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 2006年03月 

古絵葉書・震災紀念館及紀念塔

丹後震災記念館

昭和2年3月7日、丹後地方を襲ったマグニチュード7.3の
大地震は、死者2925人を出す大災害となりました。
そのときの震災の物凄さは、天然記念物として保存されている
郷村断層により伺うことが出来ますが、その震災の悲惨さと教訓を後世に伝えるため
昭和5年に建設されたのが、この丹後震災記念館です。
現在も同じ場所に現存しており、平成16年に京都府指定文化財に指定されました。
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古絵葉書・宝塚新温泉場内休憩室

宝塚新温泉場

純然たる洋風の中々オシャレな休憩室です。
アーチも並べられた椅子もシャンデリアも良い感じですね。
戦前はどこの温泉もこんな感じの洋風の浴場がありました。

古絵葉書・(軍艦敷島)一等戦闘艦

戦艦敷島

明治33年にイギリステームズ社にて竣工した戦艦。
ロシアの脅威が切実になりつつあったころ、海軍が保有する従来の艦艇では、
まだまだ戦力不足であったため、イギリスに発注して作らせた戦艦です。
このとき、同型艦が4隻イギリスの各工場で建造され、現在も横須賀に
保存されている三笠は姉妹艦です。

この敷島型の艦は当時世界最大最新鋭の艦で、イギリスでも保有しておらず、
三笠のときは、イギリスの議員が建造会社に文句を言ったという話があります。
戦艦敷島は日本海海戦に参加し、その後も数々の戦歴を重ね、
なんと、終戦直後の昭和20年11月に解体されるまで生き延びました。

データ
基準排水量・14,850t
全長:133.5m
全幅:23.0m
最大速力:18.0kt

武装
40口径30.5cm連装砲2基
40口径15.2cm単装砲14基
40口径7.6cm単装砲20基
47mm単装機銃12基
45cm魚雷発射管5基

余談ですが、東舞鶴の通りにこの敷島の名前が付けられた通りがあります。
無論、この戦艦敷島を元に付けられたもので、現在も艦影のシルエットつきの
道路標識があります。
敷島通り
東舞鶴は、海軍鎮守府の町として整備されたので、
他にも明治期の艦名の付けられた通りが今でもあります。
こちらを参考にしてください。

古絵葉書・(大東京)終日雑踏の須田町交差点

萬世橋駅

いわゆる萬世橋駅前の写真です。中央から左に伸びている建物が
その萬世橋駅です。車が走り、市電も行きかうにぎやかな様子が
うかがえます。
駅前にひときわ大きくそびえる銅像は、広瀬武夫中佐の像
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古写真・敦賀連隊

敦賀連隊1

福井県敦賀市にあった連隊の駐屯地。私の祖父が仙台陸軍教導学校卒業後に赴任した連隊です。この写真は、その連隊の敷地の外の写真で、石製の柵が囲っていました。
この石製の柵は今でも一部残っているようです。奥には連隊正門も見えます。
わかりづらいですが、右手に看板が架かっている住宅があります。
これは、現在でもある「坂田写真館」で、松の木の奥にある看板には、
「写真 サカタ」と書かれています。
石柵沿いに桜が植えられ、見事な花を咲かせていますね。花見の名所だったかもしれません。
敦賀連隊2

連隊本部の建物。この敦賀連隊の敷地には、第19連隊と第119連隊があり、
第19連隊は明治31年設立。第119連隊は昭和15年設立の部隊でした。
この連隊本部の前にある連隊旗は真新しいものなので、昭和15年設立の第119連隊であると思われます。酒樽が置かれ、祭壇が設けられていることから、もしかすると連隊旗拝受の式典なのかもしれません。
敦賀連隊3

部隊の行進。中央やや左に連隊旗を掲げる旗手がいます。
連隊旗手は若い少尉が勤め、その横に連隊旗を護衛する下士官が付きました。その後ろには馬に乗ったおそらく大隊長とか連隊長といった連隊の幹部たち。そして各中隊が中隊長を先頭に行進しています。

*身内関係の資料ですが、建物や部隊全体の写真なので、北陸地方のカテゴリに入れました。

古絵葉書・呉本通

呉本通

だいぶ状態の悪い絵葉書ですが、広島県呉市の本通の絵葉書で、
手彩色の古い絵葉書です。
左手には、3階建ての擬洋風建築の時計店があり、ローマ字で
店名を記し、建物の上には時計塔がそびえるといった中々洒落た
作りになってます。しかし、右手側の道路の対岸に目をやると、
昔ながらの町家が並ぶ古い町並み。目立つのは時計店ばかりですが、
右手端に自転車が置かれ、時計店側には人力車があり、頭上には
電線が張り巡らされ、町行く人も洋傘をさす人が何人も歩いたりして、
だいぶ近代化が進んでいるようですね。
ちなみに、洋傘はさしてますが雨というわけではなく、当時の流行だったようです。

この絵葉書の年代ですが、中央両脇に石柱が立てられ、そこには、
「明治三十七八年戦役凱旋紀念門之・・・」
と文字が刻まれてますので、日露戦争後の撮影と思われます。
さらには、消印に「明治四十一年」とありますので、
この絵葉書の時代は、それに順ずることといたします。

古絵葉書・(大阪名所)府庁

旧大阪府庁

現在の大阪府庁は大正時代に建てられたもので、
その前の府庁は今とは違う場所に明治7年に建てられました。
この絵葉書はその明治7年の大阪府庁の建物で、
大正15年に現庁舎に移転まで府庁として使用されました。
移転後は、大阪府工業奨励館として再び利用され続けましたが、
大戦中の空襲により、焼失しました。
右端に灯台のような建造物も見えますね。

古絵葉書・山代陸軍療養所

山代陸軍療養所1

石川県加賀市に山代温泉という温泉地がありますが、
そこには、陸軍が所有する兵士の怪我・病気を治癒するための
施設がありました。山代陸軍療養所という陸軍病院なんですが、
軍も温泉の効能に着目して有効に利用してたんですね。
ちょっと知りませんでした。
山代陸軍療養所

療養所病棟の正面玄関。
陸軍も海軍もともに西洋のスタイルを
規範としてますから、当然施設の建物も洋館になるわけです。
そのせいか、いかつい軍の施設とは思えない華麗な洒落た
デザインの建物になっています。
師団司令部の建物なんかも中々オシャレです。
山代陸軍療養所3

療養所病棟の建物。結構規模が大きいですね。
建物の前には広場があるので、リハビリなどに使われたのでしょうか。

古写真・新舞鶴市街地

舞鶴市街

この写真に題字は付いていませんが、当時の東舞鶴の呼び方を
使い、このタイトルにしました。現在の東舞鶴は、城下町として
古くから発展した西舞鶴と違い、それまで漁村だった場所に
海軍の舞鶴鎮守府設立により整備・発展した新しい街です。
現在は、こちらの東舞鶴に市役所などの官公庁や
海上自衛隊の地方総監部、護衛艦の停泊する自衛隊桟橋が集り、
市の中枢となってますね。

この写真には中央に水兵さんが写ってます。道も中々しっかり整備され、
自転車やリアカーも確認できます。
写真には、撮影日時の「昭和九年六月廿八日」の文字が入っています。

ちなみに東舞鶴は、最初から軍港として整備された街ですので、
道路は碁盤の目のようになっており、その通りには、明治期の
戦艦・巡洋艦を初めとした艦艇の名前が付けられています。

付けられている艦名の通りは以下のとおり。

八重山通り・冨士通り・八島通り・敷島通り・朝日通り・初瀬通り
三笠通り・千早通り・吾妻通り・浪速通り・松島通り・橋立通り・厳島通り
磐手通り・出雲通り・千歳通り・宮古通り・曙通り・高砂通り・高千穂通り
比叡通り・筑波通り・明石通り・須磨通り・秋津州通り・千代田通り・八雲通り・葛城通り和泉通り・大和通り・武蔵通り
*通り名の「大和・武蔵」は有名な戦艦大和・武蔵ではなく、明治の初代海防艦のことです。

古絵葉書・富田浜 海浜ホテル震洋館

海浜ホテル

富田浜は、三重県四日市市にある地名です。
そこにかつて存在した戦前のホテル。
一応建物に装飾はありますが、きっちりと決まった様式ではなく、
機能主義の建物にちょっと飾りをつけたような感じに見えます。
絵葉書にはロープウェイのゴンドラが写っており、移動用と
観光客用に設けたものと思いますが、ちょっと乗るには怖い
心もとないものですね。

ちなみに、絵葉書の説明にある「海浜ホテル震洋館」を
検索して調べましたが、見つけることは出来ませんでした。

古絵葉書・上野博物館

上野博物館

現在、東京国立博物館のある場所には、その前身である
上野博物館がありました。明治14年に完成した本館は、
お雇い外国人建築家ジョサイヤ・コンドルによって設計されました。
建物のデザインは、洋風でありながらインド風も織り交ぜた感じの
折衷的な建物で、同じコンドルデザインの鹿鳴館も似たような
デザインをしていました。この本館は、関東大震災で失われていますから、この絵葉書は大正12年までのもの、さらには、写真や絵葉書の感じから明治期に撮影、製作された手彩色ではないかと思われます。
前回に挙げた、陸軍士官学校
のものと彩色の感じやデザインが良く似ておりますので、
元々セットのものだったと思われます。

古絵葉書・陸軍士官学校

陸軍士官学校

明治7年、東京市ヶ谷台に陸軍の将校養成学校である
陸軍士官学校が設立されました。現在市ヶ谷の旧自衛隊跡地に
保存されている陸軍士官学校(戦時中は大本営陸軍部・参謀本部)
の本館は、昭和6年の鉄筋コンクリート製の建物ですが、
それまでは設立当初か設立後すぐくらいに建てられたものと思われます。この絵葉書には、坂の上の台地にいかにも明治期といった
洋風の建物が建てられています。おそらく明治期に撮影され、
手彩色されたものではないかと思われます。

古絵葉書・宇治発電所

宇治発電所

宇治川の流れを利用して、大正2年に完成した発電所で、
煉瓦造の大きな建物です。現在も現役で使用されています。
この絵葉書は、建設途中の写真のようです。

現在の姿はこちら

古絵葉書・有馬、丸山公園より落葉山及灰形山を望む

有馬温泉遠景

有馬の丸山公園というところから有馬温泉の遠景を撮影した絵葉書です。左に洋館が見えますが、おそらく外国人が保養地用としてこの地に建てた別荘と思われます。コロニアル様式の建物で、明治初期などに
外国人、日本人を問わず好んで多く建てられました。

古絵葉書・有馬炭酸温泉場

有馬炭酸温泉場

有馬温泉にかつてあった浴場の建物。前回の有馬ラヂゥーム温泉場でも書きましたが、戦前の温泉場の建物は洋風のものも多くありました。炭酸温泉って、なんかシュワッとしてそうですね。
実は、有馬は炭酸泉で有名で、サイダー発祥の地でもあるのです。

古絵葉書・戦艦 香取

戦艦 香取

明治39年にイギリス・ビッカース社で完成した戦艦。
明治・大正期は大型艦艇は工業先進国のイギリスなどから
輸入していたわけです。ちなみに、日本海海戦で連合艦隊旗艦として
奮闘し、現在横須賀に保存されている「三笠」
ビッカース社製です。
香取は竣工後、御召艦やシベリア出兵など数々の任務に
に参加したあと、大正12年にワシントン軍縮会議に基づき
除籍・廃艦されました。

ところで、この艦や前回紹介した対馬の艦首が、今の艦船と違い
下のほうが出っ張るような造りになってます。
これは、艦首の水線下に角のような大きく突き出した突起物を
つけているためで、これを、「衝角」(ラム)と言いいます。
まだ、大砲の射程が短かったころに艦同士の接近戦で相手の
船体に突っ込んで穴をあけるための武装でした。
大砲の性能が上がり、射程が長くなると、衝角も廃止されました。

データ
基準排水量・15.950t
全長:128.0m
全幅:23.8m
最大速力:18.5kt

武装
45口径30.5㎝連装砲2基
45口径25㎝単装砲4基
45口径15㎝単装砲12基
40口径7.5㎝単装砲16基
47㎜単装砲3基
45㎝魚雷発射管5門

起工・明治37年 竣工・明治39年

古絵葉書 巡洋艦 対馬

巡洋艦 対馬

明治37年に完成した巡洋艦。日露戦争にも参加した艦船です。
当時の艦船は石炭焚きで黒い煙を吐きながら進んだわけです。
昭和14年除籍。昭和19年標的艦として使用され、沈没しました。

データ
基準排水量・3360トン
全長・102.03m
全幅・13.44m
最大速力・20.0kt

武装
40口径15.2cm単装砲6基
40口径7.6cm単装砲10基
47mm単装砲4基

起工・明治33年 竣工・明治37年

古絵葉書・城山より眺望の鹿児島市街と桜島

鹿児島市街と桜島

西郷隆盛が自決したことで有名な城山から鹿児島市街と
桜島を撮った絵葉書。以前紹介した昭和10年代の鹿児島市街の写真と比べると、この絵葉書にも
鹿児島市公会堂と山形屋、南日本銀行の建物が写ってますので、
同じく昭和10年代頃の撮影と思われます。

古絵葉書・有馬ラヂューム温泉場

有馬温泉1

関西で有名な温泉地の一つ、有馬温泉にかつてあった洋風浴場です。
温泉地といえば、今では和風旅館と浴衣という日本的なイメージ
がありますが、明治以降、外国人や欧風化を目指した財界人の
保養地となった各地の温泉地は、外国人に合わせたのと洋風的な
物を目指したため、別荘や浴場はこのような洋風の建物を建てることが
結構ありました。戦前まではその傾向が強かったようですね。
この浴場も地中海風というか、南欧風というか、
そんな感じのデザインをしています。
有馬温泉2

内部の浴室です。当然のことながら洋風のデザインです。
ところで、ラヂュームというのは「ラジウム」のことでしょうが、
今でもラジウム温泉ってありますよね?中々効きそうな温泉です。

この、ラヂューム温泉場は大正4年に駅近くに開業したそうですが、
昭和13年、阪神大水害により、建物は流失したそうです。

古写真・松島での演習

松島での演習

祖父の古いアルバムにあった写真。仙台陸軍教導学校当時のもの。
ただでさえ今にも沈みそうなボロ船なのに、こんなに乗って
よく沈まないものです。某物置もビックリの人数。

古写真・仙台青葉城

仙台青葉城

祖父の古いアルバムにあった写真。伊達政宗公の居城だった城。
祖父が仙台陸軍教導学校時代に撮影した写真。
この櫓と横の大手門は戦前は当時のもので、大手門は旧国宝に
指定されていましたが、空襲で焼失してしまいました。
現在の櫓は戦後の復元で、大手門は礎石のみ残ってます。

古絵葉書・円山公園

円山公園音楽堂

明治19年に開設された、京都で一番古い公園。
その中に昭和2年に完成した音楽堂があります。
現在も現役の音楽堂。ここで数々の催しが行われました。
奥に見える祇園祭の鉾のような建物は「祇園閣」
財閥・大倉喜八郎が建てたものですが、正直あまり趣味のいいものじゃないですね。実際、喜八郎の息子は気味悪がって一切近づかなかったようです。それでもこの建物は国登録文化財に指定されています。

古絵葉書・松ヶ崎浄水場

松ヶ崎浄水場

琵琶湖疏水の疏水分線の水を利用するため、
昭和2年に完成した浄水場です。
この絵葉書の写真は、完成当時のようです。
現在も当時の施設が使われています。

古絵葉書・観月橋

観月橋

京都の伏見区と宇治市をつなぐ鉄筋コンクリートの永久橋。
昭和12年に完成しましたが、交通量の増加もあり、
さらに、この橋の上に昭和49年に新橋が作られ、
新旧の橋ともども現役で活躍しています。 

古絵葉書・参謀本部

参謀本部

明治15年完成の庁舎です。参謀本部は陸軍の作戦立案などをする
陸軍の中枢機関のひとつですが、いかつい軍の施設からは想像できない
華麗な西洋館であるところに、明治の積極的な洋風化を感じますね。
参謀本部は昭和16年に市ヶ谷に移転後も建物は残ってましたが、
空襲で焼失してしまいました。
建物の前にある銅像は、有栖川宮熾仁親王殿下の像。
幕末には東征大総督として、官軍の総大将となっています。
この銅像は現在、有栖川宮記念公園に移されています。

古絵葉書・広島県立商品陳列館(原爆ドーム)

原爆ドーム1

大正時代に建てられた広島県物産陳列館。
その後、商品陳列館→産業奨励館と名を変えましたが、
昭和20年8月6日に運命の日を迎えたあと、「原爆ドーム」と
呼ばれるようになりました。この絵葉書には「商品陳列館」と
記載がありますので、大正末から昭和初期にかけてのものと思われます。
原爆ドーム2

元安橋からの撮影。原爆ドームの周りには写真のように民家が
建て込んでいました。現在は公園になってますが、かつては
このような人々の暮らす町だったわけです。

関連項目・広島県物産陳列館(竣功間もない頃のもの)

古絵葉書・箱根強羅ホテル

箱根強羅ホテル1

箱根強羅ホテルは、昭和13年、土浦亀城設計により建てられました。
一切の装飾を廃したモダンなデザインです
土浦の自邸は現在も残ってますが、このホテルと同じデザインです。
箱根強羅ホテル2

内部写真。中々モダンな部屋です。奥には和室もあります。
クッションの柄はちょっとどうかと・・・
箱根強羅ホテル3

大食堂。こちらもすっきりデザイン。
照明が中々かわいらしいです。

古写真「帝都復興写真帖」・東京府立工藝学校

東京府立工藝学校

縦ラインを強調した建物。

古写真「帝都復興写真帖」・銀座通り

銀座通り

真ん中の建物は銀行のようです。

古写真「帝都復興写真帖」・上野附近

東京上野

まだ低い建物が多数を占めてますね。
しかし、交通量は結構あります。
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