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 2017年06月 

古絵葉書・二式単座戦闘機 鍾馗(京都府何鹿郡綾部町民献納 愛国第3223号)

二式単戦 綾部町民献納001
二式単座戦闘機は通称「鍾馗」と呼ばれた陸軍の戦闘機で、昭和15年に試作機の初飛行。
昭和16年12月8日の太平洋戦争開戦と共に実験的に実戦投入。
昭和17年2月に正式採用されました。鍾馗の生産は昭和19年末に終了し、四式戦闘機疾風に受け継がれることになります。
この鍾馗は昭和19年4月29日に当時綾部町だった綾部市の市民によって献納された機体です。
二式単戦 綾部町民献納002
富士山をバックに撮影された愛国第3223号機綾部号。この絵葉書は別の場所で撮影されたものですが、献納式はこちらのサイトによると、「綾部町運動場」にて行われたとあります。実際に二式単戦が運動場に持ち込まれたかはわかりません。
二式単戦 綾部町民献納003
飛行する愛国第3223号機綾部号ですが、これは別の二式単戦を撮影したものでしょう。
二式単座戦闘機の絵葉書は珍しくはないですが、この綾部市民が献納した愛国第3223号機の絵葉書は戦争末期の綾部市を伝える郷土資料としては貴重なものかと思います。

※関連記事
古絵葉書・二式単座戦闘機 鍾馗
古絵葉書・二式単座戦闘機 鍾馗(陸軍航空本部提供写真)
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資料・琵琶湖疏水線路全景二万分一之図

琵琶湖疏水線全路景二万五千分の一之図ブログ用
※サムネイルのクリックで画像が拡大します。
琵琶湖疏水は明治天皇の東京奠都により衰退した京都市を琵琶湖の水を使った水運・水車動力による工業(当初計画)・上水道を目的として明治18年に起工・明治23年に完成した疏水です。
大津市と京都市を水路やトンネルでつなぎ、琵琶湖の水を京都まで通すという壮大な計画は当時若干21歳の田邉朔郎が設計監督を担当し、当時お雇い外国人の監督指導が当たり前だった明治前期の近代的土木工事において全て日本人の手によりこの大事業を成し遂げられた工事でした。
この琵琶湖疏水の全図は竣工式前日の明治23年4月8日付の日出新聞(現在の京都新聞の前身)の付録として発行されたもので、完成したばかりの琵琶湖疏水の様子が描かれています。また、裏面には工事の要略と起工から完成までの各工事の沿革、使用された物資や工事費等が詳細に書かれています。
琵琶湖疏水線全路景二万五千分の一之図ブログ用2
※注釈入り。サムネイルクリックで画像が拡大します。
図を見てみますと、琵琶湖疏水に使用する煉瓦を焼いた山科の煉瓦工場やトンネル工事を担った藤尾工場・蹴上工場等、現存しない琵琶湖疏水工事のために設置された工場の位置が描かれています。
逆に翌年の運転開始となる蹴上発電所や明治25年の着工となる鴨川運河は描かれていません。
琵琶湖疏水を象徴する蹴上インクラインと南禅寺水路閣は描かれていますが、水路閣にはキャプションが無く、インクラインは「科入舟車道」と書かれています。また、鴨東運河に閘門の文字があり、そこに夷川船溜まりが描かれていますが、大正3年に現存する煉瓦造りの夷川発電所が建設されました。
琵琶湖疏水は明治時代前期において京都市・京都府のみならず国家的事業の大工事とされ、竣工式の前日には国旗掲揚や提灯行列はもちろんのこと、竣工式が行われた夷川船溜まりには祇園祭の山鉾が並び、大文字の送り火にまで点火され多くの人で賑わったそうで、この琵琶湖疏水がいかに京都市の威信をかけて建設され京都市民の希望の星になっていたかが分かります。
この日出新聞の付録が出された翌日の4月9日に明治天皇と昭憲皇太后の両陛下を招き竣工式が行われました。
現在、琵琶湖疏水は本来メインであった船運は廃止され、主に上水道と発電の役割を果たしていますが、明治前期の日本で初めての近代土木技術が多く取り入れられ、また日本人のみで行われた近代工事であり、近代化遺産として非常に価値が高く、第1疏水全線が国指定史跡にしていされました。そのため、京都の観光地としても近年知られるようになりました。

古絵葉書・京都農園

京都農園001
キャプションに「京都農園」とある絵葉書です。奥に温室らしき建物が見えます。
現在、京都府立植物園となっている大礼記念京都植物園の温室かと思いましたが、どうも違うようです。
ご存知の方がいましたらご教授ください。

古絵葉書・京都府教育会館新築落成記念絵葉書

京都府教育会館001
京都市の丸太町橋の北側、鴨川沿いに建てられた京都府教育会館の新築落成記念絵葉書です。
教育会とは明治10年代以降に各都道府県郡市町村にて結成され、各地の教育行政官・教員・名望家などを構成員として、教育の普及・改良のために教員研修、教育研究・教材開発などを担った私立教育団体です。
京都府教育会館002
京都府教育会館は和風の建物ですが、この建物は大正天皇の即位の大礼のために京都御所建春門の外に新築され使用された「第二朝集所着替所および便所・運転手詰所・湯沸所・廊下」の建物を下賜されて建てられたものです。
大正大礼の式典後、使用された新築建物は京都府内を中心に下賜されましたが、多くは大きな改造はされず元の姿まま解体移築の形で建てられ使用されました。背後に見えている洋館は京大病院です。
京都府教育会館003
昭和天皇即位の大礼の時も使用された建物は下賜されましたが、大正大礼の時に比べて下賜された数が多く現存している建物もいくつかあるのに対し、大正大礼時の下賜建物はいずれも現存していません。
この京都府教育会館の建物も現存せず、跡地は川端通の一部となっています。

古絵葉書・株式会社第四十九銀行本店

第49銀行001
第四十九銀行は明治5年の国立銀行条例により国立銀行の49番目に誕生した第四十九国立銀行を前身とする銀行で、京都に本店を置きました。
四十九銀行は明治41年に京都商工銀行に買収され四十九銀行は消滅。さらに京都商業銀行は大正5年に第一銀行に合併吸収されました。
絵葉書には四十九銀行の本店建物が写されてますが、伝統的な町屋の建物で、元からあった商家の建物をそのまま利用したのかもしれません。
表の宛名面には明治34年3月13日の消印が押されています。

古絵葉書・向日町教会

向日町教会001
京都府向日市にある向日町教会は昭和11年に設立した教会です。教会の正門脇の掲示板に「園児募集」「向日町幼稚園」の文字がありますが、設立当初から教会内で幼稚園も運営されていました。この絵葉書は完成間もないころの向日町教会を撮影したものと思われます。現在この建物は存在していませんが、まこと幼稚園と名称が変わった幼稚園内に向日町教会が存在する形で存続されています。

古絵葉書・第三高等学校 新徳館(旧・饗宴場付属調理場)

新徳館001
旧制第三高等学校(現・京都大学構内)にあった新徳館は元々、昭和天皇の大礼式典で使用された饗宴場付属調理場の建物の下賜された部材を利用し、武田五一の設計により建てられたものでした。昭和大礼のために建てられ使用された建物は全て和風建築で、式典後これらの建物は京都府内を中心とした公共施設・学校・神社仏閣に下賜されました。それらはほとんどが改造されることなくそのままの状態で使用されましたが、新徳館は洋風の建物に建て直されています。

古絵葉書・新綾部製糸株式会社筒川工場

新綾部製糸株式会社筒川工場001
京都府伊根町本坂にあった新綾部製糸株式会社筒川工場は元は明治34年に設立した丹後繭糸蚕種生産販売組合が創業した筒川製糸工場でした。
新綾部製糸株式会社は経営難に陥った綾部製糸株式会社を神栄製糸株式会社の傘下に置くことで昭和3年に再スタートした製糸会社で、綾部製糸の工場・従業員をそっくり引き継いだ企業でした。この筒川製糸工場も元は綾部製糸株式会社の工場だったと思われます。
筒川製糸工場は明治42年に火事で工場を全焼し莫大な被害をこうむりました。しかし、役員以下社員一同奮起して工場の復興に努め、大正7年に再建を果たしました。同年10月、工場長・品川萬右衛門は工場再建に奮起した従業員を労うため従業員116名を率いて東京への慰安旅行へと向かいました。しかし、運悪く流行していたスペイン風邪により帰郷した従業員のうち42人が死亡。村内にも広まる被害を出してしまいました。工場長の品川萬右衛門は亡くなった従業員の慰霊のため工場内に青銅製の阿弥陀如来像を建立。これが丹後大仏です。初代の丹後大仏は昭和19年に金属回収令により徴収されましたが、昭和20年に再建された石造の丹後大仏は初代と同じ場所に立てられ、現在も初代と同じ筒川工場の跡地に存在し続けてます。
新綾部製糸株式会社筒川工場は昭和9年ごろまで存在したそうで、絵葉書の撮影時期は昭和3年から昭和9年の間ということになります。

古絵葉書・宮津電燈株式会社 開業記念絵葉書

宮津電燈株式会社001
宮津電燈株式会社は明治43年に多くの電力会社・鉄道会社を設立した実業家・才賀藤吉によって認可を受け開業された電力会社です。開業は明治44年。この絵葉書は開業を記念して発行されたセットです。
宮津電燈株式会社002
宮津電燈株式会社の事務所。大正時代に出版された電気事業要覧によれば、事務所は宮津市字河原1850番地にあったとあります。この場所には重要文化財に指定されている旧三上家住宅がありますが、隣にあったのでしょうか。
左奥に三上家住宅らしき瓦屋根が見えます。
宮津電燈株式会社003
発電所内部。宮津電燈の発電所は火力発電所でした。イギリスから輸入されたガス発動機を使用しています。
発電所の場所も事務所と同じ河原地区にあったようで、事務所に併設されていたものと思われます。
宮津電燈株式会社004
宮津電燈で発電された電気は宮津市内一帯に供給されていました。
宮津電燈株式会社は開業からわずか1年後の明治45年に丹波電気・丹後電気と三社合併し両丹電気株式会社となり、宮津電燈株式会社の名前は消滅しました。
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