Monthly Archives

 2010年12月 

番外編・新聞記事に見る「坂の上の雲」(第二次旅順港閉塞作戦と広瀬中佐戦死)

NHKで放送中の「坂の上の雲」明治という時代を駆け抜け、日清・日露戦争と言う戦いを潜り抜けた
名将・秋山好古と智謀・秋山真之兄弟。そして、俳人・正岡子規の3人を描いたスペシャルドラマは
明治後期の日本人が欧米列強に肩を並べようと必死にもがき、また当時の生き生きとした人々を
上手く描いており中々面白く見ております。

ところで、私の手元にはまさに日露戦争真っ最中の頃の明治37年3月~5月末までの
大阪朝日新聞を所有しています。そこには当時の日露戦争の戦況報告やその当時の世相、
そして便乗した商品広告など中々興味深い内容が多く記されています。
今回、その3ヶ月の間に起こった出来事で有名且つ秋山真之と大きく関わりのある
盟友・広瀬武夫中佐の第二次旅順港閉塞作戦時の戦死の記事を紹介します。

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古写真・琵琶湖疏水 第三隧道東口(明治20年代)

琵琶湖疏水第三隧道
琵琶湖疏水は、明治維新後の衰退した京都を近代的な工業都市に復興させようと建設された
明治前期の一大プロジェクトでした。
大津から京都の蹴上まで結ぶ長大な疏水は、当時としては前代未聞の大工事で、
京都市のみならず、まさに国家を上げての事業でした。

工事責任者は当時工部大学校を卒業したばかりの23歳の青年、「田邊朔郎」。
測量技師の「島田道生」により手がけられ、北垣国道京都府知事のもと
明治23年、琵琶湖疏水は完成しました。

この琵琶湖疏水は、これまで近代土木工事は全てお雇い外国人の協力により行われていましたが、
琵琶湖疏水は設計から測量、そして工事まで全て日本人の手によって完成した画期的な事業で、
インクライン・日本初の事業用発電所・トンネル工事の際の竪坑工法など、日本初の技術が数多く
取り入れられている工事でもあり、近代化遺産としても非常に貴重なものです。

上の写真は、琵琶湖疏水の第三隧道東口の部分で、ロマネスク風の煉瓦の入り口の上には
松方正義の書による「過雨看松色」の扁額が掲げられています。

琵琶湖疏水の6つのトンネル口には、それぞれ当時の明治政府の元勲の書の扁額が掲げられており、
そのことからもまさに国家的事業であったことがわかります。
この写真は、完成間もない明治20年代後半頃の撮影ではないかと思われます。

※補足ですが、私の所有する「東京日日新聞」の明治19年1月20日号に、
建設中の琵琶湖疏水の工事の現況を記した記事が掲載されています。
下記に紹介しますので、当時の雰囲気を味わっていただけたらと思います。

続きを読むから御覧ください。
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古絵葉書・平和記念東京博覧会文化村住宅16枚組

文化村住宅袋
大正11年、第1次世界大戦の終結を記念して東京上野で平和記念東京博覧会が開催され、
その会場内に文化村という住宅展示場が設けられ、14棟のモデル住宅が展示されました。
この絵葉書はその文化村に出品されたモデル住宅を紹介したもので、全部で16枚セットとなり、
会場に展示さていた住宅が全て収録されています。

※以前、同じ平和記念東京博覧会文化村住宅の絵葉書を紹介しましたが、その時点では11枚しかなく、
今回新たに16枚すべて揃った状態で入手しましたので、前回紹介時に欠けていた5枚分を追加して
再構成しました。

なお、今回追加した5枚と前回紹介分の絵葉書と色合いが違いますが、これは当時の印刷技術によるもので、
同じ製品の絵葉書でも、それぞれ色合いに個体差があるようです。

続きを読むから御覧下さい。

*追記・関連として、
書籍・平和記念東京博覧会出品 文化村住宅設計図説(大正11年)
平和記念東京博覧会文化村住宅(内部
の記事をUPしました。
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古写真・生野鉱山局(生野銀山)2枚(明治16年~明治21年撮影)

生野鉱山局遠景
室町時代より採掘が行われ続けた生野銀山は、江戸時代には幕府の管轄になり生野代官所が置かれました。
明治維新後、明治政府の管轄となった生野銀山は、日本初の官営鉱山となり
お雇い外国人の協力を経て、近代的な鉱山施設となりました。
明治16年、名称を生野鉱山局と改称。明治21年に皇室財産に編入し、御料局生野支庁と改称するまで
この名称が使われました。

この古写真の台紙の裏には「生野鉱山局」との書き込みがあるため、
明治16年から21年までの撮影と思われます。

上の写真は、その官営時代の生野銀山の遠景の写真。高い煙突と洋風の近代的な鉱山施設群が並んでいます。
注目すべきは背後の山。山の木々が殆ど無くハゲ山状態になっているのが分かります。
栃木の足尾銅山では有名な鉱毒事件により、鉱山周辺の山がハゲ山になったそうですが、
この生野銀山でも鉱毒事件が起きていたようで、工場背後のハゲ山は鉱毒による影響かもしれません。
生野鉱山局近景
こちらは、2枚目の近景写真です。
アーチ窓の2階建ての建物は煉瓦造の建物で、まさに明治の文明開化・殖産興業の象徴であり、
高い煙突と共に当時の人々は、この近代的な工場群の威容に目を見張ったことだと思います。
生野鉱山局裏
それぞれの写真の台紙の裏には筆文字で書き込みがあり、遠景写真の裏には「生野鉱山遠景」。
近景写真には「生野銀山真景」とあります。

生野銀山は明治29年に三菱合資会社へと払い下げられ、昭和48年に閉山するまで採掘が続けられました。

現在は史跡として保存され観光施設になっていますが、現在も官営時代である明治初期の煉瓦造の
工場施設が現存しており、貴重な近代化遺産として知られています。

古絵葉書・新舞鶴名所 第一上陸場待合所

舞鶴第一上陸場待合場
現在の東舞鶴の埠頭にあったと思われる上陸者用の待合室の建物です。
東舞鶴は城下町として古くから発展した西舞鶴とは違い、明治34年の鎮守府開庁に伴い
新たに軍港として発展しました。
明治以降の近代的な街であり、海軍という西洋の様式を先進的に取り入れた街のためか、
この絵葉書の待合所も瀟洒な洋館で、電話ボックスらしき小屋もあり、
また、そびえる時計塔は当時の人々の目によく止まったことでしょう。

この「第一上陸場待合所」の建物ですが、検索しても詳細な情報が出ませんでしたが、
建物のデザインや絵葉書の様式から、明治~大正期の建築ではと思われます。
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