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 2013年12月 

古絵葉書・郡是製糸株式会社宮津工場

群是製糸宮津工場001
戦前からの大手被服メーカーであるグンゼの戦前の宮津工場を撮影した絵葉書です。
郡是製糸宮津工場は大正元年に設立され、現在もグンゼ宮津工場として稼働しています。
写真は工場全景。右端の大きな煙突を持つ建物は工場内の発電所でしょうか。
その左には寄宿舎らしき建物。中央奥には繭倉。工場敷地左半分は工場棟かと思われます。
中央の大屋根は工場事務所のようです。
群是製糸宮津工場002
工場正門。正面の建物は全景写真の中央に写っていた工場事務所かと思われます。
群是製糸宮津工場003
養生院。従業員の保養施設のようなものでしょうか。
洋風の洒落た建物です。

現在グンゼ宮津工場内にこれらを含めた戦前の建物が現存しているかは不明です。

※関連記事
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古写真・駆逐艦太刀風の艦上写真(出撃前か)

駆逐艦太刀風006
写真の裏に「爆風を突いて出撃 太刀風」と書き込みがあります。
駆逐艦太刀風は、大正10年に舞鶴海軍工廠にて竣工した峯風型駆逐艦の11番艦です。
太平洋戦争では主に輸送任務や海上護衛に携わりましたが、
昭和19年にトラック島空襲に参加してた米海軍艦載機の攻撃を受け沈没しました。

この写真はいつごろ撮られたのか分かりませんが、裏面の文を信用するなら、
実際に戦闘に参加した昭和12年の日中戦争以降でしょうか。
ただし、戦没間際は写真は無いと思われますが。
写真には14cm単装砲と煙突、救命ボートが写ってます。
恐らく後部マスト辺りから艦首側に向かって第3砲塔辺りで作業する乗組員を撮影したものと思われます。
出撃準備中の様子を撮影しているものから、太刀風の乗組員か従軍記者、
もしくは海軍の報道官の撮影によるものでしょうか。

※データ
常備排水量:1,345t
全長:97.54m
全幅:8.92m
武装: 45口径12cm単装砲4基・6.5mm単装機銃2基・53cm魚雷連装発射管3基6門・1号機雷16個

古写真・昭和三年大礼特別観艦式記念写真

昭和3年観艦式001
観艦式は海軍の艦艇を洋上に並べて艦隊行動や模擬演習などを行う軍事パレードで、
日本では明治元年3月26日に大阪天保山沖で行われたのが最初であり、
明治期に6回・大正期に6回・昭和戦前期に6回行われており、
旧海軍の観艦式としては昭和15年の紀元二千六百年特別観艦式が最後となりました。
戦後の海上自衛隊発足後も昭和32年に最初の観艦式が行われて以後昭和48年までは毎年、
一旦途絶えた後、昭和56年からは3年ごとに現在まで行われています。

この古写真は昭和3年に昭和天皇即位を記念して横浜沖で行われた観艦式の様子を撮影した記念写真です。
外袋の内側に「非売品」の文字があり、関係者のみに配られたか、もしくは観艦式を見学した人への
記念品として配られたものかと思われます。

写真は3枚となっております。
昭和3年観艦式002
お召艦 榛名
大正4年に川崎造船所で竣工した金剛型戦艦の3番艦で、戦艦でありながら30ktあまりの速力を出す
高速戦艦として太平洋戦争でも活躍した艦です。
金剛をはじめ他の姉妹艦が戦没する中、榛名は最後まで奮戦し昭和20年7月28日の呉軍港空襲で
大破着底し終戦を迎えました。
この榛名の写真の撮影は11月24日。
昭和3年観艦式003
観艦式式場のタイトルのある写真。撮影は観艦式当日の2日前です。
手前の戦艦は長門。奥に姉妹艦の陸奥が見えます。さらに奥には扶桑型戦艦の艦橋が確認できます。
昭和12年の大改装まで装備されていたS字煙突はまさに長門・陸奥の最大の特徴でした。
手前の戦艦はS字煙突側面にある蒸気管の形状が湾曲しています。
湾曲した蒸気管は長門・まっすぐなのは陸奥とのことなので、手前が長門。奥が陸奥であると分かります。
戦艦長門と陸奥は当時最強と謳われたビッグ7のうちの2つとして、また長門は長らく連合艦隊旗艦を務めたことから
「長門と陸奥は日本の誇り」と国民に親しまれ続けました。(大和型戦艦は軍極秘扱いだったため。)
陸奥は昭和18年6月8日に広島湾の柱島泊地にて爆発事故を起こし沈没しましたが、
長門は戦艦の中で唯一航行可能状態で行き残り、昭和21年アメリカによる水爆実験(クロスロード作戦)で
生涯を終えました。
昭和3年観艦式004
上と同じく観艦式式場のタイトルの付いた写真。
手前の戦艦は煙突の蒸気管の形状と信号桁の形状から陸奥。
その奥にも戦艦群が並び、さらに左後方に駆逐艦や巡洋艦が並びます。
左上には水上機が飛んでいます。

昭和3年の観艦式では、戦艦は金剛・比叡・榛名・長門・陸奥・扶桑・山城・日向。
航空母艦では赤城と加賀が参加し、以下重巡・軽巡・駆逐艦・潜水艦・その他艦艇及び外国の艦艇を含めて
総数186隻という錚々たるものでした。

古絵葉書・福知山 歩兵第二十旅団司令部(附・明治40年福知山水害の記載)

第20旅団2001
かつて福知山に置かれていた歩兵第二十旅団司令部の絵葉書です。
右上の人物は皇太子時代の大正天皇。
左下の記念スタンプに「皇太子殿下山陰道行啓紀念 40-6-6」とあります。
第二十旅団司令部

こちらは別アングルでの少しアップになった旅団司令部。
歩兵第二十旅団司令部は、福知山へ明治30年に陸軍工兵第十大隊、
明治31年に陸軍歩兵第二十連隊が移駐したのと同時期に設置されました。
明治期に移駐した陸軍部隊のうち、歩兵第二十連隊は終戦まで
郷土部隊として存続しましたが、工兵第十大隊と歩兵第二十旅団は大正14年の
宇垣軍縮により、工兵第十大隊は岡山へ移駐、歩兵第二十旅団は廃止となりました。

ところで、この絵葉書にはもう一つの資料が残されています。
それは絵葉書の表面。つまり宛名と本文の書かれた面ですが、
その本文には以下のような記載があります。
第20旅団2002
文中に「実は当地も大洪水にて死傷二百余、流出家屋二百、半壊家三百余惨憺たるものですよ」
これは、明治40年8月25日に起きた大水害の様子を書いたものです。
このときの被害は床上浸水1354戸、流失152戸、全壊123戸、半壊42戸に上りましたが、
福知山に駐屯していた歩兵第20連隊・工兵第10大隊の活動により死者は5名に抑えられています。
絵葉書の本文の記述とは若干の差異がありますが、この絵葉書に押された消印は明治40年8月30日。
水害の起きた5日後に出されたものという災害直後の様子を伝える生々しい資料として
興味深い資料となっております。

※関連記事 古絵葉書・福知山 歩兵第二十旅団司令部

古写真・陸軍教導団

教導団003
分かりづらいですが、建物の門に「陸軍教導団」と書かれた看板が掲げられています。
教導団006
看板部分を拡大したもの。
陸軍教導団とは、明治4年から明治32年まで置かれた旧陸軍の下士官養成学校です。
元は大阪兵学寮に置かれた教導隊を前身とし、明治4年に兵学寮を離れて教導団と改称し、
東京に置かれました。
教導団001
「教導団砲兵生徒隊」という看板が掲げられています。
ここの施設は砲兵を育成した施設のようです。
陸軍教導団には歩兵科・ 騎兵科・ 砲兵科・ 工兵科・ 輜重兵科の各兵科が置かれ、
そこでそれぞれの分野の教育が行われました。
各兵科の修業期間は1年4ヶ月から1年8ヶ月かかりましたが、その期間一切の休暇や帰郷を許されない
厳しいものでした。
卒業者は2等軍曹に任命され各部隊に配属されました。
教導団002
こちらも分かりづらいですが、「教導団」という文字は読み取れます。
教導団004
こちらは陸軍教導団の全景と思われます。

陸軍教導団は明治32年に廃止され、その後は各部隊で下士官の養成が行われましたが、
下士官の質を向上するため昭和2年に仙台・豊橋・熊本に歩兵科の下士官のみを育成する
陸軍教導学校が設立されました。

※関連記事 仙台陸軍教導学校

古写真・戦前(昭和10年代?)の海軍関連のパレード  詳細不明

海軍関連のパレード1
戦前の記念行事を撮影した古写真です。
「護れ海国日本」の文字が書かれた軍艦を模した山車が行進に加わっていることから、
海軍関連の記念行事か何かのパレードと思われます。
海軍関連のパレード008
2枚目。海軍の兵隊さんが行進している様子です。

これら2枚の古写真、時期は昭和10年代頃と思われますが、場所等詳細は不明です。
写真から得られるヒントとしては、
海軍関連のパレード2
※クリックで拡大します。
奥に写る商店らしき建物の店名。
海軍関連のパレード3
手前の大きな建物に掲げられた幕らしきもの。
※クリックで拡大します。
海軍関連のパレード011
※クリックで拡大します。
パレード奥の潜水艦?らしき山車に書かれた文字。
「祝 ○○工友」
どれも不鮮明で判別しかねる感じです。

何か詳細の分かる方はご教授願います。

古絵葉書・阿波農工銀行 建築記念

阿波農工銀行001
阿波農工銀行は明治33年に農工銀行法による特殊銀行として徳島市に設立した銀行です。
農工銀行とは戦前までに全国に存在した特殊銀行の1つで、明治29年に設立した農工銀行法に基づいて
設立された銀行であり、日本勧業銀行設立に伴い農工業関連への長期融資を目的としたもので、
事実上日本勧業銀行の子会社的な存在という特殊な銀行でした。
各地の農工銀行は終戦までに日本勧業銀行へと吸収合併されていきました。
阿波農工銀行も昭和11年に日本勧業銀行に吸収合併されています。
阿波農工銀行は現在みずほ銀行徳島支店として当時の建物が現存し使用されています。
阿波農工銀行002
阿波農工銀行の外観。
ファザードの列柱と大きなアーチが目を引きます。
阿波農工銀行003
銀行内部の営業室。
内部の装飾は全体的にアールデコ様式でまとめられている感じです。
阿波農工銀行004
※画像クリックで大きくなります。
阿波農工銀行の平面図。
阿波農工銀行005
※画像クリックで大きくなります。
阿波農工銀行の概要。
この概要によると設計は國枝博。施工は竹中工務店で、完成は昭和4年12月31日とあります。
設計者の國枝博は朝鮮総督府を設計した建築家で知られています。
国枝博は全国の農工銀行の設計を手掛けていたようで、この阿波農工銀行の他にも
大阪農工銀行(八木通商・現存せず)大分農工銀行(現・みずほ銀行大分支店)
兵庫農工銀行洲本支店(現・淡路信用金庫 洲本本町支店)などが知られています。
農工銀行建築で現存しているものは他にもありますが設計者が不明のものも多く、
もしかすると、国枝博設計のものも含まれているかもしれません。
上の阿波農工銀行の平面図は、國枝博が自身で作製した図面と思われます。

※関連記事
古写真・茨城農工銀行職員写真帖(昭和7年)



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