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 2008年10月 

古絵葉書・京都競馬場

京都競馬場
京都競馬場は、大正14年に京都の淀にて開設された競馬場で、
現在でも天皇賞や菊花賞など大きなレースが行われる主要競馬場です。
この絵葉書は、その竣工時のもののようで、宛名面に
「日本競馬会京都競馬場竣工記念」の文字があります。
現在のスタンドは新しいものですが、大正14年完成のスタンドも
モダンなデザインで、現在でも十分通用する建築だと思います。
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古絵葉書・初代京都駅と京都市電

初代京都駅
京都に最初に駅が誕生したのは明治10年。煉瓦造りのモダンな駅舎で、
「七条ステンショ」と呼ばれ親しまれていました。
その後、利用者が増大し、駅舎が手狭になってきたので、大正3年に
渡辺節の設計で2代目京都駅が誕生しました。
この絵葉書は、2代目駅舎に建て替えられる前の初代京都駅で、
撮影は恐らく明治末期ごろと思われます。
目の前を走る列車は京都市電。明治28年に開業した市電で、
電力は琵琶湖疎水の蹴上発電所による電力によって賄われました。
この初代京都駅と京都市電、琵琶湖疏水は京都の近代化の象徴でもありました。
駅舎の前にはたくさんの人力車が並んでいます。今でいうタクシーですね。

古写真・明治初期撮影の江戸城富士見櫓・蓮池門

江戸城富士見櫓
江戸城富士見櫓と蓮池門の屋根が写る鶏卵紙古写真。
奥の三層櫓が富士見櫓で、その手前の屋根が蓮池門です。
かつては手前の石垣上に二層櫓と多聞櫓が建っていましたが、
明治3年の火薬庫爆発により炎上し、明治5年には撤去されたそうです。
(爆発炎上を疑問視する説もあり)
この写真は手前の櫓が失われていますので、明治5年以降の撮影となります。
長崎大学の古写真サイトに手前の櫓群が存在していたころの写真があります。
こちらからご覧ください。
手前の蓮池門は、明治42年に名古屋城へ移築されましたが、戦災で惜しくも焼失。
奥の富士見櫓は関東大震災で倒壊しましたが、昭和2年に修復復元されました。
江戸城の天守が焼失した後、長らく天守の代用とされた櫓です。

*カテゴリは関東地方に含まれる資料ですが、明治初期撮影と思われる
貴重な資料ですので、貴重資料のカテゴリに含めました。

古写真・明治初期の江戸城堀端?

江戸城堀端?
明治初期撮影と思われる鶏卵紙古写真です。撮影場所ですが、
次に紹介する江戸城富士見櫓の写真とセットになっていましたので、
もしかすると、かつての江戸城の堀端の写真ではないかと思います。
よく見ると、左の堀らしき部分のさらに左側に石垣らしきものが見えます。
中央の平屋の建物には「車屋」と書かれた看板が置かれ、周りに大八車が
置かれていることから、この小屋のような建物は大八車を売っていた店のようです。
お城の堀、大八車が置かれた店、その奥に立ち並ぶ日本家屋を見ると、
江戸時代そのままの街並みに見えますね。

*本来のカテゴリは関東地方に含まれますが、明治初期撮影と思われる
貴重な古写真ですので、貴重資料に含めました。

古写真・漢城(ソウル)の露国公使館他

露国公使館
漢城(現在のソウル)にあったロシア公使館の古写真です。
高台に建つ立派な洋館はひときわ目をひく建物ですね。
明治29年から明治30年の間、李氏朝鮮王の高宋が
執政を取った場所としても知られています。
現在、このロシア公使館の塔の部分が保存されています。
ソウルの洋館
注釈はありませんが、漢城にあったと思われる公使館か領事館と思われる洋館。
ソウルの町並み
漢城市街と思われる古写真。朝鮮の伝統的な民族衣装を着た人たちが写っています。
線路と手漕ぎのトロッコ、路面電車が写っているので、駅の風景でしょうか。
これら3枚の写真は同時期に撮られたもののようで、そのうちの1枚に
「明治三十七年~」と書かれていますので、そのころに撮影されたのではと思われます。

古絵葉書・福知山中学校

福知山中学校
福知山中学校は明治34年に開校した京都府立第三中学校の後身で、
現在の福知山高等学校のもとになった学校です。
歴史ある公立学校として戦前から名が知られていましたが、
昭和13年に新校舎が建てられるまで明治以来の校舎が使用され続けたため、
本館や校舎は老朽化していたといいます。
昭和23年、京都府立福知山中学校、元京都府立福知山高等女学校、福知山市立農学校の
3校を統合、福知山中学校の校地が福知山高等学校となりました。

古絵葉書・舞鶴工作部教習所

舞鶴工作部
明治34年、舞鶴に海軍鎮守府が設置されると前後して、海軍工廠が設置されました。
海軍工廠とは、海軍直営の軍需工場で、艦船・航空機・兵器・弾薬を製造していました。
明治期に設置された海軍工廠は4つあり、舞鶴海軍工廠はその一つでしたが、
大正期の軍縮で舞鶴鎮守府が舞鶴要港部へと格下げになったのに伴い、
舞鶴海軍工廠も舞鶴海軍工作部へと格下げされましたが、
駆逐艦建造は引き続き行われています。
この絵葉書はその工作部のころのもので、煉瓦の倉庫や事務所らしき
洋館に囲まれた一画にテニスコートを設置して
職員たちがテニスを楽しんでいます。
海軍工廠の教習所は、海軍工廠の職人養成の施設でしたが、
休憩中か休暇にはこうやってテニスができるほど平時だった当時は
のんびりしていたようですね。
その後舞鶴工作部は昭和11年に舞鶴海軍工廠へと復帰しました。
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