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 2016年12月 

古絵葉書・近江水力電気株式会社姉川発電所

近江水力電気姉川発電001
姉川発電所は大正6年に近江水力電気株式会社によって建設・運営された水力発電所で、県下で2番目に運用開始された発電所でした。大正10年、運用をしていた近江水力電気株式会社は宇治川電気株式会社に吸収合併。昭和15年に運用開始された伊吹発電所により昭和19年に姉川発電所は廃止されましたが、煉瓦造の発電所建屋は現在も山中に埋もれる形で残されています。
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古写真・海軍将校生徒学習船 東京丸(海軍兵学校仮校舎)

東京丸001
旧日本海軍の士官学校である海軍兵学校は当初東京築地にありました。明治19年、呉鎮守府に近い広島県の江田島へ移転が決定。現在も海上自衛隊の幹部候補生学校として使用されている赤煉瓦の校舎の建設が始まりました。
海軍兵学校が東京から移転を開始したのは移転決定から2年後の明治21年。現在も残る赤煉瓦校舎が完成したのが明治26年。
移転から校舎完成までの5年間はこの古写真に写る東京丸という船が仮校舎として使用されました。
東京丸は元々1864年、日本では幕末の元治元年にアメリカで建造された木造船ニューヨーク号で、明治7年に台湾出兵の際に日本政府が購入し東京丸と名付けられました。明治8年に郵便汽船三菱会社に払い下げられ、明治18年に日本郵船に移籍。明治20年に日本海軍に売却されました。そして翌年より海軍兵学校の仮校舎として使用されたわけですが、建造から24年経った木造船は恐らく老朽化が目立ちしかも係留された船の上の生活は東京生活に慣れた生徒たちには過酷なものだったのかもしれません。
明治26年、ようやく赤煉瓦の校舎が完成すると海軍兵学校は東京丸から移転。役目を終えた東京丸は民間に払い下げられ恐らくそのまま解体されたと思われます。
この古写真の台紙には「海軍将校生徒学習船」の筆書きがあり、海軍兵学校仮校舎として使用された明治21年から明治26年の間の撮影となります。わずか5年の間ですがこの古い木造船は日本海軍の将校たちを育成した日本海軍史に残る記念すべき船となりました。

古写真・東海鎮守府(後の横須賀鎮守府)

東海鎮守府001
明治9年、近隣の港を管轄する海軍の機関として鎮守府の設置が決定。東日本は横須賀に東海鎮守府を西日本には長崎に西海鎮守府が置かれることが決定しましたが、実際に置かれたのは東海鎮守府で横浜に開庁しました。これが後の横須賀鎮守府です。
東海鎮守府は現在の横浜市中区北仲通6丁目にあり、かつて存在した灯台局の隣のドイツ領事館跡に設置されました。
明治17年に東海鎮守府は横須賀に移転し横須賀鎮守府が誕生しました。
古写真は横浜の東海鎮守府の表門を撮影したもので撮影期間は明治9年から明治17年まで。ナマコ壁の土蔵のような塀と門衛所らしき建物、伝統的な冠木門に「東海鎮守府」の看板と明治の文明開化らしいランプの街灯が掲げられています。
築地海軍省002
明治の公的機関でありながら伝統的な日本建築のナマコ壁が使われており既存の江戸時代からの建物を利用したようにも見えますが、明治初期はこの築地にあった初代海軍省のように洋風を目指した新築の建物でありながら外壁はナマコ壁といった「擬洋風建築」がまだまだ主流で当時の建築家や大工が従来の日本建築の技術をもとに洋館を見よう見まねで作った結果なのですが、この東海鎮守府もそういったものなのかもしれません。もしくは旧ドイツ総領事館の建物を再利用した可能性もあります。
日本最初の鎮守府は横浜で生まれ移転先の横須賀にて大きく成長するわけですが、この古写真は築地海軍本省と並び日本海軍草創期を物語る1枚です。

古絵葉書・東京中央電信局新築記念

東京中央電信局001
建築家・山田守の初期の作品であり名作と称されたこの東京中央電信局は最上部のパラボラ型アーチが特徴の建物でした。大正13年に完成したこの建物は戦後も使用され続けましたが、惜しくも昭和44年に解体されました。
この絵葉書は東京中央電信局の新築完成を記念して発行された1枚で、元は数枚のセットだったと思われます。

古絵葉書・株式会社六十九銀行長野支店

株式会社六十九銀行長野支店001
六十九銀行は国立銀行条例に基づき設立された第六十九国立銀行を前身とする銀行で新潟県長岡市にありました。
明治31年に六十九銀行と改称。以後明治・大正・昭和初期を通じて近隣の小規模・中規模の11にも上る地方銀行を吸収合併。
昭和17年に長岡銀行と合併し長岡六十九銀行を設立。戦後の昭和23年に北越銀行と改称し現在に至っています。

古絵葉書・株式会社六十三銀行

株式会社六十三銀行001
六十三銀行は国立銀行条例により設立された第六十三国立銀行を前身とする銀行で、長野市にありました。
明治30年に第六十三国立銀行が普通銀行転換により六十三銀行へと改称。
昭和6年に六十三銀行と第十九銀行が合併。六十三と十九の合計値八十二を銀行名とし八十二銀行として発足。
これが現在も営業を続ける八十二銀行です。

古絵葉書・福知山 岩沢堤

福知山 岩沢堤001
福知山市は江戸時代以前から由良川の氾濫による水害に会い続けた街でした。明治以降も水害の被害が続き、明治29年と明治40年の水害では由良川の堤防が決壊し大きな被害が出たため、由良川の氾濫に耐えうる近代的な堤防が必要となりました。
明治42年に完成した高さ11メートル長さ1200メートルの石張堤防は福知山大堤防と呼ばれ、建設に福知山出身の松村組創始者である松村雄吉が加わり、自らの工事の確かさを証明するため堤防を利用した自邸を建設しました。それが現在も残る旧松村邸です。
福知山大堤防は昭和2年の北丹後地震で亀裂が生じる被害が出たため大規模な改修が決定。当初は被災部分の修復程度の方針でしたが、当時の福知山町長が根本的な改修を国に要求し決定。堤防表面をコンクリートで覆いさらにはドイツ製のラルゼン型鋼矢板2600枚を堤防基部に打ち込むなど最新の工法で改修されました。この改修を手掛けたのが建設技官・岩沢忠恭。住民は親しみを込めて改修された堤防を「岩沢堤」と呼びました。
この絵葉書はセット絵葉書「福知山名所絵葉書」に収録されている1枚で、完成した岩沢堤が紹介されています。絵葉書のキャプションには「この堤防が完成以来浸水はあるが大きな被害は受けていない」とあります。
堤防上に建つ手前の大きな建物は現存し国指定登録文化財に指定されている芦田家住宅。元は福知山市の実業家、片岡家の別宅として大正15年に建設されたものです。
奥に見える橋は音無瀬橋。近代的な鉄筋コンクリート製の永久橋が完成したのは昭和6年。以後、1995年に現在の音無瀬橋に架け替えられるまで福知山市のシンボル的な橋でした。

※関連記事
古絵葉書・福知山 水害の惨状3枚(明治40年水害か)

古写真・愛知県尋常中学校

愛知県尋常中学校001
愛知県尋常中学校は尾張藩が明治3年に設立した洋学校を始まりとする学校で、明治19年の中学校令により愛知県尋常中学校と改称しました。当初は名古屋市中区にありましたが、その後改称しながら明治41年に東区に移転。さらに現在の愛知県立旭丘高校の場所に移転しました。戦後の昭和23年、女子高の名古屋市立第三高等学校と統合。現在の愛知県立旭丘高校となりました。
この写真は東区へと移転する前の愛知県尋常中学校時代のもので、明治前期らしい擬洋風建築の校舎が写されています。
愛知県尋常中学校002
台紙の裏の筆書き。「愛知県尋常中学校正面之景」「明治二十七年十一月十八日求」とあります。
明治27年11月18日に入手したか貰ったということなので、撮影はそれ以前の近いころだったのでしょう。

古絵葉書・兵庫県立農事試験場但馬分場

兵庫県農事試験場但馬分場001
大正9年に現在の兵庫県朝来市和田山町枚田に設立した農業・畜産等の試験場です。
現在は同市安井に移転し兵庫県立農林水産技術総合センター北部農業技術センターとして稼働しています。
この絵葉書は昭和10年代に但馬分場の本館の新築を記念して発行されたものです。
いかにも地方の役所といった下見板の壁と瓦屋根の外観が愛らしく懐かしさを感じさせます。

古絵葉書・中和束尋常高等小学校

中和束尋常高等小学校001
現在の京都府相楽郡和束町にあった尋常小学校で、平成4年に東和束小学校・西和束小学校・湯船小学校とともに統合され、和束小学校となりました。この中和束尋常高等小学校があった中和束村は昭和29年に西和束村と東和束村との合併により和束村が誕生したため消滅しています。この絵葉書は大正期頃に撮影されたと思われるもので、奥に新築された校舎が写っています。
中和束尋常高等小学校002
中和束事情高等小学校本館。
中和束尋常高等小学校003
中和束尋常高等小学校講堂。
この2枚の絵葉書は昭和初期から10年代の様式を持ち、絵葉書の写真もその頃に撮影されたものと思われます。
本館・講堂ともに同じデザインの外観で昭和戦前期の様式のデザインであることから、昭和10年代までに新築された校舎だと思われます。

※関連記事
古絵葉書・中和束村役場

古写真・六郷川鉄橋

六郷鉄橋001
明治5年に開通した日本初の鉄道路線の新橋横浜間は開通当初の橋梁は木製トラスでした。これは当時製鉄産業が未発達の日本において鋼材などは外国からの輸入に頼っており、鉄道橋もイギリスからの輸入を予定されていましたが、それでは間に合わず当面の措置として木造の橋梁が造られました。当然耐久性に難があり、鉄道開通から5年後の明治10年、東海道線の複線化に伴い木造だった六郷川橋梁も複線鉄橋に架け替えられました。
六郷川鉄橋は明治8年にイギリス・リバプールのハミルトンズ・ウインザー・アイアンワークス社で製作され日本に輸入された鉄橋で、錬鉄製のポニー・ワーレントラス構造でした。
明治45年、東海道線の複々線化に伴い撤去され単線用に改造。大正4年に御殿場線の酒匂川を渡る鉄橋として転用されました。
昭和40年、御殿場線での役割も終え撤去された六郷川鉄橋は日本最初期の貴重な鉄道鉄橋として博物館明治村に移築保存され、鉄道記念物に指定されています。
この古写真は多摩川に架かっていた東海道線時代の六郷川鉄橋で、明治中期から後期頃の撮影と思われます。

古絵葉書・潜水母艦大鯨進水記念絵葉書(2枚組)

大鯨001
潜水母艦大鯨は横須賀海軍工廠にて建造された軍艦で、昭和8年に起工し同年11月に進水のか7ヶ月という短さでした。これは事前に昭和天皇に進水式の日程が知らされており、それに合わせたためでした。潜水母艦というのは潜水艦への燃料や弾薬・食料の補給、さらには潜水艦乗員の休息も行うことができた軍艦でした。しかし大鯨は保有艦艇を大きく制限させられたロンドン海軍軍縮会議に対応するため制限のなかった10000トン以下の補助艦艇を有事の際すぐに航空母艦に改造できるようにあらかじめ建造された潜水母艦でした。
大鯨003
太平洋戦争開戦の昭和16年、大鯨は当初の予定通り航空母艦へと改装され、龍鳳と名付けられました。
龍鳳は太平洋戦争の緒戦を戦い抜き、昭和19年にはシンガポールへ輸送船団「ヒ87船団」を護衛し呉に帰還。その後は呉軍港にて浮き砲台として使用。呉軍港空襲では来襲するアメリカ軍機に対して対空射撃を行いました。
龍鳳はそのまま終戦を迎え解体されました。
大鯨002
1枚目の絵葉書の通信欄には進水記念スタンプが2つ押されていました。進水式の時にもらった絵葉書に記念に押されたのでしょう。

古写真・大阪鎮台砲兵営所(明治前期撮影)

大阪鎮台砲兵営所002
「大阪鎮台砲兵営所」の筆書きがある古写真です。分かり難いですが奥に見える長大な建物が砲兵営所です。
大阪鎮台は明治4年に設立し砲兵隊は明治5年頃設立。後に砲兵第四連隊となり明治21年に大阪鎮台が第4師団に改編された際にそのまま第4師団隷下の部隊となりました。
砲兵営所は現在の大阪歴史博物館とNHK大阪放送局の位置にあったようです。
砲兵第四大隊
以前記事にした大阪砲兵第四大隊の古写真。この古写真に写る土蔵のようなナマコ壁の建物が1枚目の大阪鎮台砲兵営所の建物と同じものと思われます。

※関連記事
古写真・砲兵第四大隊(明治10年代頃撮影)

古写真・大坂城内士官室(大阪鎮台)明治前期撮影。

大阪鎮台士官室001
大阪城に陸軍の鎮台が置かれたのは明治4年。初期の頃は大阪鎮台本営の他に歩兵営・砲兵営・鎮台病院・陸軍監獄などがありました。明治21年、大阪鎮台は第4師団に改編。この古写真は「大坂城内士官室」の筆書きがありますが、明治21年までの大阪鎮台時代の撮影と思われます。大阪城の石垣上に建つ洋館が士官室と称される建物のようで、後の陸軍将校倶楽部の偕行社か将校集会所に当たる施設と思われます。
士官室の左手にある土蔵は元々大坂城時代からの物だったものか鎮台創設時に新たに建てられたものか不明です。
士官室があった城内の具体的な場所ははっきり特定できませんでしたが、撮影距離的に本丸にあったものと思われます。
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