古絵葉書・軍艦香取進水記念絵葉書

軍艦香取進水記念001
戦艦香取は明治37年4月にイギリスのヴィッカース社バロー造船所で起工され明治39年5月20日に竣工した香取型戦艦の1番艦で、この絵葉書は明治38年7月4日に行われた進水式を記念して発行されたものです。
戦艦香取の進水記念絵葉書はイギリスにて2社が発行し販売していましたが、そのうちの1枚と同じ写真を使用した進水記念絵葉書を東京三越呉服店が製作し国内販売しました。これがこの進水記念絵葉書で、「明治三十八年七月四日」「軍艦香取進水式紀念」「三越呉服店謹製」のキャプションが入れられています。
この東京三越呉服店が制作・販売した戦艦香取の進水記念絵葉書が日本における初めての進水記念絵葉書とされていますが、この絵葉書自体の販売は割と長く販売されていたようで、この絵葉書にあるように「明治三十八年戦勝海軍記念日」のスタンプが押されたものは多く残されているようです。
ともあれ、この東京三越百貨店が制作販売した戦艦香取の進水記念絵葉書以後、多くの軍艦や商船の進水記念絵葉書が制作されるようになりました。

戦艦香取が就役した時は日露戦争は終結していましたが、皇太子殿下の巡啓や大正天皇の御召艦を長く務めました。しかし、香取はすでに時代遅れの艦となっており、大正12年にワシントン条約により除籍が決定。舞鶴にて解体されました。

古絵葉書・京都府竹野郡 島津尋常高等小学校新築落成記念

島津尋常高等小学校001
島津尋常高等小学校は現在の京丹後市網野町にある島津小学校の前身で、創立は明治6年。大正14年に島津尋常高等小学校と改称。翌年には三津校を吸収合併しました。
昭和2年に発生した丹後大震災により校舎は被災。昭和4年に学校は現在の島津小学校の場所に移転し新築されました。この絵葉書は校舎の新築落成を記念して発行された絵葉書で、外袋には鉛筆書きで「昭和四年四月三十日」の文字があります。
島津尋常高等小学校002
校舎の全景。校舎の前はまだ資材等が置かれた状態で、校舎は完成したもののグラウンドの整備はまだのようです。
島津尋常高等小学校003
校舎のアップ。大正から昭和初期の典型的な田舎の木造校舎で、木造校舎時代を知っている者としては懐かしさを感じる校舎です。
本来は校舎内を写した絵葉書等数枚を含むセットだったと思いますが、こちらのセットには残念ながら内部の絵葉書は失われています。内部の絵葉書を入手する機会がありましたらこの記事内で追加いたします。

古写真・上川口尋常高等小学校(昭和6年・昭和10年・昭和11年)

上川口尋常高等小学校1
上川口尋常高等小学校は現在の福知山市立上川口小学校で、明治7年野花地区に廣運舎として開校したのが始まりで、明治35年に大呂分校、上小田小学校と合併し上川口村立上川口尋常高等小学校となりました。
この古写真は昭和6年の卒業記念に製作された写真帖にあるもので、大正15年に完成した本館です。
奥に写る平屋建ての建物が旧本館と思われます。
上川口尋常高等小学校5
昭和10年の上川口尋常高等小学校写真帳表紙。
今回入手した上川口尋常高等小学校の卒業記念写真帖は昭和6年・昭和10年・昭和11年の3冊で、それぞれ1ページ目に校舎の写真があります。時期差がほぼ無いのであまり変わりませんが、一応学校の変遷を見ることができます。
上川口尋常高等小学校2
昭和10年の上川口尋常高等小学校卒業記念写真帖の校舎の写真。昭和6年と違いこの写真を撮影した日は雪は積もっていません。校舎の前に生徒たちが集まっています。本館の右手にある倉のような建物は奉安殿かと思われます。
上川口尋常高等小学校3
昭和11年の上川口尋常高等小学校記念写真帖表紙。
上川口尋常高等小学校4
昭和11年の上川口尋常高等小学校校舎の写真。前年の写真と違いかなりの積雪です。
旧本館と思われる校舎の前に生徒が集まっています。
各写真帖にはそれぞれその年の教師と卒業生が写ってますが、どうやら本館の写真と同じ日に撮影しているようです。
上川口尋常高等小学校
こちらは以前紹介した昭和11年版天田郡志資料に掲載されている上川口尋常高等小学校の写真。
卒業記念写真帖と同時期の撮影でしょう。
この本館等の建物は昭和45年の校舎改築の際に取り壊されたと思われます。

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古写真・上川口尋常高等小学校(昭和11年版 天田郡志資料より)

古絵葉書・日本徴兵保険株式会社新築記念絵葉書(鹿鳴館・帝国ホテル)

日本徴兵保険001
日本徴兵保険株式会社は2008年に破綻した大和生命の前身の保険会社で、昭和5年に東京麹町の旧華族会館の敷地を買い取り本社が新築されました。この絵葉書はそれを記念して発行されたものです。
日本徴兵保険002
日本徴兵保険株式会社の本社ビルき遠景。右隣にはかつて鹿鳴館だった旧華族会館そして左隣にはフランク・ロイド・ライト設計の帝国ホテルが建っています。
明治の文明開化の象徴であった鹿鳴館は旧薩摩藩邸跡地にてお雇い外国人のジョサイア・コンドル設計により明治16年に完成。煉瓦造2階建ての洋館は大食堂・談話室・図書室・バー・撞球場があり、幕末に締結させられた不平等条約の解消と欧米列強と肩を並べるために連日外国の賓客を招いて催されたパーティーは所謂「鹿鳴館外交」と呼ばれました。
しかし、鹿鳴館外交を進めた外務大臣・井上馨の失脚により鹿鳴館時代はわずか4年で幕を閉じ、その後宮内省に払い下げられ華族会館として使用。そして昭和2年に日本徴兵保険株式会社に鹿鳴館の建物ごと敷地が売却されましたが、鹿鳴館の建物は壊されず残されました。しかし、昭和15年に保存運動もありましたが取り壊されました。絵葉書にも写る正門であった旧薩摩藩邸の表門は文化財として保存されていましたが空襲で焼失し、鹿鳴館時代を偲ばせる建物はすべて失われました。

以下に新築された日本徴兵保険株式会社の本社屋の絵葉書を紹介します。「続きを読む」からご覧ください。
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古絵葉書・福井弥右衛門商店(烏丸七条角)

福井弥右衛門商店003
宛名面の差出人に「福井弥右衛門」とある絵葉書です。
福井弥右衛門商店は創業1602年という老舗で不動産業を扱っている企業のようです。
現在も烏丸七条角に同企業が所有している福井ビルがあります。
この建物が福井弥右衛門商店かどうかの確証はありませんが、差出人が会社の判であるため、ここでは福井弥右衛門商店の営業所としておきます。新たなことが分かりましたら修正・加筆等いたします。

古写真・大阪 川口居留地の街並み

川口居留地001
居留地とは幕末の開国以降、政府が外国人が生活する場所を指定した区域でした。居留地は横浜・神戸・長崎が有名ですが、大阪にも居留地がありました。川口居留地と呼ばれる外国人居留地で、慶応4年の開港以来外国人向けに街並みが整備され、当時珍しかった洋風建築が建ち並びました。川口居留地は大阪における文明開化の象徴となり、今まで西洋文化に触れたことの無かった大阪の人々にとって斬新に映ったことでしょう。この川口居留地から大阪の近代化は始まっていきました。
この古写真は川口居留地時代の街並みを映したものです。
川口居留地004
これは以前紹介した川口居留地の洋館の写真。コロニアル様式と呼ばれた幕末から明治前期にかけて建てられた建物で、各地の居留地ではほぼこの様式の洋風建築が占めていました。まさに明治初期の文明開化を象徴する洋館です。
川口居留地は明治32年に廃止され、現在は居留地時代の洋館は残っておらず、「川口居留地跡」と刻まれた記念碑がひっそりと立っているのみで当時の面影は失われましたが、その後に建てられた戦前の教会建築等が残されています。

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古写真・大阪 川口居留地
古写真・川口電信局

古絵葉書・天橋立駅

天橋立駅001
天橋立駅は大正14年に宮津駅から丹後山田駅(現・与謝野駅)への延長に伴い開設されました。
天橋立は古来より名勝地として知られ、明治以降の鉄道網の発達に伴い全国の観光地への旅行が庶民にも広がり、
この天橋立にも駅の設置が必要となったのでしょう。
駅舎は洋風で景勝地にはやや不釣り合いかもしれませんが、大正モダンな駅舎は中々良い感じです。
天橋立駅のある国鉄宮津線は民営化によりJR西日本の管轄となりましたが、平成2年に第三セクターの北近畿タンゴ鉄道へと移管。
2015年からはWILLER TRAINSが運営する京都丹後鉄道の管轄下となりました。

古絵葉書・岩瀧橋

岩瀧橋001
京都府与謝野町岩滝にある現在は岩滝橋の名前になってる橋で、宮津市との境となっている野田川に架かっています。
この絵葉書は昭和初期頃の撮影と思われ、橋の上を自動車が走っています。

古写真・路面電車と救急車の事故(昭和13年・鉄道趣味社撮影)

事故001

路面電車と救急車が衝突している写真です。場所は不明。写真を見る限り、路面電車の側面に救急車が突っ込んだ形でしょうか。
西川ふとんの看板のあるの追突された街灯か路面電車の架線柱が基礎から大きく折れています。相当な勢いでぶつかったようです。
警官が現場検証に駆けつけ周りには路面電車の乗客らしき人、事故の様子を眺める自転車の女性や男性など
現場の様子が生々しく伝わってくる写真です。
事故002
写真の裏には「鉄道趣味社写真部」の印があり、撮影日が昭和13年12月31日となっています。
鉄道趣味社は昭和8年から昭和12年12月31日まで発行されていた「鉄道趣味」という雑誌を発行していた会社で、主に鉄道模型店向けに販売していたようです。写真は昭和13年の12月31日となっており、雑誌の休刊後に撮影されたようですが、復刊された際のために撮影されたものでしょうか。結局、雑誌「鉄道趣味」はそのまま廃刊となり、この写真は世に出ることはなかったと思われます。

古写真・田上高等小学校(明治後期頃撮影か)

田上高等小学校002
田上高等小学校は、明治6年に新潟県南蒲原郡田上町にて開校した小学校で、現在の田上町立田上小学校です。
この校舎は本館か講堂でしょうか。写真の感じから新築間もないように見え、記念に撮影されたものと思われます。
田上高等小学校001
※画像のクリックで拡大します。
玄関に掲げられている看板部分を拡大したもの。見難いですが「新潟県南蒲原郡 郡立田上高等小学校」と書かれているのが分かります。田上小学校について検索してみましたが、公式HPはあるものの沿革等の学校の歴史を記したページは無く、他のサイトでも情報が少ないため詳しいことは余り分かりませんが、2013年に創立140年記念の行事を行っている記事が見つかりましたので、逆算で創立を明治6年としました。

冊子・建築写真類聚「改造住宅」巻二(住宅改造博覧会出品住宅)

改造住宅201
大正11年、大阪府箕面市の桜ヶ丘にて住宅博覧会が催されました。日本建築協会により9月21日から11月26日の期間、現地にて実際に住宅25戸が建てられ、大正時代の新たな生活様式や建築様式に即した住宅の改造を提唱するものでした。
この「建築写真類聚・改造住宅」はその住宅改造博覧会にて展示された住宅を紹介したもので、平面図・パース図・外観および内観写真をそれぞれ収録しております。改造住宅は巻一と巻二に分かれ、この巻二には13戸の展示住宅が収められています。
中身は綴じられていないページが50枚セットとなっており、価格表なども付属しています。
以下に中身のページを紹介していきます。「続きを読む」からご覧ください。
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古写真・伊那富警察分署(現・長野県上伊那郡辰野町)

伊那富警察分署001
長野県上伊那郡の伊那富村(現・長野県上伊那郡辰野町)にあった警察分署の古写真です。
木造平屋建ての小さな庁舎の横に火の見櫓の梯子が見えます。
伊那富警察署は明治33年10月に長野県警察部伊那警察署の管轄下で開署されました。
伊那富警察分署002
台紙の裏に墨書された文字です。それによると、明治34年6月16日に長野県警察部の警部・篠原大治氏より寄贈とあり、前年の伊那富警察分署の開署を記念して贈られたものだと思われます。

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古写真・篠ノ井警察署(明治後期頃撮影か)  ※長野市篠ノ井にあった警察署。

冊子・建築写真類聚「改造住宅」巻一(住宅改造博覧会出品住宅)

改造住宅001
大正11年、大阪府箕面市の桜ヶ丘にて住宅博覧会が催されました。日本建築協会により9月21日から11月26日の期間、現地にて実際に住宅25戸が建てられ、大正時代の新たな生活様式や建築様式に即した住宅の改造を提唱するものでした。
この「建築写真類聚・改造住宅」はその住宅改造博覧会にて展示された住宅を紹介したもので、平面図・パース図・外観および内観写真をそれぞれ収録しております。改造住宅は巻一と巻二に分かれ、この巻一には12戸の展示住宅が収められています。
中身は綴じられていないページが50枚セットとなっており、価格表なども付属しています。
以下に中身のページを紹介していきます。「続きを読む」からご覧ください。
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古写真・GHQ、米軍占領下の京都宝塚劇場

京都宝塚劇場001
京都宝塚劇場は昭和10年に京都市の河原町六角に開館した映画館でした。開館当時は演劇などの実演も行われていたようです。
終戦後の昭和20年10月にGHQにより接収。「ステイトサイド・シアター」という名前に変更されました。
この古写真は接収時の京都宝塚劇場を撮影したもので、建物の壁に「NEW KYOTO STATESIDE THEATRE」と書かれています。
この接収された京都宝塚劇場は米軍専用劇場となり日本人は観客としての入館は一切禁止。日本人として入館できたのは従業員か演劇や演奏等をする人に限られました。写真にも「米軍専用劇場」と書かれています。
昭和27年に接収解除。以後は映画館として営業しリニューアルもされましたが、近隣のMOVIX京都や二条駅前のTOHOシネマズ二条の開館により客足が低下。施設の老朽化もあり2005年に閉館を発表。70年の歴史に幕を閉じ取り壊されました。

古絵葉書・歩兵第70連隊(篠山市)

篠山第70連隊001
兵庫県篠山市に存在した陸軍歩兵第70連隊は明治40年に第4師団隷下の連隊として設立されました。
「弱い師団」と言われた第4師団ですが、この篠山の70連隊は絵葉書の背後にも写る山を使い激しい山岳戦の演習を実施、
山岳戦の篠山連隊として有名で「丹波の鬼連隊」とも称される精鋭の連隊でした。
篠山第70連隊002
70連隊の全景。
篠山70連隊は昭和12年より満州に派遣。昭和15年より満州で設立された第25師団の隷下に。昭和20年に本土防衛のため25師団が宮崎県に移駐したのに伴い70連隊も鹿児島県出水市に移駐しますが、そのまま終戦を迎えました。
終戦後、70連隊の敷地は篠山産業高校・三井ミーハナイトメタル篠山工場・篠山警察署となり、隣接していた篠山陸軍病院は兵庫天満電線篠山工場(現在は閉鎖)として利用。南側にあった練兵場はスポーツセンター等になりました。
現在、旧連隊敷地内には営門や炊事場他の煉瓦建築、土塁や側溝などの遺構が残されてます。

古写真・金沢市犀川大橋の牛鍋屋、牛肉商(明治30年代か)

金沢市牛肉店001
台紙に金沢市の写真館の文字がある明治期の鶏卵紙古写真です。
写真の橋は調べた結果、欄干のデザインや橋脚の形から明治31年に完成した最後の木造の犀川大橋と思われます。
その橋のたもとに「牛肉商」の看板を掲げた擬洋風建築っぽい3階建ての建物があります。
金沢市牛肉店002
看板の拡大。店舗の雰囲気から1階で牛肉の販売し2階で牛鍋屋を営む、現在も京都市の寺町三条にある明治6年創業の三嶋亭のような感じだったのでしょう。
ただ、この牛肉店に関して調べてみましたが有力な情報は得られず不明です。※調べたところ、大正期にはこの牛肉商の建物は存在しないようです。
ちなみに現在も犀川大橋のたもとに「河内家牛肉店」という精肉店が存在しますが、創業年など分からずこの古写真の建物との関係も不明です。

古写真・明治製菓銀座売店

明治製菓銀座店001
東京銀座にあった明治製菓の銀座店の写真です。明治製菓は大正5年に操業を開始。大正13年、銀座三丁目に1号店なる銀座店をオープン。昭和8年に改装し新装開店しています。この古写真には昭和8年5月の日付があり、新装オープンしたばかりの姿です。
外壁には「明治チョコレート」「明治キャラメル」の文字が。明治チョコレートは大正15年に販売開始され、今でも販売されている明治ミルクチョコレートです。
隣のビルは文具専門店の銀座伊東屋。伊東屋の右隣には銀座松屋の百貨店があり、まさに繁華街のど真ん中にありました。
明治製菓銀座店002
店内の様子。売り場と喫茶室。建物の外観もですが内装や照明もモダンでオシャレですね。
同じ銀座にあった高級店の千疋屋とは違い、駄菓子屋さんでも売られていた明治製菓のお菓子は庶民にも馴染みでこの銀座店も入りやすかったのかもしれません。喫茶室には気取ったモボやモガがお茶をしながら歓談していたのでしょう。
昭和初期のモダン映画にもロケに使われているようです。
写真の下に「東京観劇特売招待会記念」の文字があります。
これは昭和8年5月に、京橋の新社屋完成を記念して催された際にお土産として渡されたもので、元々は5枚セットだったようです。
東京大空襲を始めとした昭和20年の相次ぐ空襲により銀座界隈は壊滅。終戦直後の銀座を撮影した写真には大破して廃墟化した明治製菓銀座売店の写真があります。

古絵葉書・鐘紡山科絹布工場(6枚組)

鐘紡山科絹布工場001
京都市山科区にある現在の山科中央公園と山科団地があった辺りにかつて鐘紡の大きな工場がありました。
大正10年(大正6年という説もあり)に日本絹布の工場として設立し、翌年に鐘紡に吸収されて山科工場となったこの工場は周囲に勤めていた多くの女工や職員が住み、女学校や研究所、社宅、寄宿舎、附属病院や市場、映画館などの娯楽施設もあり相当賑わっていたようです。
鐘紡山科絹布工場は1970年に滋賀県長浜市に移転し、跡地は上記の山科団地と山科中央公園となりました。
この絵葉書は6枚組となっており、かつては外袋に入れられ販売されていたようです。
残り5枚を追記にて紹介します。「続きを読む」よりご覧ください。
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古絵葉書・観覧艦 軍艦吾妻絵葉書

軍艦吾妻絵葉書001
装甲巡洋艦・吾妻は明治33年にフランスのロワール社のサン・ナゼール造船所にて竣工し日本海軍が購入した軍艦です。
日露戦争では蔚山沖海戦と日本海海戦に参加。明治45年からは少尉候補生の練習艦として使用されていましたが、第一次世界大戦にも参加しています。
大正10年に海防艦となり、舞鶴機関学校の練習艦として使用。太平洋戦争中の昭和19年に老朽化により除籍・解体されました。
舞鶴機関学校所属練習艦時代は一般市民向けにも公開され、艦内は様々な展示がされていたようです。
この絵葉書は観覧記念として販売されていたもので、外袋には昭和8年6月6日付の記念スタンプが押されており、中には6枚の絵葉書が入っています。
以下に絵葉書を紹介します。「続きを読む」からご覧ください。
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古絵葉書・浪速区役所新築落成記念

浪速区役所001
昭和14年に建てられた大阪市浪速区、浪速区役所の新築落成記念絵葉書です。
昭和14年と言えば、モダニズム建築が流行した時代で、この浪速区役所もまさにモダニズム建築といった外観をしております。
浪速区役所002
講堂内部。モダニズムらしく装飾を廃したすっきりとした室内となっています。
浪速区役所003
1階事務室と応接室。応接室には一風変わった装飾がされています。
昭和20年3月13日以降のの大阪への相次ぐ空襲で浪速区は焼失しましたが、この浪速区役所は焼け残り戦後も使用され続けました。2000年代には大阪市内で唯一現存する戦前の区役所庁舎でしたが、2002年に庁舎建て替えのために取り壊されました。

冊子・近畿を中心とせる名勝交通鳥瞰図 (吉田初三郎・作画)

近畿を中心とせる名勝交通鳥瞰図表紙001
大正15年に大阪朝日新聞の付録として発行された近畿地方を描いた鳥瞰図のパンフレットです。
作画は大正広重と呼ばれ鳥瞰図絵師としてその名を馳せた吉田初三郎。大正末期頃から庶民の間に観光ブームが起き、
吉田初三郎はその流れによって多くの全国各地の鳥瞰図を制作。頒布し事業を拡大しました。
旅に出る余裕のない人、子供達はこうした吉田初三郎の鳥瞰図を眺め、まだ知らない街の姿に思いを馳せたのでしょう。
近畿を中心とせる名勝交通鳥瞰図ブログよう
※サムネイルのクリックで拡大します。
近畿地方を中心に据えた鳥瞰図。東は犬山から始まり西は神戸まで描かれ、金沢や広島、遠くには沖縄や台湾や北海道、樺太まで描かれてます。
中心は琵琶湖・京都・大阪。そこから大きく弧を描くような形で周辺の地形や街が描かれています。
吉田初三郎の鳥瞰図は初三郎式と言われる大胆な構図で知られてますが、都市を描いた狭い範囲の鳥瞰図より広域の鳥瞰図の方がより際立っているように思えます。

冊子・洛西名所図会(吉田初三郎 作画)

洛西名所図会リサイズ
※サムネイルのクリックで拡大します。
大正11年に発行された洛西の案内パンフレットで、吉田初三郎作画による二条から嵯峨嵐山までの鳥瞰図が収録されています。
吉田初三郎による京都市内の鳥瞰図は数が多く、公的機関から民間までそれぞれの場所・施設を中心として描いた様々な鳥瞰図が発行されました。この洛西名所図会もそのうちの一つです。
嵯峨
嵯峨駅(現・嵯峨嵐山駅)周辺の拡大。嵯峨嵐山地域は昭和6年に京都市に編入されるまで嵯峨町という自治体でした(鳥瞰図の描かれた大正11年当時は嵯峨村)。そのため、嵯峨役場や嵯峨公会堂といった村の施設が描かれています。これらに描かれた施設のうち、嵯峨公会堂や嵯峨役場は戦後の早い段階に失われたと思われ、明治30年築の嵯峨駅は2007年に取り壊し。戦前の建物で残されているのは嵯峨郵便局のみとなりました。(ただし、旧嵯峨郵便局は昭和初期建築とされ、鳥瞰図に描かれたものではないと思われる。)

冊子・嵐山名所図会附保津川くだり(吉田初三郎 作画)

嵐山名所図会001
昭和5年に発行された、吉田初三郎作画の嵐山・愛宕・保津川の鳥瞰図です。
嵐山愛宕鳥瞰図リサイズ
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観光パンフレットとして作られたため、学校や官公庁や企業などの建物は描かれておらず、もっぱら観光施設を中心に描いています。
愛宕山
愛宕山の拡大。戦前の愛宕山は嵐山駅から伸びたケーブルカーが走り、8合目の愛宕駅の周りにはホテルや旅館が建ち、遊園地もありました。また山頂付近にはスキー場もあり賑わっていたようです。
愛宕駅1
※現役当時の姿を撮影した愛宕駅の絵葉書。
しかし、昭和19年に戦時下での不要不急路線として廃止が決定。同時にホテル・遊園地・スキー場の施設も閉鎖され、戦後も復活することなく駅舎を含め廃墟となって現在も山中に残されています。

古写真・GHQ、米軍占領下の島津製作所旧本社屋(現・フォーチュンガーデン京都)

島津製作所(占領下)001
終戦後、日本に進駐してきたGHQは日本全国で主要な建物を接収し占領政策を開始しました。
京都も例外ではなく、米軍が進駐し市内の大規模な建物を官民問わず次々と接収し使用しました。
この建物は武田五一によって設計された昭和2年完成の島津製作所の本社屋。
写真には星条旗が翻り、「米軍兵舎」のキャプションがあります。
接収中は進駐軍の兵士たちの兵舎として使用されていたよようです。
島津製作所本社屋は昭和21年に米軍により接収、昭和27年に接収解除となり、本社は三条工場に移転していたため、旧本社屋は河原町別館として近年まで使用されていましたが、現在は「フォーチュンガーデン京都」という結婚式場としてリニューアルされ使用されています。

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古絵葉書・島津製作所本店営業所新築記念(3枚組)
古写真・米軍・GHQ占領下の旧京都電燈本社屋(現・関西電力京都支社)
古写真・GHQ、米軍占領下の旧京都市公会堂東館(現・京都市美術館別館)

古写真・GHQ、米軍占領下の旧京都市公会堂東館(現・京都市美術館別館)

京都市公会堂東館(占領下)001
終戦後、日本に進駐してきたGHQは日本各地の主要な建物を接収し、京都市内でも進駐してきた米軍により官民問わずいくつかの建物が接収され進駐軍により使用されました。
昭和5年に建てられた京都市公会堂東館も終戦後に周囲の京都市美術館・京都市勧業館・京都市動物園とともに米軍に接収されました。
写真には「アメリカンクラブ レッドクロス」の文字があり、恐らく米軍の将校クラブとして使用されていたのではないかと思われます。
昭和27年に接収解除。昭和39年から京都会館別館として利用され平成12年から京都市美術館別館として現在もそのまま使用されています。

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古写真・米軍・GHQ占領下の旧京都電燈本社屋(現・関西電力京都支社)

古写真・米軍・GHQ占領下の旧京都電燈本社屋(現・関西電力京都支社)

京都電燈(占領下)
終戦直後、GHQの占領下となり、米軍に接収された旧京都電燈の本社屋です。
京都電燈株式会社は明治21年に創業し京都府と福井県を主とした電力事業を行っていた会社で、
昭和17年の戦時統制によって解散させられるまで存続しました。
写真の本社屋は昭和12年に武田五一設計により京都駅前に建てられたものです。
終戦時までは関西配電となっていたと思われますが、終戦後は進駐軍により接収。
写真に「京洛ホテル」と書かれているとおり、米軍専用のホテルとして使用されていたと思われます。
建物は戦時下の空襲対策のために黒く塗られた時のままの状態でそのまま使用されていたようです。
接収が解除されたのは昭和27年頃と思われ、前年に昭和17年に誕生した関西配電と日本発送電を再編する形で関西電力が誕生していますので、接収解除時にそのまま関西電力が建物を引き継いだのでしょう。旧京都電燈本社屋の建物は現在も後身の関西電力京都支社の建物として使用されています。
手前の木造の建物は壁に「京都府海外引揚者休憩所」の文字があり、舞鶴港へと引き揚げた元軍人や海外居住者が鉄道で京都駅へと到着した際の休憩所として建てられたものと思われます。
この写真はGHQ進駐軍占領下の京都、そして関西電力京都支社の建物の様子を伝える資料として貴重なものだと思われます。

古絵葉書・福知山広小路ニ於ケル猪崎新地芸妓連ノ福知山踊

福知山音頭001
昭和10年代頃の福知山市広小路での福知山踊りの様子を撮影した絵葉書です。踊っているのは北近畿有数の遊郭街、猪崎新地の芸妓たち。福知山音頭は福知山市では馴染み深い音頭で、私が中学生の頃までは夏休みの時期になると駅前通りに土曜夜店が開かれ、広小路通りには絵葉書のような櫓が組まれ、新地はすでに消滅していたので振興会の人たちが福知山音頭を踊っていました。
今でも行われているようですが、花火大会の中止以降、子供の頃に比べてだいぶ規模が小さくなった気がします。
また、絵葉書の街並みの風景も完全に様変わりしています。一番奥の角に建つ和風の建物は高校の頃まで現存していましたが、現在は失われています。絵葉書にも写る当時の建物で唯一残っているのは精肉店の中島本店のみとなってしまいました。

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古絵葉書・福知山 広小路と公園地の遠望

古絵葉書・四宮発電所

四宮発電所001
四宮発電所は、明治43年に開業した京津電気軌道株式会社が建設した火力発電所で、京都市山科区四宮に明治45年に完成。現在の京津線を走る車両への電気供給に利用されました。
背後に描かれた「知るも知らぬも逢坂の関」は百人一首の句。京津線はその逢坂山を越えています。
現在の京阪京津線も京都市営地下鉄から始まり、逢坂山のきつい斜面を登る登山鉄道となり、浜大津で路面電車となる特異な路線となっています。

古写真・明治10年代頃撮影の天橋立

明治初期・天橋立001
明治初期頃撮影の宮津市・天橋立の古写真です。
奥に見えるのが天橋立。手前の森は古刹・智恩寺の境内で明応10年(1501)建立の重要文化財に指定されている多宝塔や明暦3年(1657)に中世の堂宇を改修した文殊堂他、江戸時代建立の庫裏など現在も残る建物が写されています。
智恩寺の周辺は門前町や手前の集落以外は全て田畑が広がる状態で、集落の建物もほぼ茅葺屋根の住居であり、江戸時代の風景が未だに残るようです。
明治初期・天橋立002
写真の台紙には「京都府丹後国宮津港字新濱 写真師 中川萬吉」とあります。
宮津市は明治9年に京都府の管轄となりますので、この古写真は明治9年以降の撮影となります。
恐らく明治10年代に撮影されたものではないかと思われます。
写真手前の集落辺りに大正14年、天橋立駅が完成。以後天橋立の最寄り駅として発展し、智恩寺手前の田畑一帯も商業施設や住宅が立ち並んでいきました。
明治の宮津007
こちらは以前紹介した明治30年代の宮津の写真。天橋立の反対側からの撮影なので比較はできないですが、宮津市街は明治30年代にはすでにかなりの建物が建ち並んでいます。

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古写真・明治30年代撮影の宮津市街と天橋立

古絵葉書・端島坑九階建社宅(軍艦島・日給社宅)

軍艦島 日給社宅001
海底炭鉱の採掘所として江戸時代から始まった端島の炭鉱は明治時代より近代炭鉱として採掘が進み、明治23年に三菱が所有してから生産量が増大。端島は炭鉱の島として大いに栄えました。それに伴い島内での人口が増大。狭い島内の居住環境を確保するため島の周囲の埋め立てにより端島の拡大を実施。埋め立てられた箇所の周囲はコンクリートの護岸で覆われました。
大正5年、島内の居住空間に合わせた日本最初の鉄筋コンクリート造のアパートが完成(30号棟)。この時の島の姿が三菱長崎造船所で建造中だった戦艦土佐の姿に似ていることから「軍艦島」と呼ばれるようになりました。
続いて大正7年に日給制で働く鉱員のための9階建てのアパート群(16~20号棟)が完成。まとめて「日給社宅」と呼ばれたのが絵葉書の建物です。
絵葉書の写真が撮られた時期は不明ですが、絵葉書の様式から大正期であることは間違いなく、まだ7階から9階部分の一部が完成していないようにも見えます。しかし各階の部屋のベランダには布団や洗濯物が干され、階下には住人が歩くなど生活感あふれる写真となっています。
軍艦島は良質の強粘炭が採掘され栄えたことから軍艦島は戦前から病院・学校・商業施設・娯楽施設など福利厚生施設が充実していましたが、戦後のエネルギー政策の影響で昭和49年に閉山。住民の去った軍艦島は廃墟と化しました。
近年、日本でも最初期の鉄筋コンクリート造のアパート等が残る軍艦島は近代化遺産としての価値が見直されるようになり、2015年には「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」として世界遺産リストに登録されました。
 
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