古写真・琵琶湖疏水 第三隧道東口(明治20年代)

琵琶湖疏水第三隧道
琵琶湖疏水は、明治維新後の衰退した京都を近代的な工業都市に復興させようと建設された
明治前期の一大プロジェクトでした。
大津から京都の蹴上まで結ぶ長大な疏水は、当時としては前代未聞の大工事で、
京都市のみならず、まさに国家を上げての事業でした。

工事責任者は当時工部大学校を卒業したばかりの23歳の青年、「田邊朔郎」。
測量技師の「島田道生」により手がけられ、北垣国道京都府知事のもと
明治23年、琵琶湖疏水は完成しました。

この琵琶湖疏水は、これまで近代土木工事は全てお雇い外国人の協力により行われていましたが、
琵琶湖疏水は設計から測量、そして工事まで全て日本人の手によって完成した画期的な事業で、
インクライン・日本初の事業用発電所・トンネル工事の際の竪坑工法など、日本初の技術が数多く
取り入れられている工事でもあり、近代化遺産としても非常に貴重なものです。

上の写真は、琵琶湖疏水の第三隧道東口の部分で、ロマネスク風の煉瓦の入り口の上には
松方正義の書による「過雨看松色」の扁額が掲げられています。

琵琶湖疏水の6つのトンネル口には、それぞれ当時の明治政府の元勲の書の扁額が掲げられており、
そのことからもまさに国家的事業であったことがわかります。
この写真は、完成間もない明治20年代後半頃の撮影ではないかと思われます。

※補足ですが、私の所有する「東京日日新聞」の明治19年1月20日号に、
建設中の琵琶湖疏水の工事の現況を記した記事が掲載されています。
下記に紹介しますので、当時の雰囲気を味わっていただけたらと思います。

続きを読むから御覧ください。
東京日日新聞 明治19年1月20日号
東京日日新聞 明治19年1月20日号です。
※画像のクリックで大きくなります。

東京日日新聞 琵琶湖疏水工事の記事
琵琶湖疏水工事の現況の記事部分です。
※画像のクリックで大きくなります。

記事部分の内容を以下に記載しておきます。

「琵琶湖疎水工事の現況」

同工事の現況に付き本年一月十五日の神戸又新日報に掲げたれば左に抄録す
琵琶湖疎水工事開鑿の第一着なる滋賀県下滋賀郡藤尾村三井寺下に
切り抜くべき隧道は長さ凡そ十三百間にて同所には巳に疎水事務所を取設け
工部大学校の卒業生 田邊工学士を初め京都府土木議員数名は夫れ詰め切り日々
職工凡そ七八百余名を使役し昨年九月より其隧道の開鑿に着手したるが右は
東西の両口より斬次に切り鑿ち中途に至りて双方相合し滋に於て全通するの都合なれど
も何分前陳の通り千三百間の長き間爾かも最も深き地下を掘り通すことなれば
唯たに東西の両口より鑿ち居るのみにては成工の期も自ら延引すべきに付き件の
隧道の殆んど中央に当れる所の上より一の縦坑道を鑿ちて隧道を鑿つべき所まで
掘り抜き此の所より職工を出入せしめ夫れより更らに東西の両方へ隧道を切り抜き
最初東西の両口より着手の工事を夫々相互ひに掘り合ひて全く洞通を計るは工事の
捗どり上頗る宜しかるべしとの事にて先頃より其縦坑道の掘り抜きに取り掛りしが
其深さは先づ百七十尺余の見込にて凡そ十尺四方の広さを以て巳に百五尺まで掘りし処
地中は一体の巌石にて間々粘土混交し居り其隙間より水湧き出てしを以て
先づ其の水より汲み切らざるに於いては此の上地下を鑿つ事の出来ざるに依り無て同所の疎水事務所
にては当港川崎なる造船局に注文して一の即筒に修繕を加ふるが為め職工雇ひ入れ
方の義を申し込み其他種々協議を遂げ本日当港第一番発の汽車にて同事務所員は
職工を率ゐて発足せしが尚ほ聞く所に拠れば右の即筒に修繕を施したる上は直ちに
前陳の水と汲み取り引き続きて地下と掘り切り愈よ隧道開鑿に取掛るに於ては
其の掘り出す所の土砂等の釣り上げ又は隧道用の煉瓦石の下げ卸し等の便を計らん
が為め右百七十尺余の縦坑道の片側へ向け一の鉄軌道を直下し鉄鋼を以て荷物車様
のものを上下するの見込にて巳に同器械は英国なる某製造所へ注文し近々落成の上
同国より差回し来るべき都合なりと云ふ又縦坑道は隧道の開鑿を了りたる以上は
全く不用に属すべきに付き埋むべきなれども空気抜き用の為めに何時までも其のままに
存じ置く事なりとか尤も同隧道は実に疎水工事中第一の困難の事業にして此の切り抜き
丈けにても先づ今より向ふ凡そ四年間を要するの目的なりと聞き及びぬ
スポンサーサイト

コメント

コメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する

<?php include_once("analyticstracking.php") ?>