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 2016年09月 

古写真・金山尋常高等小学校(天田郡志資料 昭和11年版より)

金山尋常高等小学校
昭和11年版天田郡志資料に掲載されている金山尋常小学校の写真です。
金山尋常高等小学校は明治6年の創立で元は博愛舎という校名であり、大正6年に金山尋常高等小学校と改称しました。
戦後に金山小学校と改称しましたが、1991年に市内の天津小学校と統合し廃校。
旧金山小学校の校舎は取り壊され、跡地は老人介護施設となっています。
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古絵葉書・川崎銀行五条支店本館

川崎銀行五条支店本館001
絵葉書のキャプションには「五条支店本館」とだけ書かれていますが、建物の正面ペディメントの下に「川崎銀行五条支店」の文字が確認できます。
川崎銀行は東京川崎財閥によって設立した銀行で戦前は全国各地に支店を展開。戦後の財閥解体で東京川崎財閥は消滅しましたが、川崎銀行は日本信託銀行として存続。現在は東京三菱UFJ銀行に吸収されています。
この五条支店は京都市左京区五条橋にあり、大和大路通の西に在りました。
川崎銀行五条支店2
※立命館大学「京都市明細オーバーレイマップ」より引用。
昭和初期の古地図に「川崎銀行五条支店」の記載があります。
川崎銀行五条支店のあったこの場所は現在、五建ビルという建物になっています。

資料・福知山市 天照玉命神社の氏子札(明治5年発行)

天照玉命神社氏子札表
古写真・古絵葉書の資料ではありませんが、地元の郷土史に関わる良資料であり、私にとって馴染み深い神社の資料なので紹介します。
福知山市今安にある「天照玉命神社」の氏子札です。
明治5年に発行されたもので、表に「丹波國天田郡榎原村父(個人名)次女」「今安天照玉命神社氏子」
「(個人名)」「慶応四戊辰年四月廿四日生」
天照玉命神社氏子札裏
裏に「(個人名)」「明治五年壬申年三月廿一日」と書かれ、表には天照玉命神社の社印が押されています。
これは、明治4年に明治政府により制定された「氏子調」による札で、太政官布告により江戸時代までの戸籍制度だった寺請制度に代わるもので、それまで寺が行っていたものを神社が代わりに請け負った制度です。
※wikipedia「氏子調」
制度としてはまず戸長に届けてその証書を地区の郷社へ持参し、そこで神社から氏子札を発行してもらい、それが個人の証明書になり同時にその郷社の氏子に登録されました。
氏子札を発行していたのは郷社格の神社のみだったようです。
郷社は今でいう学区単位くらいにあった神社で、府県社以上だと規模が大きすぎ、村社以下だと無住も多く規模が小さすぎるため、郷社が担当したのかもしれません。いわゆる村役場的な役割だったのでしょう。
戸籍制度が寺院の寺請制度から神社の氏子調へと移行した背景には、政府の神道国教化、長年にわたる寺院および仏教界の権力集中の打破等の目的があったようです。
しかし、氏子調はわずか2年後の明治6年に廃止。その後は役場が担当することになりました。
天照玉命神社
※Googleストリートビューより画像引用。
さて、この氏子札を発行した今安地区の天照玉命神社ですが、平安時代の延喜式にも記載されている式内社であり歴史のある神社です。遠目からも鎮守の杜が目立つ神社で地区の人は大人も子供も「今安のてんしょうさん」と親しみを込めて呼んでました。
私も子供の頃、同じ学区内にあり通学路の途中にあったこの神社で下校時はよく同級生と境内で遊んだりしました。天照玉命神社の前は高校卒業まで毎日通過し、本当に身近な神社でした。
そんな馴染み深く思い出深い神社の150年前の歴史資料を手にしたのは一種の感慨深さを感じました。
この氏子札に書かれている人物は私とは全く縁のない方ですし、榎原村も私の実家の村から割と離れた村で私とは直接関わりがあるわけではありませんが、それでも馴染みのある神社の郷土資料を手に出来たのは意義深く、大切に保管し伝えていく責任を負ったことになります。

古絵葉書・二式複座戦闘機・屠龍(愛国 第6154号献納機)

愛国第六一五四献納機(屠龍)001
二式複座戦闘機は昭和17年より運用開始された陸軍の双発戦闘機で、特に戦争末期の本土防空の迎撃戦に活躍しました。
単発単座の一式戦闘機隼や二式戦闘機鍾馗に比べ運動能力が大きく劣った屠龍は通常の航空戦では敵の戦闘機に対して不利で撃墜されることが多く、逆に迎撃機として本領を発揮した機体と言えます。
この献納機の屠龍は昭和19年2月1日に京都の鴨川高等女学校(現・京都府立鴨沂高校)によって献納された機体で、朱雀号と名付けられています。
愛国第六一五四献納機(屠龍)002
屠龍「朱雀号」の写真。迷彩は大戦末期に塗料の節約のために多く施されたマダラ迷彩です。
愛国第六一五四献納機(屠龍)003
飛行する屠龍。献納された時期は戦争も末期に差し掛かった昭和19年2月で、献納は昭和20年まで行われましたが、記念の絵葉書を作る余裕は次第になくなってきているようで、戦争前に比べて数は少なくなりこの絵葉書の袋も質が落ちています。
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