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 2015年08月 

古絵葉書・舞鶴憲兵分隊

舞鶴憲兵分隊001
現在の中舞鶴交番の地には舞鶴憲兵分隊がありました。
舞鶴憲兵分隊は明治33年に紺屋町から移転。木造板張りで瓦葺の官舎は質素そのものですが、敷地内には馬術場や武道場もあったようです。現在建物はありませんが、跡地に建つ中舞鶴交番の門に舞鶴憲兵分隊当時のコンクリート製門柱がそのまま使われています。
この絵葉書にはその門柱らしきものが写っていないのでこの絵葉書の写真が撮影された後に建てられたものでしょうか。
かつて陸軍所属とはいえ警察任務を帯びていた憲兵の官舎の敷地が現在は交番になっているのは歴史の面白さを感じます。
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古絵葉書・舞鶴公会堂

舞鶴公会堂001
舞鶴公会堂は昭和12年に舞鶴出身の実業家・有本国蔵の寄進によって建てられました。
この公会堂は昭和57年に取り壊され、跡地は現在舞鶴市役所西支所となっています。
絵葉書には「昭和十五年五月一日」の日付があり、完成から3年後の撮影と分かります。
昭和15年は太平洋戦争開戦の1年前であり、紀元2600年記念の年。
時局を反映してか、公会堂の壁面に「武運長久」「国威宣揚」の文字が書かれた垂れ幕が掲げられています。

古絵葉書・新舞鶴発電所

舞鶴発電所001
「新舞鶴発電所」というタイトルが書かれた絵葉書で奥に高い煙突のある火力発電所らしき建物が写っています。
調べて見ますと、明治41年に新舞鶴町(現・舞鶴市東舞鶴地区)大字浜に大阪電燈が火力発電所を開設、供給を開始したとあります。
大正3年には供給区域拡大のため隣接地に新発電所を建設。その後所有は舞鶴電気株式会社・三丹電気・帝国電燈・東京電燈山陰支社・京都電燈へと推移したようです。
新舞鶴市街地図001
※サムネイルをクリックすると拡大します。
大正6年発行の新舞鶴市街地図に「電燈会社」が書かれています。
共済組合舞鶴病院の近くにある建物ですが、これがこの絵葉書の発電所であると思われます。
現在この場所は関西電力舞鶴営業所となっています。当時の建物は残っていませんが、敷地はそのまま後身の関西電力に引き継がれているようです。

古絵葉書・舞鶴海軍共済組合病院 中舞鶴分院

舞鶴海軍共済組合病院中舞鶴分院002
舞鶴海軍工廠職工共済会病院は舞鶴の海軍工廠で働く職工たちとその家族の相互共済を目的とした共済会が運営する病院のことです。
明治40年に開院され、院長には海軍軍医が就任し、海軍の援助のもと共済会の会員とその家族の医療を行いましたが、海軍工廠の職工だけでなく、一般市民も治療を受けることが出来たため、「共済会病院」の名前で市民にも親しまれていました。
絵葉書の右側の門柱には「私立餘部博愛病院」という看板が掲げられています。
餘部博愛病院は明治34年5月に設立した病院のようですが、明治44年に済生会により発行された施療事業一班という資料によれば、この時すでに経営状態が思わしくなく病院の建物も手狭で設備も不完全と書かれています。
この絵葉書の写真が撮られた頃はまだ餘部博愛病院でしたが、絵葉書が発行された際には舞鶴海軍工廠職工共済会病院へ吸収されてしまったのでしょうか。
この中舞鶴分院は舞鶴鎮守府庁舎のある丘の麓にあり、現在でも当時の門と塀、そして分院の宿舎と思われる建物が残っています。
舞鶴海軍共済組合病院中舞鶴分院跡
現在の中舞鶴分院跡地。絵葉書に写る石垣の一部と思われるものが現在の写真にも写っています。
ただ、位置的に中舞鶴分院跡の隣の宿舎と思われる建物の位置になります。
舞鶴海軍工廠職工共済会病院中舞鶴分院跡2
舞鶴海軍工廠職工共済会病院中舞鶴分院跡の正門。絵葉書の餘部博愛病院の正門と位置が違うため、後に分院の建て替えと敷地の整理が行われたのでしょうか。

※関連記事・古絵葉書・舞鶴海軍工廠職工共済会病院

古絵葉書・大江山ニッケル鉱山

大江山ニッケル鉱山001
京都府北部の福知山市大江町から加悦町にまたがる大江山にはかつてニッケル鉱山がありました。
昭和9年日本火薬工業(現・日本冶金工業)が大江山連峰の地質を調査したところ、豊富なニッケル鉱脈があることが分かり、新たに子会社として大江山ニッケル工業を設立。昭和15年にニッケル鉱の本格的な製造が開始されました。
最盛期には多くの宿舎が建ち並び、また、連合軍や中国からの捕虜なども労働力として投入されたりしていましたが、
終戦とともに鉱山は閉鎖。現在は精錬所跡の煙突が3本だけ残るのみです。
この絵葉書は、本格的な操業が開始された昭和15年頃のものでしょうか。

古絵葉書・蒲生郡役所(現・白雲館)

蒲生郡役所001
現在の滋賀県近江八幡市にあった蒲生郡役所です。
この郡役所の建物は当初から郡役所として建てられたものではなく、元々は明治10年に八幡東学校として建てられたものでした。
明治26年に学校としての役目を終えた後、明治28年に八幡町役場になり明治33年に蒲生郡役所として使用されました。
大正11年に蒲生郡役所が移転した後は再び八幡町役場となりました。
白雲館
戦後は様々な施設に使用された後、平成4年に近江八幡市に移管。失われていた望楼など明治の姿に復元するなどの修復工事を経て、白雲館と名付けられ観光案内所として使用されています。平成10年には国指定登録文化財に指定されました。
絵葉書には蒲生郡役所と書かれていますので明治33年から大正11年の頃のものであることが分かります。
この頃には屋根にあった望楼は撤去されていたようです。
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