古写真・長野市内(?)の通りの防空壕

長野市 防空壕002
前所有者が長野市内と説明のあった戦時中の古写真ですが、通りの場所等含め詳細は不明です。
右手側の商店にある看板の文字等を拡大したりもしてみましたが読み取れませんでした。
ただし、写真の撮影された時期は写真に写されている白割烹着や和服の女性の姿から日中戦争開始から太平洋戦争前の時期かと思われます。
写真を見ると比較的大きな通りの真ん中に四角い穴があけられています。
これは空襲時に身を隠す防空壕・・・というより退避壕ですが、戦時中には多くの都市で盛んに作られました。
戦争末期の大空襲による結果を知る我々にとってはあまりに貧弱な壕ですが、焼夷弾の認識はあったものの当時の空襲による爆弾は爆発による建物の破壊を目的としたものが主で、爆風や破片から身を守れればよいという認識が主流だったためです。
時局防空必携001
所有している昭和18年版の時局防空必携の中にも当時の家庭用の退避壕について書かれています。
時局防空必携002
※サムネイルのクリックで拡大します。
書かれた退避壕のイラストによると深さは1m程度。古写真と同じく露天掘りで上には畳をかぶせるとあります。
当然直撃すればひとたまりもなく、文章中にも地面下に掘って作ったものの方がより安全であると書かれていますが、爆風や破片からとりあえず身を守る程度ならこの塹壕のような退避壕で十分と考えられていたのでしょう。
実際、太平洋戦争中盤の日本本土初空襲となるドーリットル隊の爆撃は通常爆弾を使用したピンポイント爆撃であり、また日本の木造家屋に対して従来の爆弾はオーバーキルとなり都市の破壊に対して大きな成果を得られなかったため、日本の都市のほとんどを占める木造家屋を効率よく破壊し都市全体を焼失させる焼夷弾を用いた大規模無差別爆撃が行われるようになったのは戦争末期の昭和19年から20年にかけてのことでした。
その頃には当然写真のような露天掘りの退避壕は役に立たず、それどころか地下式の防空壕すら危険な有様となってました。
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