category  [艦船・鉄道・車両・航空機 ]

古絵葉書・急設網艦 白鷹・厳島 伊号潜水艦

白鷹001
急設網艦とは領海内の港湾入り口や水道等において敵潜水艦の侵入を防ぐために
防潜網を設置する艦で、同時に機雷の設置も行う能力もある敷設艦です。
白鷹は昭和4年東京石川島造船所にて竣工。昭和19年に潜水艦シーライオンの雷撃により沈没しました。

下の1970トン伊号潜水艦は巡潜1型と思われます。
巡潜1型は伊1号から伊5号の型で、大正12年度艦艇補給計画により大正13年から昭和6年まで
建造されました。

古絵葉書・防護巡洋艦 宗谷

宗谷005
防護巡洋艦宗谷は元ロシア海軍の1 等防護巡洋艦ヴァリャーグで、
日露戦争の仁川沖海戦の際に自沈されたものを戦後に引き上げ鹵獲されたものでした。
その後練習艦として使用されましたが、第一次世界大戦時にロシアへ売却。
再び元の艦名のヴァリャーグとなり修理のためイギリスへ回航されましたが、
その後に政権を取ったソ連が修理代の支払いを拒否したため、そのまま廃棄されました。

宗谷という艦名はその後昭和15年にソ連から購入された特務艦宗谷に引き継がれ、
太平洋戦争を生き抜き、戦後は南極観測船に従事。
現在も船の科学館に保存されています。

データ
排水量:6,500t
全長:126.80m
全幅:15.85m
最大速力:23.0kt

武装
45口径15.2cm単装砲12基、40口径8cm単装砲10基、
47mm単装砲2基、45cm魚雷発射管4門

古書籍・軍艦写真帖

軍艦1
軍艦写真帖 昭和2年刊 海軍協会 編纂・発行

海軍協会が出版した日本の軍艦を紹介した写真帖です。
戦艦や空母・重巡だけでなく、軽巡・駆逐艦さらには砲艦・潜水艦・掃海艇や輸送艦など
多くの種類の艦艇が収録されています。
軍艦2
序文
軍艦3
金剛型戦艦4隻
軍艦4
砲艦
軍艦5
峯風型駆逐艦
軍艦6
駆逐艦山風・海風・磯風・浜風・天津風・時津風
磯風と浜風は戦艦大和最後の戦いの坊ノ岬沖海戦に参加。
軍艦7
二等駆逐艦
軍艦8
掃海艇
軍艦9
伊号潜水艦
軍艦10
輸送艦
間宮は給糧艦として有名。
軍艦11
海外の軍艦もいくつか紹介されています。

古絵葉書・米航空母艦レキシントン型撃沈さる(航空母艦サラトガ) 

レキシントン001
昭和17年1月12日、「ハワイ西方洋上に於ける我潜水艦の戦果」として
「米航空母艦レキシントン型撃沈さる」というタイトルの絵葉書です。
レキシントン型航空母艦で潜水艦の攻撃を受けたのは2番艦のサラトガ。
昭和17年1月12日、エンタープライズと合流するため航行していたサラトガは
伊6潜水艦の攻撃により大破。修理に入りましたが撃沈はされていません。
この絵葉書は海軍の情報を元に民間企業がイラストを制作し発行したものと思われますが、
撃沈の情報は誤認によるものなのか大本営発表の誇張によるものなのか分かりません。

サラトガはその後太平洋戦争の戦闘に幾度も参加した後、戦後核実験のクロスロード作戦に標的艦として使用され
沈没しました。

古写真・D50形蒸気機関車235号機 蒸気機関車1430号

D50型蒸気機関車001
戦前に撮影されたと思われる機関車の古写真3枚です。
この機関車には「D50 235」のプレートが付けられています。
D50形蒸気機関車は、大正12年から昭和6年まで製造された貨物用蒸気機関車で、
戦前から戦後にかけて活躍した機関車です。
D50の235号機は調べてみますと昭和3年に日立製作所笠戸工場にて製造され、
昭和6年から昭和18年まで小郡機関区に所属していたようです。
となりますと、この古写真は小郡駅の機関車庫で撮影されたものでしょうか。
D50型蒸気機関車002
2枚目の写真に写る機関車もD50235と思われます。
機関庫の整備士たちの記念撮影でしょうか。
D50形蒸気機関車235号機は昭和34年に北海道に渡り富良野機関区に所属し、
2年後に解体されたようです。
1430型蒸気機関車003
3枚目の機関車には「1430」のプレートが取り付けられています。
これは形式番号ではなく機関区での番号と思われます。
機関車は姿から8700形か8800形に見えるのですが、山口の方には乗り入れていないようで
鉄道に詳しくない私には結局分かりませんでした。
詳しい方がいればご教授お願いします。

古写真・零式艦上戦闘機 (報国第1300号・1329号)21型もしくは52型か。

九六艦戦報国第1300号1
袋に「報国号献納飛行機命名式写真 海軍省」と書かれています。
これは海軍に献納された艦上戦闘機を記念して造られた写真です。
九六艦戦報国第1300号2
献納された艦上戦闘機は1300号と1329号。立命館が昭和18年9月に海軍に献納した機体で
それぞれ1300号は「第一立命館号」1329号は「第二立命館号」と名付けられました。
この写真はその命名を記念して発行されたものです。
昭和18年9月より生産された艦上戦闘機は零式艦上戦闘機は52型があげられます。
ただし零戦21型も昭和19年まで生産されてますので、この献納された零戦はそのどちらかということになります。
軍への兵器の献納は戦前戦中にかけて盛んに行われ、献納者は地方自治体や各公共団体、民間企業や宗教団体から
個人に至るまで様々でした。そして献納された兵器には献納者にちなむ名前がつけられています。
海軍では献納された兵器には「報国」陸軍には「愛国」と付けられています。
九一式戦闘機(愛国38)
こちらは京都市民から陸軍に献納された九一式戦闘機です。機体胴部に「愛国」と書かれています。

※関連記事
古絵葉書・九一式戦闘機(献納戦闘機・愛国38京都)
古絵葉書・北海道道民 献納兵器命名式記念絵葉書

※参考サイト
陸軍愛国号献納機調査報告(おまけの報国号)

古写真・航空母艦 龍驤

航空母艦 龍驤
航空母艦 龍驤は昭和4年に横浜船渠にて起工され、昭和8年に竣工しました。
当時ワシントン海軍軍縮条約により艦艇の保有枠を設けられた日本は、
まだ補助艦艇扱いだった航空母艦にも総数8万トンという制限が付けられました。
日本海軍は戦艦として建造中だった赤城・加賀を空母へと改装することで戦艦の保有枠を削りましたが、
それによって空母の保有枠分の残りが少なくなったため、条約外だった1万トン未満の
航空母艦を建造する計画をたてました。龍驤はそれによって誕生した空母でした。

しかし建造中に締結されたロンドン海軍軍縮条約により1万トン未満の航空母艦の建造も制限を受けたため、
小型の空母を作るメリットが無くなり、建造中の龍驤にさらなる能力向上を要求。
航空機搭載数を増加させるため格納庫を船体一杯に広げさらに格納庫を2段にしました。
そのため、排水量は1万トンを超えることになります。
しかし船体自体はすでに完成しており、写真のようなかなりのトップヘビーな艦影となりました。
当然重心バランスが悪く舷側にパルジを追加するなどの処置がとられましたが、それでも不十分なため
さらには重油タンクをパルジ内に設け安定を図りました。

龍驤はしばらく練習空母として使用されていた時期もありましたが、太平洋戦争開戦と共に戦闘に参加。
数々の開戦に参加しましたが、昭和17年の第2次ソロモン海戦にて米軍の艦載機の攻撃を受け沈没しました。

※データ
公試排水量:10,150t
全長:180.0m
全幅20.32m
武装: 40口径12.7㎝連装高角砲6基、13㎜4連装機銃6基、
航空機36機(艦上戦闘機12機 艦上攻撃機24機)+補用12機
最大速力:29.0kt

古写真・航空母艦 鳳翔

航空母艦 鳳翔
航空母艦 鳳翔は、日本海軍初の記念すべき航空母艦であり、世界的に見ても最初から空母として設計された
空母としては世界初の艦でもありました。

航空機の発明と発達により航空機の軍事運用が注目される中、
洋上の航空基地としての性格を持つ艦が構想されました。
すでにイギリスでは既存の艦を改装した航空母艦はありましたが、日本海軍は最初から空母として設計された
艦の建造を決定。大正8年浅野造船所にて起工。イギリス側の協力も得て大正11年に完成しました。
黎明期の航空母艦はまだ運用方法が手探り状態で、飛行甲板も先端は艦首に合わせた形をしており、
航空機燃料に至っては専用のタンクが装備されておらず、なんとドラム缶につめて艦内に保管するという
極めて危険な状態でした。
竣工当初は艦の右側にアイランド式艦橋がありその後の発展した空母と同じ艦形でしたが、
元々空母としては小型だった鳳翔にはその艦橋が航空機運用にとって障害となり、
大正13年の改装で撤去され、フルフラットの軽空母となりました。
この写真の鳳翔はアイランド艦橋を撤去されているので、大正13年以降の撮影とわかり、
また、先の記事の水上機母艦 神威の古写真と同じ時期に作られたものと思われることから
昭和9年以降の撮影ではと思われます。

鳳翔は第1次上海事変や日中戦争に参加し、太平洋戦争でもミッドウェー海戦にも参加はしましたが、
交戦はなくその後は内地にて練習用の空母として使用され終戦。昭和22年に解体されました。
鳳翔は日本海軍が所有した空母のうち唯一無傷で終戦を迎えた空母でした。

※データ(竣工時)

常備排水量:9,449t 
全長:166.0m
全幅:22.7m
武装:50口径14㎝単装砲4基、40口径8㎝単装高角砲2基、
航空機15機(艦上戦闘機6機 艦上攻撃機9機) 補助機6機
最大速力:25.0kt

古写真・水上機母艦 神威

水上機母艦 神威
水上機母艦 神威は、大正10年にニューヨークのシップビルジング社にて起工され、
わずか1年後の大正11年に完成しました。
当初は給油艦として建造され、昭和7年に水上機母艦に改装。昭和9年に正式に水上機母艦として艦種変更されました。
この写真には「水上機母艦 神威 検閲済 不許複製」の文字があるので、昭和9年以降の撮影と分かります。
水上機母艦とは、水上機を運用する艦のことで、甲板上で発着艦できる航空母艦とは違い、機体の発着艦は
水上で行い、それを回収して収容する艦でした。
そのため徐々に運用面において不便さが表れ、同じ水上機母艦であった千歳や千代田は後に軽空母へと
改装されています。
神威は昭和14年に飛行艇母艦へと改装。その後戦果を潜り抜け潜水艦や航空機の攻撃を受けるなどし
香港にて大破状態で終戦を迎え、解体されました。

古写真・駆逐艦太刀風の艦上写真(出撃前か)

駆逐艦太刀風006
写真の裏に「爆風を突いて出撃 太刀風」と書き込みがあります。
駆逐艦太刀風は、大正10年に舞鶴海軍工廠にて竣工した峯風型駆逐艦の11番艦です。
太平洋戦争では主に輸送任務や海上護衛に携わりましたが、
昭和19年にトラック島空襲に参加してた米海軍艦載機の攻撃を受け沈没しました。

この写真はいつごろ撮られたのか分かりませんが、裏面の文を信用するなら、
実際に戦闘に参加した昭和12年の日中戦争以降でしょうか。
ただし、戦没間際は写真は無いと思われますが。
写真には14cm単装砲と煙突、救命ボートが写ってます。
恐らく後部マスト辺りから艦首側に向かって第3砲塔辺りで作業する乗組員を撮影したものと思われます。
出撃準備中の様子を撮影しているものから、太刀風の乗組員か従軍記者、
もしくは海軍の報道官の撮影によるものでしょうか。

※データ
常備排水量:1,345t
全長:97.54m
全幅:8.92m
武装: 45口径12cm単装砲4基・6.5mm単装機銃2基・53cm魚雷連装発射管3基6門・1号機雷16個

古写真・昭和三年大礼特別観艦式記念写真

昭和3年観艦式001
観艦式は海軍の艦艇を洋上に並べて艦隊行動や模擬演習などを行う軍事パレードで、
日本では明治元年3月26日に大阪天保山沖で行われたのが最初であり、
明治期に6回・大正期に6回・昭和戦前期に6回行われており、
旧海軍の観艦式としては昭和15年の紀元二千六百年特別観艦式が最後となりました。
戦後の海上自衛隊発足後も昭和32年に最初の観艦式が行われて以後昭和48年までは毎年、
一旦途絶えた後、昭和56年からは3年ごとに現在まで行われています。

この古写真は昭和3年に昭和天皇即位を記念して横浜沖で行われた観艦式の様子を撮影した記念写真です。
外袋の内側に「非売品」の文字があり、関係者のみに配られたか、もしくは観艦式を見学した人への
記念品として配られたものかと思われます。

写真は3枚となっております。
昭和3年観艦式002
お召艦 榛名
大正4年に川崎造船所で竣工した金剛型戦艦の3番艦で、戦艦でありながら30ktあまりの速力を出す
高速戦艦として太平洋戦争でも活躍した艦です。
金剛をはじめ他の姉妹艦が戦没する中、榛名は最後まで奮戦し昭和20年7月28日の呉軍港空襲で
大破着底し終戦を迎えました。
この榛名の写真の撮影は11月24日。
昭和3年観艦式003
観艦式式場のタイトルのある写真。撮影は観艦式当日の2日前です。
手前の戦艦は長門。奥に姉妹艦の陸奥が見えます。さらに奥には扶桑型戦艦の艦橋が確認できます。
昭和12年の大改装まで装備されていたS字煙突はまさに長門・陸奥の最大の特徴でした。
手前の戦艦はS字煙突側面にある蒸気管の形状が湾曲しています。
湾曲した蒸気管は長門・まっすぐなのは陸奥とのことなので、手前が長門。奥が陸奥であると分かります。
戦艦長門と陸奥は当時最強と謳われたビッグ7のうちの2つとして、また長門は長らく連合艦隊旗艦を務めたことから
「長門と陸奥は日本の誇り」と国民に親しまれ続けました。(大和型戦艦は軍極秘扱いだったため。)
陸奥は昭和18年6月8日に広島湾の柱島泊地にて爆発事故を起こし沈没しましたが、
長門は戦艦の中で唯一航行可能状態で行き残り、昭和21年アメリカによる水爆実験(クロスロード作戦)で
生涯を終えました。
昭和3年観艦式004
上と同じく観艦式式場のタイトルの付いた写真。
手前の戦艦は煙突の蒸気管の形状と信号桁の形状から陸奥。
その奥にも戦艦群が並び、さらに左後方に駆逐艦や巡洋艦が並びます。
左上には水上機が飛んでいます。

昭和3年の観艦式では、戦艦は金剛・比叡・榛名・長門・陸奥・扶桑・山城・日向。
航空母艦では赤城と加賀が参加し、以下重巡・軽巡・駆逐艦・潜水艦・その他艦艇及び外国の艦艇を含めて
総数186隻という錚々たるものでした。

古写真・軍艦(巡洋艦?)の進水式(昭和初期~昭和10年代か)

進水式001
昭和初期から昭和10年代頃の撮影と思われる軍艦の進水式の古写真です。
場所は不明ですが、横須賀か呉の海軍工廠でしょうか。
艦首に菊の御紋章を確認できます。
旧海軍において艦首に菊の御紋章を戴くいわゆる「軍艦」は、戦艦・巡洋艦・航空母艦・
潜水母艦・敷設艦・砲艦・水上機母艦となります。
進水式002
こちらは艦尾からの撮影。艦台を滑り落ちる瞬間のようです。
大きさからして軽巡洋艦クラスのように思えます。
仮にこの進水式の様子を撮影したのが昭和初期以降で艦種が軽巡洋艦であるとするならば、
最上型(のち重巡洋艦に変更)・阿賀野型・大淀型が該当しますが、
艦名や上部構造物・艤装など手がかりになるものは写っておらず、
現段階では判定は難しいです。
何か分かる方はご教授頂けたら有難いです。

古写真・建造中の巡洋戦艦鞍馬

鞍馬019
巡洋戦艦鞍馬は明治38年に横須賀海軍工廠で起工され明治40年に進水した
鞍馬型巡洋戦艦の1番艦です。
しかし、進水式の時点でイギリスにて誕生した革新的な戦艦・ドレッドノートにより
一気に旧式化。それでも明治44年に就役し、イギリス国王ジョージ5世の戴冠式と記念観艦式に
参加したり、第1次世界大戦で護衛任務に付いたりしましたが、
ワシントン海軍軍縮条約により廃艦が決定し、大正12年に解体されました。

この写真は横須賀海軍工廠内のドックにて建造中の鞍馬です。
船体は出来上がってますが、上部構造物や主砲等の兵装は取りつけられていません。
ただ、艦尾に「くらま」の艦名があることから、進水式後の艤装の様子を撮影したものでしょうか。
鞍馬の船体の奥にガントリークレーンが写っています。
これは、鞍馬建造の折に新設された物のようです。

撮影時期ですが、進水後とするならば明治40年10月21日以降と言うことになります。

古絵葉書・駆逐艦島風(初代)

島風003
初代の駆逐艦島風は峯風型の4番艦として舞鶴海軍工廠にて建造され、大正9年に就役しました。
公試航海時に40.698ノットの速力の記録を出し、旧日本海軍でも最速を誇る艦でした。
昭和15年に高速輸送艦と言える第一号哨戒艇に艦種変更。
島風の名前は昭和16年に起工し、昭和18年に就役した2代目に引き継がれました。
第一号哨戒艇となった島風は、2代目建造中の昭和18年1月に潜水艦の雷撃を受けて沈没しました。

2代目島風も40.9ノットの速力を記録し、その速力で敵機の攻撃をかわした史実から
島風と言えば2代目が有名ですが、初代も2代目に劣らない速力の持ち主でした。

最近大人気のブラウザゲーム「艦隊これくしょん~艦これ」の人気キャラの
ぜかましちゃんこと島風も初代ではなく2代目がモデルです。
ちなみに私も5月に着任し、横須賀鎮守府組で提督やってますw

データ
排水量:(常)1,345t
全長:97.54m
全幅:8.92m
武装:45口径12cm単装砲4基、6.5mm単装機銃2基、
53cm魚雷連装発射管3基6門、1号機雷16個

古絵葉書・常盤艦及松島艦沈没の光景

常盤と松島001
明治41年に台湾沖で火薬庫の爆発事故により沈没した防護巡洋艦松島と、
奥に写る装甲巡洋艦常盤の写真です。

防護巡洋艦松島は明治21年にフランスで建造され、姉妹艦の厳島・橋立とともに
「三景艦」と呼ばれました。
松島・厳島・橋立の三景艦は比較的小型の艦体に大口径の主砲を1門搭載した小艦巨砲主義というべき
艦で、当然トップヘビーなこの艦は艦のバランス等に大きな支障をきたしました。

松島は日清戦争の黄海海戦では清国北洋艦隊と戦闘を行いましたが、
日清戦争では二線級となり、戦闘に参加することは余りありませんでした。
明治41年士官候補生の練習航海中の台湾沖で爆発事故を起こし沈没。
そこには陸軍元帥の大山巌の子息も乗艦しており殉職しました。

装甲巡洋艦常盤は明治32年にイギリスで完成した艦で、
日露戦争に参加。大正期には機雷敷設艦として使用されました。
昭和2年に機雷の爆発事故を起こしたものの、終戦まで生きのび、昭和22年に解体されました。

古写真・ルノー乙型戦車

ルノー乙型戦車1
祖父の軍隊時代のアルバムにあった写真。写真の横に「ルノー軽戦車」の書き込みがあります。
写真の戦車はルノー乙型戦車かと思われます。

ルノー乙型戦車はフランスのルノーNC型戦車を日本で改良したもので、
当時輸入されたルノーNC型戦車の性能が予想以上に劣っており、故障などのトラブルも多かったため、
軍の技術本部が独自に改修したものが乙型戦車になりました。
改修後の乙型戦車は満州事変や上海事変で使用されたようですが、やはり性能の低さはカバーできず、
早々に前線から退き、国内の演習用に回されたようです。

写真は祖父が車長をしていた頃と思われる写真で、左上の人物が祖父。他3人が部下。
祖父の階級章は金筋が入っているので下士官時代であることは分かりますが、星の数が不鮮明。
しかし、アルバムの他の写真の時期から軍曹時代ではと思います。
ただ、祖父の所属は歩兵なので、戦車の車長をやっていたのはあくまで演習の一貫だと思われます。
ルノー乙型戦車2
こちらは別の写真。写っている上等兵は上の写真の右下の方だと思われます。
戦車は同じルノー乙型戦車。砲塔の形などがよく分かります。

祖父が存命の頃、戦車の車長をやっていた頃の話を何度か聞いたことがあります。

連隊内で戦車戦の演習をやったとき、戦車の車長は操縦手に指示をする時に操縦手の肩を蹴って
進む方向を指示するのですが、演習といえども各戦車は必死に競いあうのでつい力が入って
操縦手の肩をこれでもかと強く蹴っ飛ばしてしまい、演習後に操縦手とケンカになったとか。

祖父とケンカした人のうちの1人がこの中に写っているのでしょうか。
祖父が亡くなった今、もっと色々と話を聞いておけばよかったと今更ながら思います。

古写真・多布施鉄橋に全速力で迫る列車

多布施鉄橋1
写真の裏に「1932・1・5 多布施鉄橋に全速力で迫る列車」の書き込みがあります。
多布施鉄橋は佐賀県佐賀市にある長崎本線の鉄橋で、ここを通過する機関車を
昭和7年に撮影したもののようです。

この蒸気機関車は客車を引いているので8620型でしょうか?
鉄道には疎いのでよくわかりませんが。

古写真・国鉄シキ40形貨車(シキ40)

寝覚発電所11
寝覚発電所工事記録写真の中にあった1枚で、発電所の発電機部品の一部を輸送している古写真です。
輸送している貨車は「国鉄シキ40形貨車」で、昭和4年から昭和20年にかけて42両が生産された車両です。
車体には「シキ40」と書かれており、シキ40形の40番の車両ではないでしょうか。
写真をよく観察しますと、車体に色々書き込みがあり、その中に「水戸驛常備」と書かれており、
水戸駅に所属していた貨車と思われますが、その貨車が遠く離れた長野県の発電所工事の輸送に
使われてます。それは発電機等の機器が日立製作所による製作で、この写真は日立製作所から
搬出されて貨車に乗せられ出発しようと準備している姿ではないかと思われます。

関連記事・古写真・発電所工事の記録写真24枚(寝覚発電所か)

古絵葉書・巡洋戦艦 筑波

巡洋戦艦 筑波
巡洋戦艦筑波は、明治40年に完成した軍艦です。
絵葉書には「巡洋艦」となってますが、大正元年に巡洋戦艦という種別が新設されるまでは、
巡洋艦扱いでした。
筑波は日露戦争後に作られた初の国産大型艦でしたが、大正6年に横須賀港にて火薬庫の爆発により
大破着底。除籍されました。




古絵葉書・防護巡洋艦「松島」

防護巡洋艦松島
清国との緊張が高まりつつあった明治18年。清国北洋艦隊に配備された「鎮遠」と「定遠」の
2隻の戦艦は、日本海軍に大きな衝撃を与えると同時に大きな驚異となりました。
しかし、予算が少なく定遠・鎮遠のような強力な戦艦が持てなかった日本海軍は、
小型の船体に定遠級の戦艦に対抗できる32センチ砲を1門だけ配備した巡洋艦を
フランスへ発注し配備しました。それが「三景艦」と呼ばれる松島・厳島・橋立で、
この松島は三景艦のネームシップとなった巡洋艦です。

日本海軍の期待を背負って完成した松島型は、実際使用してみると
32センチ砲は発射速度が遅い上扱いにくく、また船体に似合わない
大型の砲のために船のバランスに大きな問題が生じ、実際に日清戦争の黄海海戦では、
32センチ砲が1発も当たらなかったのに対して、副砲の12センチ砲の方は
大いに活躍し、以後日本海軍は副砲を重視したイギリス式の軍艦を基本とするようになりました。

日露戦争時は実戦に参加せず、哨戒任務に従事しました。

明治41年、練習航行中に台湾沖にて火薬庫爆発により沈没。200人近くの犠牲者を出して
松島の生涯は終わりました。

データ

常備排水量:4,278t
全長:89.92m
最大速力:16.0kt

武装
38口径32cm単装砲1基
40口径12cm単装砲12基

古絵葉書・舞鶴鎮守府在籍軍艦(吾妻・阿蘇・丹後・見島・鎮西・千歳)

舞鶴鎮守府所属艦艇
明治39年頃の舞鶴軍港の様子を撮影した絵葉書です。
明治三十七・八年戦役(日露戦争)第一回海軍記念日の記念スタンプが押されています。
海軍記念日とは、日露戦争の日本海海戦で勝利した日です。

手前に写る軍艦たちは右から

装甲巡洋艦「吾妻」
装甲巡洋艦「阿蘇」(元ロシア海軍装甲巡洋艦「バヤーン」))
戦艦「丹後」(元ロシア海軍戦艦ポルタヴァ)
海防艦「見島」(元ロシア海軍海防戦艦「アドミラル・セニャーウィン」)
砲艦「鎮西」(元清国海軍砲艦「鎮西」)
防護巡洋艦「千歳」

となっておりますが、吾妻と千歳以外はすべて鹵獲軍艦になっています。
特に日露戦争後ということもあって、ロシア海軍の軍艦が多いですね。
これらの軍艦は、吾妻と鎮西を除いて昭和初期までに処分されました。
鎮西は明治41年に隠岐商船学校へ練習船として移管され、
吾妻のみが昭和19年まで舞鶴機関学校の練習艦として舞鶴湾に停泊し続けました。

艦艇の奥に煉瓦の建物群が見えますが、
おそらく舞鶴海軍工廠(現・ユニバーサル造船舞鶴工場)の
工場棟ではないかと思われます。

古絵葉書・紅丸

紅丸
大正期に完成した日本郵船所属の客船です。
絵葉書によると総トン数1600トンと客船としては小さめなので、
国内の航路として利用されたようです。
検索して調べてみたのですが、あまり出てきませんでした。

東海道新幹線開通記念初日カバー(0系新幹線)

東海道新幹線開通記念
昭和39年10月1日に開通した東海道新幹線は、敗戦後の戦後復興の象徴であり、
日本が経済大国となるきっかけであった高度経済成長のシンボルでもありました。
最高時速200キロ突破を達成し、世界の鉄道界に衝撃を与えた新幹線は
現在の日本にはなくてはならない交通手段となっています。
その初代新幹線が0系でした。
かつての戦闘機技術者が航空機を範にして設計した独特のフォルムは
まだSLが現役だった当時、斬新なデザインで、その未来的なフォルムと
前代未聞のスピードはまさに「夢の超特急」でした。
また、この0系は昭和39年開業から現在に至るまで44年間同型車が
走り続けた車体でもあり、最高の名車と呼ぶ人も少なくない車体です。
当時から子供の憧れであり、新幹線と言えばこの0系を思い浮かべる人も
多いのではないかと思います。
その戦後の象徴ともいえる0系新幹線も今月11/30日をもって通常営業が終了します。
私個人も思い出があるだけに寂しい思いがあるのは否めません。
そこで、今回は0系新幹線惜別を記念して東海道新幹線開通記念の初日カバーを
紹介します。
初日カバーとは、新しい記念切手が発行されたとき、その切手をはがきや封筒に貼り、
その発行日に記念の消印を押したものです。
この東海道新幹線開通記念は、開業日の10/1の消印が押されています。
ちなみに、東海道新幹線開通記念の初日カバーはこの他にもいくつか種類があるようです。
44年間大きな事故を起こさず走り続けた素晴らしい名車。本当にお疲れ様でした。

古写真・セカイ食堂とハドソン社製の自動車(4ドアセダン?)

セカイ食堂
掲げられた看板に「ヱビスビール 食堂セカイ」と書かれていますので、
どこの街にあった店かはわかりませんが、この店はセカイ食堂という
名前だということがわかります。
全体的には和風の店ですが、窓周りなど洋風の意匠が見てとれます。
エビスビールは今でもある「ちょっと贅沢なビール」ですね。
明治23年以来飲まれ続けているロングセラーです。
セカイ食堂の隣にある洋館が気になりますが、この店とは関係がないようです。
自動車部
セカイ食堂の中に「自動車部」があります。
自動車販売とは考えにくいので、恐らく配達か送迎用の車と思われます。
車庫が一寸せまい気が。ぶつけずに入れるのも難しそうですが、
ちゃんと車から降りられるのでしょうか。
横にドアがあるから一応スペースはあるかな。
ハドソン社製の自動車
車庫に入っている車の写真です。
エンブレムなどを調べてみますと、どうやらかつてアメリカにあった
「ハドソン社」の自動車のようです。
ハドソン社のエセックスコーチの写真を見ると、セカイ食堂の車と
同じエンブレムがあるのがわかります。
Wikipediaの記事を見ると、どうやら4ドアセダンタイプのようですが、
車はあまり詳しくないので、正確な車種はわかりません。
しかし、当時は富裕層しか所有できなかった自動車。
それも外車を所有しているこのセカイ食堂。
ただの街の食堂ではなく、それなりに大きな食堂で、
結構儲かっていたのかも知れませんね。
これら写真の撮影時期は、セカイ食堂と横の洋館のデザイン、
ハドソン社の自動車のタイプから、大正から昭和初期あたりだと思われます。


古写真・明治~大正期ごろ?の造船の様子

造船1
明治から大正期のころではないかと思われる造船所での造船の様子を撮影した
古写真です。木造などではなく、リベットを打った鋼鉄船ですので、
大型の商船でしょうか。船体にはチョークのようなもので色々書かれています。
造船2
こちらは舵の付近の写真。関係者の人が記念に写っています。
実はもう一枚出品されていて本来は3枚セットだったのですが、
惜しくも残り1枚は入手できませんでした。
しかしながら、この2枚でも明治~大正期の船体の構造などが
分かるのではないかと思います。

古絵葉書・軍艦三笠引揚工事の状態

引揚工事の戦艦三笠
日本海海戦時、連合艦隊旗艦として戦果をあげた戦艦三笠は、
日露戦争終結直後の明治38年9月に佐世保港内で爆沈事故を起こしました。
その後引き揚げられ、除籍後大正14年に記念艦として横須賀に保存されて現在に至ります。
現役当時の戦艦三笠の絵葉書や、記念艦の三笠の絵葉書はよく見かけますが、
爆沈後の引き揚げのようすを撮影した絵葉書はそこそこ珍しいのではないかと思います。
絵葉書に写る戦艦三笠は舳先をこちら側に向けており、菊の御紋章が見えます。
しかし、隣の船と比べると、明らかに甲板位置が低く、まさに引き上げの最中ということがわかります。
船体にまかれているのは、破損した船体を保護するものでしょうか?
また、艦上には多くの人が作業している姿も確認できます。
戦艦 三笠
こちらは現役当時の戦艦三笠です。絵葉書の状態から、引き揚げ後のものかもしれません。

古絵葉書・九七式中戦車(チハ)と九五式軽戦車の行進

帝国陸軍戦車部隊
旧帝国陸軍が保有していた九七式中戦車と
九五式軽戦車の行進の様子を撮影した絵葉書です。
絵葉書に解説がないので、詳しいことはわかりませんが、
宛名面に「陸軍省発行」とありますので、観閲式化何かのときに
記念として発行したものかもしれません。
絵葉書に写る戦車は、旧陸軍の主力戦車だった九七式中戦車と九五式軽戦車と
思われる2種の戦車です。
向かって右の砲塔が左によって鉢巻みたいなアンテナが付いているのが九七式中戦車。
通称チハ車。向かって左の履帯が狭く、やや小型の戦車が九五式軽戦車です。

古写真・大正初期頃?撮影の蒸気機関車(No.1828号)

蒸気機関車1
古風な機関車と一緒に記念撮影をしている写真です。
撮影時期はおそらく大正初期。駅の構内で撮影されたものと思われます。
この写っている機関車について色々調べてみたのですが、ネットでも
交通博物館出版「明治の機関車コレクション」で調べても特定できませんでした。
私自身鉄道に詳しくないせいもありますが・・・
とりあえず、今現在分かる範囲の特徴をあげてみますと。

①テンダー式機関車。②ディフレクターはなし。③蒸気ドームは3つ。
④カウキャッチャーを装備。⑤煙突はやや高めでまっすぐ。

また、特定する有力な情報として、機関車の正面・ヘッドライト・運転室側面に
「1828」のナンバーが記載されています。
おそらく、この機関車が撮影された機関区に配備されたときに付けられたナンバーで、
形式番号ではないと思いますが、この機関車の特定や撮影場所を知る手がかりになると思います。
また、この写真が貼られた台紙の裏には撮影された機関車についての解説が書かれています。

追記で紹介しますので、下の続きを読むからご覧ください。
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古絵葉書・ドルニエ、川崎型金属製飛行艇ノ須磨沖ニ於ケル試験飛行

ドルニエ飛行艇
飛行艇とは、海面などの水上から離発着する航空機のことで、
この飛行艇は、ドイツのドルニエ社が開発した飛行艇です。
この絵葉書は、川崎造船飛行機部がドイツ・ドルニエ社から輸入した飛行艇を
神戸須磨沖にて試験飛行したときの様子を撮影したものと思われます。

古絵葉書・九一式戦闘機(献納戦闘機・愛国38京都)

九一式戦闘機(愛国38)
九一式戦闘機とは、昭和7年から昭和10年ごろまでの陸軍の主力戦闘機で、
陸軍最初の単葉戦闘機です。製作は中島飛行機です。
この「愛国」戦闘機とは、民間が陸軍に献納した戦闘機のことで、
機体にはナンバーと献納者の名前が書かれました。
この愛国38京都号は、38番目に京都市から献納された戦闘機ということです。
ちなみに、陸軍機は「愛国」、海軍機は「報国」と名づけられています。

下のサイトが陸軍献納機について詳しく調査・紹介されています。
陸軍愛国号献納機調査報告
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