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 2016年10月 

古絵葉書・30瓲(トン)積四輪ボギー重油槽車(大阪鉄工所製作・昭和10年4月)

30トン積四輪ボギー重油槽車001
大阪鉄工所が昭和10年4月に製作した四輪ボギーの30トン積み重油槽車です。
ボギー車とは水平方向に回転可能な台車を持つ車両です。
これは、車輪を4軸持つ四輪のボギー台車の重油槽車、つまりタンク車で、日本窒素肥料株式会社(現・チッソ)に納入されたようです。恐らく自社工場内の引き込み線で使用されたものでしょう。
大阪鉄工所は明治14年に創業した企業で、大正3年に株式会社大阪鐵工所へと改組。昭和11年に日立製作所が大阪鉄工所の全株を買収し傘下に。昭和18年に日立造船株式会社に社名変更し現在に至ります。
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古絵葉書・電動鉱石車(大阪鉄工所製作・昭和8年8月)

電動鉱石車001
大阪鉄工所製作の鉱石車、いわゆるホッパー車で昭和8年8月に完成したもののようです。
大阪鉄工所は明治14年に創業した企業で、大正3年に株式会社大阪鐵工所へと改組。昭和11年に日立製作所が大阪鉄工所の全株を買収し傘下に。昭和18年に日立造船株式会社に社名変更し現在に至ります。
この電動鉱石車は鉱山などで取れた鉱石や砕石などを運搬していた貨車で、下の蓋が空いて鉱石が落ちる仕組みになってます。名前の通り電動式で開閉するのでしょうか。

古写真・海軍省(築地時代初代庁舎)

築地海軍省002
海軍省と言えば通称「赤煉瓦」と呼ばれた霞が関にあったジョサイア・コンドル設計の庁舎が有名ですが、赤煉瓦の庁舎は2代目で、初代庁舎は築地にありました。「東京海軍省」とキャプションのあるこの古写真は築地時代の初代海軍省庁舎です。
初代海軍省は明治5年に築地の旧尾張藩邸に設立され、旧藩邸庭園の築山に旗を立てたことから、旗山と呼ばれていました。
当時は海軍本省と呼ばれ、築地一帯はこの海軍省や後の海軍兵学校となる海軍兵学寮など海軍関連の施設が建ち並んでいました。
初代海軍省001
以前紹介した初代海軍省庁舎の横からのアングル。明治4年に完成した海軍省初代庁舎は中央屋根に塔屋を持ちファザードにはバルコニーを持つ玄関が設けられた擬洋風建築ですが、全体の壁は伝統的なナマコ壁で日本瓦を葺くなどまるで土蔵のような外観です。それでも当時はモダンに見えたのか新たな東京の名所として錦絵に多く描かれました。
海軍省初代庁舎は明治17年ごろに取り壊され、明治28年に2代目の赤煉瓦の庁舎が竣工しました。
この古写真は明治4年から明治17年までの撮影となります。

※関連記事 古写真・海軍省(築地時代の初代庁舎) ※側面からの遠景写真

古写真・川口波止場

川口波止場001
大阪市西区川口地区にはかつて外国人居留地が存在しました。川口居留地と呼ばれる外国人街で明治元年に完成。それに先行する形で慶応4年に作られたのが川口波止場でした。
川口波止場は大阪の玄関口として安治川に開港された河川港で大阪に初めて作られた港であり、当時大阪港と言えば川口波止場を指しました。
黒船来航による日本の開国以来日本各地で開港されていきましたが、この川口波止場もその一つであり、現在「大阪開港の地」と刻まれた記念碑が建てられています。
川口波止場003
古写真の右上には「川口波戸 安治川ノ南岸ニ在リテ此所汽船発着ノ地ニシテ頗ル繁賑セリ」とキャプションがあり、写真には汽船が縦に並んで停泊している様子から大阪の玄関口としてかなりにぎわっていた様子がうかがえます。
大阪港の発祥となった川口波止場ですが、河川に作られた港であったことから次第に大型化する船舶の受け入れに支障をきたすようになり、明治30年頃から海に向かって新たな築港工事が開始。大阪港としての機能が海側に移ったことにより川口波止場は役割を終え衰退しました。
川口居留地004
以前紹介した川口居留地の古写真。
川口居留地は明治32年に廃止されたものの、街としての機能は衰退することなく発展し大正期まで大阪の中心であり続けました。
現在、川口波止場や川口居留地の面影は失われ、記念碑だけが残されています。

※関連記事 古写真・大阪 川口居留地

古絵葉書・市原発電所

市原発電所001
市原発電所は石川県白山市にある水力発電所で大正9年に運用開始されました。
現在は北陸電力の所有で、明らかに戦前の頃の建物と思われる鉄筋コンクリート造の建屋がそのまま使われていますが、絵葉書の建屋は木造で、運用開始当時は木造だった建屋が大正末期か昭和初期に現在の建屋に建て替えられたようです。
市原発電所002
市原発電所水圧鉄管。この水圧鉄管も当時のまま使われているようです。

古絵葉書・白川発電所

白川発電所001
白川発電所は奈良県吉野郡上北山村にある水力発電所で、大正10年に運用開始になりました。
当初は大和電気という土着の電力会社だったようですか、絵葉書には宇治川電気株式会社白川発電所となっています。
大正10年、大和電機は宇治川電気に吸収合併され白川発電所の使用認可を受けていることから、白川発電所の建設中に吸収合併され、そのまま大和電気から宇治川電気へと引き継がれたのではないかと思います。
宇治川電気は戦前の電力会社の大手「五大電力」の一つで関西地方を中心に広く電力事業を手掛けていましたが、昭和17年に国家総動員法による解散を受け現在は関西電力の所有になっています。
所有の白川発電所の絵葉書は6枚組となっており今は失われてますが、かつては外袋に収められていたと思われます。

残りの5枚は「続きを読む」からご覧ください。
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古写真・酵素パパナ工場(坂酵素研究所 現・日本酵素薬品株式会社か?)

酵素パパナ工場001
戦前の工場を撮影した写真です。工場名は記載されていないのでわかりませんが、煙突に「酵素パパナ工場」の文字が書かれています。
調べましたところ、戦前に「パパナ錠」という酵素消化薬があり、それを製造販売していた「坂酵素研究所」という会社があったことが分かりました。
坂酵素研究所は昭和15年に京都市で開業した会社で、前出の通り「パパナ錠」を発売。昭和22年に坂酵素工業所に改称。昭和31年から日本酵素薬品株式会社と改称し現在に至る企業で主に入浴剤を製造販売しているようです。
日本酵素薬品株式会社のHP

古写真・国家総動員服工場

国家総動員服工場002
建物に大きく「国家総動員服工場」と書かれている写真です。
国家総動員法が制定されたのは昭和13年4月1日。以後日本国内は官民問わず戦時下体制をとることとなりました。
この工場も元々は服飾関連の工場だったのでしょうが戦時下体制により国家総動員服工場へと転換したと思われます。
工場の前には線路が通り、もしかしたら専用の引き込み線を持つ大きな工場だったのかもしれません。
国家総動員服はいわゆる国民服のことだと思われます。日本における国民服に関する法律「国民服令」が制定されたのは昭和15年11月1日。戦時下の物資統制による合理化のために制定されました。いわゆる軍服色であるカーキ色をした国民服は終戦後まで使用され続けました。
国家総動員服工場003
工場の敷地内のグラウンドで体操をしている写真。始業前の朝礼でしょうか。
体操をしている人々を見たら学生服を着ている10代の若者に見えます。当時の旧制中学や女学校の生徒でしょうか。
軍需関連の工場への学徒動員が戦争も末期に近い昭和19年。ただその頃は女子学生はいわゆる戦時下の女性の服装として知られているモンペを着用していたと思われるので、これは工場の企業が運営する工場内もしくは企業内の学校か青年学校の生徒かと思われます。女子学生のモンペは戦争中期の昭和18年ごろまではスカート着用が多かったようで、実際昭和17年に制定された女性の国民服である婦人標準服はワンピースのようなスカート姿でした。
戦時下の女性にモンペが広まり女子学生の制服にモンペが採用されたのが昭和19年。都市空襲の脅威が身近に感じられるようになったころからでした。
この2枚の古写真の撮影された場所、国家総動員服工場については場所等不明ですが、時代的に昭和14年頃から昭和18年頃までのものと思われ、戦時下の様子を知ることのできる資料です。

古絵葉書・田附商店

機能主義建築001
※ツイッターのフォロワー様からの情報で判明しました。ありがとうございました。
田附商店は近江商人であった田附政次郎により明治35年に設立した綿業問屋でした。
田附政次郎は後の東洋紡や日清紡の設立にも関わった人物で、「田附将軍」とも呼ばれるほど綿業界に大きな影響力を持った人物でした。
この田附商店は岡田信一郎の設計・大林組の施工により昭和11年に東区備後町に建てられた本店で、時代を現した機能主義的建築となっています。
機能主義建築005
営業室というキャプションがある絵葉書。左奥にカウンターの窓口らしきものが見えます。
機能主義建築006
第一応接室。機能主義スタイルなので装飾は廃しているとはいえ、贅を尽くした造りとなっています。

古絵葉書・中舞鶴郵便局

中舞鶴郵便局001
かつて舞鶴鎮守府庁舎が建っていた丘の下にあった中舞鶴郵便局の戦前の絵葉書です。
郵便局庁舎の裏にわずかに見えている丘に舞鶴鎮守府がありました。
絵葉書の中舞鶴郵便局は現存してませんが、同じ場所で今でも中舞鶴郵便局が存在し営業しています。

古写真・京浜電力株式会社第一期工事写真(竜島発電所・横浜変電所)

京浜電力株式会社第一期工事 001
京浜電力株式会社は大正9年に設立した電力会社で、一旦休業したあと東京電燈株式会社の支援により再開しました。
この古写真の冊子は大正12年に完成した長野県東筑摩郡波田町にある竜島発電所と神奈川県横浜市戸塚区にあった横浜変電所に関連する第1期土木工事を記録したものです。
竜島発電所は京浜電力から合併後の日本発送電へと移管。戦後は東京電力の所有となり一度廃止になったあと再び再利用され、現在は東京電力の子会社の東京発電が所有しています。

以下に収録されている古写真を紹介します。「続きを読む」からご覧ください。
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古写真・甲鉄艦 扶桑艦

扶桑艦001
扶桑艦は創立間もない日本海軍がイギリスに発注した軍艦であり日本海軍の草創期を支えた軍艦の1つで、これまでに配備された木造船に鉄板を張った艦とは違い、日本海軍が初めて所有した全金属製の船体を持つ近代的な軍艦でした。
扶桑艦は明治8年にイギリスにて建造され明治11年に竣工。日本海軍に引き渡され日本海軍草創期の主力艦として位置しました。
明治26年には近代化改装を受け日清戦争にも従軍しましたが、そのころにはすでに旧式でありあまり活躍しなかったようです。
明治30年には巡洋艦「松島」と衝突事故を起こし沈没しましたが、引き上げられ翌年には復帰。
しかし、老朽化には勝てず明治41年に除籍しました。
扶桑艦002
古写真の台紙裏の書き込み。この写真は横須賀港に停泊中の扶桑艦を撮影したもののようです。
日清戦争及び黄海海戦の記載はあるものの、日露戦争の記載はないので、日清戦争後で日露戦争開戦前に撮影された写真だとわかります。

古写真・御召艦 迅鯨か

迅鯨艦001
台紙裏に「ジウンケイカン」と書かれ、明治初期の日本海軍艦艇に該当する艦名の軍艦に迅鯨「ジンゲイ」しか近い名前が当てはまらないこと、写真に外輪が写っていることから迅鯨と判断しました。
迅鯨は明治6年に横須賀造船所にて起工し明治14年竣工。8年もかけて建造されたこの艦は御召艦として建造されただけのことはありかなり豪華な内装だったと言われています。
しかし、外輪船という時代遅れさもあり明治19年には水雷練習艦として転用されました。
そして明治42年に除籍されました。
迅鯨艦003
台紙の裏には「ジウンケイカン」の文字があり、該当する艦は迅鯨艦かと思われます。
迅鯨艦について調べますと、真横から撮影した写真はいくつかありましたが、斜め前から撮影したアングルはこの写真くらいでした。

古写真・コルベット 筑波艦

筑波艦001
筑波艦は元イギリス海軍所属の「マラッカ」として1854年に竣工した木造コルベットの軍艦であり、日本海軍の草創期を支えた軍艦の1つです。
1854年は日本でいえば幕末の嘉永6年。ペリーが浦賀に黒船を率いて現れた年です。
日本ではまだまだ江戸幕府の体制の中、英領ビルマ警備のために建造されたこの艦は明治3年に設立したばかりの日本海軍が購入。当時はまだ陸・海軍省は無く、その前身である兵部省でした。明治8年からは海軍兵学寮の練習艦として使用されました。
明治27年の日清戦争時にはすでに老朽化しており軍港警備に使用。そして明治38年に除籍されました。
筑波艦003
写真の台紙には「ツクバカン」と書かれています。
明治20年までは軍艦名の後ろには正式には「艦」が付きました。
この筑波艦の写真は日本海軍黎明期を物語る軍艦として貴重かと思われます。
なお、筑波艦の古写真は帆を張った写真は知られてますが、帆を畳んだ写真は見かけないように思われます。

古絵葉書・敦賀税関

敦賀税関001
敦賀市の敦賀港は戦前、主にロシアとの貿易港としてまた国際郵便の到着駅として栄え、多くの官公庁や銀行が建ち並びました。
この敦賀税関も敦賀港の顔として戦前から戦後まで役目を果たしました。
この絵葉書は昭和10年代の撮影と思われるものです。
奥に見える2棟の煉瓦倉庫は現在も残る明治38年完成の「敦賀赤レンガ倉庫」。2009年に国指定登録有形文化財に指定されたこの建物は、現在の敦賀港のシンボルになっています。
敦賀
こちらは以前紹介した大正期の頃と思われる敦賀税関。
明治期らしいデザインの税関です。上記の敦賀税関の建物は大正末期から昭和期に建て替えられたものと思われます。
敦賀港は大戦中に杉原千畝がユダヤ人に対して発行したビザにより多くの亡命してきたユダヤ人が入港。
敦賀港は「人道の港」と呼ばれ記念碑が建てられています。
敦賀税関は昭和41年に建て替えられ、跡地は敦賀港湾合同庁舎となっています。

※関連記事 古絵葉書・敦賀名所 税関と桟橋

古絵葉書・岩吹堰堤

岩吹堰堤001
京都府南丹市美山町の美山川にある堰堤です。昭和10年代の撮影と思われます。
現在では何の変哲もない堰堤ですが、完成した当時は山奥の村落にとって一大工事だったと思われ、絵葉書になるほど名所として扱われたのでしょう。
現在も岩吹堰堤は存在し釣りの名所となっているようですが、川魚の遡上に障害を生じているようで、
魚道の設置が計画されているようです。

古絵葉書・小倉偕行社

小倉偕行社001
現在の北九州市小倉区にあった偕行社です。
偕行社は陸軍将校の親睦会で各師団に存在し将校用の各種軍装品、飲食施設や宿泊施設も備えていました。
小倉の第12師団は大正15年の宇垣軍縮での移転により小倉城にあった師団施設は廃止。
歩兵第14連隊はそのまま存続しましたが、関東大震災により壊滅した陸軍造兵廠東京工廠の移転先として14連隊の敷地が当てられ、14連隊も小倉区の北方へと移転しました。
この小倉偕行社の絵葉書には「小倉市北方歩十四連隊前」と書かれており、歩兵第14連隊移転後に新設されたものでしょうか。
建物も昭和初期らしいモダンなデザインとなってます。
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