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 2014年11月 

建築写真類聚 住宅の外観・巻1

建築写真類聚住宅の外観表紙001
「建築写真類聚 住宅の外観 巻1」大正4年11月10日刊  建築写真類聚刊行会編 洪洋社出版

建築写真類聚は、建築写真類聚刊行会が大正4年から昭和18年まで編纂し洪洋社が出版した建築写真集で、
各種建物の外観や内部の室内や調度品など細かくテーマ別に分けて出版されています。
これは、最初期の大正4年に刊行された住宅の外観の第1巻で、当時建てられた国内の洋風住宅の外観と
海外の住宅、そして外観イラストなど50点が収録されています。
建築写真類聚は冊子ではなくそれぞれ1枚ずつのバラで収められています。
建築写真類聚住宅の外観裏表紙002
表紙は50枚のパラページを収める外箱を兼ねていて、裏側には奥書などが書かれています。
この冊子は第2回刊行分であると書かれています。
サイズは漫画の単行本とほぼ同じB6サイズ程度で、そこまで大きなものでは無いですね。

収録されている住宅は当時の政財界のトップや建築家の邸宅が中心となっています。
全50枚のうち個人名のある25枚のみ以下に紹介します。
「続きを読む」からご覧ください。
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古絵葉書・船井郡立高等女学校

船井郡立高等女学校001
船井郡立高等女学校は現在の京都府立園部高校の前身となった学校で、明治41年に設立。
その後京都府立高等女学校となり、大正15年に旧制中学である京都府立園部中学校、
そして、戦後の昭和23年に現在の京都府立園部高等学校となりました。
園部高校はかつての園部城跡の敷地内に存在していますが、
明治期に設立した船井郡立高等女学校も園部城跡に造られたと思われますが、
絵葉書の校舎はかつてのお城の建物では無く、新たに建てられた校舎のようですね。

古絵葉書・明治43年亀戸の水害の惨状

亀井戸町水害001
明治43年8月東京を襲った大雨は東京各地に大きな被害をもたらした水害となり、
死傷者・行方不明あわせて170人。かなりの惨事となってしまいました。
この絵葉書は亀戸地域での水害の被害を伝えた1枚です。
1階部分は完全に水没、2階に避難した人たちの救助活動を行っています。

古絵葉書・福知山市大江町 内宮発電所花折ダムか。

大江町・花折取水ダムか001
絵葉書に「丹後名所 水電気水源地ヨリ大江山遠望」と書かれています。
このダムの名前は書かれていませんが、丹後名所と大江山を望めることから
現在の福知山市大江町か加悦町にあったダムであり、「水電気」とあるので、
水力発電所用のダムであるとわかります。
大江山近辺に戦前作られた水力発電所は大正6年完成の内宮発電所・佛性寺発電所、
大正12年完成の橋谷発電所があり、それぞれ発電用の取水ダムを持っていますが、
うち、橋谷・佛性寺の両発電所の堰堤は規模が小さめで、絵葉書のような
規模が大きめのダムではありません。
一方、内宮発電所の取水ダムの花折ダムは規模がそこそこ大きく、
この絵葉書のダムと同程度の規模があるように思われます。
内宮発電所は大正6年に完成した水力発電所で、現在は関西電力の所有となっており、
発電所建屋は当時のものではありませんが、発電所の石積み擁壁や導水管上の橋など
当時のものと思われる構造物が残され、また創業当時の発電機なども展示されています。
大江町花折ダム1
現在の花折ダムです。写真の撮影位置やアングルで大きさがつかみづらいですが、
現地で見た感じでは結構大きく思えました。
現在はコンクリートが張られていますが、かつては絵葉書のような石張りでした。
2009年に訪問した際に偶然お会いした管理の方の話によると
①かつては石張りだったが、昭和50年にコンクリート張りに改修された。
②堰堤上の橋も木造だった。
とのことであり、絵葉書の堰堤の姿と符合します。
※参照 ベーさんの近代化遺産めぐり備忘録・内宮発電所ダム
大江町花折ダム2
堰堤部分から取水池を撮影した写真。堰堤内は立ち入り禁止で撮影箇所の対岸へは行けないため
絵葉書と同じアングルの写真ではありませんが、左側の山の形等が絵葉書に写る山と似ているようにも思えます。
この絵葉書のダムに関して色んなサイトや所有する「京都電燈株式会社五十年史」を参考に調べましたが、
特定するには至りませんでした。
しかし、大江山近辺でこの絵葉書の規模のダムを持つ発電所は内宮発電所しか無いことや
現地でお会いした管理人の方の証言などから
絵葉書の堰堤は内宮発電所取水ダムである、花折ダムとしました。
何か情報をお持ちの方はご教授くださいませ。

古絵葉書・舞鶴 北吸桟橋(昭和30年代 護衛艦しい 警備艇いそぎく)

昭和30年代舞鶴北吸桟橋002
昭和30年代の東舞鶴 北吸桟橋の様子を撮影した絵葉書です。
北吸桟橋は元海軍の桟橋で、戦後に海上自衛隊が舞鶴に置かれた際に再び海上自衛隊の桟橋として
そのまま再利用されました。
終戦からまだ10年程度しかたっていないため、旧海軍時代の面影がよく残されています。
桟橋中央に停泊しているのは護衛艦「しい」。元々アメリカ海軍の哨戒フリゲート「ロングビーチ」で、
戦中の1943年9月に就役、主に大戦末期ニューギニア近海で活動しました。
1945年7月に退役後、ソ連に貸与されましたが再び返還され、昭和28年11月横須賀にて海上自衛隊に貸与。
護衛艦「しい」として就役しました。
昭和35年12月1日。舞鶴に司令部を置く第3護衛隊群が編成され、護衛艦「しい」も編成に入りました。
当時第3護衛隊群には9隻の護衛艦が所属していましたが、旧日本海軍の駆逐艦「梨」を改修した
護衛艦「わかば」以外は全てアメリカ海軍からの貸与艦でした。
※参照・第3護衛隊群50周年史
しいの後方には小型の艦艇が7隻並び、うち1隻には「16」の艦番号がついています。
これは、ゆり型警備艇の16番艦「いそぎく」で、大戦中にアメリカ海軍で使用された上陸支援艇でした。
ゆり型は全てアメリカ海軍からの貸与された上陸支援艇で、「いそぎく」も昭和28年に貸与された艦艇でした。
舞鶴地方隊には他にも数隻のゆり型警備艇が配備され、絵葉書に写る警備艇はそれらの艦艇のようです。
奥にも護衛艦らしき艦が停泊し修理を受けています。停泊している場所はかつての舞鶴海軍工廠で、
現在もジャパンマリンユナイテッド舞鶴事業所として旧海軍工廠時代の施設が利用され、
護衛艦の定期修理を行っています。絵葉書では奥に旧海軍工廠時代の煉瓦建築が確認できます。
現在北吸桟橋は旧海軍時代の桟橋の横に新たな桟橋が設けられ、衛所の部分には売店ができ、
右端の木造の建物の場所には第3護衛隊群司令部の建物がたてられたりと絵葉書が撮影された50年前から
施設等が変わりましたが、北吸桟橋の雰囲気は当時と同じですね。
現在北吸桟橋にはイージス艦のみょうこう・あたご、新鋭艦のふゆづき、大型補給艦のましゅう、
そして来年3月には大型艦のひゅうがが配備される予定になっており、この絵葉書の頃から比べると
かなり充実した艦隊を誇っています。

※データ
護衛艦しい(旧アメリカ海軍哨戒フリゲート・ロングビーチ) 
基準排水量:1430トン 全長:92.6m
兵装:3インチ50口径対空砲3門・ 40mm機関砲4門・ 20mm機関砲9門
・ ヘッジホッグ 1基・ 対潜爆雷投射機(Y砲)8基・ 爆雷投下軌条2条

警備艇いそぎく(旧アメリカ海軍上陸支援艇)
基準排水量:254トン 全長:48.3m
兵装:50口径3インチ単装緩射砲1基・40ミリ連装機銃2基・20ミリ単装機銃4基
・12.7mm単装機銃4基・Mk.7 114mmロケット5連装発射機2基

古絵葉書・京都 河村病院

河村病院001
戦前、京都市内に存在した病院で、3階建ての建物は当時としては結構な大病院だったと思われます。
3階上の軒部分には「KAWAMURA HOSPITAL」と書かれ、建物も壁面にはあまり装飾は見られないものの
所々出窓があったりと中々おしゃれです。
最初見た時はスパニッシュ様式の建物かと思いましたが、良く見ると丸瓦が使用されていたり、
医院名の書かれた軒の上の屋根は切妻風で軒瓦らしきものがあったり、奥の屋根は入母屋屋根で
城郭風だったりと屋根部分は日本風のデザインで、もしかしたら帝冠様式だった可能性があります。

この絵葉書には河村病院の住所は記載されていませんが、調べてみると御池間之町上ルに
河村病院があったようです。
河村病院地図
※「京都市明細図オーバーレイマップ」より引用。クリックで拡大。
住所を元に立命館大学が提供する昭和初期の京都市内の地図を重ねた「京都市明細図オーバーレイマップ」で、
御池通と間之町通の角を調べてみると、河村病院の記載がありました。
地図を見る限り、外科棟もあったようですね。
現在その場所に河村病院は存在せず、オフィスビルが建っています。

※2014/11/9追記
ヴォーリズを取り上げたサイトに河村病院の記載がありました。
※参照 ヴォーリズ建築作品リスト
記事によると昭和元年に竣工したようです。
外観はヴォーリズらしい雰囲気ですが、屋根が和風なのはヴォーリズ作品には珍しいのではないでしょうか。
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