古絵葉書・関東防空大演習の空襲防護の活況(8枚組)

関東防空大演習001
昭和8年8月11日に東京市(当時)を中心とした関東一円で開始された大規模都市防空演習を記念して発行された絵葉書セットです。
第1次大戦より使用された航空機は昭和に入り軍事としての有用性も考慮されるようになりそれに伴い都市への空爆の恐れも出てくるようになりました。そこで行われたのがこの防空大演習です。
都市防空演習は昭和3年に大阪市で行われたのが最初でそれを皮切りに各主要都市で行われるようになりました。
ただ、当時はまだ一般市民には空襲というものに対して危機感や認知度があまり無かったようでいまいち盛り上がりに欠けていたようです。
この絵葉書セットも民間業者による発行で、他にも何種類か別の業者によって発行されています。
当時は一種の行事と言うかイベントみたいな雰囲気があったのかもしれません。
以下、中身の8枚の絵葉書を紹介します。続きを読むからご覧ください。
関東防空大演習002
「小松川方面に於ける空中照空機の実況 」
夜間に来襲した敵機を照空灯(海軍では探照灯)にて照らし位置を把握している様子です。
使われている照空灯は93式150cm照空灯だと思われます。
関東防空大演習003
「敵機空襲に対し飛行機より大煙幕を張り防禦展開中の実況」
敵機から主要施設を守るため上空に煙幕を張っている様子です。
煙幕の下にある建物は日本放送協会(現・NHK)当時愛宕山にあったラジオ局です。
関東防空大演習004
「日本橋附近の屋上に於ける最新式高射機関銃の活躍」
恐らく日本橋の百貨店の屋上で行われた対空射撃の演習の様子。使用されている高射機関銃は昭和8年に正式採用された九二式重機関銃でしょうか。
射撃をしている兵士は防毒マスクを被っています。当時はまだ20年ほど前の第1次世界大戦での毒ガスの記憶があり、空襲として使用されるなら都市を焼き払う焼夷弾より通常爆弾や毒ガス弾の方が脅威とされており、防空演習では特に毒ガス対策の方が重要視されていました。
関東防空大演習005
「敵機空襲に依り救護班の負傷者収容中の実況」
空襲により負傷した人を運んでいます。
関東防空大演習006
「空襲警報に接し直に出動。空襲、空襲と警告せんとする警報班」
軍用のオートバイを改造した感じの車両で空襲を知らせて回っている様子です。
乗っている警報班は軍人と思われますが、階級章の確認できない人もいます。民間人もいたのでしょうか。
関東防空大演習007
「飛行機上より大爆弾投下の実況」
敵機に見立てた軍用機より爆弾を投下している様子です。さすがに実際に街中へ爆弾を落とすわけにはいかないので、海上にて爆弾を投下しています。
関東防空大演習008
「爆弾投下され(模擬)電車に出火、防火班消火に活躍中の実況」
爆弾が市電の近くもしくは直撃し発火した想定で消火作業をしている様子。
周囲には多くの見物人が消火作業を眺めています。この頃はまだまだ空襲というものに実感が無くこの演習も見世物に近い状態だったことが伺えます。
関東防空大演習009
「持久性毒瓦斯弾投下せられ、クロール石灰を以て消毒作業中の防毒班」
上記しました通り当時の空襲は都市を焼き払う焼夷弾より第1次世界大戦時で大きな被害を与えた毒ガスに対する脅威の方が重要視されていました。空襲時には防毒マスクを装着し、毒ガスを中和する石灰を撒かれたりしました。

この関東防空大演習は大々的に行われましたが、この演習に関して一人の新聞記者が批判しています。
信濃毎日新聞主筆の桐生悠々が社説にて「関東防空大演習を嗤ふ」というタイトルで書いています。
内容は、○空襲が起きれば木造家屋の多い東京は瞬く間に焦土と化すこと。○空襲は1度ならず何度も行われること。○灯火管制は現代において意味が無いこと。○そもそも帝都の上空に敵機が来襲した時点で負けだということ。
この社説で桐生は陸軍の怒りを買い、また長野県の在郷軍人会による不買運動により桐生は退社を余儀なくされました。
桐生の社説は当時としては良く的を得た批判で実際演習から12年後、日本の都市は桐生が指摘したように焦土と化すわけですが、演習が行われた昭和8年はまだ都市空襲はなく、まさか都市全体が焼き払われるとは思いもよらなかったでしょうし、それでも防空意識を一般市民に持たせる防空大演習は、昭和8年当時としてはそれなりに意味のあったものではないだろうかと私としては思います。
防空本
関東防空大演習から9年後の昭和17年、ドーリットル隊により実際に東京が空襲の被害を受けました。
東京初そして日本本土初となった都市空襲は当時は軍事施設や軍需工場を限定とした高度精密爆撃で、後の無差別絨毯爆撃による大規模被害ではありませんでしたが、それでも日本本土にしかも帝都東京への爆撃は大きな衝撃を与え、また昭和8年の関東防空大演習の時点ではどこか他人事だった空襲が実際に起きる身近な恐怖となり、それを契機に官民問わず多くの防空対策本が出版されました。
画像の本は昭和17年から昭和19年にかけて出版されたもので、爆弾の種類等の知識から空襲時における心構えや対策などがより具体的に細かく書かれています。ただ、当時は限定的な目標への空襲が主だったので空襲時においてはこれまでの防空演習を踏襲した防火活動に従事するような内容となっています。
しかし、カーチス・ルメイ少将による焼夷弾での無差別絨毯爆撃への変更によって、防空対策本に書かれている内容そして防空演習での訓練は意味をなさなくなったばかりか逆に多くの犠牲を生む結果となってしまいました。
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