Monthly Archives

 2017年04月 

古絵葉書・舞鶴海軍航空隊(栗田水上機基地)

舞鶴海軍航空隊001
現在の宮津市栗田地区にある栗田湾に舞鶴海軍航空隊の基地がありました。
栗田水上機基地とも呼ばれたこの基地は昭和10年に創設。他の海軍航空隊とは異なり、水上機のみで編成された航空隊でした。
絵葉書は舞鶴海軍航空隊の庁舎。舞鶴海軍航空隊の遺構は現在も残されていますが、庁舎を写した古写真などはあまり残されていないようで調べても見かけることがなく、この絵葉書は当時の舞鶴海軍航空隊の庁舎の姿を知ることができる貴重な絵葉書かと思われます。
舞鶴海軍航空隊002
舞鶴海軍航空隊の指揮所の写真。物見やぐらみたいな指揮所塔に吹き流しを置いて風向きを示しています。
奥に見える大きな建物は格納庫です。1枚目の庁舎の絵葉書とともに昭和10年11月9日付の舞鶴航空隊開隊記念の記念スタンプが押されています。
栗田水上機基地001
以前紹介した栗田水上機基地の古絵葉書。
舞鶴海軍航空隊が創設された当初はまだ舞鶴海軍要港部の頃で、そちらに所属していましたが、昭和14年に舞鶴鎮守府として再昇格した際に舞鶴鎮守府の管轄となり、舞鶴鎮守府に所属する艦艇に搭載された水上機を管轄していました。
戦時中は大阪警備負の下で和歌山県沖や日本海沿岸を中心に対潜哨戒任務に従事しましたが、昭和19年12月に佐世保海軍航空隊所属の第九五一航空隊の舞鶴分遣隊として再編成されたため、舞鶴海軍航空隊は解隊されました。
現在、舞鶴航空隊跡地は京都府立海洋高校の敷地となり、絵葉書の庁舎を含め隊舎や格納庫は失われましたが、絵葉書にも写る当時の正門や滑走路等の遺構は現在も残されています。また、格納庫の建物は綾部市に移築され、現在も綾部市市民センターとして利用されています。
ちなみに、舞鶴海軍航空隊の湾を挟んだ向かいにある現在、関西電力宮津エネルギー研究所となっている場所には水上機の製造・修理を行っていた第31海軍航空廠があり、現在も滑走路跡や元官舎と思われる木造の建物が残されています。

※関連記事
古絵葉書・栗田水上機基地
スポンサーサイト

古絵葉書・西川甚五郎商店京都支店(現・京都西川)

西川甚五郎商店001
寝具販売会社の大手、京都西川は戦国時代の永禄9年(1566)に西川グループの祖となる初代仁右衛門が創業したのが始まりで、、寛延3年(1750)に京都に開店した店舗が後の京都西川となりました。
この絵葉書は松原通寺町にあった西川甚五郎商店の京都支店の外観で昭和初期らしい洋風のモダンな外観をしています。
西川甚五郎商店京都支店は昭和16年の各支店の改組により法人化。京都西川として独立しました。

古写真・双発爆撃機「銀河」 艦上攻撃機「天山」(「航空朝日」昭和20年1月号より)

銀河・天山
※サムネイル画像のクリックで拡大します。
航空機専門雑誌の「航空朝日」昭和20年1月号に掲載された旧海軍が開発した双発爆撃機・銀河と艦上攻撃機・天山の写真です。
銀河は一式陸上攻撃機の後継機として開発された大型爆撃機で、昭和18年より生産開始。終戦までに1100機余り生産され、太平洋戦争の後期に導入されました。正式採用後、銀河は各地の戦線にて配備され、いくつかの巡洋艦や空母を大破・撃沈寸前にまで追い込むなどの戦果をあげましたが多くが失われ、終戦時に残存していた銀河はわずか182機でした。
現在、完全な状態で保存された銀河は無く、スミソニアン博物館に1機のみ分解状態で保存されています。

天山は九七式艦上攻撃機の後継機として開発された旧日本海軍の艦上攻撃機で、昭和18年より生産が開始。終戦までに1266機生産されました。
天山は正式採用後、南方戦線の各地に配備され、天山の配備された第六〇一航空隊はマリアナ沖海戦で激しい戦闘を繰り広げましたが、8割を失うという大損害を受けました。
その後の硫黄島の戦いや沖縄戦では特攻作戦にも参加。終戦時の残存数はわずか187機でした。
現在、スミソニアン博物館にて分解状態で保管された天山が現存しています。

海軍機は戦争前に正式採用された零戦や九七式艦上攻撃機・九九式艦上爆撃機・一式陸上攻撃機の絵葉書は数多く見られ、献納絵葉書でもほとんどがそれらの機体ですが、それ以降となる戦闘機では紫電改。艦上攻撃機では天山。艦上爆撃機では彗星など銀河も含め戦時中に正式採用された機体はほぼ献納絵葉書を含む絵葉書では見られません。
艦上爆撃機 彗星001
彗星は絵葉書サイズの読売ニュース焼付版に何枚か取り上げられてますが、これは絵葉書ではありませんし。
この「航空朝日」は専門雑誌とはいえ市販されていたもので、掲載されている銀河や天山の写真は軍機扱いでは無かったと思いますが、先に紹介した陸軍機の飛燕や疾風も含めて、雑誌では大きく取り上げられている一方で、絵葉書になると極端に数が少なくなるのか疑問に思うところです。

※関連記事
古写真・三式戦闘機「飛燕」 四式戦闘機「疾風」(「航空朝日」昭和20年1月号より)

古写真・三式戦闘機「飛燕」 四式戦闘機「疾風」(「航空朝日」昭和20年1月号より)

飛燕・疾風
※サムネイルのクリックで画像が拡大します。
航空朝日昭和20年1月号に掲載された三式戦闘機・飛燕と四式戦闘機・疾風の写真です。
三式戦闘機・飛燕はドイツのダイムラー・ベンツ社製のエンジンをもとに開発した液冷エンジンを搭載した戦闘機で、先細りの機首が特徴の機体でした。
昭和17年より生産が開始され、太平洋戦線の各地にて参戦し戦争末期には迎撃機としても使用されました。
image.jpg
現在、1機のみが完全な形で現存し、知覧特攻平和会館に展示されていましたが、修復のため移動し2016年に神戸にて修復完了した飛燕が披露され、その後、かがみはら航空宇宙科学博物館に展示予定となっています。
※写真は管理人が撮影した神戸ポートターミナルにて展示されていた飛燕。

四式戦闘機・疾風は昭和18年に開発完了し、その性能の高さから終戦までのわずか2年の間に3500機余りの数が生産された中島飛行機の集大成と言われた戦闘機です。決戦機として陸軍の航空部隊の多くで四式戦闘機への機種変換が行われましたが、戦局を大きく覆すものではありませんでした。
写真の四式戦闘機は昭和19年10月に所沢陸軍飛行場にて初公開された飛行第73戦隊所属の機体で、尾翼には3本の赤いストライプの部隊マークが描かれています。
飛行第73戦隊は昭和19年5月に三重県伊勢市の明野陸軍飛行学校にて編成された航空隊で、昭和19年10月に所沢に移転しており、その際に公開されたものと思われます。後、南方戦線にて参戦しましたが、多くが失われ、さらには特攻隊にも参加するなどして昭和20年3月には解隊されています。
現在、知覧特攻平和会館に展示されている1機が唯一現存する四式戦闘機となっています。

これら飛燕と疾風ですが、絵葉書では多く見かける一式戦闘機・隼や二式単座戦闘機・鍾馗と比べてまず見かけることはありません。この航空朝日は専門雑誌ではあるものの、市販されていたものですし当時のニュース映画にも飛燕や疾風は普通に写されていますし飛燕は三銭切手の図案にも使われているので機密扱いでは無かったとは思いますが、別ページに掲載されている海軍機の銀河や天山を含め、何故絵葉書関連では数が極端に少ないのか疑問に思うところです。

※関連記事
古写真・双発爆撃機「銀河」 艦上攻撃機「天山」(「航空朝日」昭和20年1月号より)

古写真・熊本 騎兵第6大隊(山崎練兵場時代・明治27年頃撮影)

熊本騎兵第6大隊001
騎兵第6大隊は明治21年に熊本市山崎町にて編成されました。明治29年に連隊に昇格。連隊旗を拝領。明治34年の山崎練兵場移転とともに現在の開新高等学校の場所に移転し終戦まで駐屯しました。
この古写真は連隊に昇格前の山崎練兵場に駐屯していたころのもので、台紙裏に「明治27年」の書き込みがあります。
写真は騎兵第6大隊の営門前と思われ、奥に3階建てらしき大きな兵舎が見えます。営門前に集まっている軍人はいずれも将校で、サーベルを釣り革長靴を履き、いわゆる肋骨服と呼ばれる将校の軍服を着用しています。時期的に明治19年制定の軍服でしょうか。
熊本騎兵第6大隊002
台紙の裏に写真に関しての書き込みがあります。書き込みには明治27年に旧制第五高等学校医学部(現・熊本大学医学部)の卒業記念に購入したとあります。明治のナンバースクールの医学部学生ということは相当なエリートだったことでしょう。

古写真・東京府第一勧工場

東京府第一勧工場001
明治10年に上野で開催された第1回内国勧業博覧会は西南戦争やコレラの流行で入場者数が振るわず成功とはいえない結果に終わりましたが、以降の博覧会の原型となる重要な役割を果たしました。
博覧会閉会後、展示された出品物の売れ残りは出品者に返還されましたが出品者の希望によりそのまま販売を継続することが決まり、翌年新たに販売場所を設けて展示販売されました。これが勧工場で、東京麹町辰ノ口にあった旧幕府の伝奏屋敷の建物が利用されました。この古写真は最初に開設された東京府第一勧工場で、奥に写るのが旧伝奏屋敷の建物です。門は新築されたようで、門柱に「東京府第一勧工場」の看板が掲げられています。
東京府第一勧工場002
門のアップ。右側に「東京府第一勧工場」左側に「〇(判読不明)覧人入口門」と書かれた看板が掲げられています。
明治13年に勧工場は民営化。勧工場は人気を博し、その後東京内でもいくつも民営の勧工場が設立され、さらに全国にも広がりました。
しかし、乱立する勧工場は品質の悪い品物も置くものも増え、勧工場へのイメージが低下。大正期には新たに登場し品質の高い品物を扱う百貨店へと人気が移り、勧工場は急速に姿を消していきました。
この古写真は東京府の文字が看板にありますので民営化される前の明治11年から明治12年にかけての間の撮影となります。
旧伝奏屋敷を利用した第一勧工場の跡地は現在、大正9年に完成し国指定登録文化財に指定されている日本工業倶楽部会館が建っています。

古写真・熊本 第6師団司令部(明治27年・2代目庁舎)

熊本第6師団司令部001
明治5年に熊本城下の旧藩主邸に置かれた熊本鎮台は明治21年に第6師団司令部再編成され、熊本・大分・宮崎・鹿児島の南九州地方の部隊を管轄しました。
熊本鎮台司令部は明治8年に熊本城大天守内に移転しますが西南戦争により大・小天守が焼失。一時現存の宇土櫓に司令部が移転した後、天守台の東側に鎮台司令部の庁舎が新築されました。
明治25年、第6師団と改称後も司令部庁舎として使用されていた旧鎮台司令部庁舎が焼失。明治25年に新たに庁舎が新築されました。
熊本第6師団司令部002
古写真の台紙裏の書き込み。「明治二十七年十一月二十八日第五高等学校医学部生徒修学施日之際購求之」とあり、旧制第五高等学校医学部(現・熊本大学医学部)卒業記念に購入したという内容ですが、購入時が明治27年なので、この第6師団司令部庁舎の古写真は明治25年に新築された2代目庁舎であることが分かります。庁舎は明治期らしい擬洋風建築のデザインをした建物です。
熊本第6師団兵営003
熊本第6師団の遠景写真。師団司令部庁舎の古写真と同じ台紙裏の書き込みがこの古写真の台紙裏にもあり、五高医学部を卒業した同じ人が購入したものです。(旧制五高医学部卒は相当なエリートですね。)
2代目の第6師団司令部庁舎は大正6年に2階建ての新庁舎に建て替えられ、戦後しばらくは学校の校舎や博物館に転用されましたが、昭和35年の大・小天守の再建の際に取り壊されました。

古絵葉書・京都日出新聞(現・京都新聞)

京都日出新聞001
現在の京都新聞社の前身である京都日出新聞社の5枚組絵葉書です。
京都日出新聞社は明治12年に創刊した京都商事迅報を起源とし、明治14年に京都新報創刊。明治30年に京都日出新聞に改題したのが始まりとなっています。
昭和17年に京都日日新聞と京都日出新聞が合併「京都新聞」を創刊。これが現在の京都新聞の始まりとなりました。
絵葉書は京都日出新聞時代の社屋を紹介したもので、左下に昭和12年の記述があります。
1枚目は京都日出新聞社の社屋の外観。社屋内には日出会館という貸ホールも併設されていました。
京都日出新聞002
社屋内の日出会館の大ホールと地下食堂。日出会館の大ホールでは演劇や歌舞伎などの催しが多く上演されていたようです。
地下食堂も一般の人にも利用され、奥のメニューにはランチ表としてオムレツランチ・エビランチなどのメニューが見えます。
京都日出新聞003
こちらは京都日出新聞の施設。新聞に使う写真の製版室や本文の活字鋳造室。
輪転機に使う活版の活字は社屋内で作っていたんですね。
京都日出新聞004
新聞の印刷には重要な機器であるドイツ製の輪転機。よくドラマとかで新聞報道のイメージに使われる機会です。
京都日出新聞005
こちらは電光式高速度輪転機と配電盤。新聞社の命である輪転機。輸入された最新鋭の輪転機は会社にとって自慢の装備だったことでしょう。
<?php include_once("analyticstracking.php") ?>