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 2016年05月 

古絵葉書・片翼の九六式艦上戦闘機(樫村機)

樫村機001
片翼を失いながら飛行する戦闘機、これは中国戦線で中国軍機のカーチス戦闘機と交戦した際に敵機と空中衝突をし、片翼1/3を失った状態で帰還した樫村寛一兵曹長の九六式艦戦です。
帰還した樫村兵曹長は新聞やニュース映画などで大きく報道。「片翼帰還の英雄」として日本中を沸かせました。
当時のニュース映画に片翼帰還の映像が残されています。

※読売ニュース「片翼誉高し猛鷲樫村機」
樫村兵曹長は功五級金鵄勲章を受章。片翼を失いながら帰還した樫村機は日本に運ばれ、東京の海軍館にて展示されました。
この絵葉書は昭和13年8月22日に海軍館に展示されていた樫村機を見学し帰りにお土産として買った絵葉書でしょう。
観覧記念のスタンプが押されておりスタンプの絵柄もちゃんと片翼の樫村機となっています。
絵葉書の写真は現地で撮影されたものだと思いますが、機体周りの処理がちょっと不自然に見えることから、背景の空と合成して加工したものと思われます。
樫村機はしばらく海軍館で展示された後、江田島の海軍兵学校へ移され展示されていたようですが、終戦時にGHQからの追及を恐れ、破棄されたそうです。
樫村寛一兵曹長は昭和18年3月6日、ソロモン諸島ルッセル島上空で米軍機F6Fワイルドキャットとの戦闘により戦死しました。
日中戦争当時、片翼を失いながらも帰還した兵士に対して日本中から称賛され軍も戦意高揚目的とはいえそれを認めて金鵄勲章を授与したのに対し、大戦末期では生きて帰るなという特攻作戦が主流となり生還すると罵られたのを考えると多選末期の日本がいかに余裕がなかったのかか分かります。
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古絵葉書・舞鶴 堀澤外科病院

堀澤外科医院001
現在も東舞鶴駅の近くで開業されている堀澤医院の戦前の姿を写した絵葉書です。
堀澤外科病院の遠景。手前の日本建築が院長家族の生活の母屋、隣の洋館が病院本館と思われます。
奥に屋根だけ見える洋館は病棟です。
堀澤外科医院003
堀澤外科病院の本館。平屋ですが洒落た洋館です。
病院の家族の方や看護婦さんらの従業員たちが記念写真のような形で写っています。
横には自動車が。当時一部のお金持ちしか持てなかった自動車があるこの病院は
舞鶴市内でもかなり大きな病院だったのでしょう。
右上の人物は堀澤院長。海軍中佐の階級章で軍医さんだったと思われます。
戦前の舞鶴には海軍の病院である舞鶴海軍病院や舞鶴海仁会病院がありましたが、それらは軍人やその家族を対象とした病院であり、市民に開かれた病院として舞鶴海軍工廠の職員のための舞鶴海軍工廠職工共済会病院がありましたが、この堀澤外科病院はより市民に身近な町の病院だったと思われます。
ただ、院長さんが海軍の軍医さんしかも中佐という階級であることから、海軍の軍人さんにも多く診察していたことでしょう。
堀澤外科医院004
堀澤外科病院の病舎。外科医院なので手術した患者が入院する病棟が必要となります。
下見板張りの洋風の病舎からは従業員らしき女性たちがベランダから顔を出してます。
玄関周りには白衣の方たちが。その中でも一番左の玄関の真ん前の方、どうやら堀澤院長のようです。
堀澤外科病院は最初に述べましたように現在も堀澤医院として同じ場所で開業されています。
洋館の病院本館や病舎は建て替えられ現存してませんが、母屋はどうやらそのまま残されているようです。

古絵葉書・九七式重爆撃機(浜松陸軍飛行学校所属機)

九七式重爆撃機001
旧陸軍が九三式重爆撃機の後継機として昭和12年に採用した爆撃機で日中戦争から太平洋戦争初期までの間、陸軍の主力爆撃機として活躍しました。
正式採用時は世界的に見ても高速で優れた機体として重慶爆撃・ノモンハン事件・太平洋戦争の緒戦で使用されました。
大戦後期の昭和18年には旧式化が目立ち始め後方任務や夜間爆撃の任務に使用。
それでも後継機の100式重爆撃機「呑龍」の実戦配備の遅れから大戦末期まで使用され生産数も2055機に上りました。
絵葉書の九七式重爆は浜松陸軍飛行学校の所属機で、垂直尾翼に「ハマヒ」を図案化した部隊マークがあります。
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