堤が紹介されています。絵葉書のキャプションには「この堤防が完成以来浸水はあるが大きな被害は受けていない」とあります。
堤防上に建つ手前の大きな建物は現存し国指定登録文化財に指定されている芦田家住宅。元は福知山市の実業家、片岡家の別宅として大正15年に建設されたものです。
奥に見える橋は音無瀬橋。近代的な鉄筋コンクリート製の永久橋が完成したのは昭和6年。以後、1995年に現在の音無瀬橋に架け替えられるまで福知山市のシンボル的な橋でした。

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古絵葉書・福知山 水害の惨状3枚(明治40年水害か)

古写真・金山尋常高等小学校(天田郡志資料 昭和11年版より)

金山尋常高等小学校
昭和11年版天田郡志資料に掲載されている金山尋常小学校の写真です。
金山尋常高等小学校は明治6年の創立で元は博愛舎という校名であり、大正6年に金山尋常高等小学校と改称しました。
戦後に金山小学校と改称しましたが、1991年に市内の天津小学校と統合し廃校。
旧金山小学校の校舎は取り壊され、跡地は老人介護施設となっています。

資料・福知山市 天照玉命神社の氏子札(明治5年発行)

天照玉命神社氏子札表
古写真・古絵葉書の資料ではありませんが、地元の郷土史に関わる良資料であり、私にとって馴染み深い神社の資料なので紹介します。
福知山市今安にある「天照玉命神社」の氏子札です。
明治5年に発行されたもので、表に「丹波國天田郡榎原村父(個人名)次女」「今安天照玉命神社氏子」
「(個人名)」「慶応四戊辰年四月廿四日生」
天照玉命神社氏子札裏
裏に「(個人名)」「明治五年壬申年三月廿一日」と書かれ、表には天照玉命神社の社印が押されています。
これは、明治4年に明治政府により制定された「氏子調」による札で、太政官布告により江戸時代までの戸籍制度だった寺請制度に代わるもので、それまで寺が行っていたものを神社が代わりに請け負った制度です。
※wikipedia「氏子調」
制度としてはまず戸長に届けてその証書を地区の郷社へ持参し、そこで神社から氏子札を発行してもらい、それが個人の証明書になり同時にその郷社の氏子に登録されました。
氏子札を発行していたのは郷社格の神社のみだったようです。
郷社は今でいう学区単位くらいにあった神社で、府県社以上だと規模が大きすぎ、村社以下だと無住も多く規模が小さすぎるため、郷社が担当したのかもしれません。いわゆる村役場的な役割だったのでしょう。
戸籍制度が寺院の寺請制度から神社の氏子調へと移行した背景には、政府の神道国教化、長年にわたる寺院および仏教界の権力集中の打破等の目的があったようです。
しかし、氏子調はわずか2年後の明治6年に廃止。その後は役場が担当することになりました。
天照玉命神社
※Googleストリートビューより画像引用。
さて、この氏子札を発行した今安地区の天照玉命神社ですが、平安時代の延喜式にも記載されている式内社であり歴史のある神社です。遠目からも鎮守の杜が目立つ神社で地区の人は大人も子供も「今安のてんしょうさん」と親しみを込めて呼んでました。
私も子供の頃、同じ学区内にあり通学路の途中にあったこの神社で下校時はよく同級生と境内で遊んだりしました。天照玉命神社の前は高校卒業まで毎日通過し、本当に身近な神社でした。
そんな馴染み深く思い出深い神社の150年前の歴史資料を手にしたのは一種の感慨深さを感じました。
この氏子札に書かれている人物は私とは全く縁のない方ですし、榎原村も私の実家の村から割と離れた村で私とは直接関わりがあるわけではありませんが、それでも馴染みのある神社の郷土資料を手に出来たのは意義深く、大切に保管し伝えていく責任を負ったことになります。

冊子・福知山市鳥瞰図(吉田初三郎・昭和13年)

福知山市街図002
昭和13年に市政開始から1年後の昭和13年に福知山市が発行した福知山市案内の小冊子で、
表紙と中に収められている福知山市鳥瞰図は吉田初三郎の作画となっています。
これは表紙。福知山城跡と昭和6年に完成した5代目音無瀬橋。その奥には烏ヶ岳と思われる山が見えます。
右上に吉田初三郎の署名があります。
福知山市街図003
※画像をクリックすると拡大します。
中に収められている福知山市鳥瞰図。
吉田初三郎の鳥瞰図は大きなデフォルメを特徴としたもので、この鳥瞰図にもありますが、福知山市からは本来望むことが不可能な富士山や天橋立、さらには朝鮮半島までも描かれているのが特徴です。
鳥瞰図はおそらく昭和13年の数年前までの福知山市街を描いたものと思われ、記されている銀行や工場や学校・官公庁の様子をうかがうことができます。
銀行に関しては両丹銀行と百三十七銀行が目立ちます。両丹銀行は昭和11年に何鹿銀行・治久銀行・高木銀行・福知山銀行が合併して設立された銀行で、両丹銀行新町支店となっている銀行は近年まで残っていた元福知山銀行本店でした。
鳥瞰図で両丹銀行本町出張所と書かれている建物は現存し、現在桐村眼科として使用されています。
両丹銀行新町支店の向かいに注釈はありませんが大きなビルが描かれています。これは旧三ツ丸百貨店で、現在ぽっぽランドとして使用されている建物です。
鳥瞰図の右方向に大きな工場があります。郡是製糸福知山工場で、現在はグンゼ福知山配送センターとなっていますが、当時の事務所や門衛所・繭倉などがそのまま残されています。
その郡是製糸福知山工場の右手に福知山西駅という駅があります。これはかつて存在した北丹鉄道の駅舎で、大江町の河守駅から由良川沿いを走り福知山駅に繋がっていました。
北丹鉄道は昭和49年に廃線となりましたが、現在もトンネルや橋脚が残されています。
吉田初三郎の鳥瞰図は各建物が簡略化されて描かれていますが、建物の形や特徴はしっかりと捉えられており、福知山城跡の石垣も形は正確で実際に現地で取材して描いたといわれる吉田初三郎のこだわりを感じます。
裏面には福知山市の観光名所を紹介した写真付き解説が書かれています。
鉄道旅行案内1
吉田初三郎は大正から昭和にかけて日本中の市街地や観光地の鳥瞰図を数多く手掛け、当時は「大正広重」と称され人気を博した絵師で、近年再評価されつつある人物です。
鉄道省から依頼され作成した大正13年刊「鉄道旅行案内」は吉田初三郎の代表作で、全国の都市や観光名所の鳥瞰図を多数収録した書籍です。小さめの本に収録されたものなので、パンフレットの鳥瞰図より簡略化されていますが、それでもこの本を読んでますと日本中を旅した気分にさせられます。

福知山市街を描いた吉田初三郎の作品はネットで調べたところ昭和29年のものがあるようですが、それ以外は見当たらず京都府立総合資料館の所蔵リストにもありませんでした。
この福知山市鳥瞰図は市政1周年を記念して吉田初三郎に作画を依頼したと推定されますが、同資料を所有する他機関等が見当たらない今、作成の経緯等は分かりません。
戦前の昭和期の福知山市街を知る資料として、戦前の福知山市を描いた吉田初三郎の作品としてそれなりに貴重な資料と私は思いますがいかがでしょうか。

古絵葉書・鉄道軒 福知山本店

鉄道軒福知山本店001
明治43年8月25日に開催された舞鶴線全通開業を祝う博覧会のものと思われる絵葉書です。
左上に記念スタンプが押されています。
この絵葉書は「鉄道軒」という店の前で、記念賞をつけた来賓や福知山歩兵20連隊の幹部と思われる高級陸軍将校や舞鶴鎮守府幹部と思われる海軍参謀たちが集まっています。
屋根の看板には「鉄道軒 福知山本店」とあり、福知山市内で営業をしていた鉄道軒という飲食店が会場内に出店したものと思われますが、鉄道軒という店舗は調べても出てこず、一切不明となっています。

※関連記事 古絵葉書・舞鶴線全通記念 福知山式場(旧福知山南口駅か)

古写真・鐘紡福知山工場(昭和11年版 天田郡志資料より)

鐘紡工場1
天田郡志資料 昭和11年版より。
かつて福知山駅の南側一帯に存在した鐘紡の工場です。古くより養蚕業が盛んだった福知山・綾部地域において、すでに隣町の綾部市には郡是製糸株式会社が存在し、大正9年には福知山にも郡是福知山工場が設立されましたが、新たな製糸工場として大正10年に福知山に誘致されました。
以後戦前戦後を通じて福知山市内でも郡是製糸と並ぶ大製糸工場として稼働しました。
鐘紡工場2
鐘紡福知山工場に設置された時鐘。当時はこの半鐘を鳴らして始業時間や昼休み、終業時間を知らせていたんですね。
戦時中は海軍に接収され軍需工場として稼働しましたが戦後再び鐘紡の繊維工場として再稼働。
高度経済成長期になると繊維業が衰退をし鐘紡も化粧品関連や食品関連の事業が主となりました。
30代以上には懐かしい「ねるねるねるね」などの遊びながら食べられるお菓子で知られています。
この福知山工場もそちらに転換し、私の子供の頃に「カネポウ食品」と書かれた看板があったのを覚えています。
しかし、バブル崩壊以後の経営難で粉飾決済が繰り返され債務超過となり経営破綻寸前となったカネボウは会社の解散を決定。各グループ会社は独立し日用品・医療品・食品部門の事業を引き継いだ新カネボウグループがクラシエホールディングスとして存続しました。
かつてのカネボウ福知山工場も現在はクラシエフーズ福知山工場として同じ場所で稼働していますが、設立当初の大正期の建物は残されていないと思われます。

古写真・上川口尋常高等小学校(昭和11年版 天田郡志資料より)

上川口尋常高等小学校
天田郡志資料 昭和11年版より。
上川口尋常高等小学校は現在の福知山市立上川口小学校で、明治7年野花地区に廣運舎として開校したのが始まりで、明治35年に大呂分校、上小田小学校と合併し上川口村立上川口尋常高等小学校となりました。
大正15年に本館が新築。この写真の本館はその時のものだと思います。
この本館は昭和45年の本館改築により姿を消したものと思われます。

※関連記事 古書籍・天田郡志資料(上巻・下巻)昭和11年版

古写真・昭和尋常小学校(天田郡志資料 昭和11年版より)

昭和尋常小学校
昭和尋常小学校は現在の福知山市立昭和小学校で、昭和9年に現在の惇明小学校である惇明尋常小学校より分離して開校した小学校です。(ちなみに福知山市には大正小学校という名前の小学校もあります。)
写真は昭和11年版の天田郡志資料に収録されている昭和尋常小学校の校舎で、右手が本館、左手が体育館か講堂です。
昭和初期の建物らしく市内の明治期創立の他の小学校と違いモダンな洋館となっています。

古写真・上六人部村役場(天田郡志資料・昭和11年版より)

上六人部村役場
「天田郡志資料」昭和11年版に収録されている上六人部村役場の写真です。
上六人部村は現在の京都府福知山市の上六人部地区にあった村役場です。
上六人部村は明治22年6月に設立。昭和30年に福知山市と合併しました。
天田郡志資料によれば上六人部村役場は三俣地区にあり村制施工より使用されてましたが、明治34年に改築。昭和3年5月に再改築とあります。
写真の上六人部村役場は昭和5年の再改築後の写真と思われます。
上六人部村規定
天田郡志資料には上六人部村の規定が収録されています。
上六人部村役場のあった場所ですが、現在の上六人部会館の位置だと思われます。
上六人部会館
※Google Mapのストリートビューより画像引用。
上六人部会館の場所を見ますと道路側に石垣があります。これは上六人部村役場の写真に写る石垣だと思われます。
上六人部村役場の名残を残す唯一の遺構となります。

古書籍・天田郡志資料(上巻・下巻)昭和11年版

天田郡志資料1
天田郡志資料 山口加米之助編・著 淑徳同窓会発行 昭和11年9月20日刊

天田郡志資料は現在の福知山市を中心とした旧天田郡の地誌で、現在の福知山淑徳高等学校の創立者、山口加米之助によって編纂された上巻・下巻の2冊からなる書籍です。
山口加米之助は上巻の序文に「隣の郡には立派な郡志が出来ているが、我が天田郡には未だ郡志を作成する企画がない。そこで、昭和の御大典の奉祝として郡志編纂を思い立った。淑徳会員から資金を集め各方面に協力を依頼して古文書などの借用を願い出たが、快諾者はいたもののほとんどが音沙汰なく5年経ったころに問い合わせたら逆に文句を言われる始末であったが何とか本を作成することができた。しかし、完全なものとは言えないので名前を郡志資料と変更した」と要約ですが書かれています。
ともあれ、昭和初期の時代にこれだけの郡志をまとめたのは物凄い熱意と努力で現在も郷土誌の基礎資料として書籍等に引用されていることを見ますと現在でも一級の郷土資料として通用する書籍と言えます。
天田郡志資料2
天田郡志資料は戦後も何度か復刻版として出版されています。
今回紹介する書籍は昭和11年発行のオリジナルのもので、貴重なものかと思います。
天田郡志資料4
天田郡志資料5
天田郡志資料の上巻は天田郡内の地理歴史を記したもので、山岳や河川の地形から神社仏閣・中世城郭・天田郡の通史・郡内の各村のデータ、当時の福知山町の官公庁や企業や学校などが詳細に記されています。
下巻はほぼ福知山藩と福知山城・藩校だった惇明館について記されています。
また上下巻とも市街地図等の折り込み地図が収録されています。
福知山町役場
天田郡志資料は建築系の資料ではなく郷土史の資料ですが、私の故郷の歴史を記した古書籍であるため、ぜひとも入手したいと願っていたものでした。今回入手を果たすことが出来ましたので紹介することにいたしました。
上巻の前半には数枚ですが、写真のような福知山町役場や村役場、尋常高等小学校の写真もあります。
後々、天田郡志資料に収録されているこれらの写真を個別に記事として取り上げたいと思っております。

古絵葉書・福知山 養老水公園

福知山市養老水公園001
福知山市長田にある養老水は福知山藩主朽木綱貞が名づけた湧き水で、福知山三名水として古くから知られていました。
戦前に公園化されたようで、絵葉書を見ると養老水の流れ込む小さな池と水の出口は石積みの護岸にされ、池の前には小さな石橋も架けられています。池の脇には明治期に建てられた養老水の由来碑がありますが、この石碑が建てられたころに公園として整備されたのでしょうか。
絵葉書は様式から大正時代のものと思われ、そのころから養老水公園は福知山の名所として知られていたようです。
養老水公園
現在の養老水公園です。
池の護岸や石橋、由来碑の石碑は当時のままで、絵葉書にも写る石碑裏の祠も残されています。
絵葉書に写る手前の杉の木は100年を経て大きく育っています。
逆に絵葉書にはある祠の左の巨木は現在失われ、その場所には昭和42年に建てられた小ぶりの石碑があります。
また、絵葉書にはある池の側の4本の柵柱は現在は撤去されております。
現在は向かいの福知山温泉が多くの人でにぎわう一方、この養老水公園は訪れる人はほとんどなく、公園としても忘れ去られたような雰囲気ですが、100年余り前に撮影された絵葉書の写真とほぼ同じ姿のまま迎えてくれたこの公園に佇むと、かつては多くの人がやってきて水を汲んでいったことであろうと想像をさせてくれます。

古絵葉書・陸軍歩兵第二十連隊 連隊本部

福知山歩兵第二十連隊本部001
陸軍歩兵第20連隊は明治17年に設立した連隊で、当初は大阪城内にありましたが、明治31年に京都府福知山市に移転。
以後、終戦まで福知山に駐屯し続けました。
この絵葉書は第20連隊の連隊本部の写真です。
全国の陸軍の連隊の建物はほとんどがこういったシンプルなデザインの木造建築でした。
連隊本部と一緒に載せられている連隊長は土居稲生大佐。
土居大佐は陸軍士官学校第16期生で、昭和7年から昭和9年の2年間第20連隊の連隊長を務められた方です。
最終階級は陸軍少将でした。

※関連記事 古絵葉書・福知山歩兵第二十連隊絵はがき(5枚セット) 古写真・明治20年代頃の歩兵第二十連隊(大阪駐屯時代)

古写真・福知山 新町通り(三ツ丸百貨店前 昭和10年代)

福知山 新町通り001
福知山の新町通りは戦前から昭和半ばごろまで繁華街として栄えていた商店街です。
この絵葉書は昭和10年代頃に撮影されたものと思われ、左右に軒を連ねる商店や昭和初期に流行したすずらん灯が見て取れます。
この絵葉書は当時新町通りにあった「三ツ丸百貨店」の手前で撮影されたもので、右手前にある鉄筋コンクリート造の建物が三ツ丸百貨店です。
三ツ丸百貨店は大正13年に隣町の綾部市にてて開業し、昭和8年に福知山の新町通りに開業。
鉄筋コンクリート造3階建ての百貨店は当時の福知山において初の高層建築で、エレベーターを完備し、最上階には洋食のレストランがあるなど、福知山の商業的中心地となりました。
戦時中の一時期に海軍に接収され、戦後は京都銀行・リサイクルセンターとして利用された後、福知山市文化資料館を経て1998年から福知山鉄道館ポッポランドになりました。
新町通り現在
※画像をクリックで大きくなります。
Google MAPのストリートビューより現在のほぼ同じアングル。
三ツ丸百貨店の外観は戦後大改装が行われ、絵葉書の頃の戦前の面影は残っていませんので、この絵葉書は戦前の三ツ丸百貨店時代の様子を知る資料となります。奥の洋風の建物は現在「やまざき」の看板のかかる山崎呉服店。現在は営業されていないようですが、建物は残されています。こちらも現在はかなり改装されていますが、建物自体は当時のもののようです。
三ツ丸百貨店と山崎呉服店の間に境界塀がありますが、これは現在も当時のまま残されています。
左側の町屋風建築の谷村文吉商店は現在も大きな改装がされることなくそのまま残されています。
三ツ丸百貨店の向かいには福知山銀行という地元銀行の本店の建物がありました。3階建て煉瓦造の洋館で近年まで残されていましたが、取り壊されてしまいました。
以下、参考としてすでに紹介した戦前の新町通りを再掲します。
福知山 新町商店街
1枚目の絵葉書の反対側から撮影したもの。左奥に少しだけ三ツ丸百貨店の建物と山崎呉服店の看板、右奥に福知山銀行本店の建物が見えます。撮影時期はほぼ同時期と思われます。
新町商店街
こちらはほぼ同時期の別地点の新町通り。
福知山新町商店街001
こちらは上記3枚よりやや時代が遡るかと思われますが、すずらん灯があるので、遡っても数年内と思われます。
三ツ丸百貨店1
三ツ丸百貨店2
最後に、絵葉書と同時期に三ツ丸百貨店の屋上遊園とレストランにて撮影された個人写真を再掲します。
福知山の陸軍第20連隊に所属していた兵隊さんが非番の際に家族と共に三ツ丸百貨店へ出かけた際に撮影された記念写真と思われます。

※関連記事 
古絵葉書・福知山市街新町通り
古写真・福知山 三ツ丸百貨店屋上にて 昭和10年頃

古絵葉書・長田野陸軍演習場廠舎

長田野陸軍演習場廠舎正門001
福知山市にある長田野工業団地一帯は戦前まで陸軍の演習場でした。
主に福知山に駐屯していた歩兵第20連隊が演習に使用していましたが、広大な演習地は京阪神の部隊や舞鶴の海軍も演習に利用しました。
この絵葉書は長田野演習場廠舎の正門を写したもので、手前に「陸軍」と刻まれた用地石柱があり、正門の横に歩哨の兵士が立ち、奥に廠舎が並んでいます。
長田野陸軍演習場廠舎貯水場001
長田野陸軍演習場廠舎内貯水場。
演習に来た部隊に水を供給する施設のようです。
貯水場の前に立て札がありますが、ちょっと読みづらいです。
長田野陸軍演習場廠舎は戦後一部開墾されましたが、ほとんどが荒れ地のままでした。
昭和49年、京都府北部の産業振興のため工業団地造成が開始され、現在は39社が工業団地内で稼働しています。
また、旧陸軍時代の演習場の一部は現在も陸上自衛隊の演習場として使用されています。

古絵葉書・福知山公会堂

福知山公会堂001
福知山公会堂は大正12年に完成した建物で、現在の福知山市役所あたりにありました。
福知山公会堂の建物は絵葉書の写真を見ても分かる通り大規模な木造建築であったようです。
福知山公会堂が建てられた大正12年、福知山では迎賓館や図書館などいくつかの公共建築が建てられています。
都市開発事業的な計画があったのでしょうか。
福知山公会堂は戦後も使用され続けましたが、昭和45年に取り壊されました。
もし現存していたら大正末期の大規模な木造近代和風建築として貴重な建物であったと思われるだけに
惜しくあります。

古絵葉書・我が福中(京都府立福知山中学校)7枚組

福知山中学校001
京都府立福知山市にある福知山高校の前身の福知山中学校の絵葉書です。
福知山中学校は明治34年に開校した京都府立第三中学校の後身で、
大正7年に福知山中学校に改称されました。
歴史ある公立学校として戦前から名が知られていましたが、
昭和13年に新校舎が建てられるまで明治以来の校舎が使用され続けたため、
本館や校舎は老朽化していたといいます。
昭和23年、京都府立福知山中学校、元京都府立福知山高等女学校、福知山市立農学校の
3校を統合、福知山中学校の校地が福知山高等学校となりました。
この絵葉書セットは同窓会用に作られたと思われ、大正時代のものと思われます。
福知山高校は私の母校でもあり、100年前の先輩達がどのような様子だったか伺い知ることができます。
中身の絵葉書は続きを読むからご覧ください。
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古絵葉書・福知山 惇明尋常高等小学校

惇明尋常高等小学校001
福知山市にある惇明小学校は、福知山藩時代に藩校として設立された惇明館を起源とし、
明治6年に惇明小学校として開校したのが始まりです。
明治12年に新校舎が完成しましたが、明治29年の水害で倒壊。
明治36年に現在の場所に新校舎を建築しました。
1絵葉書に写る本館や校舎はその時のものと思われます。
明治40年に惇明尋常高等小学校と改称。
絵葉書には「惇明尋常高等小学校」とありますので、明治40年以降のもので、
絵葉書の様式から大正期までのものと思われます。
昭和12年、現存し国指定登録文化財に指定されている本館が完成。
そして今の惇明小学校へと至ります。
絵葉書に写る校舎は、左端が本館。中央奥が明治45年完成の東校舎。
中央に写る背の高い寄せ棟の小さな建物は奉安殿ではないでしょうか。
福知山水害の惨状001
こちらの絵葉書は以前紹介した明治29年の水害で被害を受けた初代惇明校の校舎。
この時は現在の場所とは違う内記2丁目にありました。
福知山ダンス
こちらは以前紹介した昭和10年代撮影と思われる惇明小学校の児童が校庭で踊る福知山ダンス。
右の校舎は昭和12年に建てられた本校舎でしょうか。

古絵葉書・福知山市街新町通り

福知山新町商店街001
戦前から戦後にかけて福知山市の繁華街として栄えた新町商店街の昭和10年代ごろと思われる絵葉書です。
昭和初期頃から流行ったスズラン灯が並び、通りの両側には商店が立ち並び賑わっている感じがします。
通りの右奥にある赤井本店は赤井百貨店。左の赤井分店は赤井陶器店として現在も営業しています。
新町商店街
以前紹介したほぼ同じ時期撮影と思われる新町商店街の別の場所の絵葉書。
福知山 新町商店街
同じく以前紹介したこちらもほぼ同じ時期撮影と思われる新町商店街の絵葉書。
奥に三つ丸百貨店と福知山銀行本店と思われる建物が写ってます。

新町商店街は戦前は福知山一の繁華街として賑わい、昭和30年代にはアーケードも作られました。
しかし、その後の自家用車の普及により徐々に衰退し、郊外型の店舗が増えたこともあり、
昭和50年代や60年代にはほぼシャッター通りと化していました。
さらに今に至っては店舗の建物自体も次々取り壊され、純然な住宅として建て直されている場所も増えており、
老朽化したアーケードと新町商店街の看板が当時栄えていた商店街の名残をとどめています。

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古絵葉書・舞鶴線全通記念 福知山式場(旧福知山南口駅か)

舞鶴線全通記念福知山会場001
京都~園部間の鉄道敷設を行っていた京都鉄道株式会社は、さらに舞鶴・宮津までの路線を計画していましたが、
舞鶴の鎮守府開庁と日露戦争により建設が急がされることになり政府が
福知山駅 ~ 綾部駅~- 新舞鶴駅の区間を開業。
さらに、綾部駅~梅迫駅~舞鶴駅(現・西舞鶴駅)~新舞鶴駅(現・東舞鶴駅)を開業させ、阪鶴鉄道に貸与されました。
明治40年に京都鉄道と阪鶴鉄道が国有化。京都と舞鶴をつなぐ路線で未完成だった園部~綾部間の路線工事は
国が行うことになりました。そして、明治43年工事が完成。京都~舞鶴間の鉄道路線は全通しました。
この絵葉書は明治43年8月25日に開催された舞鶴線全通開業を祝う博覧会の福知山会場の様子を写した絵葉書です。
絵葉書に写る建物は駅舎のように見えますが。
初代 福知山駅001
以前紹介した福知山駅の初代駅舎の絵葉書と比べると煙突の形や屋根の形が異なっており、
明治43年の方がより洋風に見えます。
さらに奥に写る福知山衛戍病院のある伯耆丸台地との位置関係が現在の福知山駅との関係と比べると
明らかにアングルがおかしいことから、明治37年に現在の福知山駅の位置に設立した初代福知山駅のさらに前身の
現在の福知山市内田町にあったと言われる福知山南口駅(後に福知駅に改称)の可能性があります。
無題
初代福知山駅から同じ位置の現福知山駅から伯耆丸台地を望んだ方向と福知山南口駅があったと言われる
内田町から伯耆丸台地を望んだ位置です。
だいたいの位置になりますが、福知山駅からのアングルだと駅舎は線路の左側に位置します。
絵葉書では線路の右側に駅舎が位置しています。
現時点では確定となる資料が見つからないためこの絵葉書に写る建物が福知山南口駅の駅舎だと
確定することはできませんが、初代福知山駅とは違う建物、ホーム側には明らかに支柱と思われる
三又柱があること、ホームらしき石垣があり、横に線路があることからまちがいなく駅舎と思われ、
初代福知山駅の前身の福知山南口駅の可能性は十分にあると思います。
もしこの建物が福知山南口駅舎であれば、あまり知られていない資料として貴重だと思われます。
舞鶴線全通記念福知山会場002
会場の様子。駅舎の中でしょうか。
万国旗が飾られ、地元の名士らしき人や軍人さんなどが写っています。

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古絵葉書・初代 福知山駅(福知山停車場)

古絵葉書・初代 福知山駅 (福知山停車場)

初代 福知山駅001
京都府北部の福知山駅は明治32年に開業しました。当時はまだ民営の阪鶴鉄道の一路線でしたが、
前年の明治31年に陸軍歩兵第20連隊が大阪から移駐してきたことにより、重要な駅として扱われました。
開業当時は今とは別の場所に駅があり、現在の場所に移ったのは日露戦争中の明治37年のことで、
この絵葉書の駅舎はその時のものです。初代福知山駅は平屋の小さな木造駅舎でした。
しかし、目立つ2本の煙突があったり、駅舎の車寄せは洋風だったりと、
いかにもといった明治らしさを主張しています。
福知山駅は連隊があったこと、海軍の鎮守府のあった舞鶴と大阪・京都を結ぶ駅として重視され、
福知山機関区が置かれるほどでした。
また山陰線だけでなく、福知山~旧大江町を結んだ北丹鉄道も乗り入れていました。
福知山停車場
こちらはホーム側から撮影した初代福知山駅舎。
駅舎側だけでなく島式ホームもあり跨線橋もあるなど、明治期の地方都市の駅としては
かなりの規模のものです。
福知山駅
こちらは昭和初期頃の福知山駅舎。陸軍の将兵(20連隊の兵士かどうかは不明)
の背後の駅舎は2階建てになっています。
初代駅舎を増築して作られたようで、向かって左側の2階建て部分は増築、
向かって右側の車寄せのある部分が初代駅舎で煙突は撤去されていますが、車寄せ部分の柱は
そのまま面影を残しています。
この改築後の福知山駅の駅舎は昭和29年に建て替えられ、長らく使用されましたが、
平成17年に高架駅に改築され現在に至っています。

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古写真・昭和40年代ごろの北丹鉄道写真

古絵葉書・福知山市大江町 内宮発電所花折ダムか。

大江町・花折取水ダムか001
絵葉書に「丹後名所 水電気水源地ヨリ大江山遠望」と書かれています。
このダムの名前は書かれていませんが、丹後名所と大江山を望めることから
現在の福知山市大江町か加悦町にあったダムであり、「水電気」とあるので、
水力発電所用のダムであるとわかります。
大江山近辺に戦前作られた水力発電所は大正6年完成の内宮発電所・佛性寺発電所、
大正12年完成の橋谷発電所があり、それぞれ発電用の取水ダムを持っていますが、
うち、橋谷・佛性寺の両発電所の堰堤は規模が小さめで、絵葉書のような
規模が大きめのダムではありません。
一方、内宮発電所の取水ダムの花折ダムは規模がそこそこ大きく、
この絵葉書のダムと同程度の規模があるように思われます。
内宮発電所は大正6年に完成した水力発電所で、現在は関西電力の所有となっており、
発電所建屋は当時のものではありませんが、発電所の石積み擁壁や導水管上の橋など
当時のものと思われる構造物が残され、また創業当時の発電機なども展示されています。
大江町花折ダム1
現在の花折ダムです。写真の撮影位置やアングルで大きさがつかみづらいですが、
現地で見た感じでは結構大きく思えました。
現在はコンクリートが張られていますが、かつては絵葉書のような石張りでした。
2009年に訪問した際に偶然お会いした管理の方の話によると
①かつては石張りだったが、昭和50年にコンクリート張りに改修された。
②堰堤上の橋も木造だった。
とのことであり、絵葉書の堰堤の姿と符合します。
※参照 ベーさんの近代化遺産めぐり備忘録・内宮発電所ダム
大江町花折ダム2
堰堤部分から取水池を撮影した写真。堰堤内は立ち入り禁止で撮影箇所の対岸へは行けないため
絵葉書と同じアングルの写真ではありませんが、左側の山の形等が絵葉書に写る山と似ているようにも思えます。
この絵葉書のダムに関して色んなサイトや所有する「京都電燈株式会社五十年史」を参考に調べましたが、
特定するには至りませんでした。
しかし、大江山近辺でこの絵葉書の規模のダムを持つ発電所は内宮発電所しか無いことや
現地でお会いした管理人の方の証言などから
絵葉書の堰堤は内宮発電所取水ダムである、花折ダムとしました。
何か情報をお持ちの方はご教授くださいませ。

古絵葉書・福知山 水害の惨状3枚(明治40年水害か)

福知山水害の惨状001
京都府福知山市は街の中心を流れる由良川の氾濫により古来から水害の被害に悩まされてきました。
それは近代的な土木工事が行われるようになった明治以降も同じで、明治29年・明治40年・大正10年
そして、戦後の昭和28年・昭和34年・昭和36年にも大きな被害を受け、
平成に入っても市街地中心部では無いですが、平成16年の台風23号・平成25年の台風18号による増水で
住宅街が水没する被害を受けました。
この絵葉書はかつての福知山の市街地を襲った水害の惨状を伝えたものです。
年月日の記載がありませんが、絵葉書の様式から明治40年の水害を撮影したものと思われます。

まず1枚目は惇明小学校付近の水害の惨状を撮影したものです。
家屋の部材と思われる木材が散乱し、左には倒壊した家屋が写ります。
奥には惇明小学校の本館と校舎が写っていますが、石垣の上に建てられていたためか
被害を受けつつも建物は倒壊を免れています。
廃材を片づけている女性は近所の人でしょうか。子供も集まってきてますが、惇明小学校の生徒かもしれません。
学校の様子を見に来たのでしょうか。
福知山水害の惨状002
こちらは呉服町の惨状。左側にはひっくり返った家屋らしきものがあり原型を全く留めていません。
その奥には土蔵造の建物がありますが、こちらは建物が丈夫だったのか倒壊はしていません。
右手には「雑貨所 文成堂」と読める街灯が掲げられた商家がありますが、こちらは無事のようです。
やはり石垣の上に建てられていたのが幸いしたのでしょうか。
福知山水害の惨状003
内記町有馬宅の惨状。現在の内記5丁目と思われます。
ここにあった有馬氏の邸宅に流されてきた廃材が引っかかっていますが、屋敷自体は無事なようです。

明治40年の水害の被害は大きく、市街地は2階部分まで浸水し由良川にかかる音無瀬橋も流されましたが、
明治29年の水害を教訓にしていたため人的被害は明治29年ほどでは無かったと言われます。

この明治40年の水害に関してもう一つ所蔵している資料があります。
第20旅団2002
福知山第20旅団司令部の絵葉書の通信欄に書かれた文字ですが、その中に
「実は当地も大洪水にて死傷二百余、流出家屋二百、半壊家三百余惨憺たるものですよ。
僕の内は二階二尺以上も浸水致し教科書も皆濡れました。家族一同は連隊に避難し皆無事です。」
との記載があります。
明治40年の水害は被害は床上浸水1354戸、流失152戸、全壊123戸、半壊42戸に上りましたが、
福知山に駐屯していた歩兵第20連隊・工兵第10大隊の活動により死者は5名に抑えられていますので
この記載の死傷二百余は間違いではありますが、上記の水害の被害を写した絵葉書とともに
明治40年の水害の様子を生々しく伝える貴重な資料となっています。

古絵葉書・福知山町植村長太郎繭問屋 若田圓太郎生糸問屋

福知山繭問屋002
福知山繭問屋001
福知山市は古くから由良川の水害の影響を受け続けたため、
水害の被害に強い桑を育てて蚕を飼う養蚕業が盛んでした。
明治時代には隣町の綾部市に郡是製糸工場が作られ、福知山にも製糸工場が多く作られました。
この繭問屋はそれらの製糸会社に繭を卸す問屋だったと思われます。
この絵葉書は昭和初期~昭和10年代のものと思われる様式になってますが、
福知山市は昭和12年4月に町制から市制に移行しましたので、
昭和12年4月以前の昭和期の絵葉書と思われます。
また、この2枚の絵葉書は元々いくつかのセットのうちの2枚だった可能性があります。

古絵葉書・福知山 歩兵第二十旅団司令部(附・明治40年福知山水害の記載)

第20旅団2001
かつて福知山に置かれていた歩兵第二十旅団司令部の絵葉書です。
右上の人物は皇太子時代の大正天皇。
左下の記念スタンプに「皇太子殿下山陰道行啓紀念 40-6-6」とあります。
第二十旅団司令部

こちらは別アングルでの少しアップになった旅団司令部。
歩兵第二十旅団司令部は、福知山へ明治30年に陸軍工兵第十大隊、
明治31年に陸軍歩兵第二十連隊が移駐したのと同時期に設置されました。
明治期に移駐した陸軍部隊のうち、歩兵第二十連隊は終戦まで
郷土部隊として存続しましたが、工兵第十大隊と歩兵第二十旅団は大正14年の
宇垣軍縮により、工兵第十大隊は岡山へ移駐、歩兵第二十旅団は廃止となりました。

ところで、この絵葉書にはもう一つの資料が残されています。
それは絵葉書の表面。つまり宛名と本文の書かれた面ですが、
その本文には以下のような記載があります。
第20旅団2002
文中に「実は当地も大洪水にて死傷二百余、流出家屋二百、半壊家三百余惨憺たるものですよ」
これは、明治40年8月25日に起きた大水害の様子を書いたものです。
このときの被害は床上浸水1354戸、流失152戸、全壊123戸、半壊42戸に上りましたが、
福知山に駐屯していた歩兵第20連隊・工兵第10大隊の活動により死者は5名に抑えられています。
絵葉書の本文の記述とは若干の差異がありますが、この絵葉書に押された消印は明治40年8月30日。
水害の起きた5日後に出されたものという災害直後の様子を伝える生々しい資料として
興味深い資料となっております。

※関連記事 古絵葉書・福知山 歩兵第二十旅団司令部

古絵葉書・舞鶴練習部 長田野 野外応用教練

長田野017
海軍の下士官や新兵を教育する練習部による陸戦の演習の模様を紹介した絵葉書です。
この舞鶴練習部は元は舞鶴海兵団でしたが、大正12年のワシントン海軍軍縮会議で
舞鶴鎮守府が舞鶴要港部に降格したのに伴い、舞鶴海兵団も舞鶴練習部へと降格しました。
演習場所は長田野という京都府福知山市にある場所で、戦前は福知山に駐屯していた
陸軍歩兵第20連隊の演習場でした。
京都府北部では最大規模の演習場だったので、海軍も借用して使用したのでしょうか。
長田野018
こちらは鉄道で到着した練習部の兵士たち。客車から次々と降りる様子が撮影されています。
長田野には鉄道は乗り入れてませんので、福知山駅ではないかと思われます。
写っている客車は三等車で、「ナハ24880」という車両番号が見えます。
調べてみましたところ、大正8年から昭和2年にかけて製造された、国鉄22000系客車
のようですが、三等車はナハ24400形・ナハ21950形・ナハ23950形の3種で、
ナハ24800形というのは無いようです。
何かご存知の方は教えていただけたらと思います。

※関連記事
古絵葉書・舞鶴練習部全景
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