category  [明治期の古写真 ]

古写真・神戸外国人居留地

神戸居留地001
神戸居留地は幕末の開港による安政五カ国条約により、慶応3年(1868)から明治32年(1899)まで存在した外国人居留地です。
計画的な都市設計により造られた街並みは当時としては珍しい西洋館が建ち並び、下水道完備・街灯や街路樹の設置など、これまでの日本には見られない近代的な街並みでした。
当初は日本人の立ち入りが禁止されていましたが、徐々に解禁され神戸や関西での近代化・文明開化に大きく影響を与えました。
明治32年に神戸外国人居留地は日本へ返還され神戸市に編入。旧居留地はビジネス街として大いに発展。現在も戦前の銀行建築や商社ビルの建築が多く残りかつての繁栄を物語ってます。
古写真は外国人居留地時代に撮影されたもので、当時各地の居留地で多く見られたコロニアル様式の洋館が建ち並んでいます。中央の半円の看板を掲げた建物は商店でしょうか。建物の前には人力車が置かれ、文明開化真っ只中の雰囲気が現れています。
現在、居留地時代の建物はほとんど失われ、唯一、旧神戸居留地十五番館が現存し重要文化財に指定されています。

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古写真・大阪 川口居留地
古写真・長崎居留地
古写真・明治20年代?の神戸港(神戸濱手市中)

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古写真・海軍将校生徒学習船 東京丸(海軍兵学校仮校舎)

東京丸001
旧日本海軍の士官学校である海軍兵学校は当初東京築地にありました。明治19年、呉鎮守府に近い広島県の江田島へ移転が決定。現在も海上自衛隊の幹部候補生学校として使用されている赤煉瓦の校舎の建設が始まりました。
海軍兵学校が東京から移転を開始したのは移転決定から2年後の明治21年。現在も残る赤煉瓦校舎が完成したのが明治26年。
移転から校舎完成までの5年間はこの古写真に写る東京丸という船が仮校舎として使用されました。
東京丸は元々1864年、日本では幕末の元治元年にアメリカで建造された木造船ニューヨーク号で、明治7年に台湾出兵の際に日本政府が購入し東京丸と名付けられました。明治8年に郵便汽船三菱会社に払い下げられ、明治18年に日本郵船に移籍。明治20年に日本海軍に売却されました。そして翌年より海軍兵学校の仮校舎として使用されたわけですが、建造から24年経った木造船は恐らく老朽化が目立ちしかも係留された船の上の生活は東京生活に慣れた生徒たちには過酷なものだったのかもしれません。
明治26年、ようやく赤煉瓦の校舎が完成すると海軍兵学校は東京丸から移転。役目を終えた東京丸は民間に払い下げられ恐らくそのまま解体されたと思われます。
この古写真の台紙には「海軍将校生徒学習船」の筆書きがあり、海軍兵学校仮校舎として使用された明治21年から明治26年の間の撮影となります。わずか5年の間ですがこの古い木造船は日本海軍の将校たちを育成した日本海軍史に残る記念すべき船となりました。

古写真・東海鎮守府(後の横須賀鎮守府)

東海鎮守府001
明治9年、近隣の港を管轄する海軍の機関として鎮守府の設置が決定。東日本は横須賀に東海鎮守府を西日本には長崎に西海鎮守府が置かれることが決定しましたが、実際に置かれたのは東海鎮守府で横浜に開庁しました。これが後の横須賀鎮守府です。
東海鎮守府は現在の横浜市中区北仲通6丁目にあり、かつて存在した灯台局の隣のドイツ領事館跡に設置されました。
明治17年に東海鎮守府は横須賀に移転し横須賀鎮守府が誕生しました。
古写真は横浜の東海鎮守府の表門を撮影したもので撮影期間は明治9年から明治17年まで。ナマコ壁の土蔵のような塀と門衛所らしき建物、伝統的な冠木門に「東海鎮守府」の看板と明治の文明開化らしいランプの街灯が掲げられています。
築地海軍省002
明治の公的機関でありながら伝統的な日本建築のナマコ壁が使われており既存の江戸時代からの建物を利用したようにも見えますが、明治初期はこの築地にあった初代海軍省のように洋風を目指した新築の建物でありながら外壁はナマコ壁といった「擬洋風建築」がまだまだ主流で当時の建築家や大工が従来の日本建築の技術をもとに洋館を見よう見まねで作った結果なのですが、この東海鎮守府もそういったものなのかもしれません。もしくは旧ドイツ総領事館の建物を再利用した可能性もあります。
日本最初の鎮守府は横浜で生まれ移転先の横須賀にて大きく成長するわけですが、この古写真は築地海軍本省と並び日本海軍草創期を物語る1枚です。

古写真・愛知県尋常中学校

愛知県尋常中学校001
愛知県尋常中学校は尾張藩が明治3年に設立した洋学校を始まりとする学校で、明治19年の中学校令により愛知県尋常中学校と改称しました。当初は名古屋市中区にありましたが、その後改称しながら明治41年に東区に移転。さらに現在の愛知県立旭丘高校の場所に移転しました。戦後の昭和23年、女子高の名古屋市立第三高等学校と統合。現在の愛知県立旭丘高校となりました。
この写真は東区へと移転する前の愛知県尋常中学校時代のもので、明治前期らしい擬洋風建築の校舎が写されています。
愛知県尋常中学校002
台紙の裏の筆書き。「愛知県尋常中学校正面之景」「明治二十七年十一月十八日求」とあります。
明治27年11月18日に入手したか貰ったということなので、撮影はそれ以前の近いころだったのでしょう。

古写真・六郷川鉄橋

六郷鉄橋001
明治5年に開通した日本初の鉄道路線の新橋横浜間は開通当初の橋梁は木製トラスでした。これは当時製鉄産業が未発達の日本において鋼材などは外国からの輸入に頼っており、鉄道橋もイギリスからの輸入を予定されていましたが、それでは間に合わず当面の措置として木造の橋梁が造られました。当然耐久性に難があり、鉄道開通から5年後の明治10年、東海道線の複線化に伴い木造だった六郷川橋梁も複線鉄橋に架け替えられました。
六郷川鉄橋は明治8年にイギリス・リバプールのハミルトンズ・ウインザー・アイアンワークス社で製作され日本に輸入された鉄橋で、錬鉄製のポニー・ワーレントラス構造でした。
明治45年、東海道線の複々線化に伴い撤去され単線用に改造。大正4年に御殿場線の酒匂川を渡る鉄橋として転用されました。
昭和40年、御殿場線での役割も終え撤去された六郷川鉄橋は日本最初期の貴重な鉄道鉄橋として博物館明治村に移築保存され、鉄道記念物に指定されています。
この古写真は多摩川に架かっていた東海道線時代の六郷川鉄橋で、明治中期から後期頃の撮影と思われます。

古写真・大阪鎮台砲兵営所(明治前期撮影)

大阪鎮台砲兵営所002
「大阪鎮台砲兵営所」の筆書きがある古写真です。分かり難いですが奥に見える長大な建物が砲兵営所です。
大阪鎮台は明治4年に設立し砲兵隊は明治5年頃設立。後に砲兵第四連隊となり明治21年に大阪鎮台が第4師団に改編された際にそのまま第4師団隷下の部隊となりました。
砲兵営所は現在の大阪歴史博物館とNHK大阪放送局の位置にあったようです。
砲兵第四大隊
以前記事にした大阪砲兵第四大隊の古写真。この古写真に写る土蔵のようなナマコ壁の建物が1枚目の大阪鎮台砲兵営所の建物と同じものと思われます。

※関連記事
古写真・砲兵第四大隊(明治10年代頃撮影)

古写真・大坂城内士官室(大阪鎮台)明治前期撮影。

大阪鎮台士官室001
大阪城に陸軍の鎮台が置かれたのは明治4年。初期の頃は大阪鎮台本営の他に歩兵営・砲兵営・鎮台病院・陸軍監獄などがありました。明治21年、大阪鎮台は第4師団に改編。この古写真は「大坂城内士官室」の筆書きがありますが、明治21年までの大阪鎮台時代の撮影と思われます。大阪城の石垣上に建つ洋館が士官室と称される建物のようで、後の陸軍将校倶楽部の偕行社か将校集会所に当たる施設と思われます。
士官室の左手にある土蔵は元々大坂城時代からの物だったものか鎮台創設時に新たに建てられたものか不明です。
士官室があった城内の具体的な場所ははっきり特定できませんでしたが、撮影距離的に本丸にあったものと思われます。

古写真・大津トンネル(逢坂山トンネル)

逢坂山隧道001
「大津トンネル」のキャプションがありますが、明治初期に建設された逢坂山トンネルかと思われます。
逢坂山トンネルは大津~京都間を繋ぐ東海道線のために掘削された鉄道トンネルで、明治11年に完成しました。
逢坂山トンネルは当時は主流だったお雇い外国人技師の力を借りず全て日本人の手により工事が行われました。
明治31年には複線化により上り線のトンネルが完成。以後、明治期を通じて東海道線のトンネルとして使用されましたが、
大正10年に新線の新逢坂山トンネルが完成すると旧逢坂山トンネルは役目を終えました。
戦時中は地下工場として航空機の部品工場として稼働していましたが、戦後の名神高速道路建設により西口が埋め立てられ消滅しましたが、東口は現存し、貴重な明治初期の鉄道土木遺産・近代化遺産として鉄道記念物及び近代化産業遺産に指定され保存されています。
この古写真の逢坂山トンネルは現存する東口か消滅した西口か分かりませんが、明治31年に完成した複線の上りトンネルが写っていないように見えるので、複線化以前の撮影かと思われます。

古写真・海軍省(築地時代初代庁舎)

築地海軍省002
海軍省と言えば通称「赤煉瓦」と呼ばれた霞が関にあったジョサイア・コンドル設計の庁舎が有名ですが、赤煉瓦の庁舎は2代目で、初代庁舎は築地にありました。「東京海軍省」とキャプションのあるこの古写真は築地時代の初代海軍省庁舎です。
初代海軍省は明治5年に築地の旧尾張藩邸に設立され、旧藩邸庭園の築山に旗を立てたことから、旗山と呼ばれていました。
当時は海軍本省と呼ばれ、築地一帯はこの海軍省や後の海軍兵学校となる海軍兵学寮など海軍関連の施設が建ち並んでいました。
初代海軍省001
以前紹介した初代海軍省庁舎の横からのアングル。明治4年に完成した海軍省初代庁舎は中央屋根に塔屋を持ちファザードにはバルコニーを持つ玄関が設けられた擬洋風建築ですが、全体の壁は伝統的なナマコ壁で日本瓦を葺くなどまるで土蔵のような外観です。それでも当時はモダンに見えたのか新たな東京の名所として錦絵に多く描かれました。
海軍省初代庁舎は明治17年ごろに取り壊され、明治28年に2代目の赤煉瓦の庁舎が竣工しました。
この古写真は明治4年から明治17年までの撮影となります。

※関連記事 古写真・海軍省(築地時代の初代庁舎) ※側面からの遠景写真

古写真・川口波止場

川口波止場001
大阪市西区川口地区にはかつて外国人居留地が存在しました。川口居留地と呼ばれる外国人街で明治元年に完成。それに先行する形で慶応4年に作られたのが川口波止場でした。
川口波止場は大阪の玄関口として安治川に開港された河川港で大阪に初めて作られた港であり、当時大阪港と言えば川口波止場を指しました。
黒船来航による日本の開国以来日本各地で開港されていきましたが、この川口波止場もその一つであり、現在「大阪開港の地」と刻まれた記念碑が建てられています。
川口波止場003
古写真の右上には「川口波戸 安治川ノ南岸ニ在リテ此所汽船発着ノ地ニシテ頗ル繁賑セリ」とキャプションがあり、写真には汽船が縦に並んで停泊している様子から大阪の玄関口としてかなりにぎわっていた様子がうかがえます。
大阪港の発祥となった川口波止場ですが、河川に作られた港であったことから次第に大型化する船舶の受け入れに支障をきたすようになり、明治30年頃から海に向かって新たな築港工事が開始。大阪港としての機能が海側に移ったことにより川口波止場は役割を終え衰退しました。
川口居留地004
以前紹介した川口居留地の古写真。
川口居留地は明治32年に廃止されたものの、街としての機能は衰退することなく発展し大正期まで大阪の中心であり続けました。
現在、川口波止場や川口居留地の面影は失われ、記念碑だけが残されています。

※関連記事 古写真・大阪 川口居留地

古写真・甲鉄艦 扶桑艦

扶桑艦001
扶桑艦は創立間もない日本海軍がイギリスに発注した軍艦であり日本海軍の草創期を支えた軍艦の1つで、これまでに配備された木造船に鉄板を張った艦とは違い、日本海軍が初めて所有した全金属製の船体を持つ近代的な軍艦でした。
扶桑艦は明治8年にイギリスにて建造され明治11年に竣工。日本海軍に引き渡され日本海軍草創期の主力艦として位置しました。
明治26年には近代化改装を受け日清戦争にも従軍しましたが、そのころにはすでに旧式でありあまり活躍しなかったようです。
明治30年には巡洋艦「松島」と衝突事故を起こし沈没しましたが、引き上げられ翌年には復帰。
しかし、老朽化には勝てず明治41年に除籍しました。
扶桑艦002
古写真の台紙裏の書き込み。この写真は横須賀港に停泊中の扶桑艦を撮影したもののようです。
日清戦争及び黄海海戦の記載はあるものの、日露戦争の記載はないので、日清戦争後で日露戦争開戦前に撮影された写真だとわかります。

古写真・御召艦 迅鯨か

迅鯨艦001
台紙裏に「ジウンケイカン」と書かれ、明治初期の日本海軍艦艇に該当する艦名の軍艦に迅鯨「ジンゲイ」しか近い名前が当てはまらないこと、写真に外輪が写っていることから迅鯨と判断しました。
迅鯨は明治6年に横須賀造船所にて起工し明治14年竣工。8年もかけて建造されたこの艦は御召艦として建造されただけのことはありかなり豪華な内装だったと言われています。
しかし、外輪船という時代遅れさもあり明治19年には水雷練習艦として転用されました。
そして明治42年に除籍されました。
迅鯨艦003
台紙の裏には「ジウンケイカン」の文字があり、該当する艦は迅鯨艦かと思われます。
迅鯨艦について調べますと、真横から撮影した写真はいくつかありましたが、斜め前から撮影したアングルはこの写真くらいでした。

古写真・コルベット 筑波艦

筑波艦001
筑波艦は元イギリス海軍所属の「マラッカ」として1854年に竣工した木造コルベットの軍艦であり、日本海軍の草創期を支えた軍艦の1つです。
1854年は日本でいえば幕末の嘉永6年。ペリーが浦賀に黒船を率いて現れた年です。
日本ではまだまだ江戸幕府の体制の中、英領ビルマ警備のために建造されたこの艦は明治3年に設立したばかりの日本海軍が購入。当時はまだ陸・海軍省は無く、その前身である兵部省でした。明治8年からは海軍兵学寮の練習艦として使用されました。
明治27年の日清戦争時にはすでに老朽化しており軍港警備に使用。そして明治38年に除籍されました。
筑波艦003
写真の台紙には「ツクバカン」と書かれています。
明治20年までは軍艦名の後ろには正式には「艦」が付きました。
この筑波艦の写真は日本海軍黎明期を物語る軍艦として貴重かと思われます。
なお、筑波艦の古写真は帆を張った写真は知られてますが、帆を畳んだ写真は見かけないように思われます。

古写真・篠ノ井警察署(明治後期頃撮影か)

篠ノ井警察署001
名刺大の鶏卵紙にプリントされた篠ノ井警察署の古写真です。
篠ノ井警察署は長野市篠ノ井にあった警察署で、昭和47年に松代警察署と統合して現在の長野南警察署となりました。
古写真を見ると、いかにも明治期らしいファザードにベランダを持つ木造の擬洋風建築にも見える洋館です。
篠ノ井警察署002
台紙裏には「篠ノ井警察署写真」と書かれています。
かつての篠ノ井警察署については詳細は分かりませんでしたが、現在同じ篠ノ井に移築されている明治26年築の旧池田警察署と同時期頃の建設ではないかと思われます。

古写真・大阪府立商品陳列所

大阪商品陳列所006
大阪府立商品陳列所は明治23年に堂島川沿いに建てられた日本初の商品陳列所でした。
ルネッサンス様式の洋館は堂島川に良く映えていたと思われますが、明治42年の大火にて大半を焼失。
仮事務所にて再開した後、大正6年の移転により初代大阪府立商品陳列所は幕を閉じました。
この写真は大火により焼失する前の明治後期頃の撮影と思われます。

古写真・東京 愛宕山 愛宕館 愛宕塔

愛宕山 愛宕館001
現在NHKのある愛宕山にはかつて愛宕館と愛宕塔という洋館が建っていました。
愛宕館と愛宕塔は明治22年の建築で、愛宕館は伊藤為吉の設計。愛宕塔は平野勇造の設計と言われています。
愛宕館はホテル兼西洋料理店で、5階建ての愛宕塔は内部は物品販売所となっており、
最上階は展望室で望遠鏡も備えてあったそうです。
明治前期より東京の観光名所として人気を集めていた愛宕館と愛宕塔ですが、
大正12年9月1日に発生した関東大震災によって倒壊、焼失しました。
参考サイト

古写真・濃尾地震で倒壊した長良川鉄橋

濃尾地震で倒壊した長良川鉄橋001
濃尾地震の被害により倒壊した長良川鉄橋です。
長良川鉄橋はお雇い外国人ポナールの設計により、明治21年に完成した
当時国内最大級の鉄橋でしたが、わずか3年後に濃尾地震で倒壊。
この写真は明治24年の濃尾地震により倒壊した長良川鉄橋を撮影したものです。
倒壊した長良川鉄橋を撮影した写真はいくつか残されており、この写真はそのうちの1枚で、
様子を見に来たのか和装の男性2人と洋装で帽子とコウモリ傘を持った男性が
倒壊した鉄橋を眺めています。
この鉄橋の橋脚は鋳鉄製の鉄管橋脚でしたが、揺れによる強度不足なのか橋脚が折れ橋が落下。
そのあと煉瓦製の橋脚に変更されています。
濃尾地震は明治24年10月28に発生した巨大地震で、岐阜・愛知を中心に多大な被害を与えました。
死者7273人負傷者17175人家屋全壊142177棟を数える大被害で、名古屋城も大きな被害を受けました。
濃尾地震の与えた影響は被災地以外でも広まり、特に当時としては近代的な建物であった煉瓦造の洋館も
多く倒壊したため、当初3階建ての予定だった帝国京都博物館(現・京都国立博物館本館)の建物を
平屋建てに改めたほどでした。

古写真・京都舎密局

京都舎密局001
舎密局とは、明治初期に科学技術の研究や教育を目的として設立された公的機関で、
大阪と京都にありました。
この古写真の京都舎密局は明治3年に京都府によって設立されたもので、石鹸やガラスなどの工業製品の
製造・研究を行いました。京都舎密局には後に島津製作所を設立する島津源蔵も在籍していました。
京都舎密局は明治14年に勧業事業政策転換により廃止。その後は設立者の明石博高に払い下げられ
そのまま経営されましたが、明治17年には譲渡され京都倶楽部として使用された後
いづれかの時に建物は失われました。
この古写真は「西京名所風景」と書かれた古写真の38枚セットのうちの1つで、
台紙に「京都舎密局」と書かれていることから、明治3年から14年までに撮影されたものであるとわかります。
京都が東京に対して西の京「西京」と呼ばれていた時代のことです。

古写真・海軍省(築地時代の初代庁舎)

初代海軍省001
海軍省と言えば霞が関の赤煉瓦庁舎が有名ですが、霞が関のほうは2代目でそれまでは築地にありました。
海軍省は明治4年に築地の旧尾張藩邸に設立され、旧藩邸庭園の築山に旗を立てたことから、
旗山と呼ばれていました。
当時は海軍本省と呼ばれ、築地一帯はこの海軍省や後の海軍兵学校となる海軍兵学寮など
海軍関連の施設が建ち並んでいました。
海軍省は明治28年、霞が関にジョサイア・コンドル設計の赤煉瓦の庁舎が完成したことにより
築地から移転しました。
この古写真は築地時代の初代庁舎の写真で、擬洋風の庁舎が右側面から撮影されています。
明治初期、洋風の海軍省庁舎は珍しかったのか、錦絵にも多く描かれています。
築地の初代海軍省庁舎は明治17年頃に取り壊されました。この古写真の撮影は竣工した明治4年から取り壊された明治17年までの間の撮影となります。

※関連記事 古写真・海軍省(築地時代初代庁舎)  ※正面からのアップ写真

古写真・日本精製糖株式会社 工場

工場2
※画像クリックで拡大します。
工場1
※画像クリックで拡大します。

A4サイズくらいの大きな写真で、それの2周りくらいの大きな台紙に貼られている古写真です。
台紙には「上野香畝」「玉水館」「東京両国薬研堀町」の印刷があります。
この写真を扱った写真館でしょうか。
さて、この古写真の工場ですが、台紙や写真に工場名を示すものはありませんが
東京都江東区北砂にあった日本精製糖株式会社工場だと分かります。
こちらのブログや国立国会図書館の所蔵品に工場の写真があります。
日本精製糖株式会社は、明治23年に鈴木藤三郎が設立した製糖会社で
明治28年、江東区北砂に日本初の近代的な製糖工場が作られました。
これはその北砂工場で、煉瓦造りの建物が広大な敷地にいくつも建てられています。
上記のブログに紹介された写真と比較して新たな建物が建てられていることから
それ以降の撮影と思われますが、明治期の撮影であることは間違いないのではと思います。
明治後期から末期にかけての撮影ではないでしょうか。

古写真・秋田県庁(明治後期ごろ撮影か)

秋田県庁005
明治後期ごろ撮影と思われる秋田県庁の鶏卵紙写真です。
正門前に袴と帽子をかぶった紳士が写っています。
秋田県庁は明治13年に建設された庁舎で、明治前期に多く建てられた
典型的な擬洋風建築の様式となっています。
この庁舎は昭和13年に新庁舎が建てられるまで使用され続けたようです。

古写真・陸軍教導団

教導団003
分かりづらいですが、建物の門に「陸軍教導団」と書かれた看板が掲げられています。
教導団006
看板部分を拡大したもの。
陸軍教導団とは、明治4年から明治32年まで置かれた旧陸軍の下士官養成学校です。
元は大阪兵学寮に置かれた教導隊を前身とし、明治4年に兵学寮を離れて教導団と改称し、
東京に置かれました。
教導団001
「教導団砲兵生徒隊」という看板が掲げられています。
ここの施設は砲兵を育成した施設のようです。
陸軍教導団には歩兵科・ 騎兵科・ 砲兵科・ 工兵科・ 輜重兵科の各兵科が置かれ、
そこでそれぞれの分野の教育が行われました。
各兵科の修業期間は1年4ヶ月から1年8ヶ月かかりましたが、その期間一切の休暇や帰郷を許されない
厳しいものでした。
卒業者は2等軍曹に任命され各部隊に配属されました。
教導団002
こちらも分かりづらいですが、「教導団」という文字は読み取れます。
教導団004
こちらは陸軍教導団の全景と思われます。

陸軍教導団は明治32年に廃止され、その後は各部隊で下士官の養成が行われましたが、
下士官の質を向上するため昭和2年に仙台・豊橋・熊本に歩兵科の下士官のみを育成する
陸軍教導学校が設立されました。

※関連記事 仙台陸軍教導学校

古写真・信夫橋(3代目)

信夫橋002
信夫橋は福島市にある橋で、阿武隈川支流の荒川にかかる橋です。
初代の橋は明治6年に架けられた木橋でしたが、明治16年の豪雨により崩壊、
明治18年に13連の石橋に架けかえられました。
13連の石橋は十三連眼鏡橋として観光名所にもなりましたが、明治24年に再び崩壊。
明治30年に木鉄混用のトラス橋として再び架けかえられたのがこの写真の橋です。
トラスの正面上部に「信夫橋」の額が掲げられています。
現在の信夫橋は昭和7年に架けられた4代目となります。

この古写真の信夫橋の撮影時期は、明治30年代から明治末期ごろでしょうか。

古写真・明治30年代撮影の宮津市街と天橋立

明治の宮津007
絵葉書サイズの大きさの宮津・天橋立の古写真です。
台紙の裏に「明治三十○年」の印刷があり、この写真が撮影されたのが明治30年代と分かります。
宮津湾の奥に写る細長いのが天橋立。奥の高い山が成相寺のある山です。
天橋立の左端辺りが途切れていて、現在はここに旋回橋が架かってますが、
旋回橋が架けられたのは大正12年で、この時期には橋は架けられていませんでした。
手前の街並みは宮津市街地。市役所などがある宮津市の中心地です。
写真やや中央に湾に四角く突き出すような感じの場所があります。
このあたりはかつて宮津城のあった場所で、幕末には台場も作られました。
現在宮津城は完全に埋め立てられ、台場も同じように埋められたと思われます。
湾に突き出した場所は古地図では宮津台場のあった場所。
この写真に写る突き出た場所は宮津台場の跡がまだなんとか残されている状態で撮影されたものでしょうか。
そうだとすると、かつての宮津台場の形がかろうじて分かる古写真ということになります。
宮津市街全景
こちらは大正から昭和初期頃撮影の宮津市街です。上の写真とは反対側からの撮影になります。
明治30年代の写真と比べてかなり建物が増えてます。

関連記事・古絵葉書 宮津全景

古写真・大阪 川口居留地

川口居留地004
居留地とは幕末の開国以降、政府が外国人が生活する場所を指定した区域で、
居留地では洋風建築が建ち並び、外国の文化や風俗が行き交うまさに文明開化の象徴といえる場所でした。
特に幕末から明治初期にかけてはこれまで外国の文化に触れる機会がほとんどなかった日本人にとって
唯一外国の文化を感じられる場所でもありました。
居留地は横浜・神戸・長崎が有名ですが、大阪にも居留地がありました。
現在の大阪市西区川口一帯に設けられた居留地で、川口居留地と呼ばれています。
川口居留地の始まりは慶応4年の開港に始まり、洋風の建物の建築や街路・街路樹・街灯の整備が行われ
洋風の街並みが誕生しました。川口居留地はまさに大阪の文明開化の象徴となり、
大阪の近代化に大きな影響を与えました。
川口居留地は明治32年に廃止され、現在は居留地時代の洋館は残っておらず、
「川口居留地跡」と刻まれた記念碑がひっそりと立っているのみで当時の面影は失われましたが、
その後に建てられた戦前の教会建築等が残されています。

この古写真には、居留地時代の洋館が写されています。
明治初期の居留地等によく建てられた典型的なコロニアル様式の洋館です。
街路は綺麗に整備され、街路樹も植えられてます。
撮影時期の詳細な時期は分かりませんが、「大阪居留地」というタイトルと
街路樹がそんなに大きくないことから、明治10年代から20年代までの撮影でしょうか。

大阪くらしの今昔館という施設に、川口居留地の復元模型が展示されています。
※大阪くらしの今昔館公式サイト
この古写真に写る洋館も有るかと思います。

※関連記事
古写真・長崎居留地
古写真・明治20年代の神戸港(神戸濱手市中)
古写真・川口電信局
古写真・神戸外国人居留地

古写真・大阪偕行社

大阪偕行社005
偕行社とは陸軍将校の親睦倶楽部のことで、各師団司令部内に置かれました。
この古写真は大阪の陸軍第四師団に存在した偕行社です。
第四師団の設立は明治4年の大阪鎮台を前身とし、明治21年に第四師団と改変されました。
この大阪偕行社の建物は典型的な明治中期の洋風建築で、師団設立の時期に建てられたものと思われます。
また、大阪偕行社は付属の小学校を有しており、陸軍幼年学校を目指す子弟や政財界の上流階級の子供が
通う名門小学校でした。
大阪偕行社の建物は昭和20年の空襲で焼失。付属小学校は追手門学院小学校として受け継がれています。

※関連記事
古絵葉書・第六師団 熊本偕行社

古写真・東京医学校本館

東京医学校002
東京医学校は現在の東京大学医学部の前身で、幕末に旧幕府が設立し明治政府が接収した
医学所が始まりです。
中央に時計塔を乗せた擬洋風建築のこの本館は明治9年に建てられたもので、
明治の文明開化を象徴する建物ですが、奇跡的にも関東大震災にも空襲にも被害を受けず、
現在も重要文化財に指定され小石川植物園内に保存されています。

古写真・大阪ホテル(明治後期ごろ撮影?)

大阪ホテル013
かつて中之島に大阪ホテルというホテルがありました。
大阪ホテルの前身は明治14年に開業した自由亭。
それを明治32年に大阪倶楽部が買収し大阪クラブホテルとなりました。
しかし、明治34年に火災で焼失。明治35年に新たに設立された大阪ホテル株式会社により
大阪ホテルが作られました。
その後経営者の変化や合併などありましたが、大正13年にホテルが焼失。

この写真は、明治35年に建てられた大阪ホテルと思われます。
奥に洋館部分が建ち、手前に和館部分が接続されています。

古写真・大日本帝国 金剛艦

金剛007
明治10年に完成したコルベット艦の初代金剛です。この金剛は明治43年に解体されましたが、
金剛の名前は2代目の戦艦金剛・海上自衛隊イージス艦のこんごうに受け継がれました。
ちなみに金剛は、初代も2代目もイギリス生まれです。
初代 金剛
こちらは以前紹介しました同じ初代金剛です。
1枚目の金剛と違い船体が黒く目立つ1本煙突があります。
(1枚目のは真ん中のマストに隠れているのかもしれませんが)
もしかしたら、1枚目の金剛は改装された後に撮影されたのかもしれません。
(ただ、改装を受けたという記録はわからないです。)
比叡210
こちらは初代比叡。金剛型の2番艦として同じイギリスで生まれました。
2代目の戦艦比叡も同じく2代目金剛の姉妹艦ですね。

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古写真・明治初期頃の神戸港と市街

神戸006
明治初期頃の撮影と思われる神戸の街並みと港の鶏卵紙写真です。
奥の方にうっすらと港らしき風景が写っています。
手前には瓦屋根の長屋風の建物や民家が写っており、
江戸時代の風景がまだ残されています。
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