category  [福知山市(京都府) ]

古絵葉書・福知山市街全景

福知山
昭和初期頃撮影と思われる福知山市街地の絵葉書です。
左手前の建物は福知山衛戍病院。右やや手前の2階建ての建物は、天田郡役所。
さらに右奥の洋館は、現在洋菓子の足立音衛門となっている松村邸。
奥の方には福知山電信局と音無瀬橋が見えます。
福知山市
この絵葉書は以前紹介したもので、ほぼ同じ時期に上のアングルより少し左に振って撮影されたものです。
福知山全景
こちらも以前紹介した絵葉書で、撮影時期とアングルはほぼ同じものです。

関連記事・福知山町の全景(大正期頃) 福知山町全景(明治期) 天田郡役所 福知山衛戍病院

古絵葉書・福知山衛戍病院(旧福知山城二の丸跡台地から望む)

福知山衛戍病院二の丸台地から
福知山衛戍病院は明治31年に設立され、旧福知山城の伯耆丸に建てられました。
この絵葉書は福知山城本丸側から伯耆丸の福知山衛戍病院を望む写真ですが、
手前の削られた丘は福知山城の旧二の丸台地です。
福知山城の二の丸があった台地は、山陰線建設に伴い新切通として明治時代から削られ始め、
大正時代の半ばから後半には完全に削平されました。
この絵葉書はまだ二の丸台地が残っている大正初期の頃のものと思われます。
福知山衛戍病院の石垣
絵葉書には福知山衛戍病院の建物の下に擁壁の石垣が見えますが、この石垣は現存しています。
下段の斜めに積まれている石垣は戦後のものですが、その上の草に覆われている石垣が
福知山衛戍病院時代の石垣です。
福知山衛戍病院の石垣銘板
※クリックで拡大します。
石垣には銘板が2枚分嵌めこまれており、

工事設計監督
陸軍校 福井太郎
工事請負人
中村組合資会社
□務執行社司
中村祐七

石工
沖中久藏
今中力松
石材運搬
武藤作兵衛
起工 明治三十五年八月
竣成 同年十一月

(Ever Green Forest -- blogより引用)
の文字が刻まれています。

福知山衛戍病院ノ遠望
こちらは現在の市役所側から撮影された衛戍病院です。
福知山衛戍病院 病室
こちらは福知山衛戍病院の病室。
福知山衛戍病院は戦後国立福知山病院となりましたが、現在の福知山市民病院の場所に移転してからは
旧衛戍病院時代の建物は取り壊されました。
福知山衛戍病院遺構
福知山衛戍病院遺構通風口
しかし、衛戍病院のあった伯耆丸の台地の麓に、旧陸軍の星マークの通風口を持つ煉瓦基礎の古い木造建築群が
現存しており、福知山衛戍病院と何らかの関連がある建物のではないかと思われます。

※関連記事
古絵葉書・福知山衛戍病院 
古絵葉書・福知山衛戍病院ノ遠望
古絵葉書・天田郡医師会館落成記念
福知山陸軍衛戍病院関連と思われる建物(別ブログ)

古写真・京都電燈株式会社山陰支店(京都電燈株式会社五十年史より)

京都電燈株式会社山陰支店
京都電燈株式会社五十年史に収録されている京都電燈株式会社山陰支店の写真です。
山陰支店は福知山市にあり、記載の住所によると現在の合同庁舎あたりに存在したようです。

※関連記事・古書籍 京都電燈株式会社五十年史

古写真・福知山 三ツ丸百貨店屋上にて 昭和10年頃

三ツ丸百貨店1
昭和10年頃に福知山市の三ツ丸百貨店屋上にて撮影された写真です。
台紙に「福知山町 三ツ丸百貨店屋上にて S10年頃」とあります。

三ツ丸百貨店は、当時繁華街だった福知山市の新町商店街の
福知山銀行本店向かいに昭和8年に建てられました。
当時としては珍しい鉄筋コンクリート造り3階建のエレベーター付きの建物は話題を呼び、
多くの人が訪れたそうです。
特に屋上は眺めが良く最上階の3階にはレストランがあり、東京からやってきたコックの作る
トンカツやビーフステーキは評判だったそうです。
写真の背後に写る建物の一部がレストラン部分だったようです。
女の子が乗っているのはブランコ型のベンチ。
もしかしたら、ちょっとした遊具が置かれていたのかも知れません。
三ツ丸百貨店2
3階のレストラン内で撮影された1枚。
1枚目に写っている大きな窓と同じ物が2枚目の背後に写ってます。
左端の軍人さんの背後にはメニューが。テーブルにはお茶が出されていますね。

この写真の台紙には「福知山歩兵廿(二十)連隊を訪れた際に 8月7日」とあります。
ここに写る人物の詳細はわかりません。
おそらく、福知山20連隊に入隊している人が非番の時に外出し、
家族と一緒に三ツ丸百貨店に出かけたのでしょう。
肩章より、軍人さんのうち1人は伍長。1人は二等兵であることが分かります。
兄弟でしょうか。伍長さんは下士官なので志願兵ですが、新兵さんは徴兵で入隊したのかも知れません。

戦前の三ツ丸百貨店の様子を撮影した写真はあまりありません。
たった2枚の一部だけ写った写真ですが、それでも三ツ丸百貨店時代の屋上とレストランの様子を知る
良資料です。

三ツ丸百貨店3
10年ほど前に撮影した旧三ツ丸百貨店です。向かいの建物は現存していない旧福知山銀行本店。
その後の三ツ丸百貨店は、戦時中に海軍に接収され(福知山に造られた海軍航空隊によって使用されたそうだが、詳細不明。調査中。)戦後は京都銀行が使用。さらにその後は1階がリサイクルセンター、それ以外が文化資料館として使用され、現在は1階がポッポランドとして使用されています。
百貨店としての時代は昭和8年から戦時中までの10年程度の間だけだったようです。

古絵葉書・福知山衛戍地軍用水道 濾過池及浄水池作業図

福知山衛戍軍用水道009
キャプションに「福知山衛戍地軍用水道 濾過池及浄水池作業図」とある絵葉書です。
福知山衛戍地は、福知山市に駐屯していた陸軍歩兵第20連隊のことですが、
その連隊駐屯地に供給するための上水道施設の工事の模様のようです。
ただ、福知山の軍用水道のことを調べて見ましても有力な情報を得られず、
どこにあったのか不明です。
この絵葉書は使用済みで、消印は大正3年になっておりますので、
大正期の間に完成したと思われます。

古絵葉書・福知山陸軍墓地

福知山陸軍墓地2
以前紹介した福知山陸軍墓地の別アングルの絵葉書です。
福知山陸軍墓地は、現在平和公園となってますが、陸軍墓地時代の墓標や供養塔が
そのまま残され管理されています。
福知山陸軍墓地満州事変戦歿者合同墓碑
陸軍墓地の中央最上部には、「満州事変戦歿者合同墓碑」という慰霊碑が建てられていました。
現在は台座以下のみ残り、その上には元首相の芦田均氏による忠霊塔が建てられています。
戦後のある時期に塔身のみ撤去され、新たに作られたのでしょうか。

※参照 kanレポート・福知山陸軍墓地
福知山平和公園 平和墓地
陸軍墓地側が見た写真の絵葉書。遠くには福知山市街が見え、
立地のいい場所に作られていることが分かります。
陸軍墓地の近くにはかつて工兵第10大隊が駐屯していました。(大正14年岡山へ移転)

関連記事・福知山陸軍墓地ヨリ練兵場及ビ福知山町ヲ望ム


古絵葉書・配水地ヨリ見タル福知山町(福知山上水道)

福知山上水道
昭和8年に完成した福知山浄水場の配水地から眺めた福知山市街地の絵葉書です。
昭和8年当時は福知山町で、昭和12年に福知山市の市政が誕生しました。
完成当時、福知山浄水場は噴水が設置されたりと公園化もされており、
市民の憩いの場でもあったようです。
福知山町浄水場配水池
こちらが、以前紹介した福知山浄水場の正門です。
福知山町浄水場ポンプ場
ポンプ場の建屋です。
福知山町浄水場ポンプ場内部
ポンプ場建屋内部の様子です。
これら絵葉書の様式や感じから、今回紹介した一枚目の絵葉書とセットだったと思われます。

※関連記事 古絵葉書・福知山町上水道

古絵葉書・天田郡医師会館落成記念

天田郡医師会館1
天田郡医師会は現在の福知山医師会の前身で、明治33年に設立しました。
戦後の昭和22年に福知山医師会と改称。現在に至ります。
この天田郡医師会館は、天田郡医師会の会館として昭和3年に福知山市内記町に建てられたもので、
落成記念絵葉書の袋にも「昭和3・7・1」の記念印が押されています。
天田郡医師会館は昭和44年まで現存していたようです。

絵葉書は2枚。袋には3枚1組とあるので、残念ながら1枚足りませんが、
幸い外観の絵葉書はあるので、当時の建物の様子を伺い知る事が出来ます。

天田郡医師会館2
「天田郡医師会館前景」
建物は塔屋を持つ2階建ての洒落た洋館です。
玄関ポーチはアーチで、緩やかなカーブを持たせた階段を造り、
屋根の高さも変えて、建物に変化を持たせています。
天田郡医師会館3
「天田郡医師会館階下会議室」
内部はかなりシンプルです。
この他にも応接室など複数の部屋があり、その絵葉書もあったかもしれません。

ところで現在、市役所の近くに「旧福知山医師会館」の建物か残されています。
旧福知山医師会館
これが現存する旧福知山医師会館の建物です。伯耆丸公園の丘の麓にあります。
絵葉書と比べても分かる通り全く違う建物ですが、戦前の建物であることはこの建物の様式から分かります。
恐らく、戦後に福知山医師会と改称したときに新たに福知山医師会館として使用し始めたと思われますが、
となると、前身がなんの建物だったのかが気になります。

それに関して、一つのヒントが残されています。
福知山衛戍病院遺構
上の建物の後ろに付属する平屋の古い建物。その通風口に。
福知山衛戍病院遺構通風口
陸軍の☆マークの通風口が残されています。

かつてこの伯耆丸一帯は陸軍衛戍病院でした。
戦後、衛戍病院は国立病院へと移管しますが、(現在の福知山市民病院)昭和40年代くらいまでは、衛戍病院時代の
敷地にあり、当時の建物も使用していたようです。
現在残る旧福知山医師会館の建物は連続する3棟とも戦前の古い建物で、うち2棟は明治期特有のレンガ積みの基礎となっております。

福知山市医師会によればこの建物に移転前は京都府税務事務所で、さらに府税務事務所は陸軍衛戍病院の
建物を流用しているそうです。

後ろ2棟と前面の建物と様式が違うことから、煉瓦基礎の後ろ2棟が元衛戍病院の建物。
一番手前の建物は、府税務事務所として使用される際に新たに建てたものではないかと思われます。

※関連記事 古絵葉書・福知山衛戍病院

古絵葉書・福知山工兵第十大隊

工兵第十大隊
工兵第10大隊は明治30年に福知山に移駐し、駐屯しました。
しかし大正14年、軍縮により岡山へ移駐しています。
工兵第10大隊が去ったあと、敷地や建物をそのまま福知山商業学校が使用。
現在も福知山成美高校と名称は変わりましたが、敷地はそのままで、
工兵大隊時代の兵舎の一部や門柱・建物が現存しています。
特に絵葉書にも写る煉瓦の門柱は、現在もそのままの位置で残されています。
工兵第十大隊
こちらはほぼ時代が下った頃と思われる時期の絵葉書です。

古絵葉書・福知山 蛇ケ端鉄橋

蛇ケ端鉄橋
福知山の中心を流れる由良川の支流である土師川にかかる山陰本線の鉄橋です。
鉄橋本体はガータープレートの一般的なものですが、かなり長い橋なのと、
石造りの高い橋脚で、堂々たる姿を見せています。
絵葉書になるくらいですので、当時は福知山市内でも有名な名所だったのでしょう。

この絵葉書は、綾部側から福知山方面を望んでいるアングルと思われます。

蛇ヶ端鉄橋
こちらは、以前紹介した蛇ヶ端鉄橋の絵葉書です。上の絵葉書とほぼ同じ時期の撮影と思われます。
こちらの絵葉書は、福知山側から綾部方面を望むアングルのようです。

関連記事・古絵葉書・福知山 蛇ヶ端鉄橋

古絵葉書・福知山市街 新町通り 

福知山 新町商店街
戦前、福知山一の繁華街だった新町通りの絵葉書です。
当時買い物といえば新町通りの商店街で、近隣の町から多くの買い物客が訪れていました。

通りにある街灯は「すずらん灯」。昭和初期を中心に全国各地の商店街で流行した
街灯のスタイルですが、戦中の金属供出で多くが姿を消しました。
この新町通りのすずらん灯も同様であったと思われます。

この絵葉書は広小路側に近い場所で、新町通り側から広小路との交差点を望む形で撮影されています。
少しわかりづらいですが、右側の「吉田紙店」の看板の奥に旧福知山銀行本店の建物。
その向かいには現ポッポランドである旧三ツ丸百貨店の建物が見えます。
旧福知山銀行本店は昭和初期建築の煉瓦造り2階建ての洋館。
旧三ツ丸百貨店は、昭和8年築の鉄筋コンクリート3階建てで、当時福知山では珍しい近代建築でした。
旧福知山銀行と旧三ツ丸百貨店
10年ほど前の撮影の両建物。奥の大きな建物が旧三ツ丸百貨店。
手前のレンガタイル貼りの建物が旧福知山銀行本店です。
旧福知山銀行本店は、2005年に取り壊されました。
新町商店街
同時期頃の別の撮影地点の新町通りの絵葉書です。

関連記事・古絵葉書 福知山名所 新町通り

古絵葉書・福知山音無瀬水泳場

福知山音無瀬水泳場
福知山市内を流れる由良川には、かつて水泳場がありました。
比較的流れの緩い淵を利用して作っただけの自然そのままの簡素なものですが、
夏になると近隣の子供たちがこぞって泳ぎに来たようです。

絵葉書の写真にも子供たちがたくさん泳いでますね。
ボートに乗っているのは監視員でしょうか。

この絵葉書の水泳場は昭和初期頃の撮影のようです。

古絵葉書・京都府立福知山中学校改築記念

福知山中学校全景
大正7年に京都府立第三中学校から京都府立福知山中学校へと改称されましたが、
しばらくは府立三中時代の明治期の校舎がそのまま使われていたために、
老朽化が進み、昭和13年に改築されました。
この絵葉書は、昭和13年に改築された際に発行された記念絵葉書です。

関連記事 古絵葉書・福知山中学校 古絵葉書・京都府立第三中学校

古絵葉書・京都府立第三中学校

京都府立第三中学校全景
明治33年に京都府内で3番目に開校した府立の旧制中学で、現在の福知山高等学校です。
大正7年に福知山中学校に改称。昭和23年に福知山高等学校に改称されました。

この絵葉書は府立第三中学時代のもので、大正2年の消印が押されています。
福知山中学校
こちらは、福知山中学校時代の本館ですが、建物は府立三中の建物をそのまま受け継いでますね。

※関連記事
古絵葉書・福知山中学校
古絵葉書・京都府立福知山中学校改築記念

古絵葉書・福知山町上水道

福知山町浄水場配水池
福知山市堀地区にある浄水場は昭和8年に完成した施設で、近代的なこの施設は
同時に公園としても整備され、当時の福知山の人の憩いの場となっていたようです。
この絵葉書は、おそらく昭和8年に完成したときの記念絵葉書と思われます。
そのため、昭和12年に市政が引かれる前の「福知山町」の名称が使われています。
斜面に芝を張っていたり、木を植えたりと公園としても意識された作りです。
福知山町浄水場ポンプ場
ポンプ場。コンクリート造りの近代的な建物ですが、壁面にバットレスを設けたりと
外観のデザインにも考えられています。
堀地区浄水場
このポンプ場は現在も使用されており、当時の施設でおそらく唯一残っている建物です。
http://machikadonoseiyoukan.web.fc2.com/jousui.htm
福知山町浄水場ポンプ場内部
ポンプ室内部。当時としては最新の機械だったのでしょう。

福知山堀浄水場
以前紹介した福知山浄水場の全景です。
福知山堀浄水場水源地
こちらはおそらく市政が開始された昭和12年以後の絵葉書。
かなり広大な施設だったことが分かります。

古絵葉書・福知山 御霊神社(手彩色絵葉書)

福知山 御霊神社
福知山の街を作った戦国武将・明智光秀を祭った御霊神社は、宝永2年に現在の広小路通に
創建されたのが始まりで、現在の御霊公園の地に移転したのは大正7年のことです。
この絵葉書は、現在の地に移転前の明治期の手彩色絵葉書で、現在と違い社殿も本殿のみの
小規模なものだったようです。
神社の側には商店が立ち並び、写真店や薬屋さんがあります。
左手前の立て看版には「繭買入所」とあり、養蚕・製糸業が盛んだったことが伺えます。
右奥には大きな建物。幟らしきものもあるので、劇場か何かだったのでしょうか。

古絵葉書・福知山猪崎新地(手彩色絵葉書)

猪崎新地
猪崎新地は福知山市に存在した北近畿でも最大規模の遊郭街で、
明治末期頃には芸妓30数名、娼妓約100名もいたそうです。

※猪崎遊郭については以前紹介したこちらの記事をご覧ください。
古絵葉書・福知山 猪崎新地

この絵葉書は明治後期くらいと推定される手彩色の絵葉書で、恐らくお土産用に作られたものでしょう。
遊郭街というよりのどかな農村に見えますが、通りを行く人力車と農村には似つかわしくない電柱、
そして、右手に見える2階建ての建物を見ると、かなり賑わっていた遊郭街であったことが伺えます。

背後に見える小山は、通称「城山」と呼ばれる猪崎城という中世城郭で、
現在は城跡として整備されて公園になってますが、戦前までは桜の名所として知られていた場所です。
猪崎新地
こちらは以前紹介した大正頃の猪崎新地。
所狭しと遊郭の建物が建ち並び、かなりの賑わいを見せていたことが分かります。
近波楼
猪崎新地にあったと思われる遊郭「近波楼」。
この絵葉書の当時(恐らく昭和初期)に自動車を保有していたくらい儲かっていたのでしょうね。
この近波楼らしき建物が今も現存しています。

関連記事
古絵葉書・福知山 猪崎新地
古絵葉書・福知山 近波楼

古絵葉書・福知山ひらさ旅館

福知山ひらさ旅館
福知山市にある旅館です。同名の旅館が現在も内記にあるようですが、この和風の建物は
現存していないものと思われます。
裏の文章には「福知山望城閣 ひらさ旅館」とあり、福知山城跡を望める旅館が売りだったようです。
建物自体は旅館らしく和風の建物ですが、3階建ての大規模な建物で、3階部分はガラス窓が使われている
立派な旅館だったことが分かります。

古絵葉書・(福知山)音無瀬川新堤防と音無瀬橋

音無瀬橋と新堤防
古くから由良川の水害に悩まされた福知山市は、水害にも耐えうる堅固な堤防の建設が
必要となってきました。特に明治29年の水害は多くの死者と甚大な被害をもたらしました。
明治40年再び大規模な水害が起こると、本格的に近代的な堤防工事が始まりました。
工事を請け負ったのは、のちの「松村組」の創業者である松村雄吉。
堤防は明治42年に完成しましたが、たび重なる堤防の決壊にによる水害を経験していた市民は
この工事に半信半疑で、それを聞いた松村雄吉は、「自らの工事の確かさを証明」するために、
堤防の斜面に沿う形で自邸を建設しました。これが現在京都府指定文化財である「松村邸」です。
以来100年にわたりこの堤防は決壊することなく、現在も役目を果たしています。

奥に見える橋は音無瀬橋。恐らく4代目の橋でと思われます。

関連記事・古絵葉書・福知山 音無瀬橋

古絵葉書・福知山 近波楼

近波楼
絵葉書には、「福知山 近波楼」のキャプションのみある建物で、
福知山市のどこにあった建物か書かれていませんが、玄関にある立派な唐破風、
格子のある1階窓、高欄つきの立派な2階から、この建物は料亭もしくは遊郭の建物
ではないかと思われます。それも送迎用の自動車まで居る結構格式のある。

実は、この「近波楼」の建物ではないかと思われる建物が現存しています。
現在の近波楼
こちらが現在の建物。外観はかなり改造が施されていますが、2階軒下の欄間の形・2階高欄の造り・
2階軒下壁の柱の位置・1階玄関右手に残る格子の形など、絵葉書の近波楼と酷似しています。
もちろんまだ確認を取ったわけではないのですが、写真の建物が近波楼であった可能性は
高いと思われます。

この写真の建物がある場所は「猪崎地区」。
当時は猪崎新地と呼ばれ、戦前まで北近畿有数の大きな遊郭街のあった場所でした。
猪崎新地
こちらがかつての猪崎新地の絵葉書。
※参照・猪崎新地の記事。
現在も当時の遊郭らしき建物が現存しており、その中でも上の写真の建物と、
もう一つ残っている唐破風つきの建物はかなり立派な建物です。

猪崎新地は戦後に赤線街となった後、昭和33年の売春防止法の施工により猪崎新地の歴史は幕を下ろし、
以後は完全に住宅街へと変わりましたが、現在でも遊郭当時の建物が何件かそのまま民家として使用されています。

古絵葉書・福知山停車場

福知山停車場
福知山に駅が開業したのは明治37年。舞鶴と大阪を結ぶ阪鶴鉄道の駅舎として作られました。
その後国有化され、山陰本線の駅舎となったあとは、北近畿の交通の要となり、
福知山機関区も置かれ、「鉄道の町 福知山」として発展していきました。
この絵葉書は大正期のもので、駅舎はまだ木造平屋ですが、当時の駅としては
比較的規模の大きいものだったのではないでしょうか。

右手側の建物が駅舎。中央奥には跨線橋が見えます。
この跨線橋、明治41年完成のもので、現在は八鹿駅に移築され現役で使用されています。
※参照・八鹿駅の跨線橋
左手奥には煉瓦造の機関庫。福知山機関区の機関庫は昭和期に扇型機関庫が造られてますので、
その時にこの煉瓦造の機関庫は取り壊されたものと思われます。

現在福知山駅は高架化による駅舎改築と周辺の再整備で、近年まで残っていた扇型車庫や開業当時のホーム、
戦前からの諸施設は失われましたが、転車台と輸入の古レールを使用したホーム上屋は
駅構内に保存されています。

古絵葉書・福知山城跡(大正期)

大正頃の福知山城跡
福知山城は、明治のはじめに天守等の建物が取り壊されたり移築され、跡地には石垣のみ残ってましたが、
廃城後も残されていた広大な二の丸台地も明治中期より行われた鉄道施設工事の影響と再開発で
徐々に削り取られてゆき、大正時代には二の丸台地はほぼ消滅しました。
この絵葉書は、かつて二の丸登城口にあった「銅門番所(続櫓)」が天守台移築されているので、
大正2年以降の撮影ですが、本丸台地から市役所側に続いていた二の丸台地の削り取られた跡が
生々しく残っているので、大正でも初期の頃のものと思われます。

天守台には銅門番所の他に藩祖の父、朽木種綱を祀る朝暉神社が見えます。
これらは天守再建時に再移築されて本丸内に現存してますが、天守台下に見える忠霊塔のようなものは、
現在は失われています。

この絵葉書の写真で注目すべき点は、本丸と二の丸との境となる本丸西側石垣が
一部残存していることです。写真中央に大きく残されている他、分かりづらいですが、
中央の残存石垣の左手先に石垣の石が2つ残されています。

これら石垣はその後崩されたようで、現存はしていません。
削り取られて崖となったこの部分は長らくそのままでしたが、最近この崖面を覆うように
石垣が新たに作られました。

古絵葉書・(福知山停車場前)山陰常設家畜市場

山陰常設家畜市場
かつて福知山駅前にあった明治期創設の家畜の市場で、北近畿でも有数の大規模な家畜市場でした。
福知山駅で降ろされた家畜をこの市場でセリにかけられるわけですが、
当時はかなり賑わっていたようです。
この絵葉書は明治末期から大正期のもので、ちょうど黒毛和牛が取引されており、
市場の賑わいの様子がよくわかります。

古絵葉書・福知山工兵隊最近水雷爆発ノ実況

福知山工兵隊水雷爆破
福知山工兵隊とは、現在の福知山成美高校の場所に駐屯していた工兵第十大隊のことで、
大正14年に福知山から岡山に移りました。
現在も福知山成美高校には、当時の兵舎が残っています。

その工兵隊が水雷を爆発させている写真の絵葉書なのですが、
爆発させているのがどう見ても川ですよね。
福知山市内で、工兵大隊の近くにある川は本流の由良川と、支流の土師川があり、
そのどちらかだとは思うのですが、川で爆発させるとはなんとも無茶な事をしたものですね。

ちなみに水雷とは海軍が使う艦艇攻撃用の兵器で、陸軍では使用しない兵器です。
それを何故陸軍の工兵隊が爆発させているのかわかりませんが、
水雷の処分は舞鶴の海軍の部隊が処理するはずなので、これは演習でしょうか。
爆発後に浮いてきた魚を捕えて食ったりもしたかもしれませんね。

参照・(福知山)工兵第十大隊

古絵葉書・福知山陸軍墓地ヨリ練兵場及ビ福知山町ヲ望ム

福知山平和公園 平和墓地
現在は福知山市の平和公園となっている場所は、かつて陸軍墓地だった場所でした。
現在も平和公園内に平和墓地として日露戦争以来の英霊が埋葬されています。
また、この平和墓地には日露戦争時のロシア兵捕虜の墓もあり、手厚く祀られています。
現在の平和墓地は、墓塔などほぼ当時のままの状態で残されてますが、
今では墓地というよりほとんど公園のような雰囲気になっており、
近くの高校の部活動などが行われたり、桜の季節は花見をする人がいますが、
この絵葉書に写る当時はそのまま「墓地」だったんですね。

古絵葉書・福知山 音無瀬橋(昭和7年5月19日竣工記念)

音無瀬橋
福知山市を流れる由良川に架けられた音無瀬橋は、大正までは木造橋で、
洪水により幾度となく流されました。
そこで昭和7年に永久橋とするべく鉄筋コンクリートで架けられたのが
平成7年まで使用されたこの音無瀬橋で、長らく福知山市民に親しまれ続けました。
福知山では初めてといっていい近代的でモダンな橋だったせいか、名所にもなっていたようです。
また、夏の花火大会では、この橋が観覧場となりました。
この絵葉書は5代目音無瀬橋竣工を記念して発行されたもののようで、
右上に記念のスタンプが押されています。
現在、この絵葉書にも写る親柱が記念として保存されています。
音無瀬橋
こちらは別の絵葉書の5代目音無瀬橋。全景が写ってます。

古絵葉書・福知山 音無瀬橋

福知山 音無瀬橋
恐らく大正期頃撮影の福知山市・音無瀬橋の絵葉書です。
昭和6年に鉄筋コンクリートの橋が架けられる前の木造の橋で、
このような木造橋は由良川の氾濫で何度も流されました。
橋の向こう側は猪崎新地で、かつては京都府北部でも有数の遊郭街でした。

過去に紹介した音無瀬橋の絵葉書も合わせてもう一度紹介します。
福知山堤防
明治39年の消印のある絵葉書。橋が上記の橋と同じです。
音無瀬橋
昭和6年に完成した鉄筋コンクリートの音無瀬橋。
5代目のこの橋は、平成7年に現在の新橋が架けられるまで使用されました。

関連ページ・福知山堤防ヨリ鬼ヶ城ノ遠望福知山名所 音無瀬橋

古絵葉書・福知山 喜多川書店

喜多川書店
福知山市内にあった喜多川書店という本屋さん(もしくは古書店)の絵葉書です。
伝統的な町屋造りの店舗ですが、玄関部分に電燈があります。
恐らくは旧城下町内にあった店だと思いますが、それ以上のことはわかりません。
絵葉書自体は明治期のものと思われます。

古絵葉書・城跡より見たる福知山市街の一部

福知山市
昭和初期頃の撮影と思われる福知山市市街の遠景です。
福知山市の市街地は福知山城や伯耆丸跡の丘から見渡すことができ、
特に伯耆丸跡からは市街地中心全体を写真に収めることのできる
絶好のポイントの為か、戦前の福知山市の市街地を写した写真や絵葉書の多くは
伯耆丸跡から撮影されております。
そのおかげで、明治から大正、昭和にかけての市街地の移り変わりの様子を
比較検証することのできる好資料として使用できます。

そこで、これまで紹介した私が所有する福知山市街地全景の絵葉書を
推定できる年代ごとに並べてみます。

続きを読むからご覧ください。
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古写真・昭和40年代ごろの北丹鉄道写真

北丹鉄道1214
かつて、福知山市と大江町との間に小さな鉄道が走っていました。
その鉄道の名は「北丹鉄道」といい、大正12年に開業。
当初の予定では宮津までつなげる計画でしたが、資金難から大江町で止まったままになりました。
路線のルートは資金の都合により由良川沿いを走るコースに。
もともと経営状態は良くありませんでしたが、
昭和28年の由良川の水害により路線が大打撃を受けた上に
昭和44年お得意先だった大江山鉱山の閉山による貨物輸送収入を失い、
さらにマイカーの増加に伴い経営が成り立たなくなり、
昭和46年に運行を休止し解散しました。
上の写真は北丹鉄道の本社があった福知山西駅で、現在は公園となっています。
北丹鉄道2215
北丹鉄道で使用されていた客車ハ12(手前)とハニ11(奥)
ハ12の後ろにはディーゼル機関車DB2がいます。
福知山西駅の構内の写真と思われます。
客車の屋根が不自然な形になってますが、これは北丹鉄道のあまりの経営難により、
客車の屋根がまともに直せず、キャンパスで覆う応急処置で運行されました。
末期の北丹鉄道の荒れ様はすさまじく、客車は老朽化し走れば車体が大きくきしみ、
路線自体も線路はバラストがほとんどなくなり、枕木は腐り線路には廃線かと思うくらいに
雑草が茂り、線路も鉄橋も車体も傷みが激しいので、25キロ程度の低速でしか
走ることができませんでした。
北丹鉄道4217
昭和46年事実上の廃線である運行休止となり、最後にお別れ運行がなされました。
これはその時の写真です。写っている車両はキハ101。
北丹鉄道3216
上の写真の反対側から撮影したもの。同じキハ101でしょう。

廃線後、これらの車両は福知山西駅跡に放置され、いつのまにか撤去されました。
現在、北丹鉄道の遺構はごく僅かになってしまいましたが、
それでもいくつかの鉄橋やトンネルが当時のまま残されています。

参考・旧北丹鉄道日藤トンネル(まちかどの西洋館)
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