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 2016年01月 

古絵葉書・宮津 丹後由良全景

丹後由良地区001
現在の宮津市由良地区は由良川河口左岸に出来た集落で元々製塩や廻船業を生業とした村でした。
明治22年に由良村として発足。昭和31年に宮津市に編入され現在に至ります。
大正13年に由良村の側を鉄道が開通し、丹後由良駅が出来たことから由良海岸の海水浴場へのアクセスも便利となり、夏になれば近隣から海水浴客が多く集まり賑わっていたことから村として栄えたようです。
この絵葉書は大正13年7月10日舞鶴要塞司令部検閲済みとの記載があり、そのころの撮影と思われます。
由良村の集落は伝統的な日本建築が立ち並んでいますが、大正末期の集落としては大規模で村の脇を機関車が走っている姿から、由良村の繁栄を物語っています。
現在は京都府有数の海水浴場である丹後由良海水浴場を有し、夏になれば海水浴客でにぎわい冬場はカニ料理などを目的とした観光客が訪れる観光地としての性格が強い地区ではありますが、
由良1

由良2

由良3
現在も地区内には戦前の公民館の建物がいくつか残されており、かつての繁栄を物語っています。
由良地区には140年の歴史を持つ由良小学校がありましたが、2013年3月23日に閉校しました。

※関連記事 古絵葉書・丹後由良小学校本館
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古絵葉書・福知山 養老水公園

福知山市養老水公園001
福知山市長田にある養老水は福知山藩主朽木綱貞が名づけた湧き水で、福知山三名水として古くから知られていました。
戦前に公園化されたようで、絵葉書を見ると養老水の流れ込む小さな池と水の出口は石積みの護岸にされ、池の前には小さな石橋も架けられています。池の脇には明治期に建てられた養老水の由来碑がありますが、この石碑が建てられたころに公園として整備されたのでしょうか。
絵葉書は様式から大正時代のものと思われ、そのころから養老水公園は福知山の名所として知られていたようです。
養老水公園
現在の養老水公園です。
池の護岸や石橋、由来碑の石碑は当時のままで、絵葉書にも写る石碑裏の祠も残されています。
絵葉書に写る手前の杉の木は100年を経て大きく育っています。
逆に絵葉書にはある祠の左の巨木は現在失われ、その場所には昭和42年に建てられた小ぶりの石碑があります。
また、絵葉書にはある池の側の4本の柵柱は現在は撤去されております。
現在は向かいの福知山温泉が多くの人でにぎわう一方、この養老水公園は訪れる人はほとんどなく、公園としても忘れ去られたような雰囲気ですが、100年余り前に撮影された絵葉書の写真とほぼ同じ姿のまま迎えてくれたこの公園に佇むと、かつては多くの人がやってきて水を汲んでいったことであろうと想像をさせてくれます。

古絵葉書・軍事保護院(7枚セット)

軍事保護院001
軍事保護院は明治40年、日露戦争による傷痍軍人を収容する廃兵院を始まりとします。
当初は陸軍省管轄でしたが、大正12年に内務省へと移管。昭和9年に傷兵院と改称。
昭和12年には内務省から分離した厚生省へと移管され、昭和14には傷痍軍人のみならず戦没軍人遺家族・帰郷軍人扶助業務を一元化した軍事保護院が設立されました。
軍事保護院は傷痍軍人や戦病死した兵士の遺族や遺児を援助する互助会のような団体だったと思われます。
この軍事保護院が発行した絵葉書には団体の活動内容などが紹介されています。
続きを読むからご覧ください。
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古絵葉書・株式会社六十八銀行

六十八銀行001
六十八銀行奈良支店は奈良市の電信局跡地に大正15年に建てられました。
設計は日本銀行関連の建築を多く手掛けた長野宇平治。施工は大林組。
六十八銀行は昭和9年に合併して南都銀行となり現在に至りますが、この建物はそのまま南都銀行本店として使用され、
1997年に国指定登録文化財に指定されました。

古絵葉書・兵庫県氷上郡佐治町西部

氷上郡佐治町002
兵庫県氷上郡佐治町は現在の兵庫県丹波市で、大正10年に佐治町が設立。1955年に合併により青垣町となり、2004年の平成の大合併により氷上郡の6町が合併し丹波市となりました。
この絵葉書は様式から昭和10年代のものと思われます。
町の建物の多くはかつて宿場町だったころの面影を残す町屋造りがほとんどを占めてますが、加古川に架かる橋は近代的なコンクリート橋になってます。

古写真・聖橋(個人撮影か)

聖橋001
聖橋は関東大震災後の震災復興事業の1つとして神田川に架けられた橋で昭和2年に完成しました。
設計は東京中央電信局や現在も残る萬代橋・NTT門司電気通信レトロ館・京都タワーを手掛けた山田守。
優美なアーチが特徴的なこのモダンな橋は完成当時から話題となり、現在も多くの作品に登場しています。
聖橋002
2枚目の写真には市電が写されています。神田川の中には小舟が進みのどかな風景を感じさせます。
堤防はまだ整備工事が行われて間もないころのように見えます。
この写真は個人撮影の可能性のもので、昭和初期頃と思われます。
東北地方の発電所や鉄道橋の工事写真に混ざっていたもので、工事に携わった方が参考とするために撮影したのかもしれません。
聖橋003
撮影者が土木関連の技術者だったことを思わせる写真がこの聖橋の模型です。
設計者の山田守が所属していた内務省復興局土木部に展示されていたか昭和5年の帝都復興祭に展示されていたと思われるこの聖橋の模型は、撮影した人が大いに興味を引いたものだったのかもしれません。

古写真・言問橋(個人撮影か)

言問橋001
言問橋は関東大震災後の震災復興事業の1つとして昭和3年に完成した橋で、長大なこの橋は川端康成の小説にも描かれています。
言問橋002
河川敷からの撮影。道の両側に積まれた石は護岸工事用に置かれたものでしょうか。
昭和20年3月10日の東京大空襲の日、言問橋の上は空襲から逃げる多くの人で溢れかえり身動きが取れなくなったところに焼夷弾が降り注ぎ、火災旋風が発生。人々の荷物に燃え移り橋の上は大火災を起こしました。
空襲後の翌朝、橋の上は焼死体で埋まり橋の上は焼け死んだ人々からの脂が橋の上を流れていたそうです。
言問橋は現在も使用されており、東京都選定歴史的建造物に選定されました。
言問橋の親柱には東京大空襲の際の焼け死んだ人々の脂が染みつき黒ずんでおり、亡くなった方々の無念さを物語っています。
また、1992年の改修で取り外された石製の欄干と縁石にも亡くなった方の脂で黒ずんでおり、それらも隅田公園等に保存されています。
この写真は個人撮影の可能性のもので、昭和初期頃と思われます。
東北地方の発電所や鉄道橋の工事写真に混ざっていたもので、工事に携わった方が参考とするために撮影したのかもしれません。

古写真・蔵前橋(個人撮影か)

蔵前橋001
蔵前橋は関東大震災後の震災復興事業の1つとして昭和2年に完成しました。
現在もそのままの姿で使用されています。
この写真は個人撮影の可能性のもので、昭和初期頃と思われます。
東北地方の発電所や鉄道橋の工事写真に混ざっていたもので、工事に携わった方が参考とするために撮影したのかもしれません。

古写真・相生橋(個人撮影か)

相生橋002
相生橋は関東大震災後の震災復興事業の1つとして大正15年に完成した橋です。
戦後も使用され続けましたが、老朽化により1999年に架け替えられました、
この写真は個人撮影の可能性のもので、昭和初期頃と思われます。
東北地方の発電所や鉄道橋の工事写真に混ざっていたもので、工事に携わった方が参考とするために撮影したのかもしれません。

古写真・両国橋(個人撮影か)

両国橋001
現在の両国橋は昭和7年に完成した橋で現在も使用されており、関東大震災後の震災復興事業の1つとして架けられた橋でした。
ただ、先代の明治37年完成の橋は震災でも大きな損傷はなく使用に耐えるものでしたが、他の隅田川に架かる橋とともに架け替えられました。
この写真は個人撮影の可能性のもので架け替え工事の始まる昭和5年までの撮影となります。
東北地方の発電所や鉄道橋の工事写真に混ざっていたもので、工事に携わった方が参考とするために撮影したのかもしれません。

古写真・清州橋(個人撮影か)

清洲橋001
清州橋は関東大震災後の震災復興事業の1つとして昭和3年に完成しました。
ドイツのケルン市にあったヒンデンブルク橋をモデルにしたこの吊り橋は、帝都復興の華と呼ばれました。
モデルとなったヒンデンブルク橋は第2次大戦時の爆撃により失われているため、現在もそのままの姿で使用されている清州橋はその面影を残す橋となり、2000年に土木学会の第一回土木学会選奨土木遺産に認定され、2007年には国指定重要文化財に指定されました。
この写真は個人撮影の可能性のもので、昭和初期頃と思われます。
東北地方の発電所や鉄道橋の工事写真に混ざっていたもので、工事に携わった方が参考とするために撮影したのかもしれません。

古写真・駒形橋(個人撮影か)

駒形橋001
駒形橋は関東大震災後の震災復興事業として架けられた橋で、現在も当時の姿のまま使用されています。
この写真は個人撮影の可能性のもので、昭和初期頃と思われます。
東北地方の発電所や鉄道橋の工事写真に混ざっていたもので、工事に携わった方が参考とするために撮影したのかもしれません。

古写真・永代橋(個人撮影か)

永代橋002
永代橋は関東大震災後の震災復興事業の第1号として大正15年に完成しました。
ドイツのライン川に架かっていたルーデンドルフ橋をモデルに作られたこの橋は帝都東京の門と呼ばれました。
現在も使用されている永代橋は第2次大戦でのドイツ軍とアメリカ軍による激しい戦闘が行われ失われたルーデンドルフ橋の
面影を今に伝える橋となっています。
永代橋は2000年に土木学会の第一回土木学会選奨土木遺産に認定され、
さらに2007年には国指定重要文化財に指定されました。
永代橋001
2枚目の写真には市電が写っています。明治37年から橋の上を走っていましたが、昭和47年に廃止されました。
この写真は個人撮影の可能性のもので、昭和初期頃と思われます。
東北地方の発電所や鉄道橋の工事写真に混ざっていたもので、工事に携わった方が参考とするために撮影したのかもしれません。

※関連記事 古写真・東京永代橋(明治20年代?)

古絵葉書・陸軍歩兵第二十連隊 連隊本部

福知山歩兵第二十連隊本部001
陸軍歩兵第20連隊は明治17年に設立した連隊で、当初は大阪城内にありましたが、明治31年に京都府福知山市に移転。
以後、終戦まで福知山に駐屯し続けました。
この絵葉書は第20連隊の連隊本部の写真です。
全国の陸軍の連隊の建物はほとんどがこういったシンプルなデザインの木造建築でした。
連隊本部と一緒に載せられている連隊長は土居稲生大佐。
土居大佐は陸軍士官学校第16期生で、昭和7年から昭和9年の2年間第20連隊の連隊長を務められた方です。
最終階級は陸軍少将でした。

※関連記事 古絵葉書・福知山歩兵第二十連隊絵はがき(5枚セット) 古写真・明治20年代頃の歩兵第二十連隊(大阪駐屯時代)

古絵葉書・舞鶴要港部舞鶴工作部(舞鶴海軍工廠)

舞鶴要港部舞鶴工作部001
明治34年に設立した舞鶴海軍工廠は大正12年のワシントン海軍軍縮条約による舞鶴鎮守府から舞鶴要港部へと格下げになったのに伴い、舞鶴海軍工廠も舞鶴海軍工作部へと格下げされました。
昭和11年に舞鶴鎮守府へと復帰した際、舞鶴工作部も舞鶴海軍工廠へと復帰、終戦まで駆逐艦建造の中心を担いました。
この絵葉書は舞鶴工作部時代のもので、絵葉書の様式から昭和初期頃と思われます。
舞鶴海軍工廠はその後民間に払い下げられ、飯野産業・日立造船舞鶴工場・ユニバーサル造船舞鶴工場と所有が変わり、
現在はJMU(ジャパンマリンユナイテッド)舞鶴事業所として海軍工廠時代の施設がほぼそのまま使用されています。

※関連記事 古絵葉書・舞鶴海軍工廠 舞鶴海軍海友社

古絵葉書・中部第71部隊(舞鶴重砲兵連隊)

中部第71部隊001
明治30年に設立され舞鶴湾の要塞守備の任務に当たった舞鶴重砲兵大隊は昭和11年に舞鶴重砲兵連隊に昇格しました。
昭和15年、陸軍中部軍設立により中部第71部隊と改称しました。
これは改称後に撮影された営門で、門柱に「中部第七十一部隊」の真新しい看板が掲げられており、
改称間もないころに撮影されたものと思われます。

※関連記事 古絵葉書・舞鶴重砲兵連隊 連隊本部

古絵葉書・大阪朝日新聞九州支社

大阪朝日新聞社九州支社001
昭和12年に現在の北九州市小倉帰宅砂津に建てられた支社ビルです。
設計は竹中工務店。支社ビルの外壁はなぜか迷彩柄になっています。
下関要塞地帯ということもあったのかもしれませんが、建設途中に日中戦争が勃発したため、
陸軍の指導により迷彩を施したそうです。
敵機の空爆に対しての迷彩効果を検証する実験的なものだったのかもしれません。

古絵葉書・航空第三大隊本部

航空第三大隊本部001
航空第三大隊は現在の滋賀県八日市市に設立された陸軍航空部隊です。
大隊本部建物は通常の兵舎と違い、観測用の望楼が屋根の上に付けられています。
航空第三大隊は大正9年に設立され、元々存在していた八日市飛行場に配属されました。
八日市飛行場は戦前戦中を通じて使用され、戦後は廃止。跡地は民間に払い下げられたりしましたが、
現在も大隊の門柱や掩体壕などが残されています。

古写真・大阪府立商品陳列所

大阪商品陳列所006
大阪府立商品陳列所は明治23年に堂島川沿いに建てられた日本初の商品陳列所でした。
ルネッサンス様式の洋館は堂島川に良く映えていたと思われますが、明治42年の大火にて大半を焼失。
仮事務所にて再開した後、大正6年の移転により初代大阪府立商品陳列所は幕を閉じました。
この写真は大火により焼失する前の明治後期頃の撮影と思われます。

古絵葉書・洛東園(東山温泉)

洛東園001
京都市東山区の三年坂近くにあった旅館、東山温泉の一角の敷地の施設です。
東山温泉洛東園古地図
※京都市明細図オーバーレイマップから引用。
立命館大学が公開している「京都市明細図オーバーレイマップ」に洛東園がありました。
敷地はかなり広く、当時としても有名旅館として経営されていたと思われます。
洛東園の絵葉書には洋館が写っています。建物の様式から昭和初期に建てられたものと思われ、
迎賓館的な使われ方をされたのかもしれません。
現在、洛東園の場所はマンションとなっており、洛東園・東山温泉とも失われています。

古絵葉書・朝日製粉株式会社

朝日製粉株式会社001
朝日製粉株式会社は、明治37年5月に現在の京都市下京区に設立した小麦粉製造会社です。
大正4年、東洋製粉株式会社に吸収。さらに大正9年に現在の日本製粉株式会社に吸収されまが、
京都工場はいつの頃からか閉鎖されたようで現在は存在していません。
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