category  [明治期の古写真 ]

古写真・大阪裁判所(初代)

初代大阪裁判所001
初代の大阪裁判所は明治23年に現在の大阪市北区西天満の鍋島藩・津軽藩の旧蔵屋敷跡に建てられました。
煉瓦造一部3階建ての大きな洋館は大阪控訴院・大阪始審裁判所との合同庁舎で、大阪府庁・造幣局・砲兵工廠などとともに明治の大阪を象徴する建物でした。
しかし、この初代裁判所は明治29年に焼失。明治33年跡地に再び赤煉瓦の裁判所庁舎が建てられますが、明治42年に再び焼失。
大正5年に跡地建てられた3代目の庁舎は、昭和44年まで使用され続けました。
この古写真は初代大阪裁判所を撮影したもので、明治23年から明治29年までの6年間の間に撮影されたものになります。
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古写真・大阪 中之島公園 自由亭ホテル

大阪中之島・自由亭ホテル
自由亭ホテルは大阪市中之島公園にある大阪市立東洋陶磁美術館の場所に存在した外国人向けの西洋料理兼ホテルでした。
自由亭ホテルの起源は幕末に長崎にて草野丈吉が開業した日本初の西洋料理店「良林亭」とされ、明治元年に大阪市の川口居留地の近くに自由亭ホテルとして西洋料理兼ホテルを開業しました。
この中之島公園の自由亭ホテルは明治14年にその支店として建てられたもので、明治初期に流行したコロニアル様式で建てられています。
ベランダの高欄には「JIUTEI HOTEL」の文字が掲げられており、外国人を対象に営業していたことが分かります。
ホテルの前には人力車と車夫が待機し、客の送迎をしていたのでしょう。
奥に見えるお屋敷は精華楼という料亭で、明治17年に自由亭ホテルに購入されました。
明治28年、自由亭ホテルから改称して大阪ホテルが開業。
大阪ホテル013
これは明治中期から後期頃に撮影された大阪ホテルで、明治29年に自由亭ホテル時代の建物を建て替え、煉瓦造りのホテルとなりました。明治32年、大阪倶楽部に売却され、大阪倶楽部ホテルとなりましたが明治34年に全焼。明治36年に再建されましたが大正13年に再び全焼。大阪倶楽部ホテルは廃業しました。
この古写真は明治初期の自由亭ホテルの姿を撮影した貴重なものと思います。

 古写真・熊本 歩兵第13連隊(明治27年撮影)

熊本歩兵第13連隊001
歩兵第13連隊は明治8年に熊本城の二ノ丸にて編成されました。大正14年にかつて歩兵第23連隊が駐屯していた場所に移転。この古写真は台紙裏に明治27年撮影とありますので、二ノ丸に駐屯していたころの撮影になります。
二ノ丸時代の歩兵第13連隊の遺構は残されていませんが、移転後の駐屯地(現・熊本学園大学)では営門や旧酒保・旧炊事場の建物が残されてます。

古写真・熊本 砲兵第六連隊

熊本砲兵第6大隊001
砲兵第六連隊は明治6年に熊本鎮台隷下の砲兵部隊として熊本城内の備前屋敷跡に設立された第三砲隊を始まりとします。
明治8年に砲兵第六大隊に。明治9年の神風連の乱では砲兵隊の営舎が制圧されました。明治17年に砲兵第六連隊へと改編。明治40年に野砲兵第六連隊へと改称されました。
また明治31年に熊本城内から現在の白川中学校のある熊本市大江に移転しています。
この古写真は明治27年に撮影されたと台紙裏にありますので、熊本城内にあった砲兵第六連隊時代のものです。

古写真・熊本 騎兵第6大隊(山崎練兵場時代・明治27年頃撮影)

熊本騎兵第6大隊001
騎兵第6大隊は明治21年に熊本市山崎町にて編成されました。明治29年に連隊に昇格。連隊旗を拝領。明治34年の山崎練兵場移転とともに現在の開新高等学校の場所に移転し終戦まで駐屯しました。
この古写真は連隊に昇格前の山崎練兵場に駐屯していたころのもので、台紙裏に「明治27年」の書き込みがあります。
写真は騎兵第6大隊の営門前と思われ、奥に3階建てらしき大きな兵舎が見えます。営門前に集まっている軍人はいずれも将校で、サーベルを釣り革長靴を履き、いわゆる肋骨服と呼ばれる将校の軍服を着用しています。時期的に明治19年制定の軍服でしょうか。
熊本騎兵第6大隊002
台紙の裏に写真に関しての書き込みがあります。書き込みには明治27年に旧制第五高等学校医学部(現・熊本大学医学部)の卒業記念に購入したとあります。明治のナンバースクールの医学部学生ということは相当なエリートだったことでしょう。

古写真・東京府第一勧工場

東京府第一勧工場001
明治10年に上野で開催された第1回内国勧業博覧会は西南戦争やコレラの流行で入場者数が振るわず成功とはいえない結果に終わりましたが、以降の博覧会の原型となる重要な役割を果たしました。
博覧会閉会後、展示された出品物の売れ残りは出品者に返還されましたが出品者の希望によりそのまま販売を継続することが決まり、翌年新たに販売場所を設けて展示販売されました。これが勧工場で、東京麹町辰ノ口にあった旧幕府の伝奏屋敷の建物が利用されました。この古写真は最初に開設された東京府第一勧工場で、奥に写るのが旧伝奏屋敷の建物です。門は新築されたようで、門柱に「東京府第一勧工場」の看板が掲げられています。
東京府第一勧工場002
門のアップ。右側に「東京府第一勧工場」左側に「〇(判読不明)覧人入口門」と書かれた看板が掲げられています。
明治13年に勧工場は民営化。勧工場は人気を博し、その後東京内でもいくつも民営の勧工場が設立され、さらに全国にも広がりました。
しかし、乱立する勧工場は品質の悪い品物も置くものも増え、勧工場へのイメージが低下。大正期には新たに登場し品質の高い品物を扱う百貨店へと人気が移り、勧工場は急速に姿を消していきました。
この古写真は東京府の文字が看板にありますので民営化される前の明治11年から明治12年にかけての間の撮影となります。
旧伝奏屋敷を利用した第一勧工場の跡地は現在、大正9年に完成し国指定登録文化財に指定されている日本工業倶楽部会館が建っています。

古写真・熊本 第6師団司令部(明治27年・2代目庁舎)

熊本第6師団司令部001
明治5年に熊本城下の旧藩主邸に置かれた熊本鎮台は明治21年に第6師団司令部再編成され、熊本・大分・宮崎・鹿児島の南九州地方の部隊を管轄しました。
熊本鎮台司令部は明治8年に熊本城大天守内に移転しますが西南戦争により大・小天守が焼失。一時現存の宇土櫓に司令部が移転した後、天守台の東側に鎮台司令部の庁舎が新築されました。
明治25年、第6師団と改称後も司令部庁舎として使用されていた旧鎮台司令部庁舎が焼失。明治25年に新たに庁舎が新築されました。
熊本第6師団司令部002
古写真の台紙裏の書き込み。「明治二十七年十一月二十八日第五高等学校医学部生徒修学施日之際購求之」とあり、旧制第五高等学校医学部(現・熊本大学医学部)卒業記念に購入したという内容ですが、購入時が明治27年なので、この第6師団司令部庁舎の古写真は明治25年に新築された2代目庁舎であることが分かります。庁舎は明治期らしい擬洋風建築のデザインをした建物です。
熊本第6師団兵営003
熊本第6師団の遠景写真。師団司令部庁舎の古写真と同じ台紙裏の書き込みがこの古写真の台紙裏にもあり、五高医学部を卒業した同じ人が購入したものです。(旧制五高医学部卒は相当なエリートですね。)
2代目の第6師団司令部庁舎は大正6年に2階建ての新庁舎に建て替えられ、戦後しばらくは学校の校舎や博物館に転用されましたが、昭和35年の大・小天守の再建の際に取り壊されました。

古写真・大阪 眺望閣

大阪 眺望閣
現在の大阪市浪速区日本橋の日本橋幼稚園辺りにかつて5階建ての高層建築がありました。眺望閣と呼ばれたこの古写真の建物は明治21年に完成し、有宝地と呼ばれた遊園地の中にありました。
高層建築と言えばお城か寺院の五重塔くらいしかなく登ることもできなかった明治中期においてこういった観光施設としての高層建築は珍しく、多くの人々が見物に押し寄せました。
この眺望閣に触発されたのか翌年の明治22年、現在の大阪市北区茶屋町に眺望閣より10m高い9階建ての建物が完成。凌雲閣と名付けられた建物は「ミナミの五階」と呼ばれた眺望閣に対して「ミナミの九階」と呼ばれそれぞれミナミとキタのシンボルとなりました。
明治23年、東京浅草に煉瓦造りの12階建ての高層建築が建てられました。それがキタの九階と同じ名前の「凌雲閣」です。
さらに眺望閣がある同じミナミに明治45年、パリのエッフェル塔を模した鉄骨の高層建築が完成。それが初代通天閣です。
明治中期は観光としての高層建築ブームに沸いた時代でしたが、眺望閣はわずか16年後の明治37年に取り壊され、浅草凌雲閣は大正12年の関東大震災で崩壊し大阪の凌雲閣も昭和初期に取り壊されました。
現在、日本橋商店街にある五階百貨店がかつて存在したミナミの五階・眺望閣の名残を今に伝えています。

古写真・日進艦(初代・スループ)

日進(初代)001
初代の日進は慶応3年に佐賀藩によりオランダへ発注されたスループです。明治2年に完成。明治3年に長崎へと到着しましたがすでに政権は徳川幕府から明治新政府へと移行していたため日進はそのまま明治政府が引き継ぎ海軍籍に入りました。
日進は日本海軍黎明期の軍艦の中でも藩政時代から引き継いだ最初期の艦で、明治初期の日本海軍の軍艦として台湾出兵や西南戦争に参戦しました。また明治8年の樺太・千島交換条約の締結では開拓使長官の黒田清隆を乗せてカムチャッカへと派遣されています。
明治25年に除籍され売却されたため、日清戦争には参戦していません。
初代日進の画像は明治初期の艦のためか多くはなく、ネット検索では絵画のものが出てくる程度です。
なのでこの日進の古写真は珍しいものではありますが新資料ではなく同じアングルの写真はすでに知られているようです。

古写真・山梨県庁(初代)

山梨県庁001
明治10年に完成した初代の山梨県庁はいわゆる「藤村式」と呼ばれる擬洋風建築でした。
中央の正面ファザードから左右に翼を張り出したシンメトリーな擬洋風のデザインはまさに明治初期の官庁建築の典型で、中央屋根の三角破風には菊の御紋章が左右翼部の屋根には山梨県の「山」の字が入っています。
この初代山梨県庁は現存する昭和5年築の2代目県庁舎の新築により建て替えられたと思われますが、かつての初代山梨県庁舎を思い起こさせる建物が2棟、愛知県の明治村に移築されています。
P1020546.jpg
旧東山梨郡役所。明治18年完成の藤村式擬洋風建築。
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旧三重県庁舎。明治12年完成。古写真の初代山梨県庁舎と非常によく似た形で、明治初期の擬洋風建築の官庁建築はデザインはもちろんプランも一定のテンプレート的なものがあったのかもしれません。

古写真・山梨県師範学校

山梨県師範学校002
山梨県師範学校は江戸時代に設立した藩校、「徽典館」を始まりとします。
明治6年に開智学校と改称。さらに明治8年に山梨県師範学校となりました。
明治16年に校舎が焼失。藩校時代以来の貴重な典籍を焼失しましたが、翌年の明治17年に新校舎が完成。
それがこの古写真の左奥に写る建物で、いわゆる山梨県内において明治初期に多く建てられた「藤村式」と呼ばれる擬洋風建築でした。
明治43年、校舎移転によりこの建物は取り壊されたと思われます。
明治17年築の山梨県師範学校の校舎は甲府市錦町、現在の中央公園にあり、擬洋風建築3階建ての校舎は目を引いたことと思います。

古写真・神戸外国人居留地

神戸居留地001
神戸居留地は幕末の開港による安政五カ国条約により、慶応3年(1868)から明治32年(1899)まで存在した外国人居留地です。
計画的な都市設計により造られた街並みは当時としては珍しい西洋館が建ち並び、下水道完備・街灯や街路樹の設置など、これまでの日本には見られない近代的な街並みでした。
当初は日本人の立ち入りが禁止されていましたが、徐々に解禁され神戸や関西での近代化・文明開化に大きく影響を与えました。
明治32年に神戸外国人居留地は日本へ返還され神戸市に編入。旧居留地はビジネス街として大いに発展。現在も戦前の銀行建築や商社ビルの建築が多く残りかつての繁栄を物語ってます。
古写真は外国人居留地時代に撮影されたもので、当時各地の居留地で多く見られたコロニアル様式の洋館が建ち並んでいます。中央の半円の看板を掲げた建物は商店でしょうか。建物の前には人力車が置かれ、文明開化真っ只中の雰囲気が現れています。
現在、居留地時代の建物はほとんど失われ、唯一、旧神戸居留地十五番館が現存し重要文化財に指定されています。

※関連記事
古写真・大阪 川口居留地
古写真・長崎居留地
古写真・明治20年代?の神戸港(神戸濱手市中)

古写真・海軍将校生徒学習船 東京丸(海軍兵学校仮校舎)

東京丸001
旧日本海軍の士官学校である海軍兵学校は当初東京築地にありました。明治19年、呉鎮守府に近い広島県の江田島へ移転が決定。現在も海上自衛隊の幹部候補生学校として使用されている赤煉瓦の校舎の建設が始まりました。
海軍兵学校が東京から移転を開始したのは移転決定から2年後の明治21年。現在も残る赤煉瓦校舎が完成したのが明治26年。
移転から校舎完成までの5年間はこの古写真に写る東京丸という船が仮校舎として使用されました。
東京丸は元々1864年、日本では幕末の元治元年にアメリカで建造された木造船ニューヨーク号で、明治7年に台湾出兵の際に日本政府が購入し東京丸と名付けられました。明治8年に郵便汽船三菱会社に払い下げられ、明治18年に日本郵船に移籍。明治20年に日本海軍に売却されました。そして翌年より海軍兵学校の仮校舎として使用されたわけですが、建造から24年経った木造船は恐らく老朽化が目立ちしかも係留された船の上の生活は東京生活に慣れた生徒たちには過酷なものだったのかもしれません。
明治26年、ようやく赤煉瓦の校舎が完成すると海軍兵学校は東京丸から移転。役目を終えた東京丸は民間に払い下げられ恐らくそのまま解体されたと思われます。
この古写真の台紙には「海軍将校生徒学習船」の筆書きがあり、海軍兵学校仮校舎として使用された明治21年から明治26年の間の撮影となります。わずか5年の間ですがこの古い木造船は日本海軍の将校たちを育成した日本海軍史に残る記念すべき船となりました。

古写真・東海鎮守府(後の横須賀鎮守府)

東海鎮守府001
明治9年、近隣の港を管轄する海軍の機関として鎮守府の設置が決定。東日本は横須賀に東海鎮守府を西日本には長崎に西海鎮守府が置かれることが決定しましたが、実際に置かれたのは東海鎮守府で横浜に開庁しました。これが後の横須賀鎮守府です。
東海鎮守府は現在の横浜市中区北仲通6丁目にあり、かつて存在した灯台局の隣のドイツ領事館跡に設置されました。
明治17年に東海鎮守府は横須賀に移転し横須賀鎮守府が誕生しました。
古写真は横浜の東海鎮守府の表門を撮影したもので撮影期間は明治9年から明治17年まで。ナマコ壁の土蔵のような塀と門衛所らしき建物、伝統的な冠木門に「東海鎮守府」の看板と明治の文明開化らしいランプの街灯が掲げられています。
築地海軍省002
明治の公的機関でありながら伝統的な日本建築のナマコ壁が使われており既存の江戸時代からの建物を利用したようにも見えますが、明治初期はこの築地にあった初代海軍省のように洋風を目指した新築の建物でありながら外壁はナマコ壁といった「擬洋風建築」がまだまだ主流で当時の建築家や大工が従来の日本建築の技術をもとに洋館を見よう見まねで作った結果なのですが、この東海鎮守府もそういったものなのかもしれません。もしくは旧ドイツ総領事館の建物を再利用した可能性もあります。
日本最初の鎮守府は横浜で生まれ移転先の横須賀にて大きく成長するわけですが、この古写真は築地海軍本省と並び日本海軍草創期を物語る1枚です。

古写真・愛知県尋常中学校

愛知県尋常中学校001
愛知県尋常中学校は尾張藩が明治3年に設立した洋学校を始まりとする学校で、明治19年の中学校令により愛知県尋常中学校と改称しました。当初は名古屋市中区にありましたが、その後改称しながら明治41年に東区に移転。さらに現在の愛知県立旭丘高校の場所に移転しました。戦後の昭和23年、女子高の名古屋市立第三高等学校と統合。現在の愛知県立旭丘高校となりました。
この写真は東区へと移転する前の愛知県尋常中学校時代のもので、明治前期らしい擬洋風建築の校舎が写されています。
愛知県尋常中学校002
台紙の裏の筆書き。「愛知県尋常中学校正面之景」「明治二十七年十一月十八日求」とあります。
明治27年11月18日に入手したか貰ったということなので、撮影はそれ以前の近いころだったのでしょう。

古写真・六郷川鉄橋

六郷鉄橋001
明治5年に開通した日本初の鉄道路線の新橋横浜間は開通当初の橋梁は木製トラスでした。これは当時製鉄産業が未発達の日本において鋼材などは外国からの輸入に頼っており、鉄道橋もイギリスからの輸入を予定されていましたが、それでは間に合わず当面の措置として木造の橋梁が造られました。当然耐久性に難があり、鉄道開通から5年後の明治10年、東海道線の複線化に伴い木造だった六郷川橋梁も複線鉄橋に架け替えられました。
六郷川鉄橋は明治8年にイギリス・リバプールのハミルトンズ・ウインザー・アイアンワークス社で製作され日本に輸入された鉄橋で、錬鉄製のポニー・ワーレントラス構造でした。
明治45年、東海道線の複々線化に伴い撤去され単線用に改造。大正4年に御殿場線の酒匂川を渡る鉄橋として転用されました。
昭和40年、御殿場線での役割も終え撤去された六郷川鉄橋は日本最初期の貴重な鉄道鉄橋として博物館明治村に移築保存され、鉄道記念物に指定されています。
この古写真は多摩川に架かっていた東海道線時代の六郷川鉄橋で、明治中期から後期頃の撮影と思われます。

古写真・大阪鎮台砲兵営所(明治前期撮影)

大阪鎮台砲兵営所002
「大阪鎮台砲兵営所」の筆書きがある古写真です。分かり難いですが奥に見える長大な建物が砲兵営所です。
大阪鎮台は明治4年に設立し砲兵隊は明治5年頃設立。後に砲兵第四連隊となり明治21年に大阪鎮台が第4師団に改編された際にそのまま第4師団隷下の部隊となりました。
砲兵営所は現在の大阪歴史博物館とNHK大阪放送局の位置にあったようです。
砲兵第四大隊
以前記事にした大阪砲兵第四大隊の古写真。この古写真に写る土蔵のようなナマコ壁の建物が1枚目の大阪鎮台砲兵営所の建物と同じものと思われます。

※関連記事
古写真・砲兵第四大隊(明治10年代頃撮影)

古写真・大坂城内士官室(大阪鎮台)明治前期撮影。

大阪鎮台士官室001
大阪城に陸軍の鎮台が置かれたのは明治4年。初期の頃は大阪鎮台本営の他に歩兵営・砲兵営・鎮台病院・陸軍監獄などがありました。明治21年、大阪鎮台は第4師団に改編。この古写真は「大坂城内士官室」の筆書きがありますが、明治21年までの大阪鎮台時代の撮影と思われます。大阪城の石垣上に建つ洋館が士官室と称される建物のようで、後の陸軍将校倶楽部の偕行社か将校集会所に当たる施設と思われます。
士官室の左手にある土蔵は元々大坂城時代からの物だったものか鎮台創設時に新たに建てられたものか不明です。
士官室があった城内の具体的な場所ははっきり特定できませんでしたが、撮影距離的に本丸にあったものと思われます。

古写真・大津トンネル(逢坂山トンネル)

逢坂山隧道001
「大津トンネル」のキャプションがありますが、明治初期に建設された逢坂山トンネルかと思われます。
逢坂山トンネルは大津~京都間を繋ぐ東海道線のために掘削された鉄道トンネルで、明治11年に完成しました。
逢坂山トンネルは当時は主流だったお雇い外国人技師の力を借りず全て日本人の手により工事が行われました。
明治31年には複線化により上り線のトンネルが完成。以後、明治期を通じて東海道線のトンネルとして使用されましたが、
大正10年に新線の新逢坂山トンネルが完成すると旧逢坂山トンネルは役目を終えました。
戦時中は地下工場として航空機の部品工場として稼働していましたが、戦後の名神高速道路建設により西口が埋め立てられ消滅しましたが、東口は現存し、貴重な明治初期の鉄道土木遺産・近代化遺産として鉄道記念物及び近代化産業遺産に指定され保存されています。
この古写真の逢坂山トンネルは現存する東口か消滅した西口か分かりませんが、明治31年に完成した複線の上りトンネルが写っていないように見えるので、複線化以前の撮影かと思われます。

古写真・海軍省(築地時代初代庁舎)

築地海軍省002
海軍省と言えば通称「赤煉瓦」と呼ばれた霞が関にあったジョサイア・コンドル設計の庁舎が有名ですが、赤煉瓦の庁舎は2代目で、初代庁舎は築地にありました。「東京海軍省」とキャプションのあるこの古写真は築地時代の初代海軍省庁舎です。
初代海軍省は明治5年に築地の旧尾張藩邸に設立され、旧藩邸庭園の築山に旗を立てたことから、旗山と呼ばれていました。
当時は海軍本省と呼ばれ、築地一帯はこの海軍省や後の海軍兵学校となる海軍兵学寮など海軍関連の施設が建ち並んでいました。
初代海軍省001
以前紹介した初代海軍省庁舎の横からのアングル。明治4年に完成した海軍省初代庁舎は中央屋根に塔屋を持ちファザードにはバルコニーを持つ玄関が設けられた擬洋風建築ですが、全体の壁は伝統的なナマコ壁で日本瓦を葺くなどまるで土蔵のような外観です。それでも当時はモダンに見えたのか新たな東京の名所として錦絵に多く描かれました。
海軍省初代庁舎は明治17年ごろに取り壊され、明治28年に2代目の赤煉瓦の庁舎が竣工しました。
この古写真は明治4年から明治17年までの撮影となります。

※関連記事 古写真・海軍省(築地時代の初代庁舎) ※側面からの遠景写真

古写真・川口波止場

川口波止場001
大阪市西区川口地区にはかつて外国人居留地が存在しました。川口居留地と呼ばれる外国人街で明治元年に完成。それに先行する形で慶応4年に作られたのが川口波止場でした。
川口波止場は大阪の玄関口として安治川に開港された河川港で大阪に初めて作られた港であり、当時大阪港と言えば川口波止場を指しました。
黒船来航による日本の開国以来日本各地で開港されていきましたが、この川口波止場もその一つであり、現在「大阪開港の地」と刻まれた記念碑が建てられています。
川口波止場003
古写真の右上には「川口波戸 安治川ノ南岸ニ在リテ此所汽船発着ノ地ニシテ頗ル繁賑セリ」とキャプションがあり、写真には汽船が縦に並んで停泊している様子から大阪の玄関口としてかなりにぎわっていた様子がうかがえます。
大阪港の発祥となった川口波止場ですが、河川に作られた港であったことから次第に大型化する船舶の受け入れに支障をきたすようになり、明治30年頃から海に向かって新たな築港工事が開始。大阪港としての機能が海側に移ったことにより川口波止場は役割を終え衰退しました。
川口居留地004
以前紹介した川口居留地の古写真。
川口居留地は明治32年に廃止されたものの、街としての機能は衰退することなく発展し大正期まで大阪の中心であり続けました。
現在、川口波止場や川口居留地の面影は失われ、記念碑だけが残されています。

※関連記事 古写真・大阪 川口居留地

古写真・甲鉄艦 扶桑艦

扶桑艦001
扶桑艦は創立間もない日本海軍がイギリスに発注した軍艦であり日本海軍の草創期を支えた軍艦の1つで、これまでに配備された木造船に鉄板を張った艦とは違い、日本海軍が初めて所有した全金属製の船体を持つ近代的な軍艦でした。
扶桑艦は明治8年にイギリスにて建造され明治11年に竣工。日本海軍に引き渡され日本海軍草創期の主力艦として位置しました。
明治26年には近代化改装を受け日清戦争にも従軍しましたが、そのころにはすでに旧式でありあまり活躍しなかったようです。
明治30年には巡洋艦「松島」と衝突事故を起こし沈没しましたが、引き上げられ翌年には復帰。
しかし、老朽化には勝てず明治41年に除籍しました。
扶桑艦002
古写真の台紙裏の書き込み。この写真は横須賀港に停泊中の扶桑艦を撮影したもののようです。
日清戦争及び黄海海戦の記載はあるものの、日露戦争の記載はないので、日清戦争後で日露戦争開戦前に撮影された写真だとわかります。

古写真・御召艦 迅鯨か

迅鯨艦001
台紙裏に「ジウンケイカン」と書かれ、明治初期の日本海軍艦艇に該当する艦名の軍艦に迅鯨「ジンゲイ」しか近い名前が当てはまらないこと、写真に外輪が写っていることから迅鯨と判断しました。
迅鯨は明治6年に横須賀造船所にて起工し明治14年竣工。8年もかけて建造されたこの艦は御召艦として建造されただけのことはありかなり豪華な内装だったと言われています。
しかし、外輪船という時代遅れさもあり明治19年には水雷練習艦として転用されました。
そして明治42年に除籍されました。
迅鯨艦003
台紙の裏には「ジウンケイカン」の文字があり、該当する艦は迅鯨艦かと思われます。
迅鯨艦について調べますと、真横から撮影した写真はいくつかありましたが、斜め前から撮影したアングルはこの写真くらいでした。

古写真・コルベット 筑波艦

筑波艦001
筑波艦は元イギリス海軍所属の「マラッカ」として1854年に竣工した木造コルベットの軍艦であり、日本海軍の草創期を支えた軍艦の1つです。
1854年は日本でいえば幕末の嘉永6年。ペリーが浦賀に黒船を率いて現れた年です。
日本ではまだまだ江戸幕府の体制の中、英領ビルマ警備のために建造されたこの艦は明治3年に設立したばかりの日本海軍が購入。当時はまだ陸・海軍省は無く、その前身である兵部省でした。明治8年からは海軍兵学寮の練習艦として使用されました。
明治27年の日清戦争時にはすでに老朽化しており軍港警備に使用。そして明治38年に除籍されました。
筑波艦003
写真の台紙には「ツクバカン」と書かれています。
明治20年までは軍艦名の後ろには正式には「艦」が付きました。
この筑波艦の写真は日本海軍黎明期を物語る軍艦として貴重かと思われます。
なお、筑波艦の古写真は帆を張った写真は知られてますが、帆を畳んだ写真は見かけないように思われます。

古写真・篠ノ井警察署(明治後期頃撮影か)

篠ノ井警察署001
名刺大の鶏卵紙にプリントされた篠ノ井警察署の古写真です。
篠ノ井警察署は長野市篠ノ井にあった警察署で、昭和47年に松代警察署と統合して現在の長野南警察署となりました。
古写真を見ると、いかにも明治期らしいファザードにベランダを持つ木造の擬洋風建築にも見える洋館です。
篠ノ井警察署002
台紙裏には「篠ノ井警察署写真」と書かれています。
かつての篠ノ井警察署については詳細は分かりませんでしたが、現在同じ篠ノ井に移築されている明治26年築の旧池田警察署と同時期頃の建設ではないかと思われます。

古写真・大阪府立商品陳列所

大阪商品陳列所006
大阪府立商品陳列所は明治23年に堂島川沿いに建てられた日本初の商品陳列所でした。
ルネッサンス様式の洋館は堂島川に良く映えていたと思われますが、明治42年の大火にて大半を焼失。
仮事務所にて再開した後、大正6年の移転により初代大阪府立商品陳列所は幕を閉じました。
この写真は大火により焼失する前の明治後期頃の撮影と思われます。

古写真・東京 愛宕山 愛宕館 愛宕塔

愛宕山 愛宕館001
現在NHKのある愛宕山にはかつて愛宕館と愛宕塔という洋館が建っていました。
愛宕館と愛宕塔は明治22年の建築で、愛宕館は伊藤為吉の設計。愛宕塔は平野勇造の設計と言われています。
愛宕館はホテル兼西洋料理店で、5階建ての愛宕塔は内部は物品販売所となっており、
最上階は展望室で望遠鏡も備えてあったそうです。
明治前期より東京の観光名所として人気を集めていた愛宕館と愛宕塔ですが、
大正12年9月1日に発生した関東大震災によって倒壊、焼失しました。
参考サイト

古写真・濃尾地震で倒壊した長良川鉄橋

濃尾地震で倒壊した長良川鉄橋001
濃尾地震の被害により倒壊した長良川鉄橋です。
長良川鉄橋はお雇い外国人ポナールの設計により、明治21年に完成した
当時国内最大級の鉄橋でしたが、わずか3年後に濃尾地震で倒壊。
この写真は明治24年の濃尾地震により倒壊した長良川鉄橋を撮影したものです。
倒壊した長良川鉄橋を撮影した写真はいくつか残されており、この写真はそのうちの1枚で、
様子を見に来たのか和装の男性2人と洋装で帽子とコウモリ傘を持った男性が
倒壊した鉄橋を眺めています。
この鉄橋の橋脚は鋳鉄製の鉄管橋脚でしたが、揺れによる強度不足なのか橋脚が折れ橋が落下。
そのあと煉瓦製の橋脚に変更されています。
濃尾地震は明治24年10月28に発生した巨大地震で、岐阜・愛知を中心に多大な被害を与えました。
死者7273人負傷者17175人家屋全壊142177棟を数える大被害で、名古屋城も大きな被害を受けました。
濃尾地震の与えた影響は被災地以外でも広まり、特に当時としては近代的な建物であった煉瓦造の洋館も
多く倒壊したため、当初3階建ての予定だった帝国京都博物館(現・京都国立博物館本館)の建物を
平屋建てに改めたほどでした。

古写真・京都舎密局

京都舎密局001
舎密局とは、明治初期に科学技術の研究や教育を目的として設立された公的機関で、
大阪と京都にありました。
この古写真の京都舎密局は明治3年に京都府によって設立されたもので、石鹸やガラスなどの工業製品の
製造・研究を行いました。京都舎密局には後に島津製作所を設立する島津源蔵も在籍していました。
京都舎密局は明治14年に勧業事業政策転換により廃止。その後は設立者の明石博高に払い下げられ
そのまま経営されましたが、明治17年には譲渡され京都倶楽部として使用された後
いづれかの時に建物は失われました。
この古写真は「西京名所風景」と書かれた古写真の38枚セットのうちの1つで、
台紙に「京都舎密局」と書かれていることから、明治3年から14年までに撮影されたものであるとわかります。
京都が東京に対して西の京「西京」と呼ばれていた時代のことです。

古写真・海軍省(築地時代の初代庁舎)

初代海軍省001
海軍省と言えば霞が関の赤煉瓦庁舎が有名ですが、霞が関のほうは2代目でそれまでは築地にありました。
海軍省は明治4年に築地の旧尾張藩邸に設立され、旧藩邸庭園の築山に旗を立てたことから、
旗山と呼ばれていました。
当時は海軍本省と呼ばれ、築地一帯はこの海軍省や後の海軍兵学校となる海軍兵学寮など
海軍関連の施設が建ち並んでいました。
海軍省は明治28年、霞が関にジョサイア・コンドル設計の赤煉瓦の庁舎が完成したことにより
築地から移転しました。
この古写真は築地時代の初代庁舎の写真で、擬洋風の庁舎が右側面から撮影されています。
明治初期、洋風の海軍省庁舎は珍しかったのか、錦絵にも多く描かれています。
築地の初代海軍省庁舎は明治17年頃に取り壊されました。この古写真の撮影は竣工した明治4年から取り壊された明治17年までの間の撮影となります。

※関連記事 古写真・海軍省(築地時代初代庁舎)  ※正面からのアップ写真
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