category  [関東地方 ]

古絵葉書・東京中央電信局新築記念

東京中央電信局001
建築家・山田守の初期の作品であり名作と称されたこの東京中央電信局は最上部のパラボラ型アーチが特徴の建物でした。大正13年に完成したこの建物は戦後も使用され続けましたが、惜しくも昭和44年に解体されました。
この絵葉書は東京中央電信局の新築完成を記念して発行された1枚で、元は数枚のセットだったと思われます。
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古絵葉書・海軍省と誤植の初代帝国ホテル

初代帝国ホテル(海軍省の誤植)001
明治時代の手彩色絵葉書です。キャプションに「THE DEPARTMENT OF THE NAVY 海軍省」とありますが、絵葉書の建物は海軍省ではなく初代帝国ホテルです。
海軍省はにジョサイア・コンドルが設計し明治27年に完成した赤煉瓦の庁舎として知られている建物ですが、最初この絵葉書を見たとき有名な海軍省の庁舎とは似ても似つかない姿。築地にあった初代庁舎かとも思いましたが、そちらは擬洋風建築でそれこそ全く別物。しばらく悩みましたが、何となく見覚えのある建物なので記憶を頼りに調べたら初代帝国ホテルの建物と判明。
つまり、キャプションの「海軍省」は誤植だったわけです。すっかり騙されてしまいましたが(笑)最初から知っていればすぐに気づいていたでしょうね。
それにしても堂々と誤植したまま出回ったこの絵葉書。今なら回収対象というか発売される前に校正で気付くはずの誤植なわけですが、ある意味おおらかな明治時代。気付かず見落としてなのか別にいいかなのか誤植のまま出回ったみたいです。
今回は私の知識不足で騙され悩む羽目になった一枚ですが、まぁ珍品だと考えればこれはこれでいいかなと思いました(笑)

古写真・聖橋(個人撮影か)

聖橋001
聖橋は関東大震災後の震災復興事業の1つとして神田川に架けられた橋で昭和2年に完成しました。
設計は東京中央電信局や現在も残る萬代橋・NTT門司電気通信レトロ館・京都タワーを手掛けた山田守。
優美なアーチが特徴的なこのモダンな橋は完成当時から話題となり、現在も多くの作品に登場しています。
聖橋002
2枚目の写真には市電が写されています。神田川の中には小舟が進みのどかな風景を感じさせます。
堤防はまだ整備工事が行われて間もないころのように見えます。
この写真は個人撮影の可能性のもので、昭和初期頃と思われます。
東北地方の発電所や鉄道橋の工事写真に混ざっていたもので、工事に携わった方が参考とするために撮影したのかもしれません。
聖橋003
撮影者が土木関連の技術者だったことを思わせる写真がこの聖橋の模型です。
設計者の山田守が所属していた内務省復興局土木部に展示されていたか昭和5年の帝都復興祭に展示されていたと思われるこの聖橋の模型は、撮影した人が大いに興味を引いたものだったのかもしれません。

古写真・言問橋(個人撮影か)

言問橋001
言問橋は関東大震災後の震災復興事業の1つとして昭和3年に完成した橋で、長大なこの橋は川端康成の小説にも描かれています。
言問橋002
河川敷からの撮影。道の両側に積まれた石は護岸工事用に置かれたものでしょうか。
昭和20年3月10日の東京大空襲の日、言問橋の上は空襲から逃げる多くの人で溢れかえり身動きが取れなくなったところに焼夷弾が降り注ぎ、火災旋風が発生。人々の荷物に燃え移り橋の上は大火災を起こしました。
空襲後の翌朝、橋の上は焼死体で埋まり橋の上は焼け死んだ人々からの脂が橋の上を流れていたそうです。
言問橋は現在も使用されており、東京都選定歴史的建造物に選定されました。
言問橋の親柱には東京大空襲の際の焼け死んだ人々の脂が染みつき黒ずんでおり、亡くなった方々の無念さを物語っています。
また、1992年の改修で取り外された石製の欄干と縁石にも亡くなった方の脂で黒ずんでおり、それらも隅田公園等に保存されています。
この写真は個人撮影の可能性のもので、昭和初期頃と思われます。
東北地方の発電所や鉄道橋の工事写真に混ざっていたもので、工事に携わった方が参考とするために撮影したのかもしれません。

古写真・蔵前橋(個人撮影か)

蔵前橋001
蔵前橋は関東大震災後の震災復興事業の1つとして昭和2年に完成しました。
現在もそのままの姿で使用されています。
この写真は個人撮影の可能性のもので、昭和初期頃と思われます。
東北地方の発電所や鉄道橋の工事写真に混ざっていたもので、工事に携わった方が参考とするために撮影したのかもしれません。

古写真・相生橋(個人撮影か)

相生橋002
相生橋は関東大震災後の震災復興事業の1つとして大正15年に完成した橋です。
戦後も使用され続けましたが、老朽化により1999年に架け替えられました、
この写真は個人撮影の可能性のもので、昭和初期頃と思われます。
東北地方の発電所や鉄道橋の工事写真に混ざっていたもので、工事に携わった方が参考とするために撮影したのかもしれません。

古写真・両国橋(個人撮影か)

両国橋001
現在の両国橋は昭和7年に完成した橋で現在も使用されており、関東大震災後の震災復興事業の1つとして架けられた橋でした。
ただ、先代の明治37年完成の橋は震災でも大きな損傷はなく使用に耐えるものでしたが、他の隅田川に架かる橋とともに架け替えられました。
この写真は個人撮影の可能性のもので架け替え工事の始まる昭和5年までの撮影となります。
東北地方の発電所や鉄道橋の工事写真に混ざっていたもので、工事に携わった方が参考とするために撮影したのかもしれません。

古写真・清州橋(個人撮影か)

清洲橋001
清州橋は関東大震災後の震災復興事業の1つとして昭和3年に完成しました。
ドイツのケルン市にあったヒンデンブルク橋をモデルにしたこの吊り橋は、帝都復興の華と呼ばれました。
モデルとなったヒンデンブルク橋は第2次大戦時の爆撃により失われているため、現在もそのままの姿で使用されている清州橋はその面影を残す橋となり、2000年に土木学会の第一回土木学会選奨土木遺産に認定され、2007年には国指定重要文化財に指定されました。
この写真は個人撮影の可能性のもので、昭和初期頃と思われます。
東北地方の発電所や鉄道橋の工事写真に混ざっていたもので、工事に携わった方が参考とするために撮影したのかもしれません。

古写真・駒形橋(個人撮影か)

駒形橋001
駒形橋は関東大震災後の震災復興事業として架けられた橋で、現在も当時の姿のまま使用されています。
この写真は個人撮影の可能性のもので、昭和初期頃と思われます。
東北地方の発電所や鉄道橋の工事写真に混ざっていたもので、工事に携わった方が参考とするために撮影したのかもしれません。

古写真・永代橋(個人撮影か)

永代橋002
永代橋は関東大震災後の震災復興事業の第1号として大正15年に完成しました。
ドイツのライン川に架かっていたルーデンドルフ橋をモデルに作られたこの橋は帝都東京の門と呼ばれました。
現在も使用されている永代橋は第2次大戦でのドイツ軍とアメリカ軍による激しい戦闘が行われ失われたルーデンドルフ橋の
面影を今に伝える橋となっています。
永代橋は2000年に土木学会の第一回土木学会選奨土木遺産に認定され、
さらに2007年には国指定重要文化財に指定されました。
永代橋001
2枚目の写真には市電が写っています。明治37年から橋の上を走っていましたが、昭和47年に廃止されました。
この写真は個人撮影の可能性のもので、昭和初期頃と思われます。
東北地方の発電所や鉄道橋の工事写真に混ざっていたもので、工事に携わった方が参考とするために撮影したのかもしれません。

※関連記事 古写真・東京永代橋(明治20年代?)

古絵葉書・関東防空大演習の空襲防護の活況(8枚組)

関東防空大演習001
昭和8年8月11日に東京市(当時)を中心とした関東一円で開始された大規模都市防空演習を記念して発行された絵葉書セットです。
第1次大戦より使用された航空機は昭和に入り軍事としての有用性も考慮されるようになりそれに伴い都市への空爆の恐れも出てくるようになりました。そこで行われたのがこの防空大演習です。
都市防空演習は昭和3年に大阪市で行われたのが最初でそれを皮切りに各主要都市で行われるようになりました。
ただ、当時はまだ一般市民には空襲というものに対して危機感や認知度があまり無かったようでいまいち盛り上がりに欠けていたようです。
この絵葉書セットも民間業者による発行で、他にも何種類か別の業者によって発行されています。
当時は一種の行事と言うかイベントみたいな雰囲気があったのかもしれません。
以下、中身の8枚の絵葉書を紹介します。続きを読むからご覧ください。
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古絵葉書・横浜海岸(明治手彩色絵葉書)

横浜海岸001
明治後期頃に作られたと思われる手彩色の横浜海岸通りの絵葉書です。
左の高い塔を持つ木造の建物は明治29年竣工の神奈川県測候所。
左端に少し写る煉瓦建築の洋館は神奈川県港務局。
ともに関東大震災で焼失しました。

古絵葉書・経国銀行本店改築記念

経国銀行001
経国銀行は東京にあった銀行で、明治32年に設立した新橋銀行が明治44年に改称されたものです。
しかし、大正13年に消滅。14年あまりの短い営業でした。
この絵葉書は経国銀行の本店を改築した記念に発行されたもので、
銀行名が改称されてから間もない頃に本店が改築されたのでしょうか。

古絵葉書・明治43年亀戸の水害の惨状

亀井戸町水害001
明治43年8月東京を襲った大雨は東京各地に大きな被害をもたらした水害となり、
死傷者・行方不明あわせて170人。かなりの惨事となってしまいました。
この絵葉書は亀戸地域での水害の被害を伝えた1枚です。
1階部分は完全に水没、2階に避難した人たちの救助活動を行っています。

古写真・気球連隊正門

気球連隊002
気球連隊という看板の掲げられた正門が写る古写真です。
気球連隊は元気球班で所沢飛行場にあったものを昭和2年に千葉市に移転。
昭和11年に気球連隊に改編されました。
気球連隊は日中戦争などに参加しましたが、航空機の発達により次第に存在意義が薄れ、
大戦末期は内地に駐留してましたが、昭和19年より風船爆弾の作戦に関わりました。

現在、気球連隊跡地には気球を収納していた格納庫の建物が現存しています。

古絵葉書・産業組合中央会館絵葉書

産業中央会館001
東京麹町に建てられたビルで、昭和14年に建設されました。
設計は、産業組合中央会臨時建築部。施工は清水組です。
産業組合中央会館は、明治33年に公布された産業組合法によって設立された協同組合である
産業組合の中央機関として建てられたもので、産業組合は現在の農協や信仰金庫、生協の母体となった機関です。
産業中央会館002
外観。昭和10年代らしいモダニズムの大型建築物で、6階部分の軒回りとそれより上の塔屋部分に
装飾を施しています。
産業中央会館003
講堂内部。ほとんど装飾のないまさにモダニズムといったデザインです。
産業中央会館004
事務室内部。こちらも装飾らしい装飾はありません。
昭和初期から10年代にかけて建てられた鉄筋コンクリート造の公共建築にも見られます。

産業組合中央会館には、この絵葉書とは別に建築工事概要の冊子が付属していました。
別記事にて紹介しますので、そちらも合わせてご覧ください。

※関連記事 古書籍・産業組合中央会館建築工事概要

古写真・茨城農工銀行職員写真帖(昭和7年)

茨城1
農工銀行とは戦前までに全国に存在した特殊銀行の1つで、明治29年に設立した農工銀行法に基づいて
設立された銀行です。
これは、日本勧業銀行設立に伴い、農工業関連への長期融資を目的としたもので、事実上日本勧業銀行の
子会社的な存在でした。
各地の農工銀行は終戦までに日本勧業銀行へと吸収合併されていきました。

茨城農工銀行は明治31年に設立。
写真帖には本店の他に土浦支店と下館支店が紹介されています。

以下に本店と支店の写真を紹介しますので、
続きを読むからご覧ください。
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古絵葉書・習志野 永久堡塁(習志野名所)

堡塁007
千葉県船橋市の習志野台にかつてあった演習用の堡塁です。
堡塁とは、敵の上陸に対して迎え撃つための要塞で、日露戦争では旅順要塞などが有名。
国内でも主要軍港の周囲に砲台とともに建設されました。
この習志野永久堡塁は旅順要塞を模して建設されたものですが、防衛施設としてのものではなく、
堡塁の攻略戦の演習のために作られたものでした。
建設時期は日露戦争が終わった後と言われ、日露戦争後にロシアが建設した堡塁を調査・研究し
建設したものと思われます。
しかし、堡塁は砲台とともに航空機の登場によって時代遅れのものとなり、
国内各地の堡塁や砲台も昭和初期には廃止や別の用途に使用されていったため、
この習志野永久堡塁も明治末期から大正期までの建築では無いでしょうか。

戦後もそのまま残され、この永久堡塁は通称「旅順港」と呼ばれ、近所の子供たちの遊び場になってましたが、
昭和37年に住宅団地の建設に伴い埋め立てられました。
公団住宅団地の建設に対しては船橋市が保存の意向を示していましたが、叶いませんでした。
保存が決定していたらと思うと惜しいものがあります。

関連記事・古絵葉書・支那囲壁砲台(習志野名所)

古絵葉書・支那囲壁砲台(習志野名所)

シナ006
この大陸的な外観を持つ建築物は、支那囲壁砲台と呼ばれる建物で、
昭和9年に工兵第1大隊によって建設されました。
中国との緊張が増す中、中国での戦闘を想定した演習を行うために、
中国の砲台を模した施設でした。

この支那囲壁砲台は現在も残っており、民家として使用されています。
2002年に国指定登録文化財に指定されました。

下記のサイトに現在の支那囲壁砲台のレポートがあります。

参考サイト・kanレポート支那圍壁砲台

 

古絵葉書・歩兵第二十七旅団司令部

第27旅団003
陸軍歩兵第二十七旅団司令部は宇都宮の第14師団隷下の部隊として
水戸市に置かれました。
旅団司令部の建物は一律画一化しており、他の旅団司令部の絵葉書を見ても、
そのことが良く分かります。

関連記事・
陸軍第三十旅団司令部(三重)
歩兵第三旅団司令部(仙台)
陸軍歩兵第十八旅団司令部(敦賀)
歩兵第二十旅団司令部(福知山)

古絵葉書・明治後期頃の横浜港大桟橋

横浜港
明治後期頃撮影と思われる横浜港大桟橋の手彩色絵葉書です。
左端にある煉瓦建築は、明治26年完成の横浜築港事務所。
かのジョサイア・コンドル設計の建物です。

古絵葉書・大仁温泉ホテル

大仁温泉ホテル
大仁温泉ホテルは、箱根にあるホテルで、昭和15年に開業しました。
外観はモダニズム風のデザインで、展望浴場やサロンなどがありました。

古絵葉書・横浜三渓園山上ノ原氏別荘(旧松風閣)

三渓園 旧松風閣
横浜市本牧にある三渓園は、広大な敷地に古建築を移築した庭園で、実業家・原三渓の邸宅でもありました。
明治20年頃から邸宅の建設が始まり、明治35年あたりから庭園の整備が始まりました。
三渓園自体は明治39年には現在の外苑部分が一般公開されており、当時から観光名所でした。

三渓園の敷地の真ん中に三重塔の建つ小山があるのですが、かつてそこには原邸のゲストハウスである
「松風閣」かありました。

松風閣は明治20年頃の完成の煉瓦造り2階建ての建物で、命名は伊藤博文。
原邸を訪れた賓客をもてなす重要な建物でした。

この贅を尽くした建物も、関東大震災により倒壊。現在は建物の一部が廃墟として残されるのみです。

三渓園 旧松風閣跡1
現在の旧松風閣の姿。今となっては廃墟としての無残な姿しか残されてませんが、それでも屋根に葺かれていた天然スレート、分厚い窓ガラス片、そして特注の煉瓦を使っている角を丸くした煉瓦壁など
贅を尽くした当時の松風閣の様子がうかがい知れます。

古絵葉書・平和記念東京博覧会文化村住宅16枚組

文化村住宅袋
大正11年、第1次世界大戦の終結を記念して東京上野で平和記念東京博覧会が開催され、
その会場内に文化村という住宅展示場が設けられ、14棟のモデル住宅が展示されました。
この絵葉書はその文化村に出品されたモデル住宅を紹介したもので、全部で16枚セットとなり、
会場に展示さていた住宅が全て収録されています。

※以前、同じ平和記念東京博覧会文化村住宅の絵葉書を紹介しましたが、その時点では11枚しかなく、
今回新たに16枚すべて揃った状態で入手しましたので、前回紹介時に欠けていた5枚分を追加して
再構成しました。

なお、今回追加した5枚と前回紹介分の絵葉書と色合いが違いますが、これは当時の印刷技術によるもので、
同じ製品の絵葉書でも、それぞれ色合いに個体差があるようです。

続きを読むから御覧下さい。

*追記・関連として、
書籍・平和記念東京博覧会出品 文化村住宅設計図説(大正11年)
平和記念東京博覧会文化村住宅(内部
の記事をUPしました。
続きを読む

古絵葉書・東京第一衛戍病院

東京第一衛戍病院1203
衛戍病院とは、陸軍の衛戍地に設けられた病院のことで、
陸軍の傷病兵の収容・治療を行っていました。

この東京第一衛戍病院もその一つで、明治3年に設立した軍医寮附属病院を
起源とし、東京衛戍病院と改称。明治36年に東京第一衛戍病院と改称されました。
東京第一衛戍病院という名称は、昭和11年に東京陸軍第一病院と改称されるまで
使用されますが、この絵葉書は大正後期から昭和初期にかけての様式を持ってますので、
絵葉書の写真が撮影されたのもそのころではないかと思われます。
東京第一衛戍病院は戦後も引き継がれ、現在の国立国際医療センターとなります。

この絵葉書の建物は「薬室」建物自体は明治後期のもののようです。
東京第一衛戍病院2204
「看護卒兵舎」看護兵、いわゆる衛生兵の兵舎のようです。
本来はセットとして複数枚の絵葉書があったと思われますが、
バラの状態で入手しましたので、今のところはこの2枚のみです。

古絵葉書・2代目横浜税関

横浜税関(2代目)
明治18年に完成した2代目横浜税関です。
関東大震災で倒壊するまでの間、横浜のシンボルの一つでもありました。
震災後の昭和9年、新たに建てられたのがクイーンの塔で知られる
現在の3代目横浜税関です。

古絵葉書・東京中央郵便局

東京中央郵便局
解体か保存かで大いに揺れ、先日登録有形文化財としての保存が決定した
戦前モダニズムの傑作、東京中央郵便局の完成間もないころの絵葉書です。
昭和8年に完成した東京中央郵便局は、逓信省技師・吉田鉄郎の代表作で、
また、大阪中央郵便局と並ぶ戦前期のモダニズム建築の傑作とも
評されています。
吉田鉄郎はモダニズム建築の作品がよく知られていますが、
初期の作品には、旧京都中央電話局上京分局(現・カーニバルタイムズ)
のように、表現主義的な建物を建てています。

現在京都には、上記の旧京都中央電話局上京分局ともう一つ、
旧京都中央電話局(現・新風館)の2つが現存し、
現存する吉田の初期作品として知られています。

古絵葉書・大日本麦酒目黒工場

大日本麦酒
大日本麦酒とは、戦前に存在した最大手のビールで、
現在のアサヒビール・サッポロビールの前身であるビール会社でした。
大日本麦酒は明治39年に札幌麦酒、大阪麦酒、日本麦酒の3社が合併してできた
会社で、合併前の札幌麦酒・大阪麦酒・日本麦酒のブランドで今も販売されている
サッポロビール・アサヒビール・ヱビスビールを販売しており、
また、ビール以外でも、リボンシトロンや三ツ矢サイダーなど、
現在も売られている清涼飲料水も販売していました。
しかし、戦後の昭和24年、解体されることになり、その時分割された朝日麦酒と日本麦酒が
現在のアサヒビール・サッポロビールとなりました。

絵葉書の工場はローマ字の文によると、目黒工場のようです。
大日本麦酒三十年史5
こちらは、所有している昭和11年発行の「大日本麦酒株式会社三十年史」
に収録されている、目黒工場の様子。ただ、絵葉書と比べると、
共通の建物が見当たらないのですが。

「大日本麦酒株式会社三十年史」には、会社の沿革と工場の様子だけでなく、
製品のラベルなども紹介されており、昭和戦前期のビールや清涼飲料水の製品を
知る好資料となっています。


追記にて紹介していますので、下の「続きを読む」からご覧ください。
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書籍・平和記念東京博覧会出品・文化村住宅設計図説

住宅博覧会1
今回は絵葉書ではなく書籍なのですが、以前紹介した
「平和記念東京博覧会文化村住宅」の絵葉書と
関連した書籍ですので、紹介いたします。
続きを読む

古絵葉書・東京岩田植物生理化学研究所 新築記念絵葉書

岩田植物生理化学研究所1
東京岩田植物生理化学研究所は東京帝国大学理科大学に在籍していた
岩田正二郎氏が同大学中退後、設立した研究所です。
岩田氏が収集した学術図書などの研究資料は岩田文庫として知られ、
現在大阪教育大学が所蔵しています。
この絵葉書は、昭和10年に新築された岩田研究所の記念絵葉書で、
袋入り3枚組となっています。
中身の絵葉書は、下の続きを読むからご覧ください。
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