Monthly Archives

 2008年09月 

古写真・セカイ食堂とハドソン社製の自動車(4ドアセダン?)

セカイ食堂
掲げられた看板に「ヱビスビール 食堂セカイ」と書かれていますので、
どこの街にあった店かはわかりませんが、この店はセカイ食堂という
名前だということがわかります。
全体的には和風の店ですが、窓周りなど洋風の意匠が見てとれます。
エビスビールは今でもある「ちょっと贅沢なビール」ですね。
明治23年以来飲まれ続けているロングセラーです。
セカイ食堂の隣にある洋館が気になりますが、この店とは関係がないようです。
自動車部
セカイ食堂の中に「自動車部」があります。
自動車販売とは考えにくいので、恐らく配達か送迎用の車と思われます。
車庫が一寸せまい気が。ぶつけずに入れるのも難しそうですが、
ちゃんと車から降りられるのでしょうか。
横にドアがあるから一応スペースはあるかな。
ハドソン社製の自動車
車庫に入っている車の写真です。
エンブレムなどを調べてみますと、どうやらかつてアメリカにあった
「ハドソン社」の自動車のようです。
ハドソン社のエセックスコーチの写真を見ると、セカイ食堂の車と
同じエンブレムがあるのがわかります。
Wikipediaの記事を見ると、どうやら4ドアセダンタイプのようですが、
車はあまり詳しくないので、正確な車種はわかりません。
しかし、当時は富裕層しか所有できなかった自動車。
それも外車を所有しているこのセカイ食堂。
ただの街の食堂ではなく、それなりに大きな食堂で、
結構儲かっていたのかも知れませんね。
これら写真の撮影時期は、セカイ食堂と横の洋館のデザイン、
ハドソン社の自動車のタイプから、大正から昭和初期あたりだと思われます。


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古写真・明治初期撮影の京都五条大橋

五條大橋
鶏卵紙に印刷された明治初期撮影の京都五条大橋です。
現在の五条大橋は江戸前期の正保2年の擬宝珠がある和風の橋ですが、
明治初期の頃は擬宝珠が取り外されていました。
明治という新しい時代を迎えるにあたって古風な擬宝珠は撤去して
洋風の橋にしようとしたのでしょうが、京都に来られた明治天皇の命により
元に戻されたそうです。
トラス組の欄干とガス灯がまさに文明開化といった雰囲気ですが、
橋脚自体は天正期の石造の古いものです。
五條橋中嶋
これは以前紹介した五条中嶋の古写真。明治初期のもので、
右手に今回紹介した五条大橋、左手に洋風の石橋である
五条小橋が写っています。
*この写真のカテゴリは京都市に含まれるものですが、
明治初期の貴重な古写真ですので、貴重資料に含めました。

古写真・明治初期頃撮影 大阪造幣寮(造幣局)

大阪造幣寮
鶏卵紙に印刷された名刺サイズの大阪造幣寮(造幣局)の写真です。
旧淀川の対岸から撮影された写真は多いのですが、この写真に写る
造幣寮には明治初期完成の本館や泉布館が確認できません。
その代り写真にはやや中央に土蔵のような和風建築、左端に
煉瓦建築らしきアーチのベランダのある2階建て建物が写っています。
煙突の位置が本館の写る写真より少し遠くに見えるので、
本館よりも南に下った所から撮影したものでしょうか。
大阪造幣局
これは以前紹介した明治末期から大正初期の造幣局の絵葉書です。
参考・古絵葉書 大阪造幣局
*地域カテゴリは近畿地方になるのですが、明治初期~前期の貴重な古写真ですので、
貴重資料のカテゴリに含めました。

古絵葉書・大阪城跡絵葉書(9枚セット)

大坂城跡袋
現在大阪城公園として市民に親しまれている大阪城跡は
かつては第四師団司令部などが駐屯する陸軍の用地でした。
この大阪城は、第四師団司令部だけでなく城内全域が陸軍の施設だらけだった
一方で、史跡という性格からかほかの陸軍用地と違い一般にも開放されていました。
こういった絵葉書セットがお土産として第四師団の売店で売られていたのもそういった理由です。
今でも見ることのできる大阪城ですが、それでも空襲とかで焼失した建物も多く、
戦前の絵葉書は今では見ることのできない当時の大阪城の様子を知ることができます。
この絵葉書は9枚セットになっております。中身の絵葉書は続きを読むからご覧ください。
続きを読む

日経BPセカンドステージ「大人のブログ探訪」にて当ブログが紹介されました。

資料紹介記事ではなく、私事の話ですが。
日経BPセカンドステージ「大人のブログ探訪」にて当ブログが紹介されました。
数多あるブログの中から当ブログを選んでいただきうれしく思います。
記事を書かれた岡部様。ありがとうございました。

古絵葉書・明治後期の手彩色大阪城西の丸(乾櫓・京橋口門・伏見櫓)

大阪城西の丸
明治43年の消印がある大阪城西の丸付近の手彩色絵葉書です。
写っている建物は、手前が乾櫓、真ん中の渡櫓門が京橋口門、
一番奥の三層櫓が伏見櫓になります。
現在の大阪城は豊臣期の大阪城を埋めた上に新たに築城された徳川幕府の城です。
そのため、櫓なども幕府普請で建てられた二条城や江戸城とよく似たデザインの
総塗込めの櫓となっています。
徳川大阪城は、豊臣期の大阪城と異なり落雷で天守を焼失した以外は幕末まで
大きな被害にあうことなく、多くの櫓群が存在しました。
しかし、鳥羽伏見の戦いでほとんどの建物を焼失。わずかに残った櫓や門も
終戦前日の昭和20年8月14日の空襲でさらにいくつか焼失し、
現在は櫓4棟と大手門と蔵しか残されていません。
(現在の天守は昭和6年築の鉄筋コンクリート造) 
特に一番奥に写る伏見櫓は鳥羽伏見の戦いで焼け残った唯一の三層櫓だっただけに
惜しまれるものがあります。この絵葉書に写る建物で現在もその姿を見ることができるのは、
一番手前の乾櫓のみとなってしまいました。

古写真・山内容堂娘 山内光子姫の写真(?) 

姫
以前「姫君の写真」として紹介していたものですが、
こう様のご指摘で、大名の写真が毛利元徳の写真と分かったことにより、
人物不明だったこの写真も改めて見直すことにしました。
台紙裏の文字を毛利元徳のときと同じ感じて読んでみますと、「土州光姫公」と
読めるのではないかと思います。
続きを読むに台紙裏の文字と解説を紹介しています。
続きを読む

古写真・長州藩15代藩主 毛利元徳(定広)

大名
以前、「大名(?)の写真」というタイトルで記事にしてました武士の古写真ですが、
こう様のご指摘を受けて調べましたところ、長州藩最後の藩主である
毛利元徳公の写真であることが分かりました。
Wikipediaでの毛利元徳の項目に当写真と同じ写真が紹介されており、
その元写真を複写したものであると思われます。
明治初期~前期ごろ、明治の元勲や華族の写真をブロマイドのように販売されていたことがあり、
この毛利元徳公の写真もその一つだったのではないかと思われます。
続きを読むで、確定の決め手となった台紙裏の文字を紹介しています。
続きを読む
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