category  [明治期の古写真 ]

古写真・東京医学校本館

東京医学校002
東京医学校は現在の東京大学医学部の前身で、幕末に旧幕府が設立し明治政府が接収した
医学所が始まりです。
中央に時計塔を乗せた擬洋風建築のこの本館は明治9年に建てられたもので、
明治の文明開化を象徴する建物ですが、奇跡的にも関東大震災にも空襲にも被害を受けず、
現在も重要文化財に指定され小石川植物園内に保存されています。

古写真・大阪ホテル(明治後期ごろ撮影?)

大阪ホテル013
かつて中之島に大阪ホテルというホテルがありました。
大阪ホテルの前身は明治14年に開業した自由亭。
それを明治32年に大阪倶楽部が買収し大阪クラブホテルとなりました。
しかし、明治34年に火災で焼失。明治35年に新たに設立された大阪ホテル株式会社により
大阪ホテルが作られました。
その後経営者の変化や合併などありましたが、大正13年にホテルが焼失。

この写真は、明治35年に建てられた大阪ホテルと思われます。
奥に洋館部分が建ち、手前に和館部分が接続されています。

古写真・大日本帝国 金剛艦

金剛007
明治10年に完成したコルベット艦の初代金剛です。この金剛は明治43年に解体されましたが、
金剛の名前は2代目の戦艦金剛・海上自衛隊イージス艦のこんごうに受け継がれました。
ちなみに金剛は、初代も2代目もイギリス生まれです。
初代 金剛
こちらは以前紹介しました同じ初代金剛です。
1枚目の金剛と違い船体が黒く目立つ1本煙突があります。
(1枚目のは真ん中のマストに隠れているのかもしれませんが)
もしかしたら、1枚目の金剛は改装された後に撮影されたのかもしれません。
(ただ、改装を受けたという記録はわからないです。)
比叡210
こちらは初代比叡。金剛型の2番艦として同じイギリスで生まれました。
2代目の戦艦比叡も同じく2代目金剛の姉妹艦ですね。

関連記事
古写真・金剛艦(初代・金剛 装甲コルベット)
古写真・明治20年代頃撮影の比叡(初代)

古写真・明治初期頃の神戸港と市街

神戸006
明治初期頃の撮影と思われる神戸の街並みと港の鶏卵紙写真です。
奥の方にうっすらと港らしき風景が写っています。
手前には瓦屋根の長屋風の建物や民家が写っており、
江戸時代の風景がまだ残されています。

古写真・福岡県庁

福岡県庁001
写真の右端に福岡県庁と書かれています。
写真はだいぶ色あせて分かりづらいですが、擬洋風建築の様式の庁舎であるようです。
現在の庁舎の前の庁舎が完成したのが明治44年。ルネッサンス様式の瀟洒な庁舎として
知られていた建物ですが、この古写真の庁舎はさらにその前の2代目(初代は藩庁の建物を使用)
の庁舎と思われます。
撮影時期は明治30年代でしょうか。

※関連記事・古絵葉書 福岡県庁

古写真・長崎病院

長崎病院001
写真の右側に「長崎病院」と記述のある古写真です。
恐らく、現在の長崎大学病院の前身の長崎病院かと思われます。
長崎大学病院の始まりは幕末の安政4年の医学伝習所まで遡ります。
明治に入り管轄が幕府から長崎県へと移行したのに伴い、長崎県医学校と改称。
長崎病院という名称になったのは、明治8年からでした。
以後、大正11年に長崎医学専門学校附属医院と改称されるまで長崎病院の名称で使われました。
写真の詳しい撮影時期は不明ですが、背後の風景から浦上地区のように思われます。
長崎病院は明治35年に浦上地区へ移転しており、もし浦上地区移転後の撮影であれば、
この写真は明治35年以降の明治後期ごろの撮影となります。
浦上地区は原爆で甚大な被害を被り、当病院も壊滅的被害を受けました。

古写真・長崎居留地

長崎007
長崎市にある現在「どんの山公園」と呼ばれる山から撮影した長崎居留地の古写真です。
ほぼ同じアングルで上野彦馬により撮影された古写真が長崎大学に保管されています。
この写真の撮影時期は分かりませんが、恐らく明治中期頃でしょうか。

幕末の開国以降、日本各地に次々と外国人居留地が造られていきました。
大浦地区を造成して明治2年に完成した長崎居留地は原爆の被害も少なく、
現在も居留地時代の建物や街並みがよく残され、多くの観光客が訪れる場所となっています。

※関連記事
古写真・神戸外国人居留地

古写真・防護巡洋艦 浪速

浪速003
防護巡洋艦「浪速」は、明治17年に完成した艦で、日清・日露戦争にも参加した艦です。
東郷平八郎が艦長を務めていたことでも知られ、日清戦争のきっかけとなる事件の一つである
「高陞号事件」に関わった艦でもあります。

明治45年6月26日、千島列島のウルップ島付近で座礁し沈没。
8月に除籍されました。

※スペック

常備排水量:3709トン
全長:91.44m
全幅:14.07m
最大速力:18.0kt

武装:
35口径26cm単装砲2基
35口径15cm単装砲6基
4.7cm単装砲6基
25mm4連装砲10基
11mm10連装ガトリング砲4基
36cm魚雷発射管4門

古写真・明治後期頃の京都祗園

京都祇園
明治後期頃撮影と思われる京都祗園の古写真です。
四条通を西から八坂神社の方向に向けて撮影しています。
既に電柱が立てられていますが、左手前にガス灯らしき街灯が立っていますね。
右手に見える望楼は弥栄尋常小学校の望火楼で、明治2年に出来ました。
分かりづらいですが、弥栄尋常小学校の辺りに人力車が停車しています。
四条通は大正元年に北側が大幅に拡張されました。
この写真はそれ以前の明治後期頃ではないかと思われます。

古写真・青山練兵場(明治中期~後期頃撮影か?)

青山詰所
裏の書き込みには「青山詰所」と書かれてますが、門の両脇に立つ歩哨舎と
兵士たちから、陸軍の施設だと分かります。

かつて明治神宮外苑の当たりには青山練兵場がありました。
明治19年に新たに作られた練兵場で、明治42年に博覧会会場に指定されるまで使われ続けました。
さらには江戸時代には大名である青山家の下屋敷がありました。
この写真に写る古風な冠木門は、かつての青山家の大名屋敷の名残だったのでしょうか。

古写真・上野 韻松亭(明治後期頃撮影?)

上野 韻松亭 
上野公園内に現在も営業している老舗の日本料理店。韻松亭。
明治8年創業の韻松亭は、明治政府の要請により上野公園へ訪れた市民を対象とした
飲食施設が始まりでした。
写真左端に写る洋館風の建物が韻松亭で、当時としては中々ハイカラな建物だったようです。
洋館の奥に立つ鐘楼は寛永寺の「時の鐘」。韻松亭の屋号はこの時の鐘から名付けられています。
現在この洋館は現存してませんが、今でも趣きのある店構えで営業されています。

古写真・電信局(場所不明・明治中期~後期頃撮影?)

電信局
台紙の裏に「電信局」とだけ書かれた鶏卵紙写真です。
場所は不明です。
建物の感じとしては、手前の屋根の低い付属屋が煉瓦造り、奥の2階建ての本館らしき建物が
煉瓦造りか石造りもしくは石張りか擬石モルタル塗りの建物に見えます。
どちらにしても、当時目を引いた洋館だったに違いありません。
電信局と書かれてますが、もちろん郵便業務も行なっていたと思われますし、
前身は郵便局の本局として設立されたのではと思います。
電信局の前には、大八車を引いた人や人力車を引いた車夫等の姿も見えます。
写真の撮影時期は、明治中期~明治後期ではないかと思われます。

古写真・静岡師範学校(明治中期~後期頃?)

静岡師範学校
台紙の裏に「静岡師範学校」の書き込みのある鶏卵紙写真です。
静岡師範学校は現在の静岡県立静岡高校の前身で、明治8年に設立されました。
写真の感じから、明治中期から後期頃に撮影されたものと思われます。

古写真・明治20年代?の神戸港(神戸濱手市中)

明治30年代の神戸港
海に浮かぶ船から明治20年代ではと思われる神戸港の古写真です。
湾内に3本マストの船が4隻浮かんでます。
手前は旧居留地。居留地時代の洋館が写ってますね。

※関連記事
古写真・神戸外国人居留地

古写真・明治35年撮影の大阪麦酒吹田醸造所(現・アサヒビール)

大阪麦酒吹田醸造所
台紙の裏に「明治三十五(中略)アサヒビール似テ写ス」とあり、
明治35年にアサヒビール工場前で記念写真を撮影したものだと分かります。
工場の敷地の塀に「OSAKA BEER」とあります。
明治22年、大阪において「大阪麦酒」が設立。
明治24年吹田市に吹田醸造所が設立。写真に写っているアサヒビールの工場がその大阪麦酒吹田醸造所で、
現在のアサヒビール吹田工場です。

吹田工場には、創業当時の煉瓦の壁が一部保存されています。

大阪麦酒は、明治39年に札幌麦酒と日本麦酒とで合併し大日本麦酒株式会社を設立。
昭和24年に大日本麦酒株式会社が札幌麦酒と朝日麦酒に分割され、現在のアサヒビールになりました。
アサヒビールが社名になったのは戦後からで、戦前までは商品のブランド名だったわけですね。

古写真・明治中期~後期頃の横浜グランドホテル

横浜海岸グランドホテル
横浜グランドホテルは、明治6年創業の本格的な近代ホテルで、横浜海岸通にありました。、
ロクな宿泊施設がなかった明治初期、国際港横浜を代表するホテルとなり、海外の要人も数多く宿泊しました。
しかし、大正12年の関東大震災で瓦解し、それとともに営業も終了しました。

この古写真に写るホテルは明治23年完成の新館で奥に旧館が写っています。

古写真・明治中期~後期頃の歌舞伎座

歌舞伎座
歌舞伎座は明治22年に設立された劇場で、経営者はジャーナリストであり劇作家の
福地源一郎でした。
その後この洋風の外観の歌舞伎座は大改修が行われ、明治44年に完成しましたが、
外観は当初期の洋風から純和風へと変わりました。
しかし、歌舞伎座は大正10年に漏電で焼失。その後再建工事が行われ、
大正13年に鉄筋コンクリート製の歌舞伎座が完成します。
歌舞伎座(昭和期)
こちらが大正13年完成の歌舞伎座で、空襲で一度大被害を受けましたが、近年まで使用されていました。

古写真の歌舞伎座は、純和風の外観に大改修される前の姿で、明治中期から後期頃の撮影だと思われます。
改修後の歌舞伎座に比べ、初期の歌舞伎座は欧州の劇場のようで、いかにも文明開化の頃の建物という
印象を受けます。

古絵葉書・舞鶴海軍下士卒集会所

舞鶴海軍下士卒集会所
舞鶴市の富士通りにあった海軍の下士卒集会所です。
下士卒集会所とは海軍の下士官兵の厚生施設で、運営は海軍の下士官親睦団体「海仁会」が行なっていました。。
海軍将校の厚生施設は水交社。准士官の厚生施設は海友社と呼ばれる施設でした。

関連記事 古絵葉書・舞鶴水交支社 古絵葉書・舞鶴海友社

古写真・木浦理事庁

明治初期の街並み1
コメント欄でのご指摘により、朝鮮半島の木浦だと分かりました。
明治初期の街並み2
写真中央奥に建つ洋館群のアップ。
この煉瓦造の洋館は木浦理事庁の庁舎です。
木浦理事庁の庁舎は明治33年に建てられ、現存しているようです。
明治初期の街並み3
写真は明治33年以降の明治期の古写真であることが分かりました。
教えていただいた方々、ありがとうございました。

古写真・金剛艦(初代・金剛 装甲コルベット)

初代 金剛
軍艦の金剛いえば、巡洋戦艦として大戦中を戦い抜いた金剛と、現代の海上自衛隊所有の初代イージス艦である「こんごう」が知られてますが、明治初期にも金剛の名を有する軍艦がありました。
それがこの初代「金剛」です。

初代の金剛は、明治11年にイギリスで完成した装甲コルベットで、
日清・日露戦争に参加しています。。

その後、測量艦として使用されたあと、明治43年に売却され解体されました。
金剛007
こちらは別の時期に別アングルで撮影された同じ初代金剛です。
1枚目の金剛と違い船体が白く目立つ1本煙突がありません。
(真ん中のマストに隠れているのかもしれませんが)
もしかしたら、この金剛は改装された後に撮影されたのかもしれません。
(ただ、改装を受けたという記録はわからないです。)


データ

常備排水量:2,250t
全長:70.41m
最大速力:13.7kt

武装: 20口径17.8cm単装砲3基、15cm単装砲6基、
7.5cm単装砲2基、25mm4連装砲4基、11mm5連装砲2基、36cm魚雷発射管1門

関連記事
古写真・大日本帝国 金剛艦
古写真・明治20年代頃撮影の比叡(初代)
※初代金剛の2番艦

古写真・砲兵第四大隊(明治10年代頃撮影)

砲兵第四大隊
砲兵第四大隊は大阪の第4師団所属の砲兵隊で、砲兵隊として明治5年設立。現在の大阪歴史博物館・NHK大阪放送局の位置に駐屯していました。左下の「OLD CASTLE」の注釈は大阪城のことを指していると思われます。
明治8年に砲兵第四大隊と改称し、西南戦争に参加。明治17年に砲兵第四連隊に改称しました。
この写真には、「第五営」「砲兵第四大隊」「予備砲兵第二六隊」の看板が掲げられています。
砲兵第四大隊の看板を掲げていることから、明治8年~明治17年までの撮影でしょう。
兵舎もなまこ壁で日本瓦葺きの屋根といった、まるで土蔵のようなデザインの擬洋風建築で、
いかにも明治初期の兵舎といった感じです。
大阪歩兵第二十連隊
※参考・こちらは同じ大阪城内に駐屯していた福知山へ移転前の大阪時代の歩兵第20連隊。
この古写真の記事はこちら

※関連記事
古写真・大阪鎮台砲兵営所(明治前期撮影)

古写真・神戸 多聞通(明治10年代頃撮影)

神戸多門通
かなり退色して分かりづらいですが、右端の部分に「神戸 多門通」とあります。
多聞(多門)通は神戸市中央区にある通りで、明治5年設立。
明治8年までは県布達に「多門通」と記載されてますが、明治10年からは「多聞通」と
記載されているようです。
写真を見ると通りは整備され、ガス灯らしき街灯や電信柱も見えますが、
通り沿いの建物は和風建築ばかりで、いかにも明治初期の街の風景のように思えます。

古写真・明治前期頃撮影の陸軍士官学校か?

陸軍幼年学校2
台紙に記載等はありませんが、この古写真に写る建物の塔屋の形や屋根窓の位置、窓の形から、
明治期の陸軍士官学校ではないかと思われます。
中央に軍服を着た軍人さんが写ってますね。
陸軍士官学校
こちらは絵葉書の陸軍士官学校。
陸軍士官学校は明治7年に東京市ヶ谷に設立された陸軍士官養成の学校で、
卒業すると曹長に就任。原隊で見習士官として半年ほど所属すると晴れて少尉となることが出来ました。

この本館の建物は明治7年に設立された当時の建物で、この絵葉書のように
正面からややや斜めからの撮影の写真は良く見かけますが、完全なサイドからの写真はあり見かけません。
陸軍幼年学校1
別の写真。奥に校舎らしい建物が写ってます。
手前では器械体操の授業中であろう生徒たちが写ってますね。

古写真・東京三井銀行(明治20年代撮影)

東京三井銀行
三井銀行は明治9年に開業した日本初の私設銀行で、駿河町の三井洋館を使用してスタートしました。
この写真の建物がその三井銀行の建物で、明治7年完成の3階建ての擬洋風建築の洋館は、
洋館建築の少なかった当時、文明開化の象徴的な建物として非常に目に付く建物でした。

設計者は明治初期の民間の洋風建築を手がけた二代清水喜助。

築地ホテルや第一国立銀行本店の設計を手がけたことでも知られています。

その第一国立銀行本邸の建物ですが、
第一国立銀行本店
明治5年に建てられたこの建物もかつて三井組の本社屋でした。
駿河町の三井洋館が建てられたのは、明治6年に本社屋が第一国立銀行として使用されたためで、
同じ設計者・同じ様式・同じ所有者であるこの2つの建物は兄弟とも言える洋館でした。

この2つの建物は、明治30年前後に保存運動も起きましたが取り壊されてしまいました。

古写真・佐渡鉱山 機械工場(明治後期頃?)

佐渡鉱山 機械工場
江戸時代初期に金鉱脈が発見されて以来、幕府の重要な財源となった佐渡金山は、
明治に入ると新政府の官営鉱山となりました。
明治29年に三菱に払い下げられて以来は三菱系の管理となりましたが、
平成元年に採掘が休止されてからは観光地として公開されています。
佐渡鉱山は明治初期より官営によって近代的な設備や整備が行われたため、
多くの貴重な近代化遺産が残されています。

この木造の建物は「機械工場」の建物で、工場内で使用されている
機械を修理する為の施設です。
現在も機械工場の建物は残されていますが、現在のものは昭和15年の建物で、
この古写真の機械工場はそれよりも古い明治期の建物のようです。

番外編・新聞記事に見る「坂の上の雲」(第二次旅順港閉塞作戦と広瀬中佐戦死)

NHKで放送中の「坂の上の雲」明治という時代を駆け抜け、日清・日露戦争と言う戦いを潜り抜けた
名将・秋山好古と智謀・秋山真之兄弟。そして、俳人・正岡子規の3人を描いたスペシャルドラマは
明治後期の日本人が欧米列強に肩を並べようと必死にもがき、また当時の生き生きとした人々を
上手く描いており中々面白く見ております。

ところで、私の手元にはまさに日露戦争真っ最中の頃の明治37年3月~5月末までの
大阪朝日新聞を所有しています。そこには当時の日露戦争の戦況報告やその当時の世相、
そして便乗した商品広告など中々興味深い内容が多く記されています。
今回、その3ヶ月の間に起こった出来事で有名且つ秋山真之と大きく関わりのある
盟友・広瀬武夫中佐の第二次旅順港閉塞作戦時の戦死の記事を紹介します。

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古写真・琵琶湖疏水 第三隧道東口(明治20年代)

琵琶湖疏水第三隧道
琵琶湖疏水は、明治維新後の衰退した京都を近代的な工業都市に復興させようと建設された
明治前期の一大プロジェクトでした。
大津から京都の蹴上まで結ぶ長大な疏水は、当時としては前代未聞の大工事で、
京都市のみならず、まさに国家を上げての事業でした。

工事責任者は当時工部大学校を卒業したばかりの23歳の青年、「田邊朔郎」。
測量技師の「島田道生」により手がけられ、北垣国道京都府知事のもと
明治23年、琵琶湖疏水は完成しました。

この琵琶湖疏水は、これまで近代土木工事は全てお雇い外国人の協力により行われていましたが、
琵琶湖疏水は設計から測量、そして工事まで全て日本人の手によって完成した画期的な事業で、
インクライン・日本初の事業用発電所・トンネル工事の際の竪坑工法など、日本初の技術が数多く
取り入れられている工事でもあり、近代化遺産としても非常に貴重なものです。

上の写真は、琵琶湖疏水の第三隧道東口の部分で、ロマネスク風の煉瓦の入り口の上には
松方正義の書による「過雨看松色」の扁額が掲げられています。

琵琶湖疏水の6つのトンネル口には、それぞれ当時の明治政府の元勲の書の扁額が掲げられており、
そのことからもまさに国家的事業であったことがわかります。
この写真は、完成間もない明治20年代後半頃の撮影ではないかと思われます。

※補足ですが、私の所有する「東京日日新聞」の明治19年1月20日号に、
建設中の琵琶湖疏水の工事の現況を記した記事が掲載されています。
下記に紹介しますので、当時の雰囲気を味わっていただけたらと思います。

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古写真・生野鉱山局(生野銀山)2枚(明治16年~明治21年撮影)

生野鉱山局遠景
室町時代より採掘が行われ続けた生野銀山は、江戸時代には幕府の管轄になり生野代官所が置かれました。
明治維新後、明治政府の管轄となった生野銀山は、日本初の官営鉱山となり
お雇い外国人の協力を経て、近代的な鉱山施設となりました。
明治16年、名称を生野鉱山局と改称。明治21年に皇室財産に編入し、御料局生野支庁と改称するまで
この名称が使われました。

この古写真の台紙の裏には「生野鉱山局」との書き込みがあるため、
明治16年から21年までの撮影と思われます。

上の写真は、その官営時代の生野銀山の遠景の写真。高い煙突と洋風の近代的な鉱山施設群が並んでいます。
注目すべきは背後の山。山の木々が殆ど無くハゲ山状態になっているのが分かります。
栃木の足尾銅山では有名な鉱毒事件により、鉱山周辺の山がハゲ山になったそうですが、
この生野銀山でも鉱毒事件が起きていたようで、工場背後のハゲ山は鉱毒による影響かもしれません。
生野鉱山局近景
こちらは、2枚目の近景写真です。
アーチ窓の2階建ての建物は煉瓦造の建物で、まさに明治の文明開化・殖産興業の象徴であり、
高い煙突と共に当時の人々は、この近代的な工場群の威容に目を見張ったことだと思います。
生野鉱山局裏
それぞれの写真の台紙の裏には筆文字で書き込みがあり、遠景写真の裏には「生野鉱山遠景」。
近景写真には「生野銀山真景」とあります。

生野銀山は明治29年に三菱合資会社へと払い下げられ、昭和48年に閉山するまで採掘が続けられました。

現在は史跡として保存され観光施設になっていますが、現在も官営時代である明治初期の煉瓦造の
工場施設が現存しており、貴重な近代化遺産として知られています。

古写真・川口電信局

川口電信局
川口電信局は、明治3年に現在の大阪市西区に設けられた電信局で、
大阪における電信の発祥でもありました。
写真の建物を見ますと典型的な擬洋風建築で、
いかにも明治初期の建物と言えます。

写真は明治20年代までのものと思われます。

古写真・明治20年代頃撮影の行事警察署(行橋警察署)

行事警察署
写真の台紙の裏に「行事警察署ノ景」の筆文字があります。

行事警察署は福岡県行橋市にあった警察署で、現在の行橋警察署にあたります。
設立は明治15年。その後明治29年に郡の合併により幾つかあった警察署は
行事警察署に一本化。そして大正4年に行橋警察署と改名しました。

川べりに建てられた警察署の洋館は、2階部分にベランダを設けた
コロニアル風の建物です。
壁は下見板張り。屋根瓦は日本瓦が葺かれているようです。

警察署の門の前には数人の警察官。警察署前の石橋のそばには
近所の人達らしき人も写っています。
付近には電線らしきものは見当たらないので、まだ電気は引かれていないのでしょうか。

写真の感じから、恐らく明治20年代に撮影されたのではないかと思われます。
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