祖父の軍隊時代までの来歴(祖父のアルバムより)

13陸軍曹長時代と祖母
私の祖父(2009年1月3日逝去)の日記とアルバムの古写真を見ていたら、祖父の戦前の来歴をまとめたいと思い立ち、記録として残すべくアルバムよりいくつか写真を抜粋しここに記します。
(アルバムは3冊。入営前と入営時からの福知山歩兵第20連隊時代・仙台陸軍教導学校時代・敦賀歩兵第19連隊時代)

続きを読むからご覧ください。
祖父は大正3年2月14日生まれ。
1郡是塚口青年学校時代
昭和12年頃、郡是塚口青年学校に入校。郡是製糸が尼崎の塚口に開校した青年学校に在籍していました。
日記1
その頃に書いていた日記が残されています。
2入営記念写真
昭和14年1月、郡是塚口青年学校を中退し、陸軍に志願兵として入隊。この写真は入営記念として撮られた家族写真。
(入営旗に書かれている名前は消してます。)
3上等兵進級日記
※サムネイルのクリックで拡大します。
昭和14年12月7日、上等兵に進級。これは軍隊日記に記されたその時の日記です。
4伍長勤務上等兵時代
上等兵時代の写真。腕に山形章があります。これは伍長勤務上等兵の山形章で、上等兵の身分でありながら下士官と同じ勤務に服した兵で、昭和14年当時、上等兵に進級できるのは中隊でも7割程度。さらに上等兵の中でも優秀な成績を収めた者だけがなれる伍勤(伍長勤務上等兵)は中隊で3人程度。いわゆる「金蝶じるし」と呼ばれた伍長勤務上等兵の山形章を付けた兵は「腕に金蝶ヒラヒラさせて、粋じゃないかよ 伍勤が通る」や「伍長勤務は生意気で~」などと歌われたように兵たちの羨望の的だったようです。
祖父は生前、「学は無かったが、その分演習とかの体力勝負で頑張った」と話してましたが、伍勤になるくらいだから相当努力したのでしょう。
伍勤の日記001
※サムネイルのクリックで拡大します。
しかし、伍勤の業務である週番下士官の学科は中々難しかったらしく日記では何も分からず叱られてばかりと愚痴を言ってますw
仙台陸軍教導学校本館
昭和15年、祖父は下士官養成学校の仙台陸軍教導学校に入校。1年間下士官としての教育を受けることになります。
7仙台陸軍教導学校王城寺原演習場
宮城県王城寺原演習場での1枚。この時すでに肩章に金筋があります。時期的に兵長になっていたのでしょうか。
8戦車長時代
戦車戦の演習をしていた時の写真。アルバムには「ルノー軽戦車」とあります。祖父の話では車長をしていて、車長はハッチから顔を出して進路等を指示するとき下にいる操縦手の肩を蹴って方向を指示するのですが、演習でつい熱くなり思いっきり蹴っ飛ばしてしまい後でケンカになったこともあったとか。
10伊庭隊准士官下士官団伍長時代
仙台陸軍教導学校卒業後、下士官として敦賀市の歩兵第19連隊に赴任。ここから日記は残されておらず詳細は不明ですが、恐らく昭和16年頃かと思われます。写真は伊庭隊という中隊の准士官下士官団。祖父は後方におり、伍長の階級章がついてます。
10軍曹時代
その後順調に昇進し軍曹に。
9敦賀歩兵第19連隊時代
敦賀の連隊時代の下士官たちとともに記念撮影。
11分隊長時代
分隊長時代と思われる頃の部下たちとの写真。中央最前列が祖父。
12陸軍曹長時代
昭和20年、陸軍曹長だった祖父は同年に編成された歩兵第441連隊に配属。連隊本部付下士官として任務に当たりました。
歩兵第441連隊は京都で編成された第153師団(護京部隊)隷下の連隊で、本土決戦用の本土決戦第一次兵備の部隊であり、沿岸守備隊でした。いわゆる根こそぎ動員だった連隊のため、本来ならば兵役を免れる乙種・丙種の兵隊も動員。自分より高齢の部下が多くいて武装も貧弱、いよいよ戦争がジリ貧になってきたと痛感したと言います。
13陸軍曹長時代と祖母
この時期、祖母と結婚。写真はその時に記念に撮影されたもの。ブログトップにも使用している写真です。
渥美半島にて任務に服していた時に終戦。聞いた玉音放送はその場ではよく分からず、その日の夜に戦争に負けて終わったことを知ったそうです。
玉音放送後にいわゆる「ポツダム進級」により准尉に昇進。そのため祖父の最終階級は准尉となりますが、他の同僚で准士官の軍装へと変更している中、戦争に負けたのに今さら馬鹿馬鹿しいとそのまま曹長の軍装のままでいたそうです。
祖父の軍装品1
祖父の軍装品2
祖父からは存命中に軍隊時代の話をよく聞きました。演習ついでに松茸を取って夜に食べたとか、工兵隊とは仲が悪かったとか色々。辛いこともあったが楽しいこともあったと。当時の軍隊時代を経験した生の体験談を直接聞けたのは幸せだったと思います。
祖父の話はもう聞けませんが、残された3冊のアルバムと4冊の日記、そしてこれらの軍装品の遺品が今に伝えています。

※関連記事
祖父の死
古写真・昭和17年頃の軍旗祭の出し物「地球の大掃除」(祖父のアルバムより)
昭和12年の日記にある重大事件の記述(祖父の日記より)
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コメント

興味深く拝見しました。
軍服なのですが、昭和13年に詰襟から立折襟に変わったと思いますが、結構長い期間、詰襟と混用されていたのですね。
お写真は時系列で紹介されていると認識していますが、「分隊長時代と思われる頃の部下たちとの写真」はほとんどの方が詰襟で肩に階級章が付いている旧式の軍服なんですね。使い分けとかあったのでしょうかね?

Kanさま
生前の祖父に聞いた話では、連隊の倉庫には軍服のストックが結構あり、折襟に代わってもストックの旧式を結構着ていたようです。特に20連隊とか19連隊は田舎の町の連隊ですし新軍服の配給も遅かったでしょうし、古いのから使用するか、新式との混用はしていたと思います。ちなみに下士官以上になると軍服が破れたら繕うことは余りなく兵に言って新しいのを持ってこさせるくらいの権限があったようですw(将校以上は自前)分隊長時代のは階級章を確認しましたが金筋しか分からずもしかしたら伍長時代だったかもしれず、そうなると前になるかもしれませんが、部下の数が多いので軍曹時代かもと判断しました。

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