category  [明治期の古写真 ]

古写真・日本精製糖株式会社 工場

工場2
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工場1
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A4サイズくらいの大きな写真で、それの2周りくらいの大きな台紙に貼られている古写真です。
台紙には「上野香畝」「玉水館」「東京両国薬研堀町」の印刷があります。
この写真を扱った写真館でしょうか。
さて、この古写真の工場ですが、台紙や写真に工場名を示すものはありませんが
東京都江東区北砂にあった日本精製糖株式会社工場だと分かります。
こちらのブログや国立国会図書館の所蔵品に工場の写真があります。
日本精製糖株式会社は、明治23年に鈴木藤三郎が設立した製糖会社で
明治28年、江東区北砂に日本初の近代的な製糖工場が作られました。
これはその北砂工場で、煉瓦造りの建物が広大な敷地にいくつも建てられています。
上記のブログに紹介された写真と比較して新たな建物が建てられていることから
それ以降の撮影と思われますが、明治期の撮影であることは間違いないのではと思います。
明治後期から末期にかけての撮影ではないでしょうか。

古写真・秋田県庁(明治後期ごろ撮影か)

秋田県庁005
明治後期ごろ撮影と思われる秋田県庁の鶏卵紙写真です。
正門前に袴と帽子をかぶった紳士が写っています。
秋田県庁は明治13年に建設された庁舎で、明治前期に多く建てられた
典型的な擬洋風建築の様式となっています。
この庁舎は昭和13年に新庁舎が建てられるまで使用され続けたようです。

古写真・陸軍教導団

教導団003
分かりづらいですが、建物の門に「陸軍教導団」と書かれた看板が掲げられています。
教導団006
看板部分を拡大したもの。
陸軍教導団とは、明治4年から明治32年まで置かれた旧陸軍の下士官養成学校です。
元は大阪兵学寮に置かれた教導隊を前身とし、明治4年に兵学寮を離れて教導団と改称し、
東京に置かれました。
教導団001
「教導団砲兵生徒隊」という看板が掲げられています。
ここの施設は砲兵を育成した施設のようです。
陸軍教導団には歩兵科・ 騎兵科・ 砲兵科・ 工兵科・ 輜重兵科の各兵科が置かれ、
そこでそれぞれの分野の教育が行われました。
各兵科の修業期間は1年4ヶ月から1年8ヶ月かかりましたが、その期間一切の休暇や帰郷を許されない
厳しいものでした。
卒業者は2等軍曹に任命され各部隊に配属されました。
教導団002
こちらも分かりづらいですが、「教導団」という文字は読み取れます。
教導団004
こちらは陸軍教導団の全景と思われます。

陸軍教導団は明治32年に廃止され、その後は各部隊で下士官の養成が行われましたが、
下士官の質を向上するため昭和2年に仙台・豊橋・熊本に歩兵科の下士官のみを育成する
陸軍教導学校が設立されました。

※関連記事 仙台陸軍教導学校

古写真・信夫橋(3代目)

信夫橋002
信夫橋は福島市にある橋で、阿武隈川支流の荒川にかかる橋です。
初代の橋は明治6年に架けられた木橋でしたが、明治16年の豪雨により崩壊、
明治18年に13連の石橋に架けかえられました。
13連の石橋は十三連眼鏡橋として観光名所にもなりましたが、明治24年に再び崩壊。
明治30年に木鉄混用のトラス橋として再び架けかえられたのがこの写真の橋です。
トラスの正面上部に「信夫橋」の額が掲げられています。
現在の信夫橋は昭和7年に架けられた4代目となります。

この古写真の信夫橋の撮影時期は、明治30年代から明治末期ごろでしょうか。

古写真・明治30年代撮影の宮津市街と天橋立

明治の宮津007
絵葉書サイズの大きさの宮津・天橋立の古写真です。
台紙の裏に「明治三十○年」の印刷があり、この写真が撮影されたのが明治30年代と分かります。
宮津湾の奥に写る細長いのが天橋立。奥の高い山が成相寺のある山です。
天橋立の左端辺りが途切れていて、現在はここに旋回橋が架かってますが、
旋回橋が架けられたのは大正12年で、この時期には橋は架けられていませんでした。
手前の街並みは宮津市街地。市役所などがある宮津市の中心地です。
写真やや中央に湾に四角く突き出すような感じの場所があります。
このあたりはかつて宮津城のあった場所で、幕末には台場も作られました。
現在宮津城は完全に埋め立てられ、台場も同じように埋められたと思われます。
湾に突き出した場所は古地図では宮津台場のあった場所。
この写真に写る突き出た場所は宮津台場の跡がまだなんとか残されている状態で撮影されたものでしょうか。
そうだとすると、かつての宮津台場の形がかろうじて分かる古写真ということになります。
宮津市街全景
こちらは大正から昭和初期頃撮影の宮津市街です。上の写真とは反対側からの撮影になります。
明治30年代の写真と比べてかなり建物が増えてます。

関連記事・古絵葉書 宮津全景

古写真・大阪 川口居留地

川口居留地004
居留地とは幕末の開国以降、政府が外国人が生活する場所を指定した区域で、
居留地では洋風建築が建ち並び、外国の文化や風俗が行き交うまさに文明開化の象徴といえる場所でした。
特に幕末から明治初期にかけてはこれまで外国の文化に触れる機会がほとんどなかった日本人にとって
唯一外国の文化を感じられる場所でもありました。
居留地は横浜・神戸・長崎が有名ですが、大阪にも居留地がありました。
現在の大阪市西区川口一帯に設けられた居留地で、川口居留地と呼ばれています。
川口居留地の始まりは慶応4年の開港に始まり、洋風の建物の建築や街路・街路樹・街灯の整備が行われ
洋風の街並みが誕生しました。川口居留地はまさに大阪の文明開化の象徴となり、
大阪の近代化に大きな影響を与えました。
川口居留地は明治32年に廃止され、現在は居留地時代の洋館は残っておらず、
「川口居留地跡」と刻まれた記念碑がひっそりと立っているのみで当時の面影は失われましたが、
その後に建てられた戦前の教会建築等が残されています。

この古写真には、居留地時代の洋館が写されています。
明治初期の居留地等によく建てられた典型的なコロニアル様式の洋館です。
街路は綺麗に整備され、街路樹も植えられてます。
撮影時期の詳細な時期は分かりませんが、「大阪居留地」というタイトルと
街路樹がそんなに大きくないことから、明治10年代から20年代までの撮影でしょうか。

大阪くらしの今昔館という施設に、川口居留地の復元模型が展示されています。
※大阪くらしの今昔館公式サイト
この古写真に写る洋館も有るかと思います。

※関連記事
古写真・長崎居留地
古写真・明治20年代の神戸港(神戸濱手市中)
古写真・川口電信局
古写真・神戸外国人居留地

古写真・大阪偕行社

大阪偕行社005
偕行社とは陸軍将校の親睦倶楽部のことで、各師団司令部内に置かれました。
この古写真は大阪の陸軍第四師団に存在した偕行社です。
第四師団の設立は明治4年の大阪鎮台を前身とし、明治21年に第四師団と改変されました。
この大阪偕行社の建物は典型的な明治中期の洋風建築で、師団設立の時期に建てられたものと思われます。
また、大阪偕行社は付属の小学校を有しており、陸軍幼年学校を目指す子弟や政財界の上流階級の子供が
通う名門小学校でした。
大阪偕行社の建物は昭和20年の空襲で焼失。付属小学校は追手門学院小学校として受け継がれています。

※関連記事
古絵葉書・第六師団 熊本偕行社

古写真・東京医学校本館

東京医学校002
東京医学校は現在の東京大学医学部の前身で、幕末に旧幕府が設立し明治政府が接収した
医学所が始まりです。
中央に時計塔を乗せた擬洋風建築のこの本館は明治9年に建てられたもので、
明治の文明開化を象徴する建物ですが、奇跡的にも関東大震災にも空襲にも被害を受けず、
現在も重要文化財に指定され小石川植物園内に保存されています。

古写真・大阪ホテル(明治後期ごろ撮影?)

大阪ホテル013
かつて中之島に大阪ホテルというホテルがありました。
大阪ホテルの前身は明治14年に開業した自由亭。
それを明治32年に大阪倶楽部が買収し大阪クラブホテルとなりました。
しかし、明治34年に火災で焼失。明治35年に新たに設立された大阪ホテル株式会社により
大阪ホテルが作られました。
その後経営者の変化や合併などありましたが、大正13年にホテルが焼失。

この写真は、明治35年に建てられた大阪ホテルと思われます。
奥に洋館部分が建ち、手前に和館部分が接続されています。

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古写真・大阪 中之島公園 自由亭ホテル

古写真・大日本帝国 金剛艦

金剛007
明治10年に完成したコルベット艦の初代金剛です。この金剛は明治43年に解体されましたが、
金剛の名前は2代目の戦艦金剛・海上自衛隊イージス艦のこんごうに受け継がれました。
ちなみに金剛は、初代も2代目もイギリス生まれです。
初代 金剛
こちらは以前紹介しました同じ初代金剛です。
1枚目の金剛と違い船体が黒く目立つ1本煙突があります。
(1枚目のは真ん中のマストに隠れているのかもしれませんが)
もしかしたら、1枚目の金剛は改装された後に撮影されたのかもしれません。
(ただ、改装を受けたという記録はわからないです。)
比叡210
こちらは初代比叡。金剛型の2番艦として同じイギリスで生まれました。
2代目の戦艦比叡も同じく2代目金剛の姉妹艦ですね。

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古写真・明治20年代頃撮影の比叡(初代)

古写真・明治初期頃の神戸港と市街

神戸006
明治初期頃の撮影と思われる神戸の街並みと港の鶏卵紙写真です。
奥の方にうっすらと港らしき風景が写っています。
手前には瓦屋根の長屋風の建物や民家が写っており、
江戸時代の風景がまだ残されています。

古写真・福岡県庁

福岡県庁001
写真の右端に福岡県庁と書かれています。
写真はだいぶ色あせて分かりづらいですが、擬洋風建築の様式の庁舎であるようです。
現在の庁舎の前の庁舎が完成したのが明治44年。ルネッサンス様式の瀟洒な庁舎として
知られていた建物ですが、この古写真の庁舎はさらにその前の2代目(初代は藩庁の建物を使用)
の庁舎と思われます。
撮影時期は明治30年代でしょうか。

※関連記事・古絵葉書 福岡県庁

古写真・長崎病院

長崎病院001
写真の右側に「長崎病院」と記述のある古写真です。
恐らく、現在の長崎大学病院の前身の長崎病院かと思われます。
長崎大学病院の始まりは幕末の安政4年の医学伝習所まで遡ります。
明治に入り管轄が幕府から長崎県へと移行したのに伴い、長崎県医学校と改称。
長崎病院という名称になったのは、明治8年からでした。
以後、大正11年に長崎医学専門学校附属医院と改称されるまで長崎病院の名称で使われました。
写真の詳しい撮影時期は不明ですが、背後の風景から浦上地区のように思われます。
長崎病院は明治35年に浦上地区へ移転しており、もし浦上地区移転後の撮影であれば、
この写真は明治35年以降の明治後期ごろの撮影となります。
浦上地区は原爆で甚大な被害を被り、当病院も壊滅的被害を受けました。

古写真・長崎居留地

長崎007
長崎市にある現在「どんの山公園」と呼ばれる山から撮影した長崎居留地の古写真です。
ほぼ同じアングルで上野彦馬により撮影された古写真が長崎大学に保管されています。
この写真の撮影時期は分かりませんが、恐らく明治中期頃でしょうか。

幕末の開国以降、日本各地に次々と外国人居留地が造られていきました。
大浦地区を造成して明治2年に完成した長崎居留地は原爆の被害も少なく、
現在も居留地時代の建物や街並みがよく残され、多くの観光客が訪れる場所となっています。

※関連記事
古写真・神戸外国人居留地

古写真・防護巡洋艦 浪速

浪速003
防護巡洋艦「浪速」は、明治17年に完成した艦で、日清・日露戦争にも参加した艦です。
東郷平八郎が艦長を務めていたことでも知られ、日清戦争のきっかけとなる事件の一つである
「高陞号事件」に関わった艦でもあります。

明治45年6月26日、千島列島のウルップ島付近で座礁し沈没。
8月に除籍されました。

※スペック

常備排水量:3709トン
全長:91.44m
全幅:14.07m
最大速力:18.0kt

武装:
35口径26cm単装砲2基
35口径15cm単装砲6基
4.7cm単装砲6基
25mm4連装砲10基
11mm10連装ガトリング砲4基
36cm魚雷発射管4門

古写真・明治後期頃の京都祗園

京都祇園
明治後期頃撮影と思われる京都祗園の古写真です。
四条通を西から八坂神社の方向に向けて撮影しています。
既に電柱が立てられていますが、左手前にガス灯らしき街灯が立っていますね。
右手に見える望楼は弥栄尋常小学校の望火楼で、明治2年に出来ました。
分かりづらいですが、弥栄尋常小学校の辺りに人力車が停車しています。
四条通は大正元年に北側が大幅に拡張されました。
この写真はそれ以前の明治後期頃ではないかと思われます。

古写真・青山練兵場(明治中期~後期頃撮影か?)

青山詰所
裏の書き込みには「青山詰所」と書かれてますが、門の両脇に立つ歩哨舎と
兵士たちから、陸軍の施設だと分かります。

かつて明治神宮外苑の当たりには青山練兵場がありました。
明治19年に新たに作られた練兵場で、明治42年に博覧会会場に指定されるまで使われ続けました。
さらには江戸時代には大名である青山家の下屋敷がありました。
この写真に写る古風な冠木門は、かつての青山家の大名屋敷の名残だったのでしょうか。

古写真・上野 韻松亭(明治後期頃撮影?)

上野 韻松亭 
上野公園内に現在も営業している老舗の日本料理店。韻松亭。
明治8年創業の韻松亭は、明治政府の要請により上野公園へ訪れた市民を対象とした
飲食施設が始まりでした。
写真左端に写る洋館風の建物が韻松亭で、当時としては中々ハイカラな建物だったようです。
洋館の奥に立つ鐘楼は寛永寺の「時の鐘」。韻松亭の屋号はこの時の鐘から名付けられています。
現在この洋館は現存してませんが、今でも趣きのある店構えで営業されています。

古写真・電信局(場所不明・明治中期~後期頃撮影?)

電信局
台紙の裏に「電信局」とだけ書かれた鶏卵紙写真です。
場所は不明です。
建物の感じとしては、手前の屋根の低い付属屋が煉瓦造り、奥の2階建ての本館らしき建物が
煉瓦造りか石造りもしくは石張りか擬石モルタル塗りの建物に見えます。
どちらにしても、当時目を引いた洋館だったに違いありません。
電信局と書かれてますが、もちろん郵便業務も行なっていたと思われますし、
前身は郵便局の本局として設立されたのではと思います。
電信局の前には、大八車を引いた人や人力車を引いた車夫等の姿も見えます。
写真の撮影時期は、明治中期~明治後期ではないかと思われます。

古写真・静岡師範学校(明治中期~後期頃?)

静岡師範学校
台紙の裏に「静岡師範学校」の書き込みのある鶏卵紙写真です。
静岡師範学校は現在の静岡県立静岡高校の前身で、明治8年に設立されました。
写真の感じから、明治中期から後期頃に撮影されたものと思われます。

古写真・明治20年代?の神戸港(神戸濱手市中)

明治30年代の神戸港
海に浮かぶ船から明治20年代ではと思われる神戸港の古写真です。
湾内に3本マストの船が4隻浮かんでます。
手前は旧居留地。居留地時代の洋館が写ってますね。

※関連記事
古写真・神戸外国人居留地

古写真・明治35年撮影の大阪麦酒吹田醸造所(現・アサヒビール)

大阪麦酒吹田醸造所
台紙の裏に「明治三十五(中略)アサヒビール似テ写ス」とあり、
明治35年にアサヒビール工場前で記念写真を撮影したものだと分かります。
工場の敷地の塀に「OSAKA BEER」とあります。
明治22年、大阪において「大阪麦酒」が設立。
明治24年吹田市に吹田醸造所が設立。写真に写っているアサヒビールの工場がその大阪麦酒吹田醸造所で、
現在のアサヒビール吹田工場です。

吹田工場には、創業当時の煉瓦の壁が一部保存されています。

大阪麦酒は、明治39年に札幌麦酒と日本麦酒とで合併し大日本麦酒株式会社を設立。
昭和24年に大日本麦酒株式会社が札幌麦酒と朝日麦酒に分割され、現在のアサヒビールになりました。
アサヒビールが社名になったのは戦後からで、戦前までは商品のブランド名だったわけですね。

古写真・明治中期~後期頃の横浜グランドホテル

横浜海岸グランドホテル
横浜グランドホテルは、明治6年創業の本格的な近代ホテルで、横浜海岸通にありました。、
ロクな宿泊施設がなかった明治初期、国際港横浜を代表するホテルとなり、海外の要人も数多く宿泊しました。
しかし、大正12年の関東大震災で瓦解し、それとともに営業も終了しました。

この古写真に写るホテルは明治23年完成の新館で奥に旧館が写っています。

古写真・明治中期~後期頃の歌舞伎座

歌舞伎座
歌舞伎座は明治22年に設立された劇場で、経営者はジャーナリストであり劇作家の
福地源一郎でした。
その後この洋風の外観の歌舞伎座は大改修が行われ、明治44年に完成しましたが、
外観は当初期の洋風から純和風へと変わりました。
しかし、歌舞伎座は大正10年に漏電で焼失。その後再建工事が行われ、
大正13年に鉄筋コンクリート製の歌舞伎座が完成します。
歌舞伎座(昭和期)
こちらが大正13年完成の歌舞伎座で、空襲で一度大被害を受けましたが、近年まで使用されていました。

古写真の歌舞伎座は、純和風の外観に大改修される前の姿で、明治中期から後期頃の撮影だと思われます。
改修後の歌舞伎座に比べ、初期の歌舞伎座は欧州の劇場のようで、いかにも文明開化の頃の建物という
印象を受けます。

古絵葉書・舞鶴海軍下士卒集会所

舞鶴海軍下士卒集会所
舞鶴市の富士通りにあった海軍の下士卒集会所です。
下士卒集会所とは海軍の下士官兵の厚生施設で、運営は海軍の下士官親睦団体「海仁会」が行なっていました。。
海軍将校の厚生施設は水交社。准士官の厚生施設は海友社と呼ばれる施設でした。

関連記事 古絵葉書・舞鶴水交支社 古絵葉書・舞鶴海友社

古写真・木浦理事庁

明治初期の街並み1
コメント欄でのご指摘により、朝鮮半島の木浦だと分かりました。
明治初期の街並み2
写真中央奥に建つ洋館群のアップ。
この煉瓦造の洋館は木浦理事庁の庁舎です。
木浦理事庁の庁舎は明治33年に建てられ、現存しているようです。
明治初期の街並み3
写真は明治33年以降の明治期の古写真であることが分かりました。
教えていただいた方々、ありがとうございました。

古写真・金剛艦(初代・金剛 装甲コルベット)

初代 金剛
軍艦の金剛いえば、巡洋戦艦として大戦中を戦い抜いた金剛と、現代の海上自衛隊所有の初代イージス艦である「こんごう」が知られてますが、明治初期にも金剛の名を有する軍艦がありました。
それがこの初代「金剛」です。

初代の金剛は、明治11年にイギリスで完成した装甲コルベットで、
日清・日露戦争に参加しています。。

その後、測量艦として使用されたあと、明治43年に売却され解体されました。
金剛007
こちらは別の時期に別アングルで撮影された同じ初代金剛です。
1枚目の金剛と違い船体が白く目立つ1本煙突がありません。
(真ん中のマストに隠れているのかもしれませんが)
もしかしたら、この金剛は改装された後に撮影されたのかもしれません。
(ただ、改装を受けたという記録はわからないです。)


データ

常備排水量:2,250t
全長:70.41m
最大速力:13.7kt

武装: 20口径17.8cm単装砲3基、15cm単装砲6基、
7.5cm単装砲2基、25mm4連装砲4基、11mm5連装砲2基、36cm魚雷発射管1門

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古写真・大日本帝国 金剛艦
古写真・明治20年代頃撮影の比叡(初代)
※初代金剛の2番艦

古写真・砲兵第四大隊(明治10年代頃撮影)

砲兵第四大隊
砲兵第四大隊は大阪の第4師団所属の砲兵隊で、砲兵隊として明治5年設立。現在の大阪歴史博物館・NHK大阪放送局の位置に駐屯していました。左下の「OLD CASTLE」の注釈は大阪城のことを指していると思われます。
明治8年に砲兵第四大隊と改称し、西南戦争に参加。明治17年に砲兵第四連隊に改称しました。
この写真には、「第五営」「砲兵第四大隊」「予備砲兵第二六隊」の看板が掲げられています。
砲兵第四大隊の看板を掲げていることから、明治8年~明治17年までの撮影でしょう。
兵舎もなまこ壁で日本瓦葺きの屋根といった、まるで土蔵のようなデザインの擬洋風建築で、
いかにも明治初期の兵舎といった感じです。
大阪歩兵第二十連隊
※参考・こちらは同じ大阪城内に駐屯していた福知山へ移転前の大阪時代の歩兵第20連隊。
この古写真の記事はこちら

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古写真・大阪鎮台砲兵営所(明治前期撮影)

古写真・神戸 多聞通(明治10年代頃撮影)

神戸多門通
かなり退色して分かりづらいですが、右端の部分に「神戸 多門通」とあります。
多聞(多門)通は神戸市中央区にある通りで、明治5年設立。
明治8年までは県布達に「多門通」と記載されてますが、明治10年からは「多聞通」と
記載されているようです。
写真を見ると通りは整備され、ガス灯らしき街灯や電信柱も見えますが、
通り沿いの建物は和風建築ばかりで、いかにも明治初期の街の風景のように思えます。

古写真・明治前期頃撮影の陸軍士官学校か?

陸軍幼年学校2
台紙に記載等はありませんが、この古写真に写る建物の塔屋の形や屋根窓の位置、窓の形から、
明治期の陸軍士官学校ではないかと思われます。
中央に軍服を着た軍人さんが写ってますね。
陸軍士官学校
こちらは絵葉書の陸軍士官学校。
陸軍士官学校は明治7年に東京市ヶ谷に設立された陸軍士官養成の学校で、
卒業すると曹長に就任。原隊で見習士官として半年ほど所属すると晴れて少尉となることが出来ました。

この本館の建物は明治7年に設立された当時の建物で、この絵葉書のように
正面からややや斜めからの撮影の写真は良く見かけますが、完全なサイドからの写真はあり見かけません。
陸軍幼年学校1
別の写真。奥に校舎らしい建物が写ってます。
手前では器械体操の授業中であろう生徒たちが写ってますね。
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