Monthly Archives

 2015年09月 

古写真・福知山 新町通り(三ツ丸百貨店前 昭和10年代)

福知山 新町通り001
福知山の新町通りは戦前から昭和半ばごろまで繁華街として栄えていた商店街です。
この絵葉書は昭和10年代頃に撮影されたものと思われ、左右に軒を連ねる商店や昭和初期に流行したすずらん灯が見て取れます。
この絵葉書は当時新町通りにあった「三ツ丸百貨店」の手前で撮影されたもので、右手前にある鉄筋コンクリート造の建物が三ツ丸百貨店です。
三ツ丸百貨店は大正13年に隣町の綾部市にてて開業し、昭和8年に福知山の新町通りに開業。
鉄筋コンクリート造3階建ての百貨店は当時の福知山において初の高層建築で、エレベーターを完備し、最上階には洋食のレストランがあるなど、福知山の商業的中心地となりました。
戦時中の一時期に海軍に接収され、戦後は京都銀行・リサイクルセンターとして利用された後、福知山市文化資料館を経て1998年から福知山鉄道館ポッポランドになりました。
新町通り現在
※画像をクリックで大きくなります。
Google MAPのストリートビューより現在のほぼ同じアングル。
三ツ丸百貨店の外観は戦後大改装が行われ、絵葉書の頃の戦前の面影は残っていませんので、この絵葉書は戦前の三ツ丸百貨店時代の様子を知る資料となります。奥の洋風の建物は現在「やまざき」の看板のかかる山崎呉服店。現在は営業されていないようですが、建物は残されています。こちらも現在はかなり改装されていますが、建物自体は当時のもののようです。
三ツ丸百貨店と山崎呉服店の間に境界塀がありますが、これは現在も当時のまま残されています。
左側の町屋風建築の谷村文吉商店は現在も大きな改装がされることなくそのまま残されています。
三ツ丸百貨店の向かいには福知山銀行という地元銀行の本店の建物がありました。3階建て煉瓦造の洋館で近年まで残されていましたが、取り壊されてしまいました。
以下、参考としてすでに紹介した戦前の新町通りを再掲します。
福知山 新町商店街
1枚目の絵葉書の反対側から撮影したもの。左奥に少しだけ三ツ丸百貨店の建物と山崎呉服店の看板、右奥に福知山銀行本店の建物が見えます。撮影時期はほぼ同時期と思われます。
新町商店街
こちらはほぼ同時期の別地点の新町通り。
福知山新町商店街001
こちらは上記3枚よりやや時代が遡るかと思われますが、すずらん灯があるので、遡っても数年内と思われます。
三ツ丸百貨店1
三ツ丸百貨店2
最後に、絵葉書と同時期に三ツ丸百貨店の屋上遊園とレストランにて撮影された個人写真を再掲します。
福知山の陸軍第20連隊に所属していた兵隊さんが非番の際に家族と共に三ツ丸百貨店へ出かけた際に撮影された記念写真と思われます。

※関連記事 
古絵葉書・福知山市街新町通り
古写真・福知山 三ツ丸百貨店屋上にて 昭和10年頃
スポンサーサイト

古絵葉書・生野町役場

生野町役場001
生野銀山で有名な兵庫県朝来市生野町にあった生野町役場の絵葉書です。
明治元年の官営鉱山時代から払い下げ後の三菱時代を経た生野銀山のお膝元の生野町は鉱山の町として大いに栄えました。
しかし、昭和48年の閉山以降は山間の静かな町へと戻っています。
この生野町役場は鉱山町として栄えた町の役場らしく洋風のしゃれた作りとなっています。
現在生野町の市街地には明治19年築の擬洋風建築である旧生野警察署や、明治の官営鉱山時代から昭和初期まで建築された旧生野鉱山官舎群など数多くの近代化遺産が現存し、市街地も古い町並みが残されていますが、この生野町役場は現存していません。

※関連記事 古写真・生野鉱山局

古写真・舞鶴築港工事写真(現・西舞鶴 第2埠頭)

舞鶴築港001
※各写真はクリックで大きくなります。
現在の西舞鶴第2埠頭である舞鶴築港の工事の様子を撮影した古写真です。
舞鶴築港は京都府の手により昭和3年から工事が始まり、昭和13年に完成しました。
写真は大判7枚小判1枚の8枚ですが、写真裏に剥がし跡があり、元は写真帳に貼られていたものを
剥がしたもののうちの1部と思われます。
写真裏には昭和11年の年号と各日付、そして検閲済の文字がある判が押されています。
これは、舞鶴要塞司令部の検閲済みという判で、当時存在した「要塞地帯法」という法律により写真撮影等を厳しく制限されており、
要塞に関わる部分を隠して舞鶴要塞司令部の検閲をクリアしたという印となります。
1枚目のこの写真は、西舞鶴大野辺地区の山から匂崎方面を撮影したもので、裏に昭和11年11月30日の日付があります。
右手に写っている四角い箱のようなものは、ケーソン(潜函)と呼ばれる基礎で、海底に沈めるために用意しているものと思われます。
湾内には工事の作業をしていると思われる船舶が数隻停泊しています。
この写真には匂崎は写ってますが、本来なら左手側に写っているはずの槇山がありません。
当時槇山には砲台がありましたので、修正により消されたものと思われます。
舞鶴築港002
1枚目の写真とほぼ同じアングルですが、やや拡大されています。
奥の匂崎は1枚目の写真よりさらに修正が施され、岬の先端は完全に消されています。
これは匂崎に海軍の砲台が置かれていたためと思われますが、1枚目では消されていないのにこの写真では消されているのは、
拡大されているからでしょうか。
1枚目と比較してケーソンが1つ増え、岸にクレーンが置かれているので、日付はありませんが1枚目より後の撮影と思われます。
舞鶴築港003
1枚目・2枚目の写真とは逆の方向を撮影した写真。
昭和11年11月30日の日付があり、1枚目と同日の検閲を受けたものです。
槇山の方角を向いて撮影されてますが、手前側の山はそのまま写されているものの、砲台のあった槇山は消されているようです。埋め立て地には資材運搬用の線路が引かれています。手前には大型のクレーンが写されています。
舞鶴築港004
資材運搬用の仮設線路。仮設線路は山際を削って敷設しているようです。
仮設のためか枕木が角材に加工されていない丸太のままで使用されています。
右奥には屋根と骨組みだけの建物がありります。建設途中なのか仮小屋なのかは不明です。
昭和11年11月30日の日付があり、1枚目3枚目と同日の検閲済です。
舞鶴築港005
削られた山肌。恐らく埠頭建設のための埋め立て用の土取場かと思われます。
舞鶴築港工事の一連の古写真について情報を頂いた舞鶴市郷土資料館の方によれば、土取りで削られた跡は現在も残されているそうです。
昭和11年11月30日の日付があり、1枚目3枚目4枚目と同日の検閲済です。
舞鶴築港006
ケーソンを沈めている瞬間の写真です。
昭和11年11月30日の日付があり、1枚目3枚目4枚目5枚目と同日の撮影です。
ケーソンとはコンクリート製の箱型で大型の構造物であり、港湾工事等において基礎とするため海底に沈められるものです。
1枚目2枚目の写真に写るケーソンを沈めている瞬間かと思われます。
舞鶴築港007
同じくケーソンを沈めている瞬間の写真です。
日付は年に関しては剥がし跡で隠れており判別不能ですが2月6日となってます。
前出のケーソンの写真とは違い、ケーソンに万国旗が飾られ、多くの見物人がいることから、最初に沈められたケーソンでしょうか。
となると、日付は昭和11年2月6日となります。
舞鶴築港008
同じくケーソンを沈めている写真ですが、この写真だけ判が小さいです。
日付は昭和11年11月30日で6枚目のケーソンと同じものと思われます。

これら一連の写真は舞鶴築港工事の記録写真として撮影されたものと思われます。
また、舞鶴要塞司令部の検閲を受けていますので、公式記録として撮影されたものでしょう。
工事は昭和3年から昭和11年まで行われましたので、この8枚の写真はそのうちの一部になりますが、
元のアルバムがどういう形だったかは不明です。

雑記・築100年になる実家。

実家古写真
築100年となる実家の話です。
他界した祖父が存命中に聞き及んだ話によりますと、私の曽祖父が分家した際、元々地主の屋敷だった建物を3分の1の大きさに縮め、大正4年頃移築したとのこと。なので、元々は明治もしくはそれ以前の建物なのかもしれませんが、棟札も無いので詳しくは分かりません。
実家の建物は典型的な農家建築で、かつては写真のような茅葺き屋根でした。現在は瓦葺きに改めていますが、玄関や廊下、窓の位置は戦前に撮影されたと思われるこの写真と同じで、内部も表と呼んでいる床の間と仏壇のある部屋や1階の間取りは当時のままです。ただし、台所やトイレ、風呂場などの水回りやかつては物置になっていた2階部分は私が子供の頃に部屋に改造されました。
大幅な改造がされているので文化財としての価値はありませんが、それでも大黒柱や梁などの構造体の材木の太さを見れば、旧家なのだなと感じさせられます。
実家には当時の出納帳が残されています。
実家資料1
大正3年の年号がある帳面です。ただし昭和9年のものなどもあり、一つにまとめている感じです。
実家資料2
その中に実家の建物の普請見舞いと大工人夫等の覚書の帳面があります。
大正2年の年号のある帳面で書かれている本家の佐助の二男の蔵冶が私の曽祖父で分家して実家ができたわけです。
祖父は大正4年と話してましたが、帳面には大正2年とあり祖父が生まれる前でもありますので記憶違いなのかもしれません。
大正2年の1913年は、桂太郎内閣が総辞職した大正政変、徳川慶喜死去、戦艦金剛が竣工した年であります。
また、翌年には重要文化財に指定されている東京駅が竣工しました。

古絵葉書・長田野陸軍演習場廠舎

長田野陸軍演習場廠舎正門001
福知山市にある長田野工業団地一帯は戦前まで陸軍の演習場でした。
主に福知山に駐屯していた歩兵第20連隊が演習に使用していましたが、広大な演習地は京阪神の部隊や舞鶴の海軍も演習に利用しました。
この絵葉書は長田野演習場廠舎の正門を写したもので、手前に「陸軍」と刻まれた用地石柱があり、正門の横に歩哨の兵士が立ち、奥に廠舎が並んでいます。
長田野陸軍演習場廠舎貯水場001
長田野陸軍演習場廠舎内貯水場。
演習に来た部隊に水を供給する施設のようです。
貯水場の前に立て札がありますが、ちょっと読みづらいです。
長田野陸軍演習場廠舎は戦後一部開墾されましたが、ほとんどが荒れ地のままでした。
昭和49年、京都府北部の産業振興のため工業団地造成が開始され、現在は39社が工業団地内で稼働しています。
また、旧陸軍時代の演習場の一部は現在も陸上自衛隊の演習場として使用されています。

古絵葉書・須知町安井航空機研究所(安井飛行場)

須知町安井航空機研究所001
現在の京都府京丹波市須知にかつて民間の飛行場がありました。
飛行場を設立したのは安井荘次郎。京都市西陣の出身で飛行士となったあと関東大震災の際には各務原から大阪間の郵便飛行を行いました。
この安井飛行場は後身の飛行士育成のために作られた飛行場でしたが、当時飛行機は珍しく近隣の人が見学に多く詰め掛けたようです。
しかし、昭和2年に飛行機が観客へ突っ込み1人死亡という事故を起こし、安井荘次郎も昭和3年に大阪木津川尻飛行場にて墜落し死亡。その後安井飛行場は閉鎖されたようですが、昭和13年に再び飛行場として陸軍に献納する案が須知町議会で提案されました。しかし、どうやら実現せずその後は畑地へと転用されたようです。

古絵葉書・周山森林測候所

周山森林測候所001
現在の京都市右京区周山にあった測候所です。
詳しいことは分かりませんが、神戸大学電子図書システムの「京都日出新聞 大正6年5月2日」に周山森林測候所の記述がありました。
それによると、大正○年(年判別不能)に農商務省山林局が北桑田郡周山村字周山小字城山に設置したとあります。
周山小字城山は明智光秀築城の周山城跡のある一帯の山。城跡のどこかにあったのでしょうか。
調べてみましたがこれ以上の具体的な情報は分かりませんでした。
<?php include_once("analyticstracking.php") ?>