Monthly Archives

 2017年03月 

古絵葉書・一〇〇式重爆撃機 呑龍(陸軍航空本部提供写真)

呑龍005
陸軍航空本部提供の写真を使い発行された絵葉書で、表の宛名欄と通信欄の間に「君は増産 僕は操縦」のスローガンが書かれています。
一〇〇式重爆撃機・呑龍は陸軍の重爆撃機・九七式重爆撃機の後継機として昭和16年に正式採用された重爆撃機です。
太平洋戦争開戦の年に採用された機体ですが、実戦では主に中国戦線で運用されました。
写真の呑龍の尾翼は部隊マークを隠すためか日の丸が描かれる修正がされているように見えます。
呑龍003
編隊を組む呑龍。呑龍は対ソ戦用に適応するよう開発された経緯もあり、太平洋戦争中の主戦場であった南方方面での運用はいまいち使いづらいこともあり、九七式重爆撃機に比べ生産数も活躍の場も少ない結果に終わりました。
こちらの写真も尾翼に

YouTubeに一〇〇式重爆撃機が撮影されたニュース映画の動画がありました。
スポンサーサイト

古絵葉書・二式単座戦闘機 鍾馗(陸軍航空本部提供写真)

鍾馗001
陸軍航空本部提供写真の二式単座戦闘機・鍾馗の絵葉書です。宛名欄と通信欄の間に「君は増産 僕は操縦」の文字があります。
二式単座戦闘機・鍾馗は昭和15年に初飛行し昭和16年から運用され、一式戦闘機「隼」とともに大戦中を通じて活躍した機体です。
この絵葉書の写真は比較的アップで撮られており、エンジン部分の1部や機銃等の様子が良く確認できます。
鍾馗002
編隊を組んで飛行する鍾馗。こちらは尾翼部分に修正が入れられているように見えます。
鍾馗は大戦末期は本土防衛の迎撃機として使用されましたが、米軍の評価では迎撃機としては優秀であったと評価しています。
昭和19年末に鍾馗の生産は終了。後継機は新開発の四式戦闘機「疾風」となります。

YouTubeにニュース映画に撮影された鍾馗の映像がありました。

※関連記事
古絵葉書・二式単座戦闘機 鍾馗
古絵葉書・二式単座戦闘機 鍾馗 (内外ゴム献納 愛国第2717号機)

古絵葉書・丹波佐治堺卯楼

丹波佐治堺卯楼001
丹波佐治は現在の兵庫県丹波市青垣町佐治のことで、京都府福知山市と隣接している町です。
この絵葉書は佐治にあった堺卯楼という旅館を写したものです。
2階建ての古風な和風建築で玄関に大きく「旅館」と書かれた扁額を掲げ、玄関脇には「キリンビール」「カブトビール」の木の看板を掲げています。旅館業が主体だけど恐らく料理屋も営んでいたのでしょう。
丹波佐治堺卯楼002
通信欄を見ると、福知山市の内記4丁目にあった「額田屋」という旅館に宛てて出してます。
新年の挨拶状で比較的近い場所にあった両旅館は何らかの形で親しい間柄か同業者の組合みたいな関係だったのでしょう。
ちなみに堺卯楼も額田屋も調べた結果、どうやらすでに存在しないようです。

古写真・大阪 眺望閣

大阪 眺望閣
現在の大阪市浪速区日本橋の日本橋幼稚園辺りにかつて5階建ての高層建築がありました。眺望閣と呼ばれたこの古写真の建物は明治21年に完成し、有宝地と呼ばれた遊園地の中にありました。
高層建築と言えばお城か寺院の五重塔くらいしかなく登ることもできなかった明治中期においてこういった観光施設としての高層建築は珍しく、多くの人々が見物に押し寄せました。
この眺望閣に触発されたのか翌年の明治22年、現在の大阪市北区茶屋町に眺望閣より10m高い9階建ての建物が完成。凌雲閣と名付けられた建物は「ミナミの五階」と呼ばれた眺望閣に対して「ミナミの九階」と呼ばれそれぞれミナミとキタのシンボルとなりました。
明治23年、東京浅草に煉瓦造りの12階建ての高層建築が建てられました。それがキタの九階と同じ名前の「凌雲閣」です。
さらに眺望閣がある同じミナミに明治45年、パリのエッフェル塔を模した鉄骨の高層建築が完成。それが初代通天閣です。
明治中期は観光としての高層建築ブームに沸いた時代でしたが、眺望閣はわずか16年後の明治37年に取り壊され、浅草凌雲閣は大正12年の関東大震災で崩壊し大阪の凌雲閣も昭和初期に取り壊されました。
現在、日本橋商店街にある五階百貨店がかつて存在したミナミの五階・眺望閣の名残を今に伝えています。

古写真・日進艦(初代・スループ)

日進(初代)001
初代の日進は慶応3年に佐賀藩によりオランダへ発注されたスループです。明治2年に完成。明治3年に長崎へと到着しましたがすでに政権は徳川幕府から明治新政府へと移行していたため日進はそのまま明治政府が引き継ぎ海軍籍に入りました。
日進は日本海軍黎明期の軍艦の中でも藩政時代から引き継いだ最初期の艦で、明治初期の日本海軍の軍艦として台湾出兵や西南戦争に参戦しました。また明治8年の樺太・千島交換条約の締結では開拓使長官の黒田清隆を乗せてカムチャッカへと派遣されています。
明治25年に除籍され売却されたため、日清戦争には参戦していません。
初代日進の画像は明治初期の艦のためか多くはなく、ネット検索では絵画のものが出てくる程度です。
なのでこの日進の古写真は珍しいものではありますが新資料ではなく同じアングルの写真はすでに知られているようです。

古絵葉書・舞鶴鎮守府開庁記念(昭和14年再昇格)

舞鶴鎮守府昇格記念001
舞鶴鎮守府は明治34年に日本海側随一の鎮守府として開庁しました。
日露戦争では対峙するロシアの脅威からの護りの拠点として重要視されました。
しかし、大正12年のワシントン海軍軍縮会議により舞鶴鎮守府は舞鶴要港部へと格下げ。同時に舞鶴海軍工廠も舞鶴海軍工作部へと格下げされされました。
昭和11年、舞鶴海軍工作部が一足先に海軍工廠へと再昇格。そして昭和14年に舞鶴海軍要港部が舞鶴海軍鎮守府へと16年ぶりに再昇格しました。
この絵葉書セットは舞鶴海軍鎮守府再昇格を記念して発行されたものです。
画像は絵葉書の外袋。高雄型重巡洋艦の写真が写されています。
舞鶴鎮守府昇格記念002
舞鶴鎮守府庁舎。この庁舎は明治34年開庁以来のもの。両脇にあるのは初代司令長官の東郷平八郎元帥と再昇格時の司令長官、原五郎中将の写真。
舞鶴鎮守府昇格記念003
舞鶴鎮守府の管轄区域の図。日本海側のほとんどを占めています。
舞鶴鎮守府昇格記念004
舞鶴鎮守府および舞鶴要港部時代の歴代司令長官。一番有名なのはやはり初代の東郷平八郎司令長官ですね。
ところでこの絵葉書や最初の外袋には高雄型重巡洋艦の写真が載せられています。
舞鶴鎮守府は再昇格した昭和14年に完成したばかりの最新鋭の重巡洋艦である利根型の2隻、利根・筑摩が横須賀鎮守府から舞鶴鎮守府に配属され駆逐艦など小型の艦艇が主だった舞鶴軍港において大型艦の利根・筑摩は舞鶴市民からかなり親しまれたようですが、絵葉書にある高雄型重巡洋艦の4隻はすべて横須賀鎮守府に所属し横須賀を母港としていたので舞鶴には縁がないはずなのですが。何らかの理由で高雄型が使われたと思うのですが詳細は不明です。
<?php include_once("analyticstracking.php") ?>