古写真・愛知県尋常中学校

愛知県尋常中学校001
愛知県尋常中学校は尾張藩が明治3年に設立した洋学校を始まりとする学校で、明治19年の中学校令により愛知県尋常中学校と改称しました。当初は名古屋市中区にありましたが、その後改称しながら明治41年に東区に移転。さらに現在の愛知県立旭丘高校の場所に移転しました。戦後の昭和23年、女子高の名古屋市立第三高等学校と統合。現在の愛知県立旭丘高校となりました。
この写真は東区へと移転する前の愛知県尋常中学校時代のもので、明治前期らしい擬洋風建築の校舎が写されています。
愛知県尋常中学校002
台紙の裏の筆書き。「愛知県尋常中学校正面之景」「明治二十七年十一月十八日求」とあります。
明治27年11月18日に入手したか貰ったということなので、撮影はそれ以前の近いころだったのでしょう。

古絵葉書・兵庫県立農事試験場但馬分場

兵庫県農事試験場但馬分場001
大正9年に現在の兵庫県朝来市和田山町枚田に設立した農業・畜産等の試験場です。
現在は同市安井に移転し兵庫県立農林水産技術総合センター北部農業技術センターとして稼働しています。
この絵葉書は昭和10年代に但馬分場の本館の新築を記念して発行されたものです。
いかにも地方の役所といった下見板の壁と瓦屋根の外観が愛らしく懐かしさを感じさせます。

古絵葉書・中和束尋常高等小学校

中和束尋常高等小学校001
現在の京都府相楽郡和束町にあった尋常小学校で、平成4年に東和束小学校・西和束小学校・湯船小学校とともに統合され、和束小学校となりました。この中和束尋常高等小学校があった中和束村は昭和29年に西和束村と東和束村との合併により和束村が誕生したため消滅しています。この絵葉書は大正期頃に撮影されたと思われるもので、奥に新築された校舎が写っています。
中和束尋常高等小学校002
中和束事情高等小学校本館。
中和束尋常高等小学校003
中和束尋常高等小学校講堂。
この2枚の絵葉書は昭和初期から10年代の様式を持ち、絵葉書の写真もその頃に撮影されたものと思われます。
本館・講堂ともに同じデザインの外観で昭和戦前期の様式のデザインであることから、昭和10年代までに新築された校舎だと思われます。

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古絵葉書・中和束村役場

古写真・六郷川鉄橋

六郷鉄橋001
明治5年に開通した日本初の鉄道路線の新橋横浜間は開通当初の橋梁は木製トラスでした。これは当時製鉄産業が未発達の日本において鋼材などは外国からの輸入に頼っており、鉄道橋もイギリスからの輸入を予定されていましたが、それでは間に合わず当面の措置として木造の橋梁が造られました。当然耐久性に難があり、鉄道開通から5年後の明治10年、東海道線の複線化に伴い木造だった六郷川橋梁も複線鉄橋に架け替えられました。
六郷川鉄橋は明治8年にイギリス・リバプールのハミルトンズ・ウインザー・アイアンワークス社で製作され日本に輸入された鉄橋で、錬鉄製のポニー・ワーレントラス構造でした。
明治45年、東海道線の複々線化に伴い撤去され単線用に改造。大正4年に御殿場線の酒匂川を渡る鉄橋として転用されました。
昭和40年、御殿場線での役割も終え撤去された六郷川鉄橋は日本最初期の貴重な鉄道鉄橋として博物館明治村に移築保存され、鉄道記念物に指定されています。
この古写真は多摩川に架かっていた東海道線時代の六郷川鉄橋で、明治中期から後期頃の撮影と思われます。

古絵葉書・潜水母艦大鯨進水記念絵葉書(2枚組)

大鯨001
潜水母艦大鯨は横須賀海軍工廠にて建造された軍艦で、昭和8年に起工し同年11月に進水のか7ヶ月という短さでした。これは事前に昭和天皇に進水式の日程が知らされており、それに合わせたためでした。潜水母艦というのは潜水艦への燃料や弾薬・食料の補給、さらには潜水艦乗員の休息も行うことができた軍艦でした。しかし大鯨は保有艦艇を大きく制限させられたロンドン海軍軍縮会議に対応するため制限のなかった10000トン以下の補助艦艇を有事の際すぐに航空母艦に改造できるようにあらかじめ建造された潜水母艦でした。
大鯨003
太平洋戦争開戦の昭和16年、大鯨は当初の予定通り航空母艦へと改装され、龍鳳と名付けられました。
龍鳳は太平洋戦争の緒戦を戦い抜き、昭和19年にはシンガポールへ輸送船団「ヒ87船団」を護衛し呉に帰還。その後は呉軍港にて浮き砲台として使用。呉軍港空襲では来襲するアメリカ軍機に対して対空射撃を行いました。
龍鳳はそのまま終戦を迎え解体されました。
大鯨002
1枚目の絵葉書の通信欄には進水記念スタンプが2つ押されていました。進水式の時にもらった絵葉書に記念に押されたのでしょう。

古写真・大阪鎮台砲兵営所(明治前期撮影)

大阪鎮台砲兵営所002
「大阪鎮台砲兵営所」の筆書きがある古写真です。分かり難いですが奥に見える長大な建物が砲兵営所です。
大阪鎮台は明治4年に設立し砲兵隊は明治5年頃設立。後に砲兵第四連隊となり明治21年に大阪鎮台が第4師団に改編された際にそのまま第4師団隷下の部隊となりました。
砲兵営所は現在の大阪歴史博物館とNHK大阪放送局の位置にあったようです。
砲兵第四大隊
以前記事にした大阪砲兵第四大隊の古写真。この古写真に写る土蔵のようなナマコ壁の建物が1枚目の大阪鎮台砲兵営所の建物と同じものと思われます。

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古写真・砲兵第四大隊(明治10年代頃撮影)

古写真・大坂城内士官室(大阪鎮台)明治前期撮影。

大阪鎮台士官室001
大阪城に陸軍の鎮台が置かれたのは明治4年。初期の頃は大阪鎮台本営の他に歩兵営・砲兵営・鎮台病院・陸軍監獄などがありました。明治21年、大阪鎮台は第4師団に改編。この古写真は「大坂城内士官室」の筆書きがありますが、明治21年までの大阪鎮台時代の撮影と思われます。大阪城の石垣上に建つ洋館が士官室と称される建物のようで、後の陸軍将校倶楽部の偕行社か将校集会所に当たる施設と思われます。
士官室の左手にある土蔵は元々大坂城時代からの物だったものか鎮台創設時に新たに建てられたものか不明です。
士官室があった城内の具体的な場所ははっきり特定できませんでしたが、撮影距離的に本丸にあったものと思われます。

古絵葉書・長崎 出師橋(手彩色絵葉書)

出師橋002
明治後期頃撮影の長崎市の出師橋の手彩色絵葉書です。
出師橋は明治37年に出島の海側を埋め立てて造られた長崎港湾第2期改良工事にて同時に造られた鉄橋でした。
出師橋の名前の由来は日露戦争に第6師団が出島からこの橋を渡って出征したことにちなみます。
絵葉書にあるように橋名を掲げたトラス式の鉄橋は明治期の日本において全国で造られました。
左側に見える大きな洋館は明治24年竣工の長崎税関。煉瓦造ですが長崎大学所蔵の古写真を見るとモルタルらしきものを外壁に塗っているためこの絵葉書に着色された赤煉瓦庁舎のような赤い壁ではなかったはずですので、着色時に煉瓦という情報だけを聞いて実物を見ていない職人がイメージで赤く塗ったのかもしれません。この長崎税関は昭和3年完成の新庁舎完成まで使用されました。
出師橋は昭和33年に区画整理により取り壊されました。

古絵葉書・京都新京極(手彩色絵葉書)

新京極001
明治後期頃の新京極通を撮影した手彩色絵葉書です。
京都の新京極通は明治4年に完成した通りで、明治の中頃から見世物小屋や芝居小屋などが建ち並び始めました。
この絵葉書にも「遊技場」と書かれた提灯の下がる建物などが見えます。
大正・昭和期に入ると松竹座・京洛劇場・京宝会館などの劇場や映画館が建ち並び、京都市内の歓楽街として大いに賑わいました。
新京極通は絵葉書の風景とは大きく様変わりしましたが、現在も京都の観光客にとって定番の観光地となり、近年はMOVIX京都などのシネコンや一般の商店も建ち地元の人含め多くの人たちでにぎわっています。

古写真・昭和17年頃の軍旗祭の出し物「地球の大掃除」(祖父のアルバムより)

地球の大掃除001
祖父の軍隊アルバムにあった昭和17年ごろの軍旗祭の出し物の古写真です。
恐らく敦賀の連隊時代に撮影したものと思われます。
地球儀の上に左からムッソリーニ、東条英機、アドルフ・ヒトラーが乗っかり竹箒をふるって地球を掃いており、
地球儀の下には「地球の大掃除」のプレートが置かれています。
日本・ドイツ・イタリアの3国での軍事同盟である日独伊三国同盟が締結されたのが昭和15年。それ以来3国は枢軸国としてアメリカ・イギリス・オランダ等の連合国と対立することになっていくわけですが、この軍旗祭での出し物は枢軸国として世界を統治する意気込みを現したものでしょう。
当時の世相を物語る興味深い1枚かと思います。

古絵葉書・駆逐艦嵐進水記念絵葉書

駆逐艦嵐進水記念絵葉書002
駆逐艦嵐は陽炎型駆逐艦の16番艦として昭和14年に舞鶴海軍工廠において起工。昭和15年に進水し昭和16年に就役しました。
この絵葉書は嵐の進水を記念して関係者に配られた絵葉書です。
嵐は第四水雷戦隊第四駆逐隊に所属し太平洋戦争の緒戦に参加。ミッドウェー海戦では大破した赤城の雷撃処分を担当しました。
その後は輸送任務等に参加しましたが、昭和18年にソロモン海海戦において敵駆逐艦の雷撃により沈没しました。
余談として「嵐」という字は縦に書くと「山風」とも読めるため、白露型駆逐艦の8番艦「山風」への郵便物の誤配が多く片仮名で「アラシ」とルビを振る通達があったそうです。

古絵葉書・駆逐艦野分進水記念絵葉書

駆逐艦野分進水記念絵葉書001
駆逐艦野分は陽炎型駆逐艦の15番艦として昭和14年に舞鶴海軍工廠にて起工、昭和15年に進水し昭和16年に就役しました。
この絵葉書は野分の進水を記念して関係者に配られた絵葉書です。
野分は第四水雷戦隊第四駆逐隊に所属し太平洋戦争の緒戦に参加。ミッドウェー海戦では大破した赤城の雷撃処分を担当しました。その後は輸送作戦等に参加し、昭和19年のレイテ沖海戦において敵艦隊の集中攻撃により救助された筑摩の乗員を含め全員戦死しました。

古絵葉書・豊郷倶楽部

豊郷倶楽部001
※龍岡様よりコメント欄にて情報をいただきました。ありがとうございました。
豊郷倶楽部とキャプションのある古絵葉書です。絵葉書を見ると、広い敷地に表門・数寄屋風の主屋にハーフチンバーの洋館とかなりのお屋敷であり、紀念スタンプの「豊郷倶楽部竣工記念 大正二年」より大正2年に完成したことが分かります。
豊郷町と言えば現在の伊藤忠商事や丸紅の伊藤忠財閥を創立した伊藤忠兵衛の出身として知られます。
この豊郷倶楽部は兵庫県住吉村、現在の兵庫県東灘区住吉にて丸紅の従業員のための保養所として作られた施設のようです。

古写真・下関要塞 演習砲台(数珠山砲台・丸尾山砲台)か

下関教練砲台
サイズが大きく画像には収まり切れませんでしたが、写真の上部に「重砲兵二十四珊加農砲教練」のタイトルがあり、下部に「下関要塞司令部許可」「大正三年八月一日発行」の文字があります。
下関要塞は明治20年頃より建設が始まり明治28年に要塞司令部がおかれました。
ただし、大正期になると不要とされたのか下関要塞の各砲台のいくつかは民間に払い下げられるようになり、陸軍の演習用の砲台としても利用されました。
演習砲台として利用された砲台は数珠山砲台・丸尾山砲台・隠山砲台・関山砲台で、うち24センチ加農砲が置かれたのは数珠山砲台・丸尾山砲台だったらしく、この古写真の砲台はそのうちのいずれかだったのでしょうか。

古写真・大津トンネル(逢坂山トンネル)

逢坂山隧道001
「大津トンネル」のキャプションがありますが、明治初期に建設された逢坂山トンネルかと思われます。
逢坂山トンネルは大津~京都間を繋ぐ東海道線のために掘削された鉄道トンネルで、明治11年に完成しました。
逢坂山トンネルは当時は主流だったお雇い外国人技師の力を借りず全て日本人の手により工事が行われました。
明治31年には複線化により上り線のトンネルが完成。以後、明治期を通じて東海道線のトンネルとして使用されましたが、
大正10年に新線の新逢坂山トンネルが完成すると旧逢坂山トンネルは役目を終えました。
戦時中は地下工場として航空機の部品工場として稼働していましたが、戦後の名神高速道路建設により西口が埋め立てられ消滅しましたが、東口は現存し、貴重な明治初期の鉄道土木遺産・近代化遺産として鉄道記念物及び近代化産業遺産に指定され保存されています。
この古写真の逢坂山トンネルは現存する東口か消滅した西口か分かりませんが、明治31年に完成した複線の上りトンネルが写っていないように見えるので、複線化以前の撮影かと思われます。

古絵葉書・昭和初期頃撮影の峰山町(現・京都府京丹後市峰山町)3枚

峰山町001
現在の京都府京丹後市峰山町の昭和初期頃撮影の絵葉書です。キャプションに「復興ノ峰山町全景」とあります。
昭和2年に発生した北丹後地震は丹後半島一帯に大きな被害をもたらしこの峰山町も甚大な被害を受けました。
この絵葉書は震災の被害から復興を遂げた峰山町を撮影したもので、左奥の小高い丘に現在も残る昭和4年完成の丹後震災記念館が見えることから昭和4年以降の撮影と分かります。峰山町002
「峰山駅通ノ景」のキャプションのある2枚目の絵葉書。左に写る3階建ての日本建築は旅館でしょうか。
右手の洋風建築には「山海陶器店」と書かれています。峰山駅は現在、京都丹後鉄道となっています。
峰山町003
「峰山本町通ノ景」のキャプションのある3枚目。峰山町のメインストリートです。
左の洋館は昭和4年竣工の丹後商工銀行。
丹後商工銀行2
以前記事にした丹後商工銀行の絵葉書。建物は失われ現在は京都銀行峰山支店となっています。

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古絵葉書・丹後商工銀行新築記念絵葉書

古絵葉書・鳴門要塞 門崎砲台もしくは行者ヶ岳砲台か

鳴門要塞・門崎砲台もしくは行者ヶ岳砲台
鳴門要塞は明治30年に着工した要塞で、当初は独立した要塞地帯でしたが、明治36年に由良要塞と合併したあとは由良要塞所属の鳴門地区砲台として運用されました。
鳴門要塞には門崎砲台・笹山砲台・行者ヶ岳砲台の砲台が3つ。柿ヶ原堡塁砲台の堡塁が1つあり24センチ榴弾砲などを設置していました。
絵葉書には24センチ榴弾砲が砲座に設置されている様子が撮影されています。
由良要塞は由良地区・友ヶ島地区・加太地区の三つの地域と鳴門地区に21の砲台と8つの堡塁を備えた大規模な要塞地帯でしたが、24センチ榴弾砲を設置していたのは鳴門地区の門崎砲台と行者ヶ岳砲台だけだったようで、深山重砲兵連隊が運用していたかはわかりませんでしたが、この絵葉書の砲台は上記の理由からそのいずれか2つの砲台だった可能性があります。

ところで、戦前の日本の要塞地帯には軍事機密を守るため、明治32年を制定された「要塞地帯法」という法律がありました。要塞地帯法は要塞地帯に指定された地域内では無許可での写真撮影やスケッチなどの記録は厳しく制限され、新聞に知らずに掲載された背後の山が実は砲台のある山で軍から差し止めを食らったという話もありました。
なので、この深山第一砲台の絵葉書のように砲台そのものが撮影され絵葉書となって販売されることはありえないのですが、この絵葉書が発売されたのは恐らく昭和10年代。その頃は航空機が発達し沿岸砲台の戦略的価値が低下しており、そのため砲台の絵葉書が発売されるくらいまで緩和されたのでしょうか。
現在、門崎砲台や行者ヶ岳砲台は鳴門大橋の工事やその他の道路工事等で大きく損壊し、一部を残してほぼ失われているようです。この絵葉書が門崎砲台もしくは行者ヶ岳砲台のいずれかを撮影したものであれば、今は失われた砲台の戦前の現役当時の砲台の運用の様子を今に伝える興味深い絵葉書資料です。

※関連記事・古絵葉書・由良要塞 加太地区 深山第一砲台

古絵葉書・由良要塞 加太地区 深山第一砲台

由良要塞・深山第一砲台001
日本と清の緊張が高まった明治22年に建設が決定した由良要塞は大阪湾へ侵攻してくる敵艦隊を紀淡海峡で迎え撃ち進入を阻止する要塞でした。その重要性から由良要塞は淡路島東部と和歌山県西部にまたがる由良地区・友ヶ島地区・加太地区の三つの地域と明治36年に編入された鳴門地区に合わせて21の砲台と8つの堡塁を備えた大規模な要塞地帯でした。
この絵葉書は加太地区にあった深山第一砲台を撮影したものです。
深山第一砲台は和歌山市加太地区にあった砲台で、明治32年竣工。終戦まで機能し終戦後は廃止されましたが、由良要塞の砲台跡で一番保存状態が良いことでも知られ、現在は整備・保存されています。
絵葉書は砲座に設置された28センチ榴弾砲が写されています。奥の2門は最大仰角で構えており、敵艦を砲撃するときはこのような仰角で曲射弾道つまり放物線を描く弾道になるほう砲撃し、敵艦の甲板を打ち抜く砲撃をしました。
砲の横にある数字は射角や距離を示したものでしょう。当時の大砲はまずは1発か2発撃って着弾点を確認し観測。目標との誤差を計算して砲撃という方法でした。
キャプションの深山重砲兵連隊は加太地区の砲台を管轄していた陸軍の部隊で、加太地区の各砲台の運用もこの連隊が行っていました。
ところで、戦前の日本の要塞地帯には軍事機密を守るため、明治32年を制定された「要塞地帯法」という法律がありました。要塞地帯法は要塞地帯に指定された地域内では無許可での写真撮影やスケッチなどの記録は厳しく制限され、新聞に知らずに掲載された背後の山が実は砲台のある山で軍から差し止めを食らったという話もありました。
なので、この深山第一砲台の絵葉書のように砲台そのものが撮影され絵葉書となって販売されることはありえないのですが、この絵葉書が発売されたのは恐らく昭和10年代。その頃は航空機が発達し沿岸砲台の戦略的価値が低下しており、そのため砲台の絵葉書が発売されるくらいまで緩和されたのでしょうか。
ただ、深山砲台に関しては大正10年頃より演習砲台として使われたようで、機密としての重要性はなくなったのかもしれません。
ともあれ、戦前の現役当時の砲台の運用の様子を今に伝える興味深い絵葉書資料です。

※関連記事・古絵葉書・鳴門要塞 門崎砲台もしくは行者ヶ岳砲台か

古絵葉書・二楽荘 

二楽荘001
二楽荘はかつて神戸市東灘区の六甲山の麓にあった西本願寺法主で伯爵の大谷光瑞の別邸でした。
大谷光瑞はシルクロード研究に大きな成果をもたらした大谷探検隊を結成したことでも有名です。
二楽荘は明治42年に完成。設計は友人で東洋美術や東洋建築に造詣の深い建築士・伊東忠太。
二楽荘は別邸としてだけではなく私塾や事務所・測候所・図書館まで設けられ大谷探検隊が持ち帰った文化財も展示され、半ば公的な施設だったようです。二楽荘は当時から有名だったようで、設計者の伊東忠太自身が新聞に連載したりしており、このような記念スタンプの押された絵葉書が発売されたのもうなずけます。
しかし、大谷探検隊や教団運営などの多額の負債と汚職事件により大谷光瑞は法主を辞任。その際に二楽荘は大谷探検隊のコレクションとともに大谷光瑞の手から離れ、大阪の実業家に売却。その頃の二楽荘は荒廃しかつての壮麗な姿からは見る影もない哀れな姿だったそうです。
大正7年、甲南中学の設立の際に二楽荘の建物を活用する案が持ち上がりましたが、結局立ち消えとなり、さらには昭和7年に不審火で焼失するという不幸ともいえる最期を遂げました。
現在、二楽荘跡地は宗教団体の施設の敷地となっています。

古絵葉書・京都府久美浜大橋(現・京都府京丹後市久美浜町久美橋)

久美浜大橋001
京都府京丹後市久美浜町の街中を流れる久美谷川に架かる橋です。アーチの意匠の欄干を持つ鉄筋コンクリート造の橋は昭和戦前期にかけて日本全国で多く架けられた橋です。
絵葉書で「久美浜大橋」となっているこの橋は現在も残されており、「久美橋」と名を変えて使用されています。
橋の竣工は昭和9年。この絵葉書はそれ以降に撮影されたことになりますが、欄干が現在とは違うものになっており、ある時期に欄干だけ付け替えられたのでしょう。
久美橋の架かる不動11号線はかつて存在した久美浜代官所(跡地は現・久美浜小学校)へまっすぐ通じるメインストリートで、久美橋のある交差点名が「土居」という地名から、かつては久美谷川を天然の堀とした久美浜代官所(久美浜陣屋)の大手だったのかもしれません。
絵葉書の撮影時期は昭和9年以降の昭和戦前期であるため、絵葉書に写る街並みは大きく変わってますが、奥に写る西方寺の本堂の大屋根は今と変わらない姿を留めています。

古絵葉書・重巡洋艦 羽黒 進水記念 

重巡洋艦羽黒進水式001
重巡洋艦「羽黒」は妙高型重巡洋艦の4番艦として三菱造船長崎造船所にて建造された軍艦です。
この絵葉書は羽黒の進水式の様子を撮影したもので、「軍艦羽黒 昭和三年三月二十四日進水」のキャプションがあります。
いわゆる進水記念絵葉書は別のタイプが存在し、それは進水式当日に関係者に配られるものなので、進水式当日の写真を使ったこの絵葉書は後日発売されたかもしくは関係者に配られたものと思われます。艦橋はまだ完成しておらず仮の形で乗せられています。
この絵葉書と同じ物が、かつて羽黒を建造した三菱重工業長崎造船所の資料館に展示されているようです。
重巡洋艦羽黒進水式002
こちらは支綱切断が行われた来賓席の写真。右端に羽黒の艦首が写っています。
羽黒は昭和4年に竣工後の数年後に近代化改装を施され、日中戦争を初戦として太平洋戦争を通じて歴戦を重ねてきましたが、昭和20年5月17日のマラッカ海峡における日本海軍とイギリス海軍による交戦、ペナン沖海戦にて戦没しました。
最近、ペナン沖で沈んでいる羽黒や他の軍艦等を違法サルベージしたとして地元業者が逮捕されたという事件も起きています。

※スペック(竣工時)
●公試排水量:12,374t・全長:192.39m・全幅:19.00m・最大速力:35.5kt
●武装: 50口径20cm連装砲5基・45口径12cm単装高角砲6基・61cm魚雷3連装発射管4基12門・水偵2機搭載(射出機1基)

古絵葉書・30瓲(トン)積四輪ボギー重油槽車(大阪鉄工所製作・昭和10年4月)

30トン積四輪ボギー重油槽車001
大阪鉄工所が昭和10年4月に製作した四輪ボギーの30トン積み重油槽車です。
ボギー車とは水平方向に回転可能な台車を持つ車両です。
これは、車輪を4軸持つ四輪のボギー台車の重油槽車、つまりタンク車で、日本窒素肥料株式会社(現・チッソ)に納入されたようです。恐らく自社工場内の引き込み線で使用されたものでしょう。
大阪鉄工所は明治14年に創業した企業で、大正3年に株式会社大阪鐵工所へと改組。昭和11年に日立製作所が大阪鉄工所の全株を買収し傘下に。昭和18年に日立造船株式会社に社名変更し現在に至ります。

古絵葉書・電動鉱石車(大阪鉄工所製作・昭和8年8月)

電動鉱石車001
大阪鉄工所製作の鉱石車、いわゆるホッパー車で昭和8年8月に完成したもののようです。
大阪鉄工所は明治14年に創業した企業で、大正3年に株式会社大阪鐵工所へと改組。昭和11年に日立製作所が大阪鉄工所の全株を買収し傘下に。昭和18年に日立造船株式会社に社名変更し現在に至ります。
この電動鉱石車は鉱山などで取れた鉱石や砕石などを運搬していた貨車で、下の蓋が空いて鉱石が落ちる仕組みになってます。名前の通り電動式で開閉するのでしょうか。

古写真・海軍省(築地時代初代庁舎)

築地海軍省002
海軍省と言えば通称「赤煉瓦」と呼ばれた霞が関にあったジョサイア・コンドル設計の庁舎が有名ですが、赤煉瓦の庁舎は2代目で、初代庁舎は築地にありました。「東京海軍省」とキャプションのあるこの古写真は築地時代の初代海軍省庁舎です。
初代海軍省は明治5年に築地の旧尾張藩邸に設立され、旧藩邸庭園の築山に旗を立てたことから、旗山と呼ばれていました。
当時は海軍本省と呼ばれ、築地一帯はこの海軍省や後の海軍兵学校となる海軍兵学寮など海軍関連の施設が建ち並んでいました。
初代海軍省001
以前紹介した初代海軍省庁舎の横からのアングル。明治4年に完成した海軍省初代庁舎は中央屋根に塔屋を持ちファザードにはバルコニーを持つ玄関が設けられた擬洋風建築ですが、全体の壁は伝統的なナマコ壁で日本瓦を葺くなどまるで土蔵のような外観です。それでも当時はモダンに見えたのか新たな東京の名所として錦絵に多く描かれました。
海軍省初代庁舎は明治17年ごろに取り壊され、明治28年に2代目の赤煉瓦の庁舎が竣工しました。
この古写真は明治4年から明治17年までの撮影となります。

※関連記事 古写真・海軍省(築地時代の初代庁舎) ※側面からの遠景写真

古写真・川口波止場

川口波止場001
大阪市西区川口地区にはかつて外国人居留地が存在しました。川口居留地と呼ばれる外国人街で明治元年に完成。それに先行する形で慶応4年に作られたのが川口波止場でした。
川口波止場は大阪の玄関口として安治川に開港された河川港で大阪に初めて作られた港であり、当時大阪港と言えば川口波止場を指しました。
黒船来航による日本の開国以来日本各地で開港されていきましたが、この川口波止場もその一つであり、現在「大阪開港の地」と刻まれた記念碑が建てられています。
川口波止場003
古写真の右上には「川口波戸 安治川ノ南岸ニ在リテ此所汽船発着ノ地ニシテ頗ル繁賑セリ」とキャプションがあり、写真には汽船が縦に並んで停泊している様子から大阪の玄関口としてかなりにぎわっていた様子がうかがえます。
大阪港の発祥となった川口波止場ですが、河川に作られた港であったことから次第に大型化する船舶の受け入れに支障をきたすようになり、明治30年頃から海に向かって新たな築港工事が開始。大阪港としての機能が海側に移ったことにより川口波止場は役割を終え衰退しました。
川口居留地004
以前紹介した川口居留地の古写真。
川口居留地は明治32年に廃止されたものの、街としての機能は衰退することなく発展し大正期まで大阪の中心であり続けました。
現在、川口波止場や川口居留地の面影は失われ、記念碑だけが残されています。

※関連記事 古写真・大阪 川口居留地

古絵葉書・市原発電所

市原発電所001
市原発電所は石川県白山市にある水力発電所で大正9年に運用開始されました。
現在は北陸電力の所有で、明らかに戦前の頃の建物と思われる鉄筋コンクリート造の建屋がそのまま使われていますが、絵葉書の建屋は木造で、運用開始当時は木造だった建屋が大正末期か昭和初期に現在の建屋に建て替えられたようです。
市原発電所002
市原発電所水圧鉄管。この水圧鉄管も当時のまま使われているようです。

古絵葉書・白川発電所

白川発電所001
白川発電所は奈良県吉野郡上北山村にある水力発電所で、大正10年に運用開始になりました。
当初は大和電気という土着の電力会社だったようですか、絵葉書には宇治川電気株式会社白川発電所となっています。
大正10年、大和電機は宇治川電気に吸収合併され白川発電所の使用認可を受けていることから、白川発電所の建設中に吸収合併され、そのまま大和電気から宇治川電気へと引き継がれたのではないかと思います。
宇治川電気は戦前の電力会社の大手「五大電力」の一つで関西地方を中心に広く電力事業を手掛けていましたが、昭和17年に国家総動員法による解散を受け現在は関西電力の所有になっています。
所有の白川発電所の絵葉書は6枚組となっており今は失われてますが、かつては外袋に収められていたと思われます。

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古写真・酵素パパナ工場(坂酵素研究所 現・日本酵素薬品株式会社か?)

酵素パパナ工場001
戦前の工場を撮影した写真です。工場名は記載されていないのでわかりませんが、煙突に「酵素パパナ工場」の文字が書かれています。
調べましたところ、戦前に「パパナ錠」という酵素消化薬があり、それを製造販売していた「坂酵素研究所」という会社があったことが分かりました。
坂酵素研究所は昭和15年に京都市で開業した会社で、前出の通り「パパナ錠」を発売。昭和22年に坂酵素工業所に改称。昭和31年から日本酵素薬品株式会社と改称し現在に至る企業で主に入浴剤を製造販売しているようです。
日本酵素薬品株式会社のHP

古写真・国家総動員服工場

国家総動員服工場002
建物に大きく「国家総動員服工場」と書かれている写真です。
国家総動員法が制定されたのは昭和13年4月1日。以後日本国内は官民問わず戦時下体制をとることとなりました。
この工場も元々は服飾関連の工場だったのでしょうが戦時下体制により国家総動員服工場へと転換したと思われます。
工場の前には線路が通り、もしかしたら専用の引き込み線を持つ大きな工場だったのかもしれません。
国家総動員服はいわゆる国民服のことだと思われます。日本における国民服に関する法律「国民服令」が制定されたのは昭和15年11月1日。戦時下の物資統制による合理化のために制定されました。いわゆる軍服色であるカーキ色をした国民服は終戦後まで使用され続けました。
国家総動員服工場003
工場の敷地内のグラウンドで体操をしている写真。始業前の朝礼でしょうか。
体操をしている人々を見たら学生服を着ている10代の若者に見えます。当時の旧制中学や女学校の生徒でしょうか。
軍需関連の工場への学徒動員が戦争も末期に近い昭和19年。ただその頃は女子学生はいわゆる戦時下の女性の服装として知られているモンペを着用していたと思われるので、これは工場の企業が運営する工場内もしくは企業内の学校か青年学校の生徒かと思われます。女子学生のモンペは戦争中期の昭和18年ごろまではスカート着用が多かったようで、実際昭和17年に制定された女性の国民服である婦人標準服はワンピースのようなスカート姿でした。
戦時下の女性にモンペが広まり女子学生の制服にモンペが採用されたのが昭和19年。都市空襲の脅威が身近に感じられるようになったころからでした。
この2枚の古写真の撮影された場所、国家総動員服工場については場所等不明ですが、時代的に昭和14年頃から昭和18年頃までのものと思われ、戦時下の様子を知ることのできる資料です。

古絵葉書・大阪市内の不明モダニズム建築(銀行か?)

機能主義建築001
大阪市内にあったと思われるモダニズム建築です。かなり規模の大きい建物ですが、建物名が書かれていないため不明です。
機能主義建築004
ただ、右下の看板を拡大すると「ビフテキはスエヒロ本町店 東区本町二・交差点前」と書かれており、現在も営業している平野町スエヒロかと思われます。現在大阪市に東区はありませんが、1989年に中央区となるまでは存在してました。
機能主義建築005
営業室というキャプションがある絵葉書。左奥にカウンターの窓口らしきものが見えます。
機能主義建築006
第一応接室。機能主義スタイルなので装飾は廃しているとはいえ、贅を尽くした造りとなっています。
所有している1984年初版発行、1994年第6刷の近代建築ガイドブック関西編で調べましたが見つからなかったため、それ以前に取り壊されていた可能性があります。
また、所有している昭和10年刊の建築写真集第三編・昭和14年刊の建築写真集第四編(竹中工務店)、昭和12年・昭和13年・昭和14年刊の工事年鑑3冊(清水組)にも該当する建物はありませんでした。
何か分かる方はご教授くださいませ。
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