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 2016年11月 

古絵葉書・長崎 出師橋(手彩色絵葉書)

出師橋002
明治後期頃撮影の長崎市の出師橋の手彩色絵葉書です。
出師橋は明治37年に出島の海側を埋め立てて造られた長崎港湾第2期改良工事にて同時に造られた鉄橋でした。
出師橋の名前の由来は日露戦争に第6師団が出島からこの橋を渡って出征したことにちなみます。
絵葉書にあるように橋名を掲げたトラス式の鉄橋は明治期の日本において全国で造られました。
左側に見える大きな洋館は明治24年竣工の長崎税関。煉瓦造ですが長崎大学所蔵の古写真を見るとモルタルらしきものを外壁に塗っているためこの絵葉書に着色された赤煉瓦庁舎のような赤い壁ではなかったはずですので、着色時に煉瓦という情報だけを聞いて実物を見ていない職人がイメージで赤く塗ったのかもしれません。この長崎税関は昭和3年完成の新庁舎完成まで使用されました。
出師橋は昭和33年に区画整理により取り壊されました。
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古絵葉書・京都新京極(手彩色絵葉書)

新京極001
明治後期頃の新京極通を撮影した手彩色絵葉書です。
京都の新京極通は明治4年に完成した通りで、明治の中頃から見世物小屋や芝居小屋などが建ち並び始めました。
この絵葉書にも「遊技場」と書かれた提灯の下がる建物などが見えます。
大正・昭和期に入ると松竹座・京洛劇場・京宝会館などの劇場や映画館が建ち並び、京都市内の歓楽街として大いに賑わいました。
新京極通は絵葉書の風景とは大きく様変わりしましたが、現在も京都の観光客にとって定番の観光地となり、近年はMOVIX京都などのシネコンや一般の商店も建ち地元の人含め多くの人たちでにぎわっています。

古写真・昭和17年頃の軍旗祭の出し物「地球の大掃除」(祖父のアルバムより)

地球の大掃除001
祖父の軍隊アルバムにあった昭和17年ごろの軍旗祭の出し物の古写真です。
恐らく敦賀の連隊時代に撮影したものと思われます。
地球儀の上に左からムッソリーニ、東条英機、アドルフ・ヒトラーが乗っかり竹箒をふるって地球を掃いており、
地球儀の下には「地球の大掃除」のプレートが置かれています。
日本・ドイツ・イタリアの3国での軍事同盟である日独伊三国同盟が締結されたのが昭和15年。それ以来3国は枢軸国としてアメリカ・イギリス・オランダ等の連合国と対立することになっていくわけですが、この軍旗祭での出し物は枢軸国として世界を統治する意気込みを現したものでしょう。
当時の世相を物語る興味深い1枚かと思います。

古絵葉書・駆逐艦嵐進水記念絵葉書

駆逐艦嵐進水記念絵葉書002
駆逐艦嵐は陽炎型駆逐艦の16番艦として昭和14年に舞鶴海軍工廠において起工。昭和15年に進水し昭和16年に就役しました。
この絵葉書は嵐の進水を記念して関係者に配られた絵葉書です。
嵐は第四水雷戦隊第四駆逐隊に所属し太平洋戦争の緒戦に参加。ミッドウェー海戦では大破した赤城の雷撃処分を担当しました。
その後は輸送任務等に参加しましたが、昭和18年にソロモン海海戦において敵駆逐艦の雷撃により沈没しました。
余談として「嵐」という字は縦に書くと「山風」とも読めるため、白露型駆逐艦の8番艦「山風」への郵便物の誤配が多く片仮名で「アラシ」とルビを振る通達があったそうです。

古絵葉書・駆逐艦野分進水記念絵葉書

駆逐艦野分進水記念絵葉書001
駆逐艦野分は陽炎型駆逐艦の15番艦として昭和14年に舞鶴海軍工廠にて起工、昭和15年に進水し昭和16年に就役しました。
この絵葉書は野分の進水を記念して関係者に配られた絵葉書です。
野分は第四水雷戦隊第四駆逐隊に所属し太平洋戦争の緒戦に参加。ミッドウェー海戦では大破した赤城の雷撃処分を担当しました。その後は輸送作戦等に参加し、昭和19年のレイテ沖海戦において敵艦隊の集中攻撃により救助された筑摩の乗員を含め全員戦死しました。

古絵葉書・豊郷倶楽部

豊郷倶楽部001
※龍岡様よりコメント欄にて情報をいただきました。ありがとうございました。
豊郷倶楽部とキャプションのある古絵葉書です。絵葉書を見ると、広い敷地に表門・数寄屋風の主屋にハーフチンバーの洋館とかなりのお屋敷であり、紀念スタンプの「豊郷倶楽部竣工記念 大正二年」より大正2年に完成したことが分かります。
豊郷町と言えば現在の伊藤忠商事や丸紅の伊藤忠財閥を創立した伊藤忠兵衛の出身として知られます。
この豊郷倶楽部は兵庫県住吉村、現在の兵庫県東灘区住吉にて丸紅の従業員のための保養所として作られた施設のようです。

古写真・下関要塞 演習砲台(数珠山砲台・丸尾山砲台)か

下関教練砲台
サイズが大きく画像には収まり切れませんでしたが、写真の上部に「重砲兵二十四珊加農砲教練」のタイトルがあり、下部に「下関要塞司令部許可」「大正三年八月一日発行」の文字があります。
下関要塞は明治20年頃より建設が始まり明治28年に要塞司令部がおかれました。
ただし、大正期になると不要とされたのか下関要塞の各砲台のいくつかは民間に払い下げられるようになり、陸軍の演習用の砲台としても利用されました。
演習砲台として利用された砲台は数珠山砲台・丸尾山砲台・隠山砲台・関山砲台で、うち24センチ加農砲が置かれたのは数珠山砲台・丸尾山砲台だったらしく、この古写真の砲台はそのうちのいずれかだったのでしょうか。

古写真・大津トンネル(逢坂山トンネル)

逢坂山隧道001
「大津トンネル」のキャプションがありますが、明治初期に建設された逢坂山トンネルかと思われます。
逢坂山トンネルは大津~京都間を繋ぐ東海道線のために掘削された鉄道トンネルで、明治11年に完成しました。
逢坂山トンネルは当時は主流だったお雇い外国人技師の力を借りず全て日本人の手により工事が行われました。
明治31年には複線化により上り線のトンネルが完成。以後、明治期を通じて東海道線のトンネルとして使用されましたが、
大正10年に新線の新逢坂山トンネルが完成すると旧逢坂山トンネルは役目を終えました。
戦時中は地下工場として航空機の部品工場として稼働していましたが、戦後の名神高速道路建設により西口が埋め立てられ消滅しましたが、東口は現存し、貴重な明治初期の鉄道土木遺産・近代化遺産として鉄道記念物及び近代化産業遺産に指定され保存されています。
この古写真の逢坂山トンネルは現存する東口か消滅した西口か分かりませんが、明治31年に完成した複線の上りトンネルが写っていないように見えるので、複線化以前の撮影かと思われます。

古絵葉書・昭和初期頃撮影の峰山町(現・京都府京丹後市峰山町)3枚

峰山町001
現在の京都府京丹後市峰山町の昭和初期頃撮影の絵葉書です。キャプションに「復興ノ峰山町全景」とあります。
昭和2年に発生した北丹後地震は丹後半島一帯に大きな被害をもたらしこの峰山町も甚大な被害を受けました。
この絵葉書は震災の被害から復興を遂げた峰山町を撮影したもので、左奥の小高い丘に現在も残る昭和4年完成の丹後震災記念館が見えることから昭和4年以降の撮影と分かります。峰山町002
「峰山駅通ノ景」のキャプションのある2枚目の絵葉書。左に写る3階建ての日本建築は旅館でしょうか。
右手の洋風建築には「山海陶器店」と書かれています。峰山駅は現在、京都丹後鉄道となっています。
峰山町003
「峰山本町通ノ景」のキャプションのある3枚目。峰山町のメインストリートです。
左の洋館は昭和4年竣工の丹後商工銀行。
丹後商工銀行2
以前記事にした丹後商工銀行の絵葉書。建物は失われ現在は京都銀行峰山支店となっています。

※関連記事
古絵葉書・丹後商工銀行新築記念絵葉書

古絵葉書・鳴門要塞 門崎砲台もしくは行者ヶ岳砲台か

鳴門要塞・門崎砲台もしくは行者ヶ岳砲台
鳴門要塞は明治30年に着工した要塞で、当初は独立した要塞地帯でしたが、明治36年に由良要塞と合併したあとは由良要塞所属の鳴門地区砲台として運用されました。
鳴門要塞には門崎砲台・笹山砲台・行者ヶ岳砲台の砲台が3つ。柿ヶ原堡塁砲台の堡塁が1つあり24センチ榴弾砲などを設置していました。
絵葉書には24センチ榴弾砲が砲座に設置されている様子が撮影されています。
由良要塞は由良地区・友ヶ島地区・加太地区の三つの地域と鳴門地区に21の砲台と8つの堡塁を備えた大規模な要塞地帯でしたが、24センチ榴弾砲を設置していたのは鳴門地区の門崎砲台と行者ヶ岳砲台だけだったようで、深山重砲兵連隊が運用していたかはわかりませんでしたが、この絵葉書の砲台は上記の理由からそのいずれか2つの砲台だった可能性があります。

ところで、戦前の日本の要塞地帯には軍事機密を守るため、明治32年を制定された「要塞地帯法」という法律がありました。要塞地帯法は要塞地帯に指定された地域内では無許可での写真撮影やスケッチなどの記録は厳しく制限され、新聞に知らずに掲載された背後の山が実は砲台のある山で軍から差し止めを食らったという話もありました。
なので、この深山第一砲台の絵葉書のように砲台そのものが撮影され絵葉書となって販売されることはありえないのですが、この絵葉書が発売されたのは恐らく昭和10年代。その頃は航空機が発達し沿岸砲台の戦略的価値が低下しており、そのため砲台の絵葉書が発売されるくらいまで緩和されたのでしょうか。
現在、門崎砲台や行者ヶ岳砲台は鳴門大橋の工事やその他の道路工事等で大きく損壊し、一部を残してほぼ失われているようです。この絵葉書が門崎砲台もしくは行者ヶ岳砲台のいずれかを撮影したものであれば、今は失われた砲台の戦前の現役当時の砲台の運用の様子を今に伝える興味深い絵葉書資料です。

※関連記事・古絵葉書・由良要塞 加太地区 深山第一砲台

古絵葉書・由良要塞 加太地区 深山第一砲台

由良要塞・深山第一砲台001
日本と清の緊張が高まった明治22年に建設が決定した由良要塞は大阪湾へ侵攻してくる敵艦隊を紀淡海峡で迎え撃ち進入を阻止する要塞でした。その重要性から由良要塞は淡路島東部と和歌山県西部にまたがる由良地区・友ヶ島地区・加太地区の三つの地域と明治36年に編入された鳴門地区に合わせて21の砲台と8つの堡塁を備えた大規模な要塞地帯でした。
この絵葉書は加太地区にあった深山第一砲台を撮影したものです。
深山第一砲台は和歌山市加太地区にあった砲台で、明治32年竣工。終戦まで機能し終戦後は廃止されましたが、由良要塞の砲台跡で一番保存状態が良いことでも知られ、現在は整備・保存されています。
絵葉書は砲座に設置された28センチ榴弾砲が写されています。奥の2門は最大仰角で構えており、敵艦を砲撃するときはこのような仰角で曲射弾道つまり放物線を描く弾道になるほう砲撃し、敵艦の甲板を打ち抜く砲撃をしました。
砲の横にある数字は射角や距離を示したものでしょう。当時の大砲はまずは1発か2発撃って着弾点を確認し観測。目標との誤差を計算して砲撃という方法でした。
キャプションの深山重砲兵連隊は加太地区の砲台を管轄していた陸軍の部隊で、加太地区の各砲台の運用もこの連隊が行っていました。
ところで、戦前の日本の要塞地帯には軍事機密を守るため、明治32年を制定された「要塞地帯法」という法律がありました。要塞地帯法は要塞地帯に指定された地域内では無許可での写真撮影やスケッチなどの記録は厳しく制限され、新聞に知らずに掲載された背後の山が実は砲台のある山で軍から差し止めを食らったという話もありました。
なので、この深山第一砲台の絵葉書のように砲台そのものが撮影され絵葉書となって販売されることはありえないのですが、この絵葉書が発売されたのは恐らく昭和10年代。その頃は航空機が発達し沿岸砲台の戦略的価値が低下しており、そのため砲台の絵葉書が発売されるくらいまで緩和されたのでしょうか。
ただ、深山砲台に関しては大正10年頃より演習砲台として使われたようで、機密としての重要性はなくなったのかもしれません。
ともあれ、戦前の現役当時の砲台の運用の様子を今に伝える興味深い絵葉書資料です。

※関連記事・古絵葉書・鳴門要塞 門崎砲台もしくは行者ヶ岳砲台か

古絵葉書・二楽荘 

二楽荘001
二楽荘はかつて神戸市東灘区の六甲山の麓にあった西本願寺法主で伯爵の大谷光瑞の別邸でした。
大谷光瑞はシルクロード研究に大きな成果をもたらした大谷探検隊を結成したことでも有名です。
二楽荘は明治42年に完成。設計は友人で東洋美術や東洋建築に造詣の深い建築士・伊東忠太。
二楽荘は別邸としてだけではなく私塾や事務所・測候所・図書館まで設けられ大谷探検隊が持ち帰った文化財も展示され、半ば公的な施設だったようです。二楽荘は当時から有名だったようで、設計者の伊東忠太自身が新聞に連載したりしており、このような記念スタンプの押された絵葉書が発売されたのもうなずけます。
しかし、大谷探検隊や教団運営などの多額の負債と汚職事件により大谷光瑞は法主を辞任。その際に二楽荘は大谷探検隊のコレクションとともに大谷光瑞の手から離れ、大阪の実業家に売却。その頃の二楽荘は荒廃しかつての壮麗な姿からは見る影もない哀れな姿だったそうです。
大正7年、甲南中学の設立の際に二楽荘の建物を活用する案が持ち上がりましたが、結局立ち消えとなり、さらには昭和7年に不審火で焼失するという不幸ともいえる最期を遂げました。
現在、二楽荘跡地は宗教団体の施設の敷地となっています。

古絵葉書・京都府久美浜大橋(現・京都府京丹後市久美浜町久美橋)

久美浜大橋001
京都府京丹後市久美浜町の街中を流れる久美谷川に架かる橋です。アーチの意匠の欄干を持つ鉄筋コンクリート造の橋は昭和戦前期にかけて日本全国で多く架けられた橋です。
絵葉書で「久美浜大橋」となっているこの橋は現在も残されており、「久美橋」と名を変えて使用されています。
橋の竣工は昭和9年。この絵葉書はそれ以降に撮影されたことになりますが、欄干が現在とは違うものになっており、ある時期に欄干だけ付け替えられたのでしょう。
久美橋の架かる不動11号線はかつて存在した久美浜代官所(跡地は現・久美浜小学校)へまっすぐ通じるメインストリートで、久美橋のある交差点名が「土居」という地名から、かつては久美谷川を天然の堀とした久美浜代官所(久美浜陣屋)の大手だったのかもしれません。
絵葉書の撮影時期は昭和9年以降の昭和戦前期であるため、絵葉書に写る街並みは大きく変わってますが、奥に写る西方寺の本堂の大屋根は今と変わらない姿を留めています。

古絵葉書・重巡洋艦 羽黒 進水記念 

重巡洋艦羽黒進水式001
重巡洋艦「羽黒」は妙高型重巡洋艦の4番艦として三菱造船長崎造船所にて建造された軍艦です。
この絵葉書は羽黒の進水式の様子を撮影したもので、「軍艦羽黒 昭和三年三月二十四日進水」のキャプションがあります。
いわゆる進水記念絵葉書は別のタイプが存在し、それは進水式当日に関係者に配られるものなので、進水式当日の写真を使ったこの絵葉書は後日発売されたかもしくは関係者に配られたものと思われます。艦橋はまだ完成しておらず仮の形で乗せられています。
この絵葉書と同じ物が、かつて羽黒を建造した三菱重工業長崎造船所の資料館に展示されているようです。
重巡洋艦羽黒進水式002
こちらは支綱切断が行われた来賓席の写真。右端に羽黒の艦首が写っています。
羽黒は昭和4年に竣工後の数年後に近代化改装を施され、日中戦争を初戦として太平洋戦争を通じて歴戦を重ねてきましたが、昭和20年5月17日のマラッカ海峡における日本海軍とイギリス海軍による交戦、ペナン沖海戦にて戦没しました。
最近、ペナン沖で沈んでいる羽黒や他の軍艦等を違法サルベージしたとして地元業者が逮捕されたという事件も起きています。

※スペック(竣工時)
●公試排水量:12,374t・全長:192.39m・全幅:19.00m・最大速力:35.5kt
●武装: 50口径20cm連装砲5基・45口径12cm単装高角砲6基・61cm魚雷3連装発射管4基12門・水偵2機搭載(射出機1基)
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